「――は?」
その瞬間、雪嗣はあんぐりと口を開いた。
ややあって、叶海の言葉をようやく理解したらしい雪嗣は、呆れたように言った。
「……な、なにを言ってるんだ。俺は神でお前は人だ。そんなことできるはずがない」
それは、叶海が望んでいたはずの言葉だった。
初恋を忘れ、新たな一歩を踏み出すための、呪いを解く魔法の言葉。
しかし――叶海にとって、それはすでに価値のないものだ。
叶海は雪嗣の腕を掴んだまま、どこか熱に浮かれたような口ぶりで言った。
「そんなのどうでもいいの」
「いや、どうでもよくな……」
「神とか人間とか関係ないでしょ!? 要は気持ち次第だわ!」
「いやいやいや!? そんなわけないだろう……!」
突拍子もないことを言い出した叶海に、雪嗣の顔が盛大に引き攣る。
しかし、叶海は構わず話を進めた。
「私、よく言われるの。思い込んだら一直線だって」
だからこそ一度心奪われた相手に、アラサーになるまで惹かれ続けていた。
自分の中で、その人が基準になってしまうほどに心を預けてしまったのだ。
「信じられない。どうして大人になった雪嗣に会って、初恋を捨てられると思ったのかな。再会しただけで、こんなに惹かれちゃったのに!」
「はっ? 初恋……?」
「うん。私の初恋の相手、雪嗣なの」
「さらっと言ったな!?」
そういうことは、慎みと少しばかりの照れと共に告げるべきとでも言いたげな雪嗣に、叶海はふふんと不敵な笑みを浮かべ――更にずいと近づく。
すると叶海の勢いに圧倒された雪嗣は、咄嗟に一歩下がった。しかし、地面に大量の桜の花びらが降り積もっていたせいで、足を滑らせてしまった。
「わっ……」
「きゃっ……」
雪嗣が背中から倒れ込むと、その腕を掴んだままだった叶海も釣られて体勢を崩した。倒れた衝撃で、ふわりと桜色の欠片が舞い上がり、はらはらとふたりに降り注ぐ。
雪嗣に覆い被さるような恰好になった叶海は、まるで押し倒したみたいだとぼんやりと思った。そして、透き通るほどに白い肌を薔薇色に染め、羞恥心に駆られているらしい雪嗣に気が付くと、ほうと熱い吐息を漏らす。
「……なにこれ可愛い。お嫁さんにしてもいいくらい」
「いっ……! ななな、なにを……! 女が言うことじゃないだろう!」
「今は男女平等の時代なのよ。神様」
益々顔を真っ赤にして怒りだした雪嗣に、叶海はクスクスと楽しげに笑う。
「昔に戻ったみたい。あの頃も、よく突拍子のないことをして雪嗣に怒られてた」
「自覚があるならどいてくれないか……」
「嫌です」
疲れたような雪嗣の言葉に、叶海はどこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「びっくりした? まあ、いきなりお嫁さんにしてくれだもんね」
「驚かない方がどうかしてる」
「ごめんごめん。だって私、アラサーだし、お付き合いするなら結婚前提がいいかなって。でも、神様と結婚ってどうするのかな。うーん。雪嗣、生け贄……いる?」
「生け贄を、野菜を売るみたいに言わないでくれ……!」
そして深く嘆息した雪嗣は、酷く困惑した様子で言った。
「勘弁してくれ……。急に、どうしてこんなことを言い出したんだ」
すると叶海はパッと顔を輝かせ、心底嬉しげに口もとを綻ばせた。
「ごめんね、全部私が悪いの。雪嗣のこと……改めて好きになっちゃったから」
あけすけな叶海の言葉に、雪嗣は益々顔を赤らめる。そんな雪嗣の様子に、若干調子に乗った叶海は、彼の純白の髪にそっと触れて囁いた。
「だから私をお嫁さんにして」
すると、雪嗣は困り果てたように眉を下げた。
「……嫌だと言ったら?」
雪嗣の拒絶の言葉に、しかし叶海は更に笑みを深める。
「彼女でもいるの?」
「い、いや……」
「なら、諦めない」
そして、愛おしそうに雪嗣を眺めた叶海は、どこか自信たっぷりに言った。
「私、きっといいお嫁さんになるよ」
今の叶海にとって、「初恋の呪い」は既に効力を失っていた。
……いや、失ってはいない。それは死神のような禍々しいドレスを脱ぎ去り、美しい天女へと姿を変えて、叶海を見守ってくれている。
――ああ! 甘酸っぱい感情が身体の中に充ち満ちて、今なら空も飛べそう。
叶海は熱っぽい眼差しを雪嗣へ向けると、会心の笑みを浮かべた。
すると雪嗣は大きく息を吐き、脱力して天を仰いだ。
風に乗って、はらはらと桜の花びらが舞い降りてくる。
雪嗣は宙を楽しげに踊る桃色の欠片に僅かに目を細めると、しみじみと呟いた。
「……どうしてこうなったんだ……」
ぽつりと零れた龍沖村の守り神の嘆き。
それは、春の暖かな風に流され、すぐに消えてしまったのだった。
人が初めての恋をする時、相手のどこに惹かれるのだろう。
大部分の人間が幼少期に経験するであろう初恋。
社会の仕組みも知らず、心身が未成熟なうちにするその恋は、長い時を経るにつれて、誰にとっても過去のものとなる。
かけっこが他の子よりも速かった。ドッジボールが強かった。髪型が可愛かった。クラスの人気者だった……大人の価値基準からすれば、さほど重要でもない部分が初恋の決め手になることも多い。
だからこそ、幼かった自分を懐かしみ、その恋を思い出に昇華させる。成長した自分からすれば、当時は焦がれるほどに魅力的に思えた部分が、人生においてはさほど重要ではないことに気が付くからだ。
長い時を共に過ごし、相手に新たな価値を見いだしたら話は違うだろうが、途中で離ればなれになった場合は致命的だ。なにせ、相手の魅力的だと思っていた部分は、大人になるにつれて無価値へと成り下がってしまうのだから。
だから、初恋は成就しない。大部分の人たちの中で、ただの思い出で終わる。
ならば――どうして、叶海は今も雪嗣に惹かれているのか?
雪嗣を見ると、胸がじんと熱くなる。涙が零れそうになる。話したい、触れたい、見て欲しい、一緒にいたい。その感情は理屈じゃ説明つかなかった。彼を求める強い気持ちが溢れて、叫び出したくなるくらいだったから。
――私は、今の雪嗣のどこが好きなのだろう。
綺麗な顔? 優しい眼差し? 幼い頃の思い出? 彼が神様だったこと?
それ以外に価値を見いだすには、叶海は今の雪嗣のことをあまりにも知らない。
けれど、確実に彼に惹かれていることは事実だ。言うなれば一目惚れ。まるで磁石が対極に引かれるように、心が惹き付けられている。そんな奇妙な状態だった。
理由もなく相手に惹かれることは、叶海からすると少し不安なことだ。
なにせ、今の彼女が生きている大人の世界は、何事にも説明が求められ、曖昧ですまされることはそう多くない。
朝目覚めて、自分の心を確認する。ああ、今日も雪嗣が好きだ。
叶海はほうと息を漏らすと動き出した。
今日こそ雪嗣を好きな理由が見つかるだろうか。
この恋心に説明をつけられるだろうか。
私の初恋は成就するのだろうか。
……そんな風に思いながら。
桜色に彩られた季節があっという間に過ぎ去ると、徐々に強い日差しが大地を照らすようになる。つい先日までは若葉だったものが、一丁前の顔をして天を仰ぐようになると、龍沖村には青々とした夏らしい雰囲気が漂う。
そんな夏の日の朝、あるものを受け取った叶海は、軽やかに祖母宅を出発した。
「叶海! 龍神様によろしくな~」
玄関まで見送りに出てくれた祖母が手を振っている。
「うん。朝早くからごめんね!」
叶海は笑顔で手を振り返すと、社へと続く道を急いだ。
朝の風が気持ちいい。茹だるような都会とは違って、ここの夏はとても爽やかで、いつもは耳障りなだけの蝉の声すら、心地よく思えるから不思議だ。
すると、朝から畑仕事に精を出していた総白髪の老人が声をかけてきた。
「叶海ちゃん、おはよう。どうだ、仕事は順調だべか?」
老人の名は沢村和則。龍沖村最年長で、村の顔役のようなことをしている。叶海のことも幼い頃からよく知っていて、当時から世話になっていた。
和則は十年ぶりに戻ってきた叶海のことが心配らしく、あれこれと気にかけてくれている。雪嗣の嫁になるため、長年住んでいた都会から越してきた叶海としては、ありがたいことだ。叶海は顔を綻ばせると大きく頷いた。
「じっちゃん、おはよう! こないだはありがとう。おかげさまで仕事は順調だよ!」
和則は、叶海の仕事にどうしても必要なものを手配してくれた。
それはアトリエだ。空き家を一軒、格安で貸し出してくれ、更には絵を描くのに快適に過ごせるように色々と取り計らってくれたのだ。
「まさか、叶海ちゃんが画家になってるとはなあ。オラ、びっくりしただよ」
「フフフ、ありがと! この村はすごく綺麗だから、描き甲斐があるよ」
「そりゃあいい。今度、オラのことも描いてけろ」
「わかった。楽しみにしてて」
叶海は駆け出しの絵描きだ。
芸大卒業後、叶海は先輩が経営するアトリエで働きながら創作活動を続けていた。
二年前、大きなコンクールで賞を獲ってからは、個展を開く機会にも恵まれ、徐々に知名度を上げてきている。しかし、ここ最近は煮詰まっていて、どうにも筆が乗らなかったのだ。
ある程度の貯蓄もあったし、新しい刺激も欲しかった。アトリエを辞めて新たな創作活動の場を探していた矢先に、雪嗣への恋心が再燃してしまったのだ。
渡りに船とはまさにこのことである。高齢独居の祖母の様子も気になっていたし、叶海は嬉々として龍沖村へ移り住んだ。事実、自然豊富な龍沖村は、風景画を得意とする叶海にとってモチーフの宝庫と言えた。
今は、次のコンクールに向けて精力的に創作している。
調子に乗った叶海がピースすると、和則は豪快に笑った。
「アッハッハ。叶海の描く絵が有名になりゃ、この村も、もっと賑わうべかなあ? 頼んだぞ、叶海。期待しとる。それに――」
和則は日に焼けたシワシワの顔に、まるで大黒様みたいな笑みを浮かべた。
「龍神様もずっとおひとりじゃ寂しいべな。叶海がいたら、賑やかでいい」
そう言って、いくつか叶海に野菜を持たせる。大きなきゅうり。真っ赤に熟れたトマト。慎ましやかなドレスを纏ったとうもろこし。夏の恵みたちからは、太陽の匂いがする。どうやら雪嗣へ持っていけということらしい。叶海はお礼を言うと、大きく手を振ってまた走り出した。
目指すは、村を見下ろす山の上に建つ神社だ。
龍沖村の村民にとって、龍神の存在は秘密でもなんでもない。
雪嗣は神でありながら、同時に仲間でもあった。村民は誰もが雪嗣を親しい友人や、もしくは家族の一員のように思っていたし、雪嗣もそう思っている。
ただし成人前の子どもや、龍沖村へ永住する気のない相手には秘密にしていた。神である雪嗣と共に生きるために、長年懸けて作り上げた村の掟のためだ。
だからこそ、幼いままこの村を離れることになった叶海は、雪嗣が龍神であると知らずにいた。村で生きると決めた叶海に、村の年寄りたちはようやく雪嗣のことを打ち明けてくれたのだ。