事の発端は数時間前まで遡る。
 私――久野(くの)芽衣(めい)は、家から片道一時間かかるカフェでアルバイトとして働いている。
 最初は社員として面接に臨んだものの、業務内容が事務ばかりだと話を聞いて、お客様と接する機会が多いアルバイトとして入社を決めた。

 元々調理学校に進学して調理師免許も取得しており、最近まで飲食店の厨房で新卒社員として働いていたこともあって、食事のメニューはすぐ覚えられた。
 しかし、ドリンク――主にコーヒーに力を入れている店は初めてだったこともあり、一杯ずつ丁寧に淹れたり、カフェラテに絵を描くラテアートといった技術面は乏しいものだった。それでも先輩が親身になって教えてくれたおかげで、一年間かけてようやく形になってきたところだ。

 今日も仕事を終えて事務所に戻ると、店長から話があると声がかかった。
 わざとらしく困った笑みを浮かべた店長は、開口一番に「来月末で切れる契約を更新しない。退職してくれ」と前置きもなしに言い放った。

「久野さんね、今までデザートのレシピ提案や作成、食材の衛生管理とかよくやってくれたんだけど、最近仕事を怠けているのが目に付くんだよね。
 仕事だって理解しているかな? 接客業なんだから、ちゃんと接客してもらわないと困るんだよ。俺は無関心で仕事してるから、そんな余計なことを考えていないよ? 常に店のことを考えてる。休みもないくらいにね。
 これは店長である俺が決めたよ。もう本部には話が上がっているんだ。
 結構前から『久野さんと仕事するの嫌だ』って、原田(はらだ)さんや奥山(おくやま)さんから相談されていたんだ。管理がなっていないことで犯人捜しするような、スタッフ間の空気が悪くなっていることに気付いてる?
 これ以上久野さんがいると、新人が入ってきたときに悪影響だ。社員が提示した決まりやメニューが作れないなら、いられても困る。
 だから来月末で辞めてもらう。
 いつ言おうかずっと前から考えていたんだ。久野さん一人暮らしでしょ? 生活のことを考えると、今辞めたら大変だよなってずっと悩んでた。でも新しいバイトが決まったって聞いて、本当に良かったって思った。すごく安心した。本当に、本当に良かった。
 だから今度は新しく始めた仕事を優先して欲しい。
 そうそう、有給休暇が十日間くらい残っているんだけどどうする? 今月残りの出勤日に使ってもいいし、来月全部使って終了っていうのもできるから、そこは久野さんにお任せするよ。ってことで宜しくね。お疲れ様でした」
「……は?」

 私が口を挟む暇など与えず、唐突なクビ宣告を告げた店長は満足そうな笑みを浮かべる。
 自分が何を言っているかわかっているのだろうか、と顔を歪める私に、店長は更に自分が店のクオリティを大事に考えているだの、会社から自分のおかげで店が良くなったと褒められただのと、流暢に延々と語る。そしてひとしきり話し終えると、満足そうに事務所から出て行った。

 大してまともな接客をしていない社員が何を言っているんだ?
 店長が楽しそうに話している間、この店に入ってきた頃から今日まで、店長が営業中にしてきたことを思い出す。
 しかし、どうしても事務的な接客が多く、会社の人が来ても周りのことを考えずに作業することが多いイメージしか浮かんでこない。営業中にフォローに入ることなどほとんどないうえ、試作だとか言って作業台を荒らして、片付けることなく事務所へ戻っていく。
 たまにレジのポジションに入ってきたかと思えば、「ハーブティーはありますか?」と聞いてきたお客様へ「アールグレイはハーブティーです」と真顔で断言する場面を見たときは冷や汗が止まらなかった。
 使用している中身が茶葉またはハーブの違いだが、メニュー表の紅茶の欄に「アールグレイ」と表記されていれば、さほど詳しくなくても大抵の人が紅茶であると判断するだろう。
 丁度その注文をされたお客様は女性で、カフェインが苦手で温かい飲み物が欲しいという要望だったが、店長は別のドリンクを勧めることはおろか、無理やり押し通した。
 その後、すぐ店長が事務所に戻ったのを見計らって、アルバイトがこっそりハーブティーと交換したうえ、お詫びのクッキーを渡したのは内緒の話だ。

 比較的お客様がいない時は、併設のショップで対応しているスタッフと世間話をしているくらいだ。
 そもそも店が良くなったと言われるようになったのは、アルバイトとして入った先輩達が仕事を投げて責任転嫁する店長からの扱いに黙って耐え続け、頑張ってきてくれたからだ。
 生憎社員が店長のみといった環境下でできることは限られているものの、店長が投げてそのまま責任を押し付けるといったものは日常茶飯事だった。

 特に軽食メニューのレシピに関しては、前任の店長がやけに高級感とこだわりを出すプロ気質の持ち主で、退職前に残された決定済みの季節限定メニューは作るのに困難なものばかりだった。
 そこで以前からレシピをまとめたり、デザートの作成に携わってきた私にまわってきたのだが、進捗を確認することなく、指定された内容でレシピがまとまってきた途端に大幅な変更を言いつけてきたことがある。
 結局、試作段階で社員が手を出すことなく、指定された時期に無事完成したものの、特に自分の意見も言わず「はい、これで大丈夫ですね」と一言だけ言って、決定版として会社にあげてしまった。
 それでも不服そうな顔をしながら渋々作業しているのを何度か見たことがある。知らない間に勝手にレシピ書き換えることもしてたから、自分の思い通りにしないと気が済まないんだと思った。

 レシピの作成に関してはドリンクまでアルバイト任せなのは暗黙の了解になっていた。様々な飲食店を渡り歩いていても、コーヒースタンドや豆の焙煎所を経験してきた人の方が、知識も技術も優れているからだと、誰かが言っていたっけ。
 ろくに接客もしない、試作に関わらない。それでも会社からの評価は言うまでもなく「店長、よく頑張ってくれました!」と一言だけだ。

 衛生面でも同じことが起こっている。
 店内や事務所の掃除をしている割には軽く拭いた程度で終わりにすることが多く、店長が見ていないところでアルバイトが拭き直している。更に何に使うのかわからない不要な機材や箱ばかりを持ち込むせいで、事務所の掃除がほとんどできなかった。
 中でも一番驚いたのは、店長が個人で持ち込んだ数十種類ある酒瓶が置いてある棚の掃除を、アルバイトに指示した時だ。
 持ち主である店長の指示が無い状態で、どう処理すればいいのか迷ったアルバイトは、ひとまず全部退かして棚の拭き掃除をして元の位置へ戻した。その翌日、店長が「なんで酒瓶の棚が掃除されてないの? いるかいらないかなんて自分で考えろ!」と店のカウンター内で怒鳴り散らして事務所に戻ってしまった。
 あの時の後のアルバイト全員が浮かべた呆れ顔は今でも忘れられない。いい大人なら自分の持ち物くらい自分で片付けてくれと何度思ったことだろう。
 別のアルバイトが様子を伺いながら店長に聞いて掃除をして事を得たが、結局は店長が分別してもらわないと片付けられなかったという。

 またある時は、トイレ用と書かれたアルコールスプレーを、さも当然のように食材を扱う作業台の上に置いて、どこかに行ってしまったこともあった。お客様から見える位置で、これは流石に在り得ない。
 他にも食材の使用可能の基準になる賞味期限やアレルギー成分表一覧の作成も、アルバイトが問わなければ今も作られていなかっただろう。

 入ってきた当初はこんなに酷い仕事の振り方はしなかった店長に、アルバイトが直接話すことが何度もあった。それでも一向に変わらない店長の独裁国家政権に、呆れて話すことさえ疲れてしまったのだ。
 特に私は感情的になりやすく、苛立ちが顔に出やすい。先輩に「落ち着け」と何度宥められたことか。

 そしてつい先日、貸し切りのパーティーで店長が賞味期限切れの食材を使ってお客様に提供したことが発覚した。これ以上同じことを起こしてしまったら、店の営業に関わってしまう。そう思った私は、店長に「社員として、責任者としてしっかりしてほしい」と一方的に怒鳴りつけてしまった。
 その間、店長はこちらに顔を向けることなく、面倒臭そうな顔をして話を聞いているかのようにパソコンのキーボードを叩いていた。人の話を聞かない態度は、まるで不貞腐れた子供そのもので、私は言いたいことだけ言ってその場を後にした。