もう一度『初めまして』から始めよう

 町中ではなく山の中の駅なので、人通りもなく、建物もない。
 緩い勾配になっているその道を、登ろうか下ろうか迷った末、下ることにする。
(人が住んでるところへ出たら、コンビニ……とは言わないけど、さすがに商店ぐらいはあるんじゃないかな……)

 かすかな希望を抱いて下り始めたのだったが、少し行ったところで、畑の中で作業をしている人影が見えた。
「こんにちは」

 都会に住んでいる時は、ご近所の人にぐらいしか挨拶の声をかけることはしなかったが、ここでは誰にでも自分から積極的にしたほうがいいと、ハナちゃんが教えてくれた。
『悪い人なんぞおらんから、誰とでも顔見知りになっとったほうがええ。困った時、きっと助けてくれるから』

 ハナちゃんと同じくらいの年齢のお婆さんは、私の声にふり返り、ぺこりと頭を下げてくれた。
「はい、こんにちは」

 私はほっとして、畑に歩み寄る。
「近くに自動販売機はありませんか? 列車に乗ってたんだけど、友だちが、頭が痛くなっちゃって……」

「自動販売機……?」
 ゆっくりと首を傾げるお婆さんの仕草から、どうやらないようだと私は判断した。

「何か冷たい飲みものが売ってそうなお店でも……」
 その問いかけにはすぐに、首を横に振る仕草で答えられる。
「近くにはないねえ」
「そうですか……」
 ならばやはり、坂の下にあると思われる集落までこの道を下るしかないかと、坂道を見下ろす私を、お婆さんが手招きする。
「サイダーでよけりゃ持ってきちょるけえ、こっちおいで」
「え……いいんですか?」

 農作業の途中の休憩で飲もうと持参したのだろうに、申し訳ないという思いが一瞬頭を過ぎったが、椿ちゃんの辛そうな様子を思い出し、私はお婆さんの好意に甘えることにした。
「すみません……ありがとうございます」
「いいよ、いいよ」

 畑の奥のほうは山の岩肌に面しており、小さな川が流れていた。
 そこに浸けて冷やしてあるらしい網の中から、お婆さんは瓶を取り出す。
(わあっ……)
 缶ではなく瓶入りのジュースに、私は少し感動を覚えた。

 お婆さんは腰から下げていた金具で、器用に瓶の蓋を開けると、私に手渡してくれる。
「早く持っていっちゃれ」
「ありがとうございます!」
 私はジュース分のお金を払おうとしたが、いらないと何度も断られるので、代わりに丁寧に頭を下げて帰ることにした。
「本当にありがとうございます! 助かります!」

『年寄りは、若い人に喜んでもらえたら、それだけで嬉しいけえ』
というのも、ハナちゃんの言葉だ。
『助けてもらって嬉しかったら、自分も誰かが困っている時に助ける。相手は他の誰かでいい。そうして助け合いになる』

 都会では縁を持つことのなかった『恩返し』の輪の中に、自分も組みこまれたことを実感して、使命感のようなものと同時に、照れくさい嬉しさがこみ上げた。
 駅に帰ると、椿ちゃんはベンチに横になり、顏の上に麦わら帽子を乗せていた。
「お待たせ!」
 私が駆け寄ると、ゆっくりと体を起こし、ベンチに座り直す。
「ごめんね、和奏」

 まだあまりよくない顔色を見て、自分のことのように苦しく感じながら、私はお婆さんからもらったサイダーの瓶を、椿ちゃんに手渡した。
「近くの畑にいたお婆さんからもらったの……飲めるかな?」
「うん……」

 椿ちゃんは細い首が折れてしまいそうにこっくりと頷いて、両手でサイダーの瓶を持ち、飲み口に口をつける。
 こくこくと飲む横顔が、まるで絵画のように綺麗だなどと私が考えているうちに、あっという間に一瓶飲み終わり、見るからに顔色がよくなった。
「ありがとう和奏。だいぶ楽になった」

 私はほっとして、椿ちゃんの隣に腰を下ろす。
「よかった……」

 椿ちゃんは恥ずかしそうに、首を傾げる。
「急に頭が割れそうに痛くなってびっくりした……乗り物酔いなのかな? これまでなったことないんだけど……」
「一応、病院へ行ったほうがいいんじゃない?」
「うん。家に帰ったら、お抱えの町村先生に来てもらう」

(お抱え医師……)
 椿ちゃんは本当に『お嬢さま』なのだということを再確認しながら、私は彼女の手の中にある瓶へ目を向ける。

「瓶入りのサイダーなんて珍しいね」
「え? ……そう?」
 椿ちゃんは私の発言のほうが珍しいと言わんばかりに、瞳を見開く。
「どこの家にもあるわよ? ケースで買うもの。畑仕事なんかの休憩に飲むために持っていって、冷やしとくの」
  
「そうなんだ……それをくれたお婆さんも、川に浸けてた網の中から出してくれたよ」
「そうそう、採れたての胡瓜とか西瓜なんかもそうして冷やしておいて、休憩に食べたりするから」
「そうか……」
 このあたりではごく普通の習慣なのだと、私は納得した。

「今度またお礼に来なくちゃ……」
 手の中で瓶をもてあそぶ雅ちゃんに、私は問いかける。
「どうする? 次に来る列車に乗って、隣街へ行く?」

 椿ちゃんは少し寂しそうに笑った。
「今日はもういいかな……せっかくつきあってくれたのに、ごめんね和奏」

 私は慌てて首を振った。
「気にしなくていいよ! 私はいつでも暇だし……またいつでも誘ってよ。一緒に隣街へ行こう!」

「うん。ありがとう」
 椿ちゃんが微笑んだ時、私たちが本来行くはずだった方角からぼーっという汽笛が聞こえた。

「あ、帰りの方向の列車が来るみたい……あれに乗ろう」
「うん」
 ベンチから立ち上がり、椿ちゃんに肩を貸してゆっくりと駅舎へ入った。
 切符を売る場所がなく、自動改札もなく、どうしたらいいのかと迷う私を、椿ちゃんが笑って促す。
「乗ってから車掌さんに言えばいいのよ」
「そうか……」

 都会で使っていたICカードは持ってきたが、今日はまったく出番がなさそうなことに地域性を感じながら、椿ちゃんと二人きりのホームで列車の到着を待った。
 スマホを忘れてきてしまったので正確な時刻はわからないが、まだ昼を少し回ったくらいの時間のはずだ。
 それなのに帰りの列車は、行きの列車よりも混んでいた。

 ボックス席に一人で座っている人が多く、一緒に座らせてもらえばいいのだろうが、できれば椿ちゃんと二人で座りたい。
(また具合が悪くなるかもしれないし……その時に横になれるスペースがあったほうがいいよね)

 隣の車両に移動しようかと進んでいると、ふいに声をかけられた。
「あれ……椿?」

 瞬間――。
 私の肩に腕を廻して頼りなく歩いていた椿ちゃんが、私を押し退けるようにしてその場から数歩飛び退いた。

「え? ……え?」
 その突然さに驚いてしまい、私は声の主を確認するのが少し遅れた。
 改めて目を向けてみると、右側のボックス席の窓際に座った青年が、椿ちゃんに笑顔を向けている。
 二十歳くらいで、見るからに優しそうな男の人だ。
 真夏だというのに、長袖の白いシャツをきっちりと着こなし、さらさらの黒髪も綺麗に切り揃えられている。

 いかにも好青年ふうの彼から、椿ちゃんは無理に首を捻り、必死で目を逸らしていた。
「び、びっくりした……どうしてこんなところにいるのよ?」
 本当に驚いたらしく、手で胸を押さえている。

 彼は私に向かって会釈し、椿ちゃんにまた笑いかけた。
「大学が夏休みになったから帰省だよ。毎年夏まつりの前には帰ってくるだろ?」
「そうだったかしら?」
 ぷいっとそっぽを向く椿ちゃんを笑いながら、青年は私に自分の斜め前の席を示した。
「せっかくだから、どうぞ」

「えっ!?」
 椿ちゃんは目を剥いたけれど、私は彼の申し出に甘えることにした。
「ありがとうございます」

 私がさっさと通路側に座ったので、椿ちゃんはその奥の窓際の席か、青年の隣に座るしかなくなる。
 ぶつぶつ言いながら私の隣に座ったが、青年と向きあう格好になったことが不都合らしく、ずっと下を向いている。

 艶やかな黒髪の間から見え隠れする耳の先が真っ赤なことに、私はとっくに気がついており、きまり悪そうな椿ちゃんの横顔を、頬が緩むのを必死にこらえながら見ていた。
「何笑っているのよ、和奏」
 どうやら私の努力は足りていなかったらしい。
 椿ちゃんが恨みがましい目を向けてくる。
「わ、笑ってないよ」

「和奏ちゃんって言うんだ……椿の友だち?」
 ふいに青年に訊ねられたので、私ははっと背筋を伸ばした。
「はい、青井和奏です。はじめまして」
「はじめまして。僕は、折川誠(おりかわまこと)といいます。椿の……ご近所さん? 幼なじみ……かな? そういう感じです」
「そうなんですか」

 なるほどと頷きながらも、私の耳は隣に座る椿ちゃんの
「感じってなんなのよ、感じって……」
という呟きを鋭く拾ってしまい、ますます頬が緩む。

「椿、よかったね。友だちできて」
「余計なお世話よ!」
 椿ちゃんが態度悪く叫んでも、誠さんはにこにこと笑っている。
 その様子を見ていると、不思議と私まで幸せな気持ちに包まれた。

(好き……なんだろうな、椿ちゃん。誠さんのこと……)
 私はあまりそういう勘がいいほうではないが、さすがにわかる。
 彼の言葉や仕草や表情に過敏に反応して、赤くなったり焦ったりしている椿ちゃんは、これまでにも増して可愛い。

「そうそう、今度はちゃんとお土産買ってきたよ、椿」
「別にそんなもの頼んでないわよ」
「まあそう言わず……あれ? どこにしまったかな……?」

 肩から掛けるタイプの布製の鞄を漁っていた誠さんは、そこから綺麗な髪飾りを出した。
 小さな花がいくつか重なったデザインの、凝った造りの髪飾りだ。
燈籠祭り(とうろうまつり)につけて行ったらいいんじゃないかな」
「ありがとう……」

 消え入りそうな声でお礼を言った椿ちゃんのために、何かできることはないだろうかと思案しながら、私は声を上げた。
「燈籠祭り?」

 誠さんは頷いて、説明してくれる。
「ああ。髪振神社の夏祭りだよ。和奏ちゃんはひょっとして髪振町の子じゃない?」
「最近越してきたんです」
「なるほど」

 誠さんは頷いてから、身振り手振りを交えて説明してくれた。
「毎年七月の終わりに催されるお祭りなんだけど、境内のあちこちに、町民の作ったいろんな燈籠が奉納されるんだ。だから『燈籠祭り』。紙製のものはもちろん、石製や竹製や布製……本当にいろんな種類が、いろんな飾られ方をする。遠くから見ても綺麗だけど、実際にお参りするといろんな発見があって更に楽しいから……ぜひ椿と一緒に行ってみて」

 想像するだけで素敵な光景だと、私は大喜びで「はい」と頷きかけたが、寸前でそれを止めた。
 ちらちらと誠さんを見ている椿ちゃんを確認して、本心に反し、いかにも残念そうにため息を吐いてみせる。

「行きたいけど、行かせてもらえるかな……もし私が無理だったら、誠さん、ぜひ椿ちゃんと……」
 我ながら、実に良いことを思いついたと考えながら、提案しかけたのだったが、ものすごい強さで椿ちゃんに腕を掴まれた。
(痛っ!)

 慌てて隣を見ると、椿ちゃんが大きな目に涙をうっすらと浮かべて、真っ赤になって首を振っている。
 その必死な様子に、私は彼女の心中を推し測った。
(二人きりでお祭りは、恥ずかしいと……)

 けっこういい雰囲気の二人なのにと思いながらも、私はひとまず椿ちゃんの懇願に屈することにした。
(そんなに恥ずかしいなら最初は三人でもいいか……いい感じになったら私がいなくなればいいんだものね……)

 心の中で決意し、言いかけていた言葉を改める。
「私も、なるべく行けるようにお願いしてみるんで……よかったら誠さんも一緒に三人で行きませんか?」

「え? 僕も?」
 そういう提案がされるとは思っていなかったらしく、少し考えるそぶりをしたあと、誠さんはにっこりと頷いた。
「ああ、いいよ。椿と二人で、和奏ちゃんに、『燈籠祭り』を案内してあげるよ……と言っても僕も、髪振町へ帰ってきたのはお正月ぶりなんだけどね」

 それからしばらく、誠さんは自分について私に説明してくれた。
 東京の大学に通っていること。
 今四年生で、卒業後もあちらへ残り、就職すると決まっていること。
 仕事に就いたら学生のように簡単には帰ってこれなくなるだろうから、ひょっとしたら今年が最後の夏祭りになるかもしれないこと。

 椿ちゃんは彼の話を口を挟むこともなく、ずっと窓のほうを向き、景色を眺めているふうだったが、トンネルに入った瞬間、その表情がはっきりと窓ガラスに映り、とても悲しそうな顔をしていたのだとわかった。
(椿ちゃん……)
 まるで自分のことのように、私の胸も痛んだ。

(どうなるのか、先のことはわからないけど……いい思い出作りのお手伝いはできるんじゃないかな……)
 咄嗟の勘を頼りに、夏祭りに三人で行けるように動いた自分を、褒めてやりたい気分だった。

(うん……二人がいい思い出を作れるように……がんばろう)
 ひそかな決意を固めながら列車に揺られた帰路は、往路よりもかなり速く、目的の駅へ着いたように感じた。
 髪振駅に到着すると、誠さんは恩師へ挨拶に行くと、私たちとは違う方向へ向かった。
「じゃあ夏祭りの夜に会おう」
 手を振って去っていく姿を見送り、この後どうしたものかと考えるまでもなく、椿ちゃんが私の腕を引く。

「ねえ和奏……もしよかったら、これから私の家へ来ない?」
 それは願ってもない申し出だったので、私は即座に頷いた。
「行く! 行きたい!」

 駅へ来る時に私も利用した、町を周回するバスに乗っていくのかと思ったが、椿ちゃんは先に立って歩きだした。
「じゃあさっそく行きましょう」

 長い髪を揺らしながら、てくてくと歩く椿ちゃんが、さっき体調を崩したことを思い出して、私は問いかけてみる。
「歩いて行くの? 椿ちゃん大丈夫? 途中までバスに乗ったら……?」

 椿ちゃんは私をふり返り、首を傾げた。
「バス……? そんなものないわよ」
「え……」

 また私に背を向けてさっさと歩き始める小さな背中を、慌てて追う。
(椿ちゃんの家がある方角へは、バスは行かないってことかな……? 確かにお父さんの仕事小屋がある山とは全然違う方向だし……)

 ワンピースの裾をひらひらさせて、腰の低い位置で軽く手を組んでいる椿ちゃんは、商店が並ぶ大通りではなく、脇道へとどんどん入っていく。
 住宅の間を縫うような細い道が続いたが、しばらく進むとふいに視界が開けた。

「わあっ」
 感嘆の声を上げて思わず足が止まってしまった私をふり返り、椿ちゃんが笑う。
「何やってるの、和奏。おいてっちゃうわよ」

 私は急いで椿ちゃんの隣まで駆けた。
「待って!」

 舗装もされいていない細い田んぼ道は、左右にどこまでも水田が続く。
 青々と繁った水稲が、風に吹かれてさわさわと揺れ、天気はとてもいいが、暑さはあまり感じなかった。
 道沿いに細い用水路がずっと続いているせいかもしれない。
 コンクリートで固められていない水路には藻が揺らめき、魚の影も見えた。

「今、なんかいたよ!」
 私が指すほうをちらりと見て、椿ちゃんは前へ向き直った。
「鯉か鮒でしょ……そんなのが珍しいの?」
「珍しいよ!」

 少なくとも私がこれまで暮らしていた街には、魚が泳いでいる小さな川などなかった。
 いや、私が知らないだけで、コンクリートで蓋をされた下には流れていたのかもしれないが、おそらくこれほど澄んだ水でも、魚や藻が育つような水質でもなかっただろう。

 柄の長い網を持った小学校低学年くらいの男の子たちが、遠くでしきりに水路沿いを行ったり来たりしている。
「かずーそっち行ったー」
「うわあっ、待てって……ああー逃げられたー」
「なんだ、またかよー、あはは」

 いかにも夏休みを満喫しているふうの元気な声に、感嘆の息が漏れた。
「いいなぁ……」
「何が?」
 突然の風に麦わら帽子が飛ばされてしまわないように、手で押さえて私をふり返った椿ちゃんには、きっとわからないだろう。

 空がこれほど高く、青いこと。
 太陽がどんなに照りつけても、木陰は涼しく、頬を撫でる風は優しいこと。
 澄んだ水には、たくさんの生命が息づいていること。
 
 私がこの町へ来て初めて知った事柄は、どれも、これまでの夏では感じることのなかったものばかりだ。

(来てよかった……)
 すれ違う男の子たちに、口々に「こんにちは」「こんにちは」と挨拶されて、律儀に一人ずつに返している椿ちゃんのあとを追いながら、考える。

「こんにちは!」
 私にもちゃんと挨拶をしてくれる少年に、私も
「こんにちは」
と返して、また少しこの町の住人になれたような気がした。

 田んぼ道をずっと歩き、突き当りの丘を登る道へ入ると、椿ちゃんは急に口数が少なくなった。
 それまでは、小さな頃の夏休みの思い出などをしきりに私と言いあっていたのだが、それも途中でやめてしまった。
 道は綺麗に舗装されており、両側に剪定された植え込みが続いているので、もうすでに椿ちゃんの家の敷地内に入っているのではないかと思う。
 そう訊ねてみると、「そうだ」と肯定された。

「ちょっとここで待っててくれる? 和奏」
 丘を登りきると椿ちゃんは私にそう言い、どこまでも続く白塀の曲がり角から顔だけを出して、左の方角を確認した。
 どうやら入り口付近に誰もいないかを確かめているようだ。

 私はといえば、自分の背丈の二倍ほども高さがある白塀を、山の上から見た時に、椿ちゃんの大きな家をぐるりと取り囲んでいたあの塀だと、感嘆の思いで見上げていた。
(やっぱり……すごく立派なお家……)

 上に瓦を乗せたいかにも歴史ある造りの塀の向こうには、よく手入れされた大きな木々が連なる。
 松の木一本とっても、梯子を掛けなければてっぺんの剪定ができない高さの立派なものだ。
(すごいなぁ……)

 父の住居兼作業小屋のあの庭の、いったい何倍の規模だろうなどと考えていると、椿ちゃんに腕を引かれた。
「よし、今よ! 和奏行くわよ!」
「え? え?」

 促されるまま小走りで角の先にある門へ近づき、椿ちゃんと共にそれを潜る。
 まるで時代劇に出てくる武家屋敷のような、大きな木製の門だったが、椿ちゃんによるとあれは正門ではなく、裏門だったらしい。

「正門になんて回って、もし私を探している連中がいたら、たいへんなことになるわ!」
「椿ちゃん……?」

 実は彼女は、ちょっと散歩に行ってくると言っただけで、今日出かける許可を、正式に両親から取っていなかった。
(そういえば出がけにちらっと、そんなことを言っていたような……)

椿ちゃんの自室だという離れの縁先に、まるで泥棒のように足音を忍ばせて近づきながら、私は声をひそめる。
「そんなことして、もしバレたら、今後ますます出かけにくくなるよ……?」
 私の忠告に、それでも仕方がなかったのだと椿ちゃんはぷーっと頬を膨らます。

「お父さまがどんなに頑固で、私の話にどれだけ聞き耳を持たないか……和奏は知らないから……お母さまはお父さまの言いなりだし……」
「でも……」

 これは、迂闊に家へ遊びに行く約束などしている事態ではなかったのではないかと、不安を大きくしながら椿ちゃんと共に濡れ縁へ上がり、真っ白な障子を開けた時、暗い室内から押し殺した声がした。
「お嬢さまぁ……よかったぁ……」

 部屋の中央に赤い着物姿の女の子が座っており、目に涙を浮かべてふり返ったので、私は驚きのあまり椿ちゃんに抱きついた。
「――――!」

 椿ちゃんは、まあまあと私の肩を叩き、女の子の前に座る。
 椿ちゃんと背格好がよく似たその女の子は、急いで着ているものを脱ぎ始める。
「すぐにバレるんじゃないかと、もう、生きた心地がしませんでしたよ」
「誰にも気づかれなかったでしょ? 次もぜひお願いね、百合」
「もう絶対に嫌です!」
「ええーっ」

 椿ちゃんはテキパキと、女の子が脱いだ着物に袖を通し、女の子のほうは押入れから出したもう少し落ち着いた色の着物に着替える。
 二人のやり取りから、どうやら女の子は椿ちゃんの身代わりとして、この部屋に座っていたらしいと察した。

「それに『百合』はやめてください。そんなたいそうな名前、お嬢さまに呼ばれると恥ずかしくて……名付けた両親を恨んでるっていつも言ってるじゃないですか」
 私たちより少し年上くらいの女の子は、椿ちゃんの家で働いているのだろうか。
彼女のことを『お嬢さま』と呼ぶ。

「名前じゃなきゃ、なんて呼べばいいのよ?」
「それは……『おい』とか、『お前』とか、適当でいいです」
「そんなわけにはいかないわよ」
 二人の着替えを凝視しているのも申し訳なく、純和風の部屋の中をもの珍しくきょろきょろと見回していた私に、女の子がふと視線を向けた。

「あの、こちらは……?」
 私は慌てて、畳の上に正座で座り直す。
「こんにちは、はじめまして。青井和奏といいます。椿ちゃんの……友人です」
 これでいいのかよくわからないながらも、畳に指をついて頭を下げた。

 ちょうど着替えが終わったらしい女の子も、慌てて座り直す。
「そんな! どうか頭を上げてください! 私は、お嬢さまのご友人に頭を下げていただくような人間じゃ……」
 焦りながら手を振る途中で、はたとその動作をやめ、信じられないようなものを見る目で、ゆっくりと椿ちゃんをふり返った。

「ご友人……お嬢さま……ついにお友だちができられたんですね……」
 感動的に目を潤ませ、鼻をすする百合さんを、椿ちゃんは不服そうな目で見る。
「まるで、これまで全然友だちがいなかったみたいに言わないで! まあ……遠からずだけど……」

「よかった。本当によかった……」
 百合さんはずずいと私の前に膝を進め、私の両手を取った。
「どうぞ末永く、仲良くしてあげてくださいね。ちょっとわがままで頑固ですけど、根は優しい方なんです……」
「はい……」

 頷く私の手を、椿ちゃんが百合さんから取り上げる。
「いいから! お茶とお菓子かなんか持ってきて。くれぐれもお父さまには見つからないようにね」
「はい」
 百合さんは着物の袖で涙を拭いながら、部屋から出て行った。
「ごめんね、騒がしくて」
 縁側を遠くなっていく足音が聞こえなくなると、椿ちゃんは恥ずかしそうに肩をすくめて、部屋の隅に置いてある文机へ向かった。
 二段目の引き出しから螺鈿が施された漆塗りの小さな箱を取り出して、蓋を持ち上げる。
 中に何が入っているのか私のいる位置からは見えなかったが、誠さんがさっきくれた髪飾りを、大切そうにしまったことはわかった。

「和奏……ありがとうね」
「え?」
 私に背を向けたままの椿ちゃんが、らしくもなく消え入りそうな声で呟くので、何のことを言われたのだか、一瞬わからない。

 しかし椿ちゃんの真っ黒な髪の間から、赤く染まった耳の先が見え、帰りの列車での出来事を感謝されているのだろうと察した。
「あ……」

 椿ちゃんは誠さんを好きなのだろうとは気づいているが、言葉にして言っていいのかはわからない。
なんと答えていいのか返答に困り、私は遠回しな言い方をしてみた。
「夏祭り……楽しみだね」

「……うん」
 椿ちゃんが、細い首が折れてしまいそうに頷くので、これでよかったのだとほっとする。

「とても盛大なお祭りなのよ。といっても、田舎基準だけど……」
 当日は出店が出て、太鼓の演奏があったり、のど自慢大会があったり、抽選会があったり、いつもは静かな髪振神社に多くの人が集まるのだと、椿ちゃんは教えてくれた。

「最後には花火まで上がるの。数は少ないけど……」
「花火って……どこで?」
「もちろん、神社で」
「えっ?」
 驚く私を、椿ちゃんは面白そうに笑う。

「真下から見上げることになるから首は痛いし、燃えカスは降ってくるし、火薬の匂いもするけど、それもなかなかできない経験でしょ?」
「確かに」
「一緒に見ようね」
「う……」

 期待に胸をわくわくさせて、当然のように頷きかけたが、私はそれを途中で止めた。
 せっかく誠さんと三人で行く予定なのだから、そこは気を利かせて早目に退散し、二人きりにしてあげたほうがいいのではないかと気を回す。

「何よ……嫌なの?」
 途中で黙ってしまった私を不審がり、椿ちゃんが首を傾げた時、さっき百合さんが出て行った縁側へと続く障子が、スパーンと音をたてて大きく開け放たれた。

「――――!」
 驚いてふり返った先には、厳めしい顔をした大柄な和服の男性が立っている。
 髭に囲まれた口を気難しそうにひき結び、着物の袖に手の先を隠すようにして腕組みし、ぎろりと鋭い目を私に向けてくるその人から、目が逸らせない。

「椿、出かけていたそうだな? どこへ行っていた? これは誰だ?」
 男性の後ろに、今にも泣きだしそうな顔をした百合さんが控えていることに気がついて、私はまた畳の上に座り直した。

「今日のぶんの課題と練習が終わったので、少し散歩に出かけただけです……彼女は私の友人です」
 いかにも不服そうに答える椿ちゃんに続き、私は畳に指をついて頭を下げる。
さっき百合さんにした時よりも、さらに丁寧さを心がけたつもりだった。

「はじめまして、こんにちは。青井和奏といいます」
「青井? 聞いたことがないな……どこの者だ?」
「え……」

 何と答えたらいいのか困惑する私に代わって、椿ちゃんの鋭い声が飛ぶ。
「どこの者でもないわ! 和奏はこの町に越してきたばかりだもの」
 椿ちゃんの父親だと思われる男性は、ふんと鼻を鳴らした。

「余所者か……勝手に成宮の敷居を跨ぐな」
「お父さま!」
 叫ぶ椿ちゃんに、彼女のお父さんは指をつきつける。
「お前もだ、椿。今日、駅のあたりでお前を見たという者がいた……何が散歩だ。勝手をするなら家から出ることを禁じる。学校が休みの間はずっと部屋にこもっていろ」
「――――!」

 言いたいことを言うと、椿ちゃんの返事もまたず、彼女のお父さんは行ってしまおうとする。
 椿ちゃんは顔を俯けてぶるぶると震えているので、私が代わりにひき止めようと腰を浮かしかけた。
「あの……」

 しかし椿ちゃんにブラウスの袖を引かれ、制止される。
「…………」

 椿ちゃんのお父さんが行ってしまってから、百合さんが足をもつれさせながら部屋の中へ駆けこんできて、椿ちゃんの前に平伏した。
「お嬢さま! 申し訳ございません! 申し訳ございません!」

「百合のせいじゃないわ。気にしなくていいのよ」
 椿ちゃんは力なく呟いてから、私に向き直る。
「和奏もごめん。嫌な思いさせちゃったわね……私が浅はかだったわ」

 私の心配より、椿ちゃんのほうこそ、とても悲しい顔をしているのにと、声をかけてあげることができず、私はただ懸命に首を横に振るしかなかった。
 帰りは百合さんの案内で、裏門からお屋敷を出た。
「どうかこれからも、お嬢さんと仲良くしてくださると嬉しいです……」
 さっきから恐縮しっぱなしの百合さんが気の毒で、私は笑顔で答える。
「もちろんです」

 椿ちゃんはお父さんに言われたように部屋から出ず、すでに三日先のぶんだという難しい数学の問題集を、黙々と解いていた。
 文机の引き出しの二段目を時々開けて、悲しそうに中を見ていたことが印象的だった。
 そこにしまった誠さんからのお土産を、おそらく見ているのだと思うと、私も切なくなる。

(夏祭り……ちゃんと行けるといいけど……)
 日の傾きかけた田んぼ道を進み、父の仕事小屋兼住宅がある山に着いたのは、もう辺りが暗くなりかける頃だった。

 日が暮れても月明かりがけっこう明るいことを椿ちゃんに教えてもらった私は、それを不安に思うことはなかったが、頂上へ通じる山道を逸れて、家へ向う小道に入ると、庭に佇む人物の姿が見えて、どきりとした。
「お父さん!」

 また心配させてしまったのかと慌てて駆け寄ろうとしたが、そうではなかった。
 父は仕事の合間の休憩だったようで、手にしていた煙草を唇で挟み、私に向かって手を上げてみせる。
 私はほっと胸を撫で下ろしながら、ゆっくりと父に近づいた。

 紺色の作務衣を緩く着て、頭には手拭いの、いつもどおりの格好。
 父はこの家では常にこの格好をしている。
 作業がしやすくて、その上楽なのだそうだ。

 都会で一緒に暮らしていた頃は、いかにもサラリーマンという、スーツにネクタイ姿しか見たことはなかったが、今のほうが父らしい気はした。
 他の何も気にせず、ただ自分の好きなものだけに向かっている姿は、いつも羨ましくさえある。

 ふと――椿ちゃんのお父さんも和服姿だったのに、ずいぶん違うものだと思った。
 もっともあちらは羽織まで着た、正装ではあるけれど――。

 父の隣に立って、しばらく庭の木花を眺めながら、私は今日の顛末を簡単に話した。
「友だちと隣街へ行く予定だったんだけど、途中でやめたの。その子が、体調悪くなっちゃって……」
「大丈夫だったのか?」
「うん、少し休んだら治ったみたい」
「そうか……」

 やはりそれ以上会話は続かない。
 その居心地の悪さには多少慣れたつもりだが、並んで立っているのならばやはり何か話したほうがいい気がして、私は問いかけた。
「ねえ、お父さん。成宮って知ってる……?」

 昨日初めて椿ちゃんに会った時、「この町の住人で、『成宮』を知らない者はいないもの」と彼女が言っていたのを思い出し、訊いてみたのだった。
 父が「知っている」と答えたら、「その成宮の子と友だちになったんだよ」と話を続けるつもりだった。
 ところが――。

 父は唇の端にくわえていた煙草をぽとりと地面に落とし、それすら気にせずに両手で私の肩を掴んだ。
「誰に聞いた?」

 力ずくで父のほうを向かされ、怒気をはらんで問いかけられた声は、これまで聞いたこともないほど低かった。
「え……?」

 椿ちゃんのお父さんを彷彿とさせる鋭い眼差しで、睨むように見据えられる。
「いったい誰に聞いたんだ?」
「お父さん……?」

 戸惑う私に初めて気がついたように、父ははっと肩から手を放し、足もとに落ちた煙草を拾うため身を屈める。
しかし声の刺々しさは変わらない。
「ハナさんか?」

 何がこれほど父を怒らせてしまったのかがわからず、私はうまく言葉が出てこなかった。「ち、ちがう……」
「そうか……」

 父は煙草を拾うと、仕事小屋へ向かって歩き出す。
「しばらく小屋から出てこれないと思う」
「……うん」

 遠くなっていく背中は、私がこれ以上何かを問いかけることも、説明することも拒んでいるような気がして、悲しかった。