「ありがとう。流衣(るい)」
彼女の下の名前を呼ぶ。
まぁつまり、そういうことだ。このかわいい女の子は光栄なことに、俺の彼女。今年の春から付き合うことになった。
ロマンティックにも、桜の咲き誇る樹の下。はらはらと舞い散るピンクの花びらを身に受けながら、彼女に告白されたのだ。
なので実のところ、この大切な彼女にいいところを見せたくて部活の試合に打ち込んだということも、ひとつあるのだった。
「今日の部活はどうだった?」
歩きだしてすぐに流衣が聞いてくれた。俺は「まったりしてたよ」と答える。
「もうちょっとしたら冬季大会のことも考えないとだけど、ま、しばらくは」
「今まで大変だったもんね」
「そっちはどう? 手芸部」
「うちもまったりかな。あ、いつもそうか」
流衣はおっとりと笑う。手先が器用な流衣は、女子らしい手芸部なんてものに所属している。部活はこのように違うのだが、時間を合わせて校門で待ち合わせて、一緒に帰る。
春からの恋人関係で、こういうことも随分慣れてきた。未だに隣同士歩けばドキドキしてしまうけれど。しかしこのときめきが高校生、青春ではないだろうか。
ああ、なんたるリア充。
大会は県大会出場。
隣にはかわいい彼女。
俺の人生は順風満帆といって良かっただろう。
噛みしめていたが、ふとポケットに手を入れて俺は、はたとした。
ない。
入れていたはずのものが。
「あ、……」
手を動かしてみても、『それ』には当たらない。俺は足をとめてしまった。
「どうしたの?」
流衣がこちらを見てくる。
「部室の鍵。忘れたみたいだ」
「あら」
持っていたはずの部室の鍵が、ポケットに入っていなかった。今日は出たのが最後でなかったので施錠する必要もなくて、そのせいで忘れたことに気付かなかったのだろう。
「ごめん、ちょっと取ってきていいかな」
今すぐ使うというわけではないが、もしも明日の練習、俺が一番乗りだったら部室に入れなくなってしまう。立ちつくしてほかのヤツがくるのを待つのもじれったいし。
幸い学校からは、歩きだして五分も経っていない。走れば同じくらいの時間で往復できるだろう。
「いいよー。あ、じゃあそこの公園で待ってるよ」
流衣はちょっと先にある公園を指差した。そこならベンチもあるし、座って待てる。
「悪いな。ちょっぱやで戻ってくるから」
「あはは、ゆっくりでいいよー」
歳の離れた姉ちゃんから移った、やや死語の表現で言うと流衣はおかしそうに笑って手を振ってくれた。
そんなわけで……俺は弓道場へ戻るべく来た道を走って戻ったのだった。
弓道場は特に普段と変わった様子もなかった。
静かだ。今日は参加者も少ないからみんな帰ってしまったのかもしれない。
しかし逆に、まずいな、と俺は思った。
今、施錠されていたら当たり前のように入れない。勿論、鍵を回収することもできないだろう。無駄足になるかな、と思いつつもドアに手をかけた。
が、幸いなことに鍵はかかっていなかった。誰かまだ残っているようだ。俺は、ほっとした。
弓道場へ入ると部員が二、三人いた。とはいえ、練習はもう終えたようで隅のベンチで駄弁っているだけだったが。
「あ! 逆咲先輩。どうしたんですか?」
後輩の男子が俺を見止めて立ち上がって聞いてきた。わざわざ立たせるのも悪いと、俺は手つきでそれを制する。
「や、鍵忘れただけだから」
「そうですか」
彼はそのまま肯定して、俺は「終わったなら帰れよ」とだけ言って、更衣室へ向かった。「ういーっす」なんて気の抜けた声を背中に、バックヤードへのドアを開けて中へ入る。バックヤードは女子と男子の更衣室がそれぞれ、あとは用具を入れておく倉庫。
俺は当たり前のように更衣室へ入ったのだが……見えたものに心臓が飛び出しそうになった。
黒髪とワイシャツの後ろ姿は見たことのある人物であったし、この場にあってもおかしくないものだ。
だがその状態が問題だった。黒髪はさらりと肩まで落ちていたし、ワイシャツの開いた前からはレースの下着が見えていたのだから。
そして『その子』が息を呑むのが見えた。
「わわわ悪い!」
バーン!
俺が乱暴に閉めたドアがでかい音を立てる。俺の叫んだ言葉と同じくらい大きかっただろう。
そのドアを封じるように背を付けて、はぁ、はぁと息をつく。ただ入ろうとしただけなのに、百メートルも走ったかのように心臓がばくばくしている。
女子の着替えを見てしまった。
彼女はいるものの、所詮高校生の身。そういう光景にまだそれほど耐性はない。
まさかこんなところでラッキースケベに遭遇しようとは。
いや、……こんなところで?
俺は、ばっとドアから離れ、表示を見た。そして固まる。
『男子更衣室』
そこにはきちんとそう書いてあった。てっきり間違って女子更衣室を開けてしまったかと思ったのだが、そんなことはなかったようだ。大体、何十回も入っている更衣室を間違えたりするものか。
「おい、ここ男子更衣室だろ!」
バーン!
またドアが大きな音を立てた。勢いのままにそうしてしまったが、もう一度、俺の心臓は跳ね上がった。たとえ表示が『男子更衣室』であろうとも、中にいた人物とその状態はなにも変わっていないに決まっていたので。
そしてそのとおり。
『彼女』は今度は驚くだけでは済まなかったようで、真っ赤な顔できっと俺を睨みつけて「戻ってくんなぁ!」と思い切り俺になにかをぶん投げてきて……それは綺麗に俺の額にヒットした。
「悪かったよ」
混乱から戻ってきた俺、と『彼女』。
まさかこんな謎の状況のまま「悪かったな。じゃっ、ばいばいまた明日」なんてできるものか。
ひとまず落ち着いた学校の裏庭、ベンチ。『彼女』は隣に座って気まずそうに、パックのいちごミルクをすすっている。俺が不可抗力とはいえ、覗きをした詫びに奢ったものだ。
俺は流衣にラインを入れて、『ごめん、先生に捕まっちまった。悪いけど先帰ってて』と送った。勿論『今度埋め合わせするから』とも付け足したが、流衣は穏やかなスタンプと文面で『仕方ないよ。頑張って! じゃ、明日ね』と返してくれた。
俺はほっとしたが、状況はまるで改善していないのだった。
「えっと。お前」
言いかけて止まってしまう。
隣にいる『彼女』は、俺の知っている普段の姿に戻っていたのだから。
ワイシャツ、ジャケット、ネクタイ。
そして、スラックス。
つまり、男子制服である。
さっきおろしていた髪はうしろで結ばれていた。
『彼女』は俺の後輩、鈴木 昴流(すずき すばる)。確かに中性的な見た目のヤツではあったけれど、まさかこんな。
「いえ。俺が気を抜いてたんですから」
やはり気まずそうに言われた。その口調だって男子生徒である。俺の脳は混乱した。
さっき見てしまった色っぽい姿の『彼女』と、いつもの後輩の『彼』が頭の中で混ざり合う。
おまけになんだかその姿を魅力的に感じてしまったのだ。
さらっとした黒髪が綺麗で。
くりっとした瞳がかわいらしくて。
いやいや、綺麗だかわいいだなんて思ってる場合じゃない。俺は思考を原状に戻した。
「えっと……」
訊こうと思ったが、また同じ言いよどみをしてしまった。単純に「お前、女だったんだな。はははそうかぁ!」なんて笑い飛ばせるはずがないではないか。そんな簡単な問題なものか。
「その、どういう事情で」
非常に聞きづらかったが見てしまった以上、聞くしかない。
俺の質問に、昴流はいちごミルクのパックから口を離して、はぁ、と息をついた。観念した、という様子だった。
「事情は話せませんが、兄と入れ替わってるんです」
兄。
俺は目をぱちくりさせた。
兄がいたのか。
昴流とは部活仲間なのだ、それなりに話す関係ではあったが、そんな話は初めて聞いた。
「そ、そうなのか……それで男のふりを?」
「そういうことですね」
昴流はもう一度、はぁー……とため息をついた。今度はさっきより長かった。
「でももう駄目です。誓約は破棄。条件が破られてしまったので」
「それはもしかしなくても俺にバレたからかな」
連想は容易だったが聞くと昴流は「そうです」と端的に肯定する。
「そりゃ悪かった……」
事情がどうこうなど聞き出すつもりはなかったが、随分重要な事態なことくらいはわかる。そして俺が不可抗力とはいえ、それをぶち壊してしまったことも。流石に申し訳なくなった。
「一定期間バレなければ成立だったんですけど……仕方ないですね」
しかし昴流のほうはもう諦めてしまったような様子と口調。そういうリスクは常に頭にあったのだろう。
それを抱えつつ、一体いつからか……少なくとも弓道部入部時点、つまり春からか。男装して過ごし、部活や学校の面々から隠しおおせていたのだから、たいしたものであるが。
「一定期間ってのは、一年とかか。それともお前の卒業とかか」
こいつの卒業までであったら、あと二年以上がある。それは流石に無理がないか。
思ったが昴流は首を振る。
「いえ、一年間です。……あ、正しくは三月頃までで良かったことになるんですかね。『次の桜が咲くまで性別がバレなければ』と約したので」
「桜、ねぇ」
一体誰とどんな約束をしたのか。やはり聞き出すつもりはなかったが。
「でも仕方がないですから。俺が迂闊だったんです」
俺のせいではないと言い切れないだろうに、昴流はそう言ってくれた。にこっと笑う。
「まぁ、ラクにはなります。男として生活するのはやっぱり色々大変だったので」
だが昴流の言い方と様子は悲しそうだった。
そりゃあそうだろう。男装してまで叶えたいことがあったのだろうから。
ごめん、とか、なんか償うよ、とか言おうかと思った。だがそれも押し付けになるだろうか。俺は黙ってしまう。
しかしそこでふと、頭になにかが浮かびそうになった。
桜?
……桜。
「逆咲先輩が罪悪感を感じることはないですよ」
その『なにか』は昴流が言った言葉、というか呼んだ俺の名前で、ぽんと浮かんだ。
逆咲。
ちょっと変わった、俺の名字の意味というか、由来。もしかしたらこれが役に立つのでは。俺は急いでスマホを取り出した。
「ちょっと待っててくれ」
「……はい」
なにか連絡するだけかと思ったのだろう。疑問が滲んだ声だったが、昴流はそれだけ言って大人しくいちごミルクに戻った。
俺はある単語を入れて検索する。
確か、少し前に噂を聞いた。あれはどこだったか。
いくつかページを開いただけで、俺は目的のものを見つけた。
これだ。
「鈴木。ちょっと付き合ってくれないか」
「……えっ」
勢いよく立ち上がって言ったのだが、昴流は、少しぽかんとした。何故かその頬はうっすら赤くなっている。
しかしすぐにそれは振り払われる。
「あっはい! ど、どこにでしょう」
なにか、ちょっと慌てたような様子だったが、構っている余裕はない。
もう夕方だ。暗くなれば探すのは大変だろう。
「いいところがあるかもしれない」
それだけ言って、俺は昴流を促して裏庭を出て、校門も出た。
向かったのは駅。調べたところによると、隣駅が一番近そうだったのだ。
「……どうしてここに?」
電車に一駅分乗って、少し歩いたそこは河川敷だった。
ここは桜の名所なのである。
とはいえ、今は秋だ。十月だ。桜が咲いているわけはなく、それどころか葉も落ちてしまって寂し気な風景しかなかった。
「あるかもしれないんだ」
「なにがです」
昴流は混乱していたようだったが、それでもついてきた。
俺は裸の桜の樹を一本ずつチェックしていく。見逃さないように注意して。
もう暗くなりつつある。早く見つけなければ。
あるはずなんだ。あのニュースを見たのはほんの数日前なんだから。心無い誰かに摘み取られてしまっていない限り。
そして俺はきちんと『それ』を見つけることができた。ぱっと胸が明るくなる。
「おい鈴木! 見ろよ」
「なにを……。……え?」
昴流を招いて、見せてやったもの。
そこには、桜の裸の枝の先端。その部分だけちょこんと芽と葉が出ていて、小さな花がついていた。咲いて数日したからか少し元気はない様子だったが、確かにそれは『桜の花』。
「……なんででしょう」
今、あるはずもないそれに昴流は呆然と言った。
「狂い咲きだよ」
俺は誇らしげに言う。
数日前に見たニュース。今年は桜の狂い咲きが起こっています、というローカルニュースだ。
そのときは、ふーん、くらいしか思わなかったが、なにしろ俺の名字の由来だ。
『逆咲』。
逆らって、咲く。
季節に、逆らって。
そんな狂い咲き。
この近辺でもあるだろうと調べたのが、ここへ来る前のスマホの検索であった。
「たまにあるだろ。秋に変に気温があがっちまうせいだかなんだったか……仕組みは忘れたけど」
「確かに……昔、科学の本で読んだかもしれません」
俺の説明に昴流はちょっと考えて、納得したような声を出した。俺の声は明るくなる。
「だから、ほら! 『次の桜が咲くまで』だろ! 咲いてるじゃないか! これで条件クリアじゃないか?」
「……えっ」
昴流は目を丸くした。
確かにそういうことになるだろう。無理やりではあるが、まるで的外れとも思わない。
昴流はしばらくなにも言わなかった。が、その事実がじわじわと胸に染み入っていくのだろう。だんだん顔が明るくなっていった。
「そう、ですね! 交渉の余地はありそうです」
スラックスのポケットからスマホを取り出して、狂い咲きの桜を写真に撮る。俺は心底嬉しくなった。
助けてやれたかもしれない。少しは償いになったろう。
「ありがとうございます! 逆咲先輩。これで俺の願いも叶うかもしれません」
写真を撮ったスマホを胸の前で持って、心底嬉しそうな昴流。
俺はほっとして、つい聞いていた。
「なにが願いだったんだ?」
軽い気持ちだった。
だが、俺は聞いたことを後悔する羽目になる。
「えっ……それは」
ぱぁっと昴流が頬を染めたのだから。
え、なんだ。
思ったのは一瞬だった。
その顔はなんだか知っているような気がしたので。
予感だったのか記憶だったのか。両方混ざっていたのか。
「兄との賭けに勝てるように、ですよ」
「はぁ。賭けって」
なんだか不穏な予感がしたが、ここまできて聞かないわけにはいかない。
昴流はしばらくもじもじとしていたが、不意にスマホを弄ってなにかを呼び出したようだ。
画面を向けられ、見せられたもの。
一枚の写真。
俺は心臓が潰れそうな思いを味わった。
そこに写っていたのは昴流だったが、もう一人。昴流とよく似た人物が隣にいた。
そしてその存在こそが問題だった。
だって、俺がよく知っている人物だったのだから。
「俺が、……いえ。私が勝ったら兄と入れ替わりを解除して、逆咲先輩とお付き合いさせてもらう。そういう、誓約をしました」
その言葉はゆっくりと俺の頭をよぎっていった。昴流から告白のようなことを言われたこともそうだが、『兄』が一体誰なのか。それを知ってしまったので。
到底すぐには受け入れられない事実であったが。
昴流の持つスマホ画面の中。昴流の隣で、さらりとした黒髪をおろして、くりっとした瞳の目元をゆるめて、穏やかに笑っている『彼女』。
いや、……『彼』なのである。
それは俺の彼女だったはずの、流衣だったのだから。
(完)