――そして、今に至る。

「なるほどねぇ。そりゃあ悔しくて泣きたくなるわけだ。店長からしたら、アルバイトに仕事を奪われるとでも思ったんじゃない?」

 一通り説明を終えると、ヒロさんが自分用のグラスにジンジャーエールを注いぎながら小さく笑った。

「……仕事中に女の子をナンパしている店長なんだから、仕事取られたって自業自得でしょ」
「ありゃ、店長さんそんなことしてるの? ……でも所詮その程度だったんだよ、その店は。辞められてよかったって思っておけばいい」
「私まだ了承してませんから! そりゃあ、こんな扱いされるのは……でもおおお!」

 会社に店長のことを話しても取り合ってくれないのは目に見えている。だからこそ退職は良い方向かもしれないが、店長の私情でクビにされるのはいくら何でも納得できない。

 そして何よりアルバイト仲間で、しかも先輩から「働きたくない」と言われていたのが一番ショックだ。
 元々コーヒーを中心に取り扱っている店だったため、コーヒー初心者である私には教わることが多多かった。練習や注文の入った時には、本来提供すべき味に淹れられたか、先輩が必ず味をチェックして的確な助言してくれた。ラテアートの練習にはとことん付き合ってくれて、仲間内でラテアート対決をして競い合うこともした。一つ聞くと十個返ってくる、頼れるアルバイト仲間。――だと思っていたのに。

「先輩に無理させてたと思うと……他の人もそうだったのかなぁ……」
「それはわからないけど、でもその店長に対して皆が不信感を抱いてたんでしょ? 相談なんてするのかな?」
「それは……まぁ、信じてないけど、でも先輩は苛立っている時の私を宥めてくれたし、面倒臭い奴だって思っていても在り得なくはない話ではない……かも」

 ああ、思い出すだけでイライラする。
 アルコールがほとんど飛んでいるうえ、まだ一口しか飲んでいないというのに、空腹の状態で酒が体内に入ったせいか、酔いが回っていて愚痴と溜息しか出てこない。

「――やあやあ! こんばんは、やってるかい?」

 陽気な声を共に、からんころんと下駄を鳴らして男性が入ってくる。
 緩くパーマのかかった茶髪に洒落た丸眼鏡、濃紺色の作務衣姿といった風変わりな男性は、迷わず私の隣に座ってカウンター越しのヒロさんに声をかけた。
 その隣には一緒に入ってきた黒髪の青年が静かに座った。白シャツの上に青いカーディガンを羽織り、黒のチノパンにスニーカーというシンプルな服装がとても良く似合っている。
「ああ、本谷(ほんや)さんときーくんじゃないか。いらっしゃい、相変わらず元気だね」
「いつでもボクは絶好調さ! ……ん? 初めてましての子かい?」
「いや、えっと……」
「あーそっか。この時間帯に久野ちゃんが来ること自体、珍しいもんね。大和田(おおわだ)さーん、本谷さんのビール持ってきてー」

 ヒロさんが少し離れたカウンターで常連さんと話していた大和田さんを呼ぶ。まだ寒い季節であるにも関わらず半袖を肩まで捲り上げ、程よく筋肉の付いた二の腕を露わにしており、お堅い顔つきではあるものの、話してみると虫が殺せない、趣味が動物園巡りと、見た目とのギャップに可愛らしさを覚えた。

 大和田さんは近くの冷蔵庫からクラフトビールを取り出すと、栓を外して直接本谷さんと呼ばれた男性に渡した。
 本谷さんは受け取ってすぐ、喉仏を大きく動かして豪快にビールを煽ると、生き返ったように声を上げた。

「プハーッ! 相変わらずこのビールは最高だね! 大和田さん、ボクの為に取ってくれてありがとう!」
「本谷さんだけが飲むわけじゃねえからな? ……まぁ、ほとんどアンタが消費しているんだけど」
「まぁいいじゃない。良い値段で交渉してくれてるのは、大和田さんのおかげだし。きーくんは何にする? ……って久野ちゃん、大丈夫?」

 ヒロさんが笑いながら声をかけてくれる。若干引きかかっていたので、正直に首を縦に振った。

「正直でよろしい。大丈夫、そんな悪い人じゃないよ。この商店街の隅っこに古本屋さんがあるのは知っている?」
「古本屋って、時々雑誌や単行本を道端に広げて町内会の偉い人に怒られてる……」
「おっと……心外だな。あれはね、古本に興味を持ってもらうために広げているんだよ。人間、気になったものがあったら足を止めるだろう? その心理を利用してお客さんを店へ引き込もうっていう戦略なのさ!」

 顔には出ていないけど勢いは既に酔っているのか、頬を緩めた本谷さんは一気に距離を詰めてくる。私は思わず後ろに身を引くと、隣に座った青年――ヒロさんは「きーくん」と呼んでいた――が本谷さんの作務衣の首元を掴んで戻してくれた。

「その古本屋――山田書店はね、商店街ができる前からずっとあるお店の一つで、今はモトタニさんが切り盛りしているんだよ」
「もとたに?」
「本谷さんの本当の苗字。本の谷って書いて『もとたに』さん。でも皆、『ほんや』さんって呼んでいるんだよ。実際に古本屋さんだしね」
「素敵な愛称をいただけて大満足さ!」
「昔からある店は……総菜屋さんと本谷さんのところくらいか。一人ですごいよね」
「いやいや、ボクだけじゃなくて、きーくんもいるからすごく助かっているんだよ。なかなかの毒舌だけど、愛のあるムチをくれるんだ。お客さんが来なくて暇だーってぼやいていると、なぜかボクの頭の上に管理票のファイルを乗せてくるんだよ。最近流行りのツンデレかなーかわいいよねぇ」
「へ、へぇ……」

 顔と恰好に似合わない話の内容にどんな相槌を打てばいい?
 飲みやすい温度になったティーロワイヤルを片手に適当に話を聞いていると、ヒロさんが楽しそうに笑う。

「久野ちゃんは早い時間帯に来るから、本谷さんみたいな人は珍しいでしょ? 話す内容はおかしいけど、悪い人じゃないから安心して。変人だけど」
「いやだなぁ、ヒロさん。ボクは目の前で見たもののをそのまま伝えているんだよ? 法螺話を振り撒いているわけじゃないんだから、少しは信用してくれたっていいじゃないか」
「信じていないわけじゃないよ。ただ、ちょっと大袈裟すぎてネタにしか聞こえないって話」
「そうだそうだー!」
「本谷さん、いつも酒の肴をありがとうよ!」

 店の奥で飲んでいた他の客も口々に笑う。私が知らないだけで、本谷さんはこの店の常連さんらしい。
 普段なら気まぐれに、しかも早い時間帯にしか来ない私にしてみれば、今夜の雰囲気はかなり新鮮だ。

「それで本谷さん、今日の肴はなんだい?」
「そうだねぇ……。ああ、そういえば――」

 本谷さんが軽く咳払いをすると、奥で話していた客もヒロさんもグラスを片手にじっと彼の話を聞き入った。