ビルの灯りが目立つ三月初めの夜八時。電車は帰宅ラッシュでほぼ満員だった。
私は周囲の目などお構いなしに、目元を袖で拭って詰まった鼻をすすりながら、最寄り駅に着いた電車から流れにまかせて降りる。辛うじて取り出した交通系ICカードをかざして改札の外に出ると、街灯の明かりに導かれて大通りを歩いて商店街のアーチをくぐった。
人気が少なくなった商店街の大半の店がシャッターを下ろす中で、こじんまりとしたカジュアルバー「鈴々」に入った。
背負っていたリュックを足元に降ろすと、ぶっきらぼうにカクテルを一杯注文する。カウンターから顔の覗かせた店主――通称ヒロさんは珍しいと驚いて二度見してきた。
「久野ちゃん、酒弱かったよね? ……って、なんか目が真っ赤だけど……どうしたの?」
「……ちょーっとだけお酒が飲みたいんです」
不貞腐れたように答えると、ヒロさんは「しょうがないなぁ」と呟いて手際よく作ったティーロワイヤルを私の前に置いた。
透明の耐熱マグカップに淡いオレンジ色のホットティ―に小さな赤いバラが一輪浮かべられ、ほんのりとグランマニエの香りが漂う。気持ち熱めに作ってくれるのは、私が体質的にアルコールが弱いのを知っているからだ。
「ちょっと熱いだろうけど、久野ちゃんの軽く酔う程度なら丁度いいんじゃないかな」
「……ありがとうございます」
何度か表面を息を吹いて冷ましながら一口含む。アルコールの飛んだグランマニエの香りが広がって、ほんのり甘みがついたディンブラの紅茶が喉を通ると、無意識に小さな溜息が出た。
「落ち着いた?」
「はい……」
「それで、どうしたのさ?」
ヒロさんはカウンターから身を乗り出して心配そうに聞いてくる。
これ以上溜め込むべきじゃない。私は躊躇うことなく、はっきりとした口調で言った。
「今日、店長からクビを宣告されました」
事の発端は数時間前まで遡る。
私――久野芽衣は、家から片道一時間かかるカフェでアルバイトとして働いている。
最初は社員として面接に臨んだものの、業務内容が事務ばかりだと話を聞いて、お客様と接する機会が多いアルバイトとして入社を決めた。
元々調理学校に進学して調理師免許も取得しており、最近まで飲食店の厨房で新卒社員として働いていたこともあって、食事のメニューはすぐ覚えられた。
しかし、ドリンク――主にコーヒーに力を入れている店は初めてだったこともあり、一杯ずつ丁寧に淹れたり、カフェラテに絵を描くラテアートといった技術面は乏しいものだった。それでも先輩が親身になって教えてくれたおかげで、一年間かけてようやく形になってきたところだ。
今日も仕事を終えて事務所に戻ると、店長から話があると声がかかった。
わざとらしく困った笑みを浮かべた店長は、開口一番に「来月末で切れる契約を更新しない。退職してくれ」と前置きもなしに言い放った。
「久野さんね、今までデザートのレシピ提案や作成、食材の衛生管理とかよくやってくれたんだけど、最近仕事を怠けているのが目に付くんだよね。
仕事だって理解しているかな? 接客業なんだから、ちゃんと接客してもらわないと困るんだよ。俺は無関心で仕事してるから、そんな余計なことを考えていないよ? 常に店のことを考えてる。休みもないくらいにね。
これは店長である俺が決めたよ。もう本部には話が上がっているんだ。
結構前から『久野さんと仕事するの嫌だ』って、原田さんや奥山さんから相談されていたんだ。管理がなっていないことで犯人捜しするような、スタッフ間の空気が悪くなっていることに気付いてる?
これ以上久野さんがいると、新人が入ってきたときに悪影響だ。社員が提示した決まりやメニューが作れないなら、いられても困る。
だから来月末で辞めてもらう。
いつ言おうかずっと前から考えていたんだ。久野さん一人暮らしでしょ? 生活のことを考えると、今辞めたら大変だよなってずっと悩んでた。でも新しいバイトが決まったって聞いて、本当に良かったって思った。すごく安心した。本当に、本当に良かった。
だから今度は新しく始めた仕事を優先して欲しい。
そうそう、有給休暇が十日間くらい残っているんだけどどうする? 今月残りの出勤日に使ってもいいし、来月全部使って終了っていうのもできるから、そこは久野さんにお任せするよ。ってことで宜しくね。お疲れ様でした」
「……は?」
私が口を挟む暇など与えず、唐突なクビ宣告を告げた店長は満足そうな笑みを浮かべる。
自分が何を言っているかわかっているのだろうか、と顔を歪める私に、店長は更に自分が店のクオリティを大事に考えているだの、会社から自分のおかげで店が良くなったと褒められただのと、流暢に延々と語る。そしてひとしきり話し終えると、満足そうに事務所から出て行った。
大してまともな接客をしていない社員が何を言っているんだ?
店長が楽しそうに話している間、この店に入ってきた頃から今日まで、店長が営業中にしてきたことを思い出す。
しかし、どうしても事務的な接客が多く、会社の人が来ても周りのことを考えずに作業することが多いイメージしか浮かんでこない。営業中にフォローに入ることなどほとんどないうえ、試作だとか言って作業台を荒らして、片付けることなく事務所へ戻っていく。
たまにレジのポジションに入ってきたかと思えば、「ハーブティーはありますか?」と聞いてきたお客様へ「アールグレイはハーブティーです」と真顔で断言する場面を見たときは冷や汗が止まらなかった。
使用している中身が茶葉またはハーブの違いだが、メニュー表の紅茶の欄に「アールグレイ」と表記されていれば、さほど詳しくなくても大抵の人が紅茶であると判断するだろう。
丁度その注文をされたお客様は女性で、カフェインが苦手で温かい飲み物が欲しいという要望だったが、店長は別のドリンクを勧めることはおろか、無理やり押し通した。
その後、すぐ店長が事務所に戻ったのを見計らって、アルバイトがこっそりハーブティーと交換したうえ、お詫びのクッキーを渡したのは内緒の話だ。
比較的お客様がいない時は、併設のショップで対応しているスタッフと世間話をしているくらいだ。
そもそも店が良くなったと言われるようになったのは、アルバイトとして入った先輩達が仕事を投げて責任転嫁する店長からの扱いに黙って耐え続け、頑張ってきてくれたからだ。
生憎社員が店長のみといった環境下でできることは限られているものの、店長が投げてそのまま責任を押し付けるといったものは日常茶飯事だった。
特に軽食メニューのレシピに関しては、前任の店長がやけに高級感とこだわりを出すプロ気質の持ち主で、退職前に残された決定済みの季節限定メニューは作るのに困難なものばかりだった。
そこで以前からレシピをまとめたり、デザートの作成に携わってきた私にまわってきたのだが、進捗を確認することなく、指定された内容でレシピがまとまってきた途端に大幅な変更を言いつけてきたことがある。
結局、試作段階で社員が手を出すことなく、指定された時期に無事完成したものの、特に自分の意見も言わず「はい、これで大丈夫ですね」と一言だけ言って、決定版として会社にあげてしまった。
それでも不服そうな顔をしながら渋々作業しているのを何度か見たことがある。知らない間に勝手にレシピ書き換えることもしてたから、自分の思い通りにしないと気が済まないんだと思った。
レシピの作成に関してはドリンクまでアルバイト任せなのは暗黙の了解になっていた。様々な飲食店を渡り歩いていても、コーヒースタンドや豆の焙煎所を経験してきた人の方が、知識も技術も優れているからだと、誰かが言っていたっけ。
ろくに接客もしない、試作に関わらない。それでも会社からの評価は言うまでもなく「店長、よく頑張ってくれました!」と一言だけだ。
衛生面でも同じことが起こっている。
店内や事務所の掃除をしている割には軽く拭いた程度で終わりにすることが多く、店長が見ていないところでアルバイトが拭き直している。更に何に使うのかわからない不要な機材や箱ばかりを持ち込むせいで、事務所の掃除がほとんどできなかった。
中でも一番驚いたのは、店長が個人で持ち込んだ数十種類ある酒瓶が置いてある棚の掃除を、アルバイトに指示した時だ。
持ち主である店長の指示が無い状態で、どう処理すればいいのか迷ったアルバイトは、ひとまず全部退かして棚の拭き掃除をして元の位置へ戻した。その翌日、店長が「なんで酒瓶の棚が掃除されてないの? いるかいらないかなんて自分で考えろ!」と店のカウンター内で怒鳴り散らして事務所に戻ってしまった。
あの時の後のアルバイト全員が浮かべた呆れ顔は今でも忘れられない。いい大人なら自分の持ち物くらい自分で片付けてくれと何度思ったことだろう。
別のアルバイトが様子を伺いながら店長に聞いて掃除をして事を得たが、結局は店長が分別してもらわないと片付けられなかったという。
またある時は、トイレ用と書かれたアルコールスプレーを、さも当然のように食材を扱う作業台の上に置いて、どこかに行ってしまったこともあった。お客様から見える位置で、これは流石に在り得ない。
他にも食材の使用可能の基準になる賞味期限やアレルギー成分表一覧の作成も、アルバイトが問わなければ今も作られていなかっただろう。
入ってきた当初はこんなに酷い仕事の振り方はしなかった店長に、アルバイトが直接話すことが何度もあった。それでも一向に変わらない店長の独裁国家政権に、呆れて話すことさえ疲れてしまったのだ。
特に私は感情的になりやすく、苛立ちが顔に出やすい。先輩に「落ち着け」と何度宥められたことか。
そしてつい先日、貸し切りのパーティーで店長が賞味期限切れの食材を使ってお客様に提供したことが発覚した。これ以上同じことを起こしてしまったら、店の営業に関わってしまう。そう思った私は、店長に「社員として、責任者としてしっかりしてほしい」と一方的に怒鳴りつけてしまった。
その間、店長はこちらに顔を向けることなく、面倒臭そうな顔をして話を聞いているかのようにパソコンのキーボードを叩いていた。人の話を聞かない態度は、まるで不貞腐れた子供そのもので、私は言いたいことだけ言ってその場を後にした。
――そして、今に至る。
「なるほどねぇ。そりゃあ悔しくて泣きたくなるわけだ。店長からしたら、アルバイトに仕事を奪われるとでも思ったんじゃない?」
一通り説明を終えると、ヒロさんが自分用のグラスにジンジャーエールを注いぎながら小さく笑った。
「……仕事中に女の子をナンパしている店長なんだから、仕事取られたって自業自得でしょ」
「ありゃ、店長さんそんなことしてるの? ……でも所詮その程度だったんだよ、その店は。辞められてよかったって思っておけばいい」
「私まだ了承してませんから! そりゃあ、こんな扱いされるのは……でもおおお!」
会社に店長のことを話しても取り合ってくれないのは目に見えている。だからこそ退職は良い方向かもしれないが、店長の私情でクビにされるのはいくら何でも納得できない。
そして何よりアルバイト仲間で、しかも先輩から「働きたくない」と言われていたのが一番ショックだ。
元々コーヒーを中心に取り扱っている店だったため、コーヒー初心者である私には教わることが多多かった。練習や注文の入った時には、本来提供すべき味に淹れられたか、先輩が必ず味をチェックして的確な助言してくれた。ラテアートの練習にはとことん付き合ってくれて、仲間内でラテアート対決をして競い合うこともした。一つ聞くと十個返ってくる、頼れるアルバイト仲間。――だと思っていたのに。
「先輩に無理させてたと思うと……他の人もそうだったのかなぁ……」
「それはわからないけど、でもその店長に対して皆が不信感を抱いてたんでしょ? 相談なんてするのかな?」
「それは……まぁ、信じてないけど、でも先輩は苛立っている時の私を宥めてくれたし、面倒臭い奴だって思っていても在り得なくはない話ではない……かも」
ああ、思い出すだけでイライラする。
アルコールがほとんど飛んでいるうえ、まだ一口しか飲んでいないというのに、空腹の状態で酒が体内に入ったせいか、酔いが回っていて愚痴と溜息しか出てこない。
「――やあやあ! こんばんは、やってるかい?」
陽気な声を共に、からんころんと下駄を鳴らして男性が入ってくる。
緩くパーマのかかった茶髪に洒落た丸眼鏡、濃紺色の作務衣姿といった風変わりな男性は、迷わず私の隣に座ってカウンター越しのヒロさんに声をかけた。
その隣には一緒に入ってきた黒髪の青年が静かに座った。白シャツの上に青いカーディガンを羽織り、黒のチノパンにスニーカーというシンプルな服装がとても良く似合っている。
「ああ、本谷さんときーくんじゃないか。いらっしゃい、相変わらず元気だね」
「いつでもボクは絶好調さ! ……ん? 初めてましての子かい?」
「いや、えっと……」
「あーそっか。この時間帯に久野ちゃんが来ること自体、珍しいもんね。大和田さーん、本谷さんのビール持ってきてー」
ヒロさんが少し離れたカウンターで常連さんと話していた大和田さんを呼ぶ。まだ寒い季節であるにも関わらず半袖を肩まで捲り上げ、程よく筋肉の付いた二の腕を露わにしており、お堅い顔つきではあるものの、話してみると虫が殺せない、趣味が動物園巡りと、見た目とのギャップに可愛らしさを覚えた。
大和田さんは近くの冷蔵庫からクラフトビールを取り出すと、栓を外して直接本谷さんと呼ばれた男性に渡した。
本谷さんは受け取ってすぐ、喉仏を大きく動かして豪快にビールを煽ると、生き返ったように声を上げた。
「プハーッ! 相変わらずこのビールは最高だね! 大和田さん、ボクの為に取ってくれてありがとう!」
「本谷さんだけが飲むわけじゃねえからな? ……まぁ、ほとんどアンタが消費しているんだけど」
「まぁいいじゃない。良い値段で交渉してくれてるのは、大和田さんのおかげだし。きーくんは何にする? ……って久野ちゃん、大丈夫?」
ヒロさんが笑いながら声をかけてくれる。若干引きかかっていたので、正直に首を縦に振った。
「正直でよろしい。大丈夫、そんな悪い人じゃないよ。この商店街の隅っこに古本屋さんがあるのは知っている?」
「古本屋って、時々雑誌や単行本を道端に広げて町内会の偉い人に怒られてる……」
「おっと……心外だな。あれはね、古本に興味を持ってもらうために広げているんだよ。人間、気になったものがあったら足を止めるだろう? その心理を利用してお客さんを店へ引き込もうっていう戦略なのさ!」
顔には出ていないけど勢いは既に酔っているのか、頬を緩めた本谷さんは一気に距離を詰めてくる。私は思わず後ろに身を引くと、隣に座った青年――ヒロさんは「きーくん」と呼んでいた――が本谷さんの作務衣の首元を掴んで戻してくれた。
「その古本屋――山田書店はね、商店街ができる前からずっとあるお店の一つで、今はモトタニさんが切り盛りしているんだよ」
「もとたに?」
「本谷さんの本当の苗字。本の谷って書いて『もとたに』さん。でも皆、『ほんや』さんって呼んでいるんだよ。実際に古本屋さんだしね」
「素敵な愛称をいただけて大満足さ!」
「昔からある店は……総菜屋さんと本谷さんのところくらいか。一人ですごいよね」
「いやいや、ボクだけじゃなくて、きーくんもいるからすごく助かっているんだよ。なかなかの毒舌だけど、愛のあるムチをくれるんだ。お客さんが来なくて暇だーってぼやいていると、なぜかボクの頭の上に管理票のファイルを乗せてくるんだよ。最近流行りのツンデレかなーかわいいよねぇ」
「へ、へぇ……」
顔と恰好に似合わない話の内容にどんな相槌を打てばいい?
飲みやすい温度になったティーロワイヤルを片手に適当に話を聞いていると、ヒロさんが楽しそうに笑う。
「久野ちゃんは早い時間帯に来るから、本谷さんみたいな人は珍しいでしょ? 話す内容はおかしいけど、悪い人じゃないから安心して。変人だけど」
「いやだなぁ、ヒロさん。ボクは目の前で見たもののをそのまま伝えているんだよ? 法螺話を振り撒いているわけじゃないんだから、少しは信用してくれたっていいじゃないか」
「信じていないわけじゃないよ。ただ、ちょっと大袈裟すぎてネタにしか聞こえないって話」
「そうだそうだー!」
「本谷さん、いつも酒の肴をありがとうよ!」
店の奥で飲んでいた他の客も口々に笑う。私が知らないだけで、本谷さんはこの店の常連さんらしい。
普段なら気まぐれに、しかも早い時間帯にしか来ない私にしてみれば、今夜の雰囲気はかなり新鮮だ。
「それで本谷さん、今日の肴はなんだい?」
「そうだねぇ……。ああ、そういえば――」
本谷さんが軽く咳払いをすると、奥で話していた客もヒロさんもグラスを片手にじっと彼の話を聞き入った。
*
――これはウチの古本屋に置いてあった本の話なんだけどさ。
本、といっても最近の文庫本や単行本といった、綺麗に装丁されたモンじゃあない。ボロボロの紙で所々煤で汚れて読めない、落書きを詰め合わせた和装本さ。
辛うじて読めた表紙には、『滑瓢』……つまり、ぬらりひょんって書いてあったんだ。
ちなみにぬらりひょんって知ってる?
悪いことはしないが、夕方になると何処からともなくやってきて、人の家に上がりこむんだ。皆が忙しくしている中で、呑気にお茶をすすっている妖怪でね。そしてまた来た時と同じように、ぬらりくらりとどこかへ行ってしまうんだって。
そんな気分屋の妖怪の名前がどうしてその和装本に書かれていたのか、ボクにもわからなくてねぇ。
なんだか気味が悪かったから、間違って売らないように店の奥にある書庫に置いたんだ。
その後は店番をしていたけど、どうしてもあの和装本が気になって仕事が手につかなくて、閉店したあとすぐ書庫に戻った。
するとそこには、確かに置いたはずの和装本が無くなっていたんだ。
ボクは思わず声を上げて驚いてしまったよ。
困ったもんだよ。店に出入りしていたのは店主であるボクだけだったからね。
焦ったボクは、知り合いの妖怪マニアに電話したんだ。それによると、ぬらりひょんは【妖怪の総大将】って呼ばれていたんだって。
なんでも、珍しく几帳面なぬらりひょんが遥か昔にいたんだって。彼は配下にある妖怪たちの名前を和装本に書き込んで、懐に隠し持っていたらしいんだ。
……ボクは思うんだ。
あれは、ぬらりひょんが書庫にあったあの和装本を取り戻しにきたんじゃないかって。
だって【彼】はいつ間にかその場にいて、いつの間にか消えている。
……そんな存在だからさ。
――まぁ、実際は部屋の奥の窓が空いていて、入ってきた野良猫がツメを研いで更にボロボロにしていたんだけどね。
*
盛大に滑ったオチがつくと、店内は本谷さんを茶化す笑い声に包まれ、そのまま酒を煽って世間話へと戻っていく。今の話を彼らがどう捉えたのかはわからないけど、少なくとも私には内容は全く入ってこなかった。
ふとスマートフォンの画面に目を向けると、表示された時間は既に二十三時を越えようとしていた。
飲みかけのティーロワイヤルを一気に煽って、ヒロさんにお会計の声をかける。
「久野ちゃん、いつまであの店続けるの?」
「どうしようかな……とりあえず明日も入っているから相談してみようとは思います」
「んん? 何かあったのかい?」
隣の席だから聞こえたのか、お節介のように本谷さんが割り込んでくる。働いている店でクビを宣告されたと簡単に答えると、本谷さんは少し考え込んで口を開いた。
「お嬢さんはどうしてその店を続けたいんだい?」
「え?」
「だってクビを宣告された割には、落ち込んでいるようにはあまり感じられない。自分にも悪い部分があったと認識していて、なおかつ正当な理由での解雇でないことに腹を立てている。お嬢さんが店に残りたいと思う理由はどこにあるんだい? 初めましてのボクが言うのもどうかと思うけど、お嬢さんの軸と店のコンセプトが噛み合っていないように見受けられる。お嬢さんが無理に合わせに行くよりも、抜け出した方がお互いの為になるんじゃないかな」
「残りたい、理由……」
言われてみれば確かにそうだ。
店のゆったりとした空間が心地よくて、働いているスタッフ同士でいろんな知識や技術を共有できる環境が好きだった。今の店長が来てからあまり共有することも少なくなったけど、社員がシフトに入っていないときはいろんな豆の飲み比べをしたり、ラテアートの練習をしていた。
消費する牛乳や練習用のコーヒー豆は経費として落ちているものの、他の店では絶対に経費削減のために自己負担とされる部分を、この店では社員が都合をつけてくれている。
他の店ではできないことができる――その環境があるからこそあの店で働いていたい、残りたいとは思う。
それでも最低限の衛生面や飲食店としてのルールは曖昧のまま線引きされてはいけないものであって、立場が違えど同じ店で働く人間として、指摘することのどこが間違っていたのだろうか。
「まぁ、所詮アルバイトって使い捨てみたいなところがあるからね。有休だけしっかり貰って、次の新しいところ探してみなよ。掛け持ちの方に専念するのいいと思うし。……って、久野ちゃん大丈夫?」
ヒロさんの言葉で引き戻される。こんなところで考え込んでいても仕方がない。
「は、はい。すみません。ごちそうさまでした」
「はいはーい。おやすみなさーい」
床に置いた荷物を持って外に出ようとすると、「お嬢さん」と本谷さんから呼ばれて振り返る。
「気を付けなさい。考えすぎるのは誘惑の始まりさ。――特にキミみたいな子が夜にうろついていると、【良くないもの】に目をつけられちゃうからね」
――と。
酔っ払いで賑わうこの空間だけが、時間の流れが止まったかと錯覚する程の静寂に包まれたかと思えば、打って変わった冷めた声色で話す本谷さんに、思わず息を呑んだ。
「それって、どういう……」
「ヒロさん、ボクにお代わり頂戴!」
詳しく聞こうとすると、本谷さんは私の声を遮るようにヒロさんに注文を投げながら店の奥にいる常連さんに紛れていった。
僅か数十秒の時間でがらりと変わった本谷さんは幻だったのかもしれない。問い詰めるのは無駄だと察した私は、ヒロさんに小さく会釈をしてバーを出た。
しっかりとした足取りで家路につくも、程よくアルコールが回っているのがわかる。頭痛や吐き気は今のところ感じられないものの、ぼんやりとした思考でこれからについて考えていた。
一人暮らしである以上、掛け持ちで働いているアルバイトだけでは厳しい。何よりこのご時世で、すぐに雇ってくれる会社が果たしていくつあるだろうか。
はたまた、ろくに学もなく約五年間ほど調理の勉強だけしてきた私に、飲食以外で働くことができるのか。
あの店で同じことができる店を見つけたとして、私はそこで何をしたいのだろう。例えばコーヒーの焙煎度合いによって淹れ方が変わることを勉強するとか、はたまた、ラテアートを極めて大会に出場するとか。それとも、厨房に入って調理の技術を身につけるとか。
あの店で二年くらい働いていたけど、どれも中途半端に脱線してしまった気がする。そもそも、厨房にいるのがつまらなくて、人と接する機会が多い職場を探していたはずだ。
「私……何がしたかったんだっけ?」
人気のない大通りから離れた道で、不意に出てきた言葉に、鼻の奥がツンとして思わず鼻と口を掌で覆った。
ああ、考え出したら不安しか出てこない。
正直な話、店長と一緒に仕事はしたくないし、顔も見たくない。それでも有休を今後シフトにどう組み込むか相談しないといけないから、嫌でも話さなければならない。
弱気になっていては店長の思う壺だ。ダメ元でクビを取り消してもらえないか交渉してみよう。少しだけ前向きに考え始めたところで、住んでいるアパートまで来ていたことに気付いた。
鍵を開けてドアノブに手をかけようと手元を見ると、普段ならあまり入っていることのない郵便受けに大きいサイズの封筒がはみ出していた。
引っ張り出してから家の中に入って明るい場所で確認する。
宛先や差出人は書かれておらず、切手も伝票も貼っていない。雑誌が入りそうなサイズにしてはかなり空間が余っているようだった。
開いてみると、中には数センチの紙の束が入っていて、慎重に取り出して机の上に置く。
紺色の厚紙で挟まれ、片側を紐でくくって束ねている和装本らしきそれは、捲るとところどころ煤で汚れていた。表紙であろう面の中心には四角で囲まれた中に文字のようなものが書かれているが、水で滲んでしまったのか、読み取ることができない。パラパラとページをめくるも、全ての文字がぼやけていて到底読めるものではなかった。
「……誰かの悪戯?」
落書きにしか見えない紙の束を眺めながら、どこかで聞いたような話が過る。
どこだっけ?
「……まあ、いっか」
酔いの回った頭で考えたところで何も浮かばない。和装本をテーブルに置いて、一気に押し寄せ来た睡魔に負けた私は、お風呂にも入らずにそのままベッドへ倒れ込んだ。
眠気を引きずるように目を覚ました私は、枕元に投げ出したスマートフォンの画面を見て、いつもより早く起きたことに安堵した。
昨日の店長の話が頭から離れなくて眠れないのでは、とカクテルをほぼ強引に注文したのがよかったのか、おかげでいつも通りの睡眠時間を確保できたようだ。こればかりはアルコールへの耐性が弱い自分の体に感謝した。
それでも慣れない身体には負担がかかっているようで、若干の頭痛と吐き気が残っている。ベッドから這い出るのもやっとだった。
「……二日酔いの人ってこんな感じなのかな」
しくじったと思いつつ、大きな欠伸を繰り返しながら支度をして店へ向かった。
普段乗っている朝の電車は、休日だからか空席が目立っている。適当に空いている席に座って、イヤフォンジャックをつけたスマートフォンを操作した。
乗り換えも含めて片道一時間もかかる通勤も、好きな音楽さえあれば苦にならない。今日もお気に入りの曲を再生して顔を上げると、目の前にはくたびれたスーツ姿のサラリーマンが、鞄を抱えるようにして船を漕いでいた。
世間一般には休日なのに出勤だなんて、労働に気配りのない世の中だなと思っていると、サラリーマンの肩に何か黒い靄のようなものが見えた。
「…………?」
サラリーマンがかくん、と首を動かす度に、黒い靄が肩にのしかかっているように見えて、時々しかめっ面になっている。
これは起こした方がいい? それよりもあの人には黒い靄が見えるの?
一度服の袖で目を擦ってまたサラリーマンを見るが、肩はおろか、車両内を見回しても黒い靄は見当たらない。
そういえば前に「酒に酔っているか確認するのに手っ取り早い方法は、一つのコップをテーブルに置くこと」だと聞いたことがある。コップは一つしかないのに、酔っている人にはブレて複数あるように見えることがあるとか、ないとか。
……まさかここにきてまで昨日のお酒が残っているとか?
寝起きの頭痛と吐き気は、朝のシャワーと頭痛薬のおかげで大分抜けたはずだが、流石に簡単にアルコールを外へ出すのは難しいらしい。
見間違えだと言い聞かせて、流れてくる曲が変わると同時に目を閉じた。