「勉強も、習いごとも、お稽古も、この夏は一度も休まないってお父さまに誓ったの。だからせめて一日だけ、私の好きなように過ごさせてほしいって……なのに、それでもダメだって言われるんだもの……もう嫌になるわ……」
さっきまでの激しい調子ではなく、淡々と不満を呟く椿ちゃんと手を繋ぎ、私は山道を歩いていた。
二人であの場所にいるうちにすっかり日が暮れてしまい、いったいどうやって家へ帰ったらいいのかと焦った私に、何を困ることがあるのかと椿ちゃんが手をさし伸べたのだ。
「日が暮れたら、月明かりで歩けばいいのよ……月がない夜なら、星明りという手もあるわ」
彼女の言うとおり、頭上から私たちの行く末を照らす月は、私が知っているそれよりもかなり明るいように感じた。
私よりも山歩きに慣れているという椿ちゃんと手を繋いでいれば、尚更安心だ。
「ええっ? 来る時は森を抜ける道から来たの!? あれは動物しか通らない獣道よ。人間が登る道じゃないわ……人間はこちら側から登るのよ」
椿ちゃんに教えてもらった帰り道は、確かに私が行きに通った道よりもなだらかで、周りが見えなくなるほど背の高い樹木もなかった。
空が隠れることもなく、おかげでずっと月明かりの中、歩き続けられる。
(仕方ない。だってうちの家が獣道沿いにあるんだもの……ハナちゃんのせいじゃない。うん)
上之社へ行くことを勧めてくれたハナちゃんに罪はないと、心の中でくり返しながら、私は歩き続けた。
いったんこの道を麓まで下りて、またいつもの道を登るのは時間がかかるだろうが、真っ暗な森の中を進むよりかえって早いはずだと思うことにする。
幸か不幸か父は、仕事小屋を出て住居部分へ帰ってくることがほぼないので、私の帰りが多少遅くなっても、気づきはしないだろう。
「高校を卒業したら東京へ行きたいって野望は、まあ今はもう言わないでおくから……せめてこの夏に、一日隣街へ遊びに行きたいって希望くらい、叶えてくれたっていいのに……」
椿ちゃんはぶつぶつと呟きながら、私と繋いだ手を大きく振る。
「まあ、どうせ私には……一緒に行く友だちもいないけどね……」
照れたように笑いかけられた瞬間、私は椿ちゃんと繋いだ手を高々と掲げた。
私のほうが背が高いので、彼女は腕を吊り上げられて、つま先立ちのような格好になる。
「え? 何?」
焦る椿ちゃんに、私は笑いかけた。
「じゃあ私と一緒に行こう!」
「……え?」
それは彼女にとって、とても思いがけない提案だったらしく、かなり驚いた顔を向けられる。
その表情が面白くて、私は頬が綻ぶ。
「今日出会ったばかりだけど、私も秋からは聖鐘女学院に通うし、一足先に『友だち』ってことでどうかな? それで……『友だち』の私と一緒に、隣街へ遊びに行く……それが椿ちゃんのやりたいことなんだよね?」
私の言葉を聞きながら、彼女の表情はみるみるうちに笑顔へと変わった。
「行く! 行く行く!」
「お家の人には黙って行くことになるけど、買いものしたりお茶したりするぐらいだよね? ちょっと行ってすぐに帰ってくれば大丈夫じゃないかな」
この町へ来る時に電車で通り過ぎた、いかにも地方の少し栄えた街というふうの隣県を思い返しながら、私は提案する。
椿ちゃんは目をきらきらさせて、私の手を両手で握りしめた。
「ありがとう和奏! 明日10時に、駅で待ってるね!」
「うん、10時ね、わかった」
麓に着いて道がわかれてからも、椿ちゃんは何度も私をふり返り、嬉しそうに手を振りながら帰っていった。
私も嬉しかった。
新しい町で新しい友だちができたこと、この夏と、そのあとに控えている秋からの新学期を、どうやら一人きりで過ごさずに済みそうなことには、上之社へ行ったらと勧めてくれたハナちゃんと、そこで出会った椿ちゃんに、感謝してもしきれない思いだった。
山の麓から、父の仕事小屋兼住居へと続く道を登っていると、遠くで人の声が聞こえた。
(珍しい……こんな夜に……)
昼間でもハナちゃんぐらいしか来ることのない家だが、夜になるとそれもないので、家の外から聞こえてくるのはいつも、鳥の声や虫の声くらいだ。
静か過ぎていっそ怖いほどだが、真夜中でも常に人の声や車の音が窓の外から聞こえていた都会から来た身としては、憧れていた環境と言えなくもない。
しかし、夜の人の声となれば、少し話は別だ。
(ちょっと怖いな……)
警戒しながら道を登り続けるうちに、私はそれが父の声だと気づいた。
(え……お父さん?)
しかもしきりに、私の名前を呼んでいる。
「和奏ー……どこだ? どこにいるー? 和奏ー」
私は慌てて、それまでのんびりと登っていた道を駆け上がった。
「お父さん! ここだよ!」
庭の植え込みを揺らしてざざざっと父の前に走りこんだ私を見て、父は驚いた顔をしたが、何も言わなかった。
仕方がないので私のほうから訊ねる。
「どうしたの?」
頭に被っていた手拭いを取り、ぺたんこになった髪を雑にかき上げながら、父は私に背を向けた。
「いや、特に用はないが……母屋に帰ってきたらお前がいないから……」
ぽつぽつと呟かれる言葉は、単に事実を述べているだけで、それに関して父がどう思っているのかの説明はない。
口数が少なくてあまり自分のことを語らない父に、母はよくイライラして、もっともっとと言葉を求めていたが、その気持ちもわからなくはない。
父が言わないので自分で推し測るしかなく、夜に出歩いていたことを咎められているのだろうと、私は解釈した。
「ごめんなさい……こんなに遅くなると思わなくて」
「そうか」
うしろ姿のまま呟き、家の中へ入っていく父に、私も続く。
(どこへ行ってたのかとか、誰といたのかとか……訊かれたら訊かれたで鬱陶しいと思うのかもしれないけど……何も訊かれないっていうのもな……)
まるで『お前が何をしようと関係ない、興味もない』と言われているかのようで、そもそも父のところへ来たこと自体を、後悔してしまいそうになる。
(そうじゃない! お父さんはあまりしゃべらない人なんだって、昔の記憶でも、ここに来てからの経験でも、よくわかってるじゃない……無関心とかそういうことじゃないんだよ、たぶん……きっと……)
断定できないところが我ながら苦しいが、そう思っていなければ、ここへ来た私の選択は、父にとっては迷惑でしかないという結論にたどり着いてしまい、悲しくなる。
(迷惑……なのかな……)
紺地の作務衣に包まれた広い背中を追って、私も家の中へ入った。
「お仕事、ひと段落したの?」
「ああ……」
向かいあって少し遅い夕食を食べながらの会話は、途切れ途切れで、時々沈黙が続く。
父の家へ来て始めの頃は、なんとか話を続けようと、無理に話題を探していたが、一人で空回りするのに疲れて、最近ではもう気にしないことにしていた。
どうしても話をしなければいけないわけではない。
黙って食事に専念するのも、作法には適っている。
とはいえ今日の夕食は、昼にハナちゃんが持ってきてくれたおにぎりの残りと、朝食の味噌汁の余りと、常備食の漬物だけになってしまった。
これは完全に私の落ち度で、父に申し訳ない。
「ごめんね、今日はご飯ちゃんと作れなくて」
味噌汁の椀に口をつけながら謝ると、父がはっとしたように私を見た。
「いや……じゅうぶんだよ」
慌てて漬物を掴む箸を握る手は、赤や緑の染料で汚れている。
父が作る陶器は、焼き上げてから表面に絵を描く種類のものだ。
繊細な草花の絵が特徴的で、ひそかに人気もあるらしい。
私はここへ来るまで、父がそういう仕事をしていることさえ知らなかった。
昔から手先が器用な人ではあったが――。
(…………)
服の中に隠すようにして、首から下げているペンダントに意識が集まる。
それは小学校に入学してすぐの授業参観で、父と一緒に作ったものだった。
プラ板に熱を加えると縮むことを利用しての小物作りだったが、私の描いた絵に見事な縁取りと鎖をつけ、瞬く間に可愛らしいアクセサリーにしてしまった父の手腕は、友人たちからとてもうらやましがられた。
私としても自慢だった。
だからそれからずっと、いつもこのペンダントを下げていた。
あの頃はまだそれが、父が来てくれた最初で最後の授業参観になるとは思っていなかった。
母と暮らしたマンションを出て、父の住むこの家に来るにあたり、机の引き出しの奥にしまっていたこのペンダントをひっぱり出してきたのは、何がしかの会話のきっかけになるかもしれないと思ったからだ。
しかし私がこれみよがしにこれを下げていても、父は何も言わなかった。
ひょっとすると、気づいてさえいなかったかもしれない。
(まあ、それでもいいんだけど……)
考えていると気持ちが落ちこみそうだったので、私は頭を切り替えることにした。
「明日ね、ちょっと友だちと出かけることになったから」
「友だち?」
突然の私の宣言に、父はかすかに首を傾げる。
「もうできたのか? 早いな……」
ほんの少し笑ってくれた気がして、私も頬が緩む。
「うん、今日仲良くなったの……昼前に出るけど、夕方には帰ってくるから……晩ご飯、何か食べたいものがある?」
父は困ったように私から視線を逸らした。
「今から、次の仕事にとりかかるから……」
「そっか……」
作業に入った父は、朝昼晩という食事の仕方をしない。
少し時間ができた時に、それも流れの一環であるかのように、急いで食べものを体内に摂りこむ。
だからこそ、ハナちゃんが持ってくるのは『おにぎり』なのだろうし、父は滅多にこの母屋まで帰ることはない。
私がここへ来たことで、その習慣を変えようともしてくれたが、私が断った。
私は父の仕事の邪魔をしたくて、ここへ来たのではない。
だったら何がしたいのかと訊ねられると、自分でもよくわからないのだが――。
(明日からは、またこんなふうに向きあってご飯を食べられるかどうか、わからないってことね)
心の中で確認してから、私はとっくに食べ終わっていた自分のぶんの食器を持って立ち上がった。
「じゃあ私の好きなもの作ろうかな……」
食器を流しへ下げようと、台所へ向かって歩き始めると、父に呼び止められる。
「和奏」
「何?」
いったい何だろうとふり返ったが、父は軽く首を振ってまた私から視線を逸らした。
「いや……なんでもない……」
父が言おうとして呑みこんでしまった言葉がどんなものなのか、知りたくはあったが、どう訊ねたらいいのかは私にはわからず、再び背を向けるしかなかった。
翌日。
駅で待っていた私の前に現れた椿ちゃんは、白いワンピースに麦わら帽子という絵に描いたようなお嬢さまスタイルだった。
「わあっ、可愛い!」
思わず声を上げた私から、頬を赤くして顔を逸らす。
「ちょっと散歩に行くだけだって言うのに、どこで誰に会うかわからないからちゃんとした格好をしないとってお母さまが……」
不満そうに口を尖らせている表情さえ可愛いと、本人に言ったら嫌がられそうだが、事実なのだから仕方がない。
「よく似あってるよ」
軽く背中を押して歩き始める私に、やっぱり椿ちゃんはしかめ面をした。
「どうせ着るなら和奏みたいな服がいい」
「そう?」
なんでもないブラウスに膝丈のスカートという私の格好は、あのお屋敷のお嬢さまとしてはやはり不釣り合いなのではないかと思う。
「椿ちゃんにはその服がいいと思うけどな……」
「えーっ」
正直に伝えると、不満そうな声を上げられた。
ぶつぶつとまだ何か言いながら、椿ちゃんは駅員さんのいる窓口で切符を二枚買い、一枚を私に渡す。
「え、お金自分で出すよ?」
焦る私に、いいからいいからと強引に切符を握らせてしまった。
「私のわがままにつきあってもらうんだもの、ここは出させてよ」
「わかった。じゃあ帰りは私が払うね」
「それじゃ意味ないじゃない!」
今日もくるくるとよく表情の変わる椿ちゃんと一緒に、二番目のホームで電車を待っていると、線路の向こうからもくもくと白い煙が見え始めた。
「え……?」
まさかどこかで火事でもと焦ったが、私以外は誰も動揺していない。
それどころか椅子に座っていた人も立ち上がり、みんな電車に乗るための整列を始める。
「和奏、なにやってるの? ほら並ぶわよ」
椿ちゃんに促されるまま列に並んだが、その間にも、遠くに見える煙がどんどん大きなる。
「ねえ椿ちゃん……あの煙って……」
私が問いかけようとした時、煙の中から大きな黒い列車の車体が現われた。
「なっ……!」
息を呑む私の前にそれはどんどん迫り、シューッと上気音を響かせてホームに停まった。
中から人が下りてくるのと入れ替わりに、ホームで電車の到着を待っていたはずの人たちが次々と乗りこむ。
「和奏、早く!」
乗降口に足をかけた椿ちゃんのあとを、私も慌てて追ったが、頭の中は疑問符だらけだった。
(蒸気機関車……だよね? これに乗るの? 確か町に初めて来た時は、普通の電車だったような……)
髪振町にあるたった一つの駅である『髪振駅』は、規模は小さいが二つの路線が通っている。
有名デザイナーが内装を手がけた観光列車も乗り入れていることを思い出し、私は納得した。
(ああ、そうか! 観光客のために特別に走らせてるんだ。確かに景色はいいものね。ノスタルジックな気分に浸れそう……)
だったら私も、椿ちゃんのように時代に囚われない格好をしてくればよかったという思いが、ちらりと脳裏を掠めた。
(そういう服を持っているわけじゃないけど……)
列車に乗りこみ、椿ちゃんと向きあって座る形で、椅子に掛けた。
ぼーっと大きな汽笛を響かせて、列車がゆっくりと動き始める。
始めは蒸気で窓からの景色もよく見えなかったが、スピードが上がるとのどかな田園風景が広がり始めた。
(うん。確かに『旅』って感じだね……)
窓の透明度が高くないせいで、ぼんやりと見える風景も味のあるものだったが、いくつかのトンネルを抜けると、椿ちゃんがその窓を持ち上げて全開にしてしまう。
「もう開けても大丈夫よ。そのほうが、外がよく見えるし、風が気持ちいいでしょ?」
強すぎるほどの風で吹き飛ばされそうになる帽子を、笑いながら押さえている椿ちゃんは、とても嬉しそうだ。
私も髪を大きくなびかせながら、笑顔になった。
「ほんとにそうだね!」
列車の音に負けないように大きな声で、昨夜家に帰ってから家族にどういう言い訳をしたのだとか、今日はどう言って家を出てきたのかだとか、笑いながら話している間は、椿ちゃんは普通だった。
しかし列車が山にさしかかったあたりから、頭痛がすると言い始めた。
「頭が痛い……」
「え……大丈夫?」
前屈みになって両手で頭を押さえる椿ちゃんに、不安が大きくなる。
少し様子をみても、よくなるどころかひどくなる一方なので、私たちはいったん列車を降りることにした。
「ごめんね、和奏」
「いいんだよ。少し休んでよくなるといいけど……」
椿ちゃんを支えながら降り立ったのは、山の中の小さな駅だった。
ホームは私たちが降りた一つしかなく、改札に駅員の姿も見えない。
「ここ、無人駅だったかも……」
「そっか……」
待合室もないので、駅舎の前に置かれた木製のベンチに椿ちゃんを座らせ、私は自動販売機で飲みものを買おうとした。
(水分摂ったほうがいいよね……)
しかし駅にはない。
仕方なく、少し出てみることにした。
「何か飲みもの買ってくる。辛かったら横になっててね」
弱々しく頷く椿ちゃんの様子に不安を大きくしながら、駅の前の通りへ出てみた。
町中ではなく山の中の駅なので、人通りもなく、建物もない。
緩い勾配になっているその道を、登ろうか下ろうか迷った末、下ることにする。
(人が住んでるところへ出たら、コンビニ……とは言わないけど、さすがに商店ぐらいはあるんじゃないかな……)
かすかな希望を抱いて下り始めたのだったが、少し行ったところで、畑の中で作業をしている人影が見えた。
「こんにちは」
都会に住んでいる時は、ご近所の人にぐらいしか挨拶の声をかけることはしなかったが、ここでは誰にでも自分から積極的にしたほうがいいと、ハナちゃんが教えてくれた。
『悪い人なんぞおらんから、誰とでも顔見知りになっとったほうがええ。困った時、きっと助けてくれるから』
ハナちゃんと同じくらいの年齢のお婆さんは、私の声にふり返り、ぺこりと頭を下げてくれた。
「はい、こんにちは」
私はほっとして、畑に歩み寄る。
「近くに自動販売機はありませんか? 列車に乗ってたんだけど、友だちが、頭が痛くなっちゃって……」
「自動販売機……?」
ゆっくりと首を傾げるお婆さんの仕草から、どうやらないようだと私は判断した。
「何か冷たい飲みものが売ってそうなお店でも……」
その問いかけにはすぐに、首を横に振る仕草で答えられる。
「近くにはないねえ」
「そうですか……」
ならばやはり、坂の下にあると思われる集落までこの道を下るしかないかと、坂道を見下ろす私を、お婆さんが手招きする。
「サイダーでよけりゃ持ってきちょるけえ、こっちおいで」
「え……いいんですか?」
農作業の途中の休憩で飲もうと持参したのだろうに、申し訳ないという思いが一瞬頭を過ぎったが、椿ちゃんの辛そうな様子を思い出し、私はお婆さんの好意に甘えることにした。
「すみません……ありがとうございます」
「いいよ、いいよ」
畑の奥のほうは山の岩肌に面しており、小さな川が流れていた。
そこに浸けて冷やしてあるらしい網の中から、お婆さんは瓶を取り出す。
(わあっ……)
缶ではなく瓶入りのジュースに、私は少し感動を覚えた。
お婆さんは腰から下げていた金具で、器用に瓶の蓋を開けると、私に手渡してくれる。
「早く持っていっちゃれ」
「ありがとうございます!」
私はジュース分のお金を払おうとしたが、いらないと何度も断られるので、代わりに丁寧に頭を下げて帰ることにした。
「本当にありがとうございます! 助かります!」
『年寄りは、若い人に喜んでもらえたら、それだけで嬉しいけえ』
というのも、ハナちゃんの言葉だ。
『助けてもらって嬉しかったら、自分も誰かが困っている時に助ける。相手は他の誰かでいい。そうして助け合いになる』
都会では縁を持つことのなかった『恩返し』の輪の中に、自分も組みこまれたことを実感して、使命感のようなものと同時に、照れくさい嬉しさがこみ上げた。
駅に帰ると、椿ちゃんはベンチに横になり、顏の上に麦わら帽子を乗せていた。
「お待たせ!」
私が駆け寄ると、ゆっくりと体を起こし、ベンチに座り直す。
「ごめんね、和奏」
まだあまりよくない顔色を見て、自分のことのように苦しく感じながら、私はお婆さんからもらったサイダーの瓶を、椿ちゃんに手渡した。
「近くの畑にいたお婆さんからもらったの……飲めるかな?」
「うん……」
椿ちゃんは細い首が折れてしまいそうにこっくりと頷いて、両手でサイダーの瓶を持ち、飲み口に口をつける。
こくこくと飲む横顔が、まるで絵画のように綺麗だなどと私が考えているうちに、あっという間に一瓶飲み終わり、見るからに顔色がよくなった。
「ありがとう和奏。だいぶ楽になった」
私はほっとして、椿ちゃんの隣に腰を下ろす。
「よかった……」
椿ちゃんは恥ずかしそうに、首を傾げる。
「急に頭が割れそうに痛くなってびっくりした……乗り物酔いなのかな? これまでなったことないんだけど……」
「一応、病院へ行ったほうがいいんじゃない?」
「うん。家に帰ったら、お抱えの町村先生に来てもらう」
(お抱え医師……)
椿ちゃんは本当に『お嬢さま』なのだということを再確認しながら、私は彼女の手の中にある瓶へ目を向ける。
「瓶入りのサイダーなんて珍しいね」
「え? ……そう?」
椿ちゃんは私の発言のほうが珍しいと言わんばかりに、瞳を見開く。
「どこの家にもあるわよ? ケースで買うもの。畑仕事なんかの休憩に飲むために持っていって、冷やしとくの」
「そうなんだ……それをくれたお婆さんも、川に浸けてた網の中から出してくれたよ」
「そうそう、採れたての胡瓜とか西瓜なんかもそうして冷やしておいて、休憩に食べたりするから」
「そうか……」
このあたりではごく普通の習慣なのだと、私は納得した。
「今度またお礼に来なくちゃ……」
手の中で瓶をもてあそぶ雅ちゃんに、私は問いかける。
「どうする? 次に来る列車に乗って、隣街へ行く?」
椿ちゃんは少し寂しそうに笑った。
「今日はもういいかな……せっかくつきあってくれたのに、ごめんね和奏」
私は慌てて首を振った。
「気にしなくていいよ! 私はいつでも暇だし……またいつでも誘ってよ。一緒に隣街へ行こう!」
「うん。ありがとう」
椿ちゃんが微笑んだ時、私たちが本来行くはずだった方角からぼーっという汽笛が聞こえた。
「あ、帰りの方向の列車が来るみたい……あれに乗ろう」
「うん」
ベンチから立ち上がり、椿ちゃんに肩を貸してゆっくりと駅舎へ入った。
切符を売る場所がなく、自動改札もなく、どうしたらいいのかと迷う私を、椿ちゃんが笑って促す。
「乗ってから車掌さんに言えばいいのよ」
「そうか……」
都会で使っていたICカードは持ってきたが、今日はまったく出番がなさそうなことに地域性を感じながら、椿ちゃんと二人きりのホームで列車の到着を待った。
スマホを忘れてきてしまったので正確な時刻はわからないが、まだ昼を少し回ったくらいの時間のはずだ。
それなのに帰りの列車は、行きの列車よりも混んでいた。
ボックス席に一人で座っている人が多く、一緒に座らせてもらえばいいのだろうが、できれば椿ちゃんと二人で座りたい。
(また具合が悪くなるかもしれないし……その時に横になれるスペースがあったほうがいいよね)
隣の車両に移動しようかと進んでいると、ふいに声をかけられた。
「あれ……椿?」
瞬間――。
私の肩に腕を廻して頼りなく歩いていた椿ちゃんが、私を押し退けるようにしてその場から数歩飛び退いた。
「え? ……え?」
その突然さに驚いてしまい、私は声の主を確認するのが少し遅れた。
改めて目を向けてみると、右側のボックス席の窓際に座った青年が、椿ちゃんに笑顔を向けている。
二十歳くらいで、見るからに優しそうな男の人だ。
真夏だというのに、長袖の白いシャツをきっちりと着こなし、さらさらの黒髪も綺麗に切り揃えられている。
いかにも好青年ふうの彼から、椿ちゃんは無理に首を捻り、必死で目を逸らしていた。
「び、びっくりした……どうしてこんなところにいるのよ?」
本当に驚いたらしく、手で胸を押さえている。
彼は私に向かって会釈し、椿ちゃんにまた笑いかけた。
「大学が夏休みになったから帰省だよ。毎年夏まつりの前には帰ってくるだろ?」
「そうだったかしら?」
ぷいっとそっぽを向く椿ちゃんを笑いながら、青年は私に自分の斜め前の席を示した。
「せっかくだから、どうぞ」
「えっ!?」
椿ちゃんは目を剥いたけれど、私は彼の申し出に甘えることにした。
「ありがとうございます」
私がさっさと通路側に座ったので、椿ちゃんはその奥の窓際の席か、青年の隣に座るしかなくなる。
ぶつぶつ言いながら私の隣に座ったが、青年と向きあう格好になったことが不都合らしく、ずっと下を向いている。
艶やかな黒髪の間から見え隠れする耳の先が真っ赤なことに、私はとっくに気がついており、きまり悪そうな椿ちゃんの横顔を、頬が緩むのを必死にこらえながら見ていた。
「何笑っているのよ、和奏」
どうやら私の努力は足りていなかったらしい。
椿ちゃんが恨みがましい目を向けてくる。
「わ、笑ってないよ」
「和奏ちゃんって言うんだ……椿の友だち?」
ふいに青年に訊ねられたので、私ははっと背筋を伸ばした。
「はい、青井和奏です。はじめまして」
「はじめまして。僕は、折川誠といいます。椿の……ご近所さん? 幼なじみ……かな? そういう感じです」
「そうなんですか」
なるほどと頷きながらも、私の耳は隣に座る椿ちゃんの
「感じってなんなのよ、感じって……」
という呟きを鋭く拾ってしまい、ますます頬が緩む。
「椿、よかったね。友だちできて」
「余計なお世話よ!」
椿ちゃんが態度悪く叫んでも、誠さんはにこにこと笑っている。
その様子を見ていると、不思議と私まで幸せな気持ちに包まれた。
(好き……なんだろうな、椿ちゃん。誠さんのこと……)
私はあまりそういう勘がいいほうではないが、さすがにわかる。
彼の言葉や仕草や表情に過敏に反応して、赤くなったり焦ったりしている椿ちゃんは、これまでにも増して可愛い。
「そうそう、今度はちゃんとお土産買ってきたよ、椿」
「別にそんなもの頼んでないわよ」
「まあそう言わず……あれ? どこにしまったかな……?」
肩から掛けるタイプの布製の鞄を漁っていた誠さんは、そこから綺麗な髪飾りを出した。
小さな花がいくつか重なったデザインの、凝った造りの髪飾りだ。
「燈籠祭りにつけて行ったらいいんじゃないかな」
「ありがとう……」
消え入りそうな声でお礼を言った椿ちゃんのために、何かできることはないだろうかと思案しながら、私は声を上げた。
「燈籠祭り?」
誠さんは頷いて、説明してくれる。
「ああ。髪振神社の夏祭りだよ。和奏ちゃんはひょっとして髪振町の子じゃない?」
「最近越してきたんです」
「なるほど」
誠さんは頷いてから、身振り手振りを交えて説明してくれた。