眠気を引きずるように目を覚ました私は、枕元に投げ出したスマートフォンの画面を見て、いつもより早く起きたことに安堵した。
昨日の店長の話が頭から離れなくて眠れないのでは、とカクテルをほぼ強引に注文したのがよかったのか、おかげでいつも通りの睡眠時間を確保できたようだ。こればかりはアルコールへの耐性が弱い自分の体に感謝した。
それでも慣れない身体には負担がかかっているようで、若干の頭痛と吐き気が残っている。ベッドから這い出るのもやっとだった。
「……二日酔いの人ってこんな感じなのかな」
しくじったと思いつつ、大きな欠伸を繰り返しながら支度をして店へ向かった。
普段乗っている朝の電車は、休日だからか空席が目立っている。適当に空いている席に座って、イヤフォンジャックをつけたスマートフォンを操作した。
乗り換えも含めて片道一時間もかかる通勤も、好きな音楽さえあれば苦にならない。今日もお気に入りの曲を再生して顔を上げると、目の前にはくたびれたスーツ姿のサラリーマンが、鞄を抱えるようにして船を漕いでいた。
世間一般には休日なのに出勤だなんて、労働に気配りのない世の中だなと思っていると、サラリーマンの肩に何か黒い靄のようなものが見えた。
「…………?」
サラリーマンがかくん、と首を動かす度に、黒い靄が肩にのしかかっているように見えて、時々しかめっ面になっている。
これは起こした方がいい? それよりもあの人には黒い靄が見えるの?
一度服の袖で目を擦ってまたサラリーマンを見るが、肩はおろか、車両内を見回しても黒い靄は見当たらない。
そういえば前に「酒に酔っているか確認するのに手っ取り早い方法は、一つのコップをテーブルに置くこと」だと聞いたことがある。コップは一つしかないのに、酔っている人にはブレて複数あるように見えることがあるとか、ないとか。
……まさかここにきてまで昨日のお酒が残っているとか?
寝起きの頭痛と吐き気は、朝のシャワーと頭痛薬のおかげで大分抜けたはずだが、流石に簡単にアルコールを外へ出すのは難しいらしい。
見間違えだと言い聞かせて、流れてくる曲が変わると同時に目を閉じた。
*
私が働いているカフェは、有名メーカーの携帯用充電バッテリーを取り扱った専門店の奥に併設されている。
カフェとしての利用は勿論、バッテリーを購入した流れでカフェを利用するお客様も多い。
しかし、充電バッテリーという商品上、頻繁にお客様の出入りがあるわけではない。だからこそカフェがあるのかもしれないが、なかなか売上が伸びないのが現状だ。
昼過ぎから閉店後の閉め作業までの遅番シフトは約二年間も働いていれば慣れたもので、今日も従業員用入口から入って支度をする。席数が少なくて長居するお客様が多いため、シフトに入っている人数も四人いれば店をまわすことも容易い。
私が出勤してきたことに目もくれず、店長が忙しなく事務所から出たり入ったりを繰り返しているのを横目に、支度を済ませてカウンターに入ると、朝のシフトで入っていた先輩の石田さんが眉をひそめて聞いてきた。
「久野、昨日大丈夫だった?」
「えーと……誰から?」
「店長からちょっと」
最悪だ。了承もしていないのにもう勝手に話を進めているなんて。
私の顔を察したのか、石田さんは渋った顔をした。
「マジか……それ、結構ヤバいね」
「ダメ元で三カ月だけでも伸ばしてもらおうかと思っていますけど、どこまで話を聞いてもらえるか……」
「マネージャー……も信用できないな。話すだけ無駄な気がする」
石田さんと同じタイミングで溜息を吐く。
というのも、「僕は現場を見ていないので判断できないのですが……」がお決まりの台詞である店舗マネージャーは、アルバイトの話を聞いてわかりましたと一度答えても、これまた自己解釈で都合の良い方向にした話を作って物事を進めていくタイプの人間だ。
社員と揉めたときも間に入ることなく、「僕は関係ないので巻き込まないでください」と言わんばかりの無干渉さに、石田さんを含む先輩方には信用されていない。
がっくりと肩を落としていると、カウンターに同じ遅番の原田さんが入ってきた。原田さんも店長から話を聞いたそうで、苦笑いをした顔で聞いてくる。
今日は一体、何度この話をすればいいんだろう。
「本当に駄目だな……」
「でもこの時期に久野が抜けたら店回らねぇよ? 俺も原田も土曜日出れないし」
「それに関しては……申し訳ないとは思ってる……」
「いや、これは誰も悪くないです。体を休めることも、家族との時間も大切ですから」
石田さんも原田さんもこの店を中心に働いているけど、家族のために掛け持ちで働いている。忙しい中でも、土曜日だけは家族の日として必ず休みを取るようにしている。
そのため毎週土曜日の出勤は決まって店長と、特に予定のない私が固定されたようにシフトを組まれていた。それでも足りないときは、奥山さんが都合をつけて入ってくれている。
そういえばこの間、店長が「妻子持ちは土曜日働いてくれないから」と笑ってお客さんに愚痴ってたっけ。表に出て仕事をしないくせに、どこまで考え方が最低なんだろう。
余計なことを思い出してモヤッとしていると、原田さんが聞いてくる。
「久野、これからどうすんの?」
「飲食で働けそうなところは探してますけど、とりあえず交渉してー……あー……」
唸りながら眉を顰める。おかしな顔をした私に、二人が首を傾げた。
「どうした?」
「えーっと……なんか、同じシフトに入りたくないって言ってる人がいるらしくて、それを考えるとバッサリ辞めた方がいいのかなって……思ったり思わなかったり」
昨日の店長の話だと、原田さんと奥山さんが「私と働きたくない」と相談していたらしい。もしそれが本当なら、目の前にいる原田さんは店長に告げ口した側になる。気まずい空気になりそうになって慌てて誤魔化すが、原田さんが間髪入れずに口を開いた。
「それって俺や奥山さんが一緒に働きたくないって相談されたとか言われた?」
「え……?」
「やっぱり……。俺も奥山さんもそんなこと一言も言ってない。本当に嫌だったらシフトずらして入るし、ラテアートもコーヒーの雑学も教えないでしょ」
言われてみれば、確かにそうだ。
シフトはともかく、雑学やラテアートの技術は自分で教えてほしいと言ったものの、先輩は参考資料や情報サイト、珍しい豆で淹れたコーヒーの試飲や特徴を細かく教えてくれた。
「もし仮にそういう話をしていたとしても、まず店長には言わないよ。駄目なことしているときは俺達から直接言ってるし。つか、他のバイトには『俺らが久野が嫌いだから仕事したくないって言ってるからどうしよう』って困った顔でぼやいていたらしいよ」
…………はい?
「それって嘘をばら撒いてるってこと?」
「聞いた話だと、店長がここにきて半年経ったくらいからずっと言ってるって。かなりヤバイよ」
「うわぁ……昨日の話といい、サイコパスかよ」
原田さんの話に石田さんは身震いする。
丁度そこへお客様が入ってきたので、石田さんが接客に戻る。「とりあえず気にするな」と言って原田さんも連絡ノートを確認しながら持ち場に向かった。
私も切り替えて仕込みの作業を始めるが、先程の話が頭から離れない。
誰も言っていない嘘をつかされたうえに、それを周りに広めているってどういうこと?
味方を作るために外側を固めようっていう考えだとしたら?
……小学生の苛めか。いや、小学生でももっと利口な嘘をつくぞ。
トーストの上に乗せるバターを切り分け、小分けでラップに包む作業を終えたところで、事務所の出入り口からひょっこりと顔を覗かせた店長に呼ばれる。
「久野さん、ちょっといい?」
「はーい……!?」
顔を上げて声のする方へ顔を向けると、私は驚いて一歩下がった。
「久野さん? どうしたの?」
不思議そうな顔をして店長が聞いてくるが、私は眉間にしわを寄せながら、店長が体の半分を出入り口から出した右腕を凝視していた。私が同じ体勢で固まっていたせいか、気になった店長がこちらへやってくる。
「え、大丈夫?」
「……えっと」
「どうしたの? 何かついてる?」
はい。――とは言えなかった。
これはきっと目の錯覚だ。
店長の右腕に黒い靄のようなものが巻き付いているのが見える。しかし、店長はいつもと変わらない表情で話してくるし、軽々と右腕を上げている。おそらくこれは本人には見えておらず、影響もなさそうだった。
そういえば、行きの電車の中で見たサラリーマンの肩に乗っていたものによく似ていた。すぐ消えてしまったから気にしていなかったけど、まさかここで見るとは。
……となると、これは本当に目の錯覚かもしれない。
そうだ、きっと考えすぎて疲れているんだ。そう自分に言い聞かせて顔を上げた。
「いえ、何でもありません」
「そう? あのね、残りの日数で使う有休の件なんだけど、現場勤務が今月までって感じで申請しちゃえば楽だから、俺が適当に入れて来月全部有休扱いにしていいよね?」
「ちょっ……ちょっと待ってください!」
淡々と話を進めようとする店長を慌てて止める。
事務所に行って話すならまだしも、職場のカウンターでお客様の目の前でその話をするか?
接客している石田さんや原田さんにも聞こえたのか、空気を読んでお客様を遠ざけてくれた。それにちっとも気付かない店長は、更に話を続けようと口を開きかけて首を傾げた。
三十路手前の男性がやることじゃない、空気を読んでくれ!
「有休どころか、昨日の話もまだ納得できていないのに勝手に決めないでください。それに有休って、店長が勝手に決めるものじゃないでしょう?」
「あれ? どうして?」
「どうしてって……」
「だってたかが食材の保存一つで愚痴を言う人を、いつまでも置いておけるわけないでしょ? これは久野さんの為でもあるんだよ。この間も言ったけど、新しく入ってきた人に悪影響を与えない為にも、長々居られると困るんですよねぇ」
――たかが食材の保存一つ「で」?
眉を寄せて困った表情を浮かべながら話す店長に苛立ちを覚える。食品を扱う職種で、店長の立場で衛生責任者の資格を持つ人間が口にして良い言葉ではない。
ふざけるな、と口を開こうとすると、右腕の黒い靄が胴体に巻き付くように広がったのを見て息が止まった。靄はまるで心臓の鼓動のように、一定のリズムを刻みながら動きながらゆっくりと胴体から左肩へ向かっていく。店長を見ても相変わらず何が悪いの、とでも言いたげな顔をしているだけで、靄には気付いていない。
なるべく靄を見ないように、平常心を装って口を開く。
「……店長の言い分には納得できません。あんな理由で解雇を言い渡されても、退職届を渡されても書けません。マネージャーと三人で面談させていただけませんか」
「えー……マネージャーも忙しいんだよ?」
店長が困ったように笑うと、靄はまた少しずつ動いた。なんだか気持ち悪くなって、思わず目線を少し下へ逸らす。
「私、まだここで働いていたいんです。考え直していただける部分がきっとあると思うんです」
「……できるかはわからないけど、連絡はしときますね」
店長はそう言って、少し拗ねた顔をして事務所へ戻っていく。ドアが閉まると同時に、はあ、と大きな溜息を吐いてその場に蹲った。出勤してまだ五分。私は何しに来たんだろうと憂鬱になる。
……今日、もう仕事したくない。
お客様の対応を終えた石田さんが「大丈夫か」と声をかけてくれた。私に向ける憐れんだ表情が、今はものすごく痛い。
「まさかここで話すとは……俺もビックリしたよ」
「ええ、しかも店長の腕に黒い靄みたいなのが動いてたから気持ち悪くて……」
「靄? なんだそれ。幻覚でも見えてんの?」
「…………あれ?」
「原田、ヤバいぞ。久野が幻覚を見始めてる!」
幻覚が見えるほど精神的に追い詰められていると思われたのか、先輩二人には心配され、併設のショップスタッフには体調不良だと思われてオレンジの飴を貰った。
休憩中に落ち着かせようと本を読んでいても、どうしても店長の話が頭から離れない。
それからは何事もなく仕事をこなしたが、早番で入っていた石田さんと店長が上がりの時間になると、そそくさと荷物をまとめた店長がさらっと「再来週の出勤時に面談します」とぶっきらぼうに言って帰ってしまった。
「来週とか急すぎじゃね? いや遅いか?」と苦笑いで話す原田さんを横目に、自棄になってラテアートの練習を続ける。
勿論、最悪の精神状態の中で満足できる絵柄は一つも描けなくて、ただただ苛立ちしか残らなかった。
閉め作業も終わって帰路につく。電車に乗っていると、スマートフォンに飴をくれたショップスタッフから『体調はどう?』とメッセージが届いた。
迷惑かけちゃったな、と思いつつ、「ありがとうございます」と打った後にスタンプをつけて送る。
無理をしないでね、か。
そんなことを言われても、来週で今後が決まるとか、考えたくない。
それに原田さんが言ったことも本当かどうかも見極めなければいけない。原田さん達には今まで一緒に働いてきたから信頼しているし、あの店のアルバイトは皆味方だと思っている。それでも急展開に付いていけない頭が、全てに対して疑心暗鬼になってしまっている。
「……どこで間違えたかなぁ」
小さく呟いても聞こえてくるのは電車の揺れる音だけだった。
最寄りの駅を降りて慣れた商店街を通る。今日はヒロさんのバーは定休日なので、いつもより人通りは少ない。こんなにも静まり返っている商店街は珍しい。
すると突然、背筋が凍る寒気がして思わず立ち止った。誰かに見られているような気がして、思わず身体を抱き締めるようにして辺りを見回す。
夜の十時を過ぎた商店街に人気はなく、昨日とは打って変わって閑散とした空気が広がっている。稼ぎ時といってもいい夜の居酒屋でも定休日はあるのだから、店のシャッターが全て閉まっていてもおかしくはない。それがかえって気味が悪い。
いっそのことジョギングがてら走って帰ろうか。少しは寒気も無くなるだろう。そう思っていると、後ろから砂を踏みしめる音が聞こえた。
ああ、よかった。やっぱり人がいるじゃん。
安堵して振り返ると、そこには昼間に店長の体に巻き付いていた黒い靄を全身に包まれた、人型の何かが金属バットを引きずるようにして立ち止った。
人間……いや、人にしては体格が大きすぎる。まるで昔話に出てくるような、大男が棍棒を持っているようにしか見えない。何より黒い靄が全身を包み込んでいるから、顔の判別さえもできない。
『――――』
それは唸りながら何かを言うと、金属バットを思い切り振り上げた。
あ、これヤバイ。――嫌な予感を察して後ろへ下がろうとすると、足を何かに掴まれてそのまま後ろに倒れ込んだ。
「いった…………ひっ!?」
幸い背中のリュックがクッションになって頭を打つことはなかった。
すぐ起き上がって逃げようとすると、左足に黒い靄が巻き付いて動けなくなっていた。そして揺れ動く靄から、白くゴツゴツした骨の手が食い込むように掴んでいるのが見えると、思わず悲鳴を上げた。
これは夢? もしかして電車で寝過ごしてるんじゃないか。
きっとそうだ、これは夢なんだ! ――思い込もうとすればするほど、掴まれた左足が圧迫されて痛みを感じる。
大きな影が覆いかぶさるように現れると、高々と掲げた金属バットが勢いよく振り下ろされる。
どうやら私はこんなところで死ぬらしい。
恐ろしくて動けないし声も出せない。逃げられないと悟った私は、ぎゅっと目を瞑った。
「――――だから言ったじゃないか、お嬢さん」
どこか呆れた声が聞こえたと同時に、ズシン、と大きな音が辺り一帯に響き渡った。
そしてまた辺りが静まり返ると、からんと下駄の音が響いて、私のすぐ近くで止まった。
恐る恐る目を開くと、周りには青みを帯びた鬼火が浮かび、目の前には作務衣姿の本谷さんと白い狐を肩に乗せた青年の姿があり、その奥には先程まで金属バットを振り上げていた大男がひっくり返っていた。
目を瞑った一瞬の間に何が起きたのだろう。状況が呑み込めないまま驚いていると、靄を纏った骨の手がそっと握っていた左足から離れようとしていた。
すると、青年の肩に乗っていた白い狐が気付いて骨の手に飛びつくと、ひと噛みして砕いてパクパクと食べ始めたのだ。
目の前で起こっている出来事を凝視していると、本谷さんが昨日と同じように楽しそうな笑みを口元に浮かべて狐に向かって言う。
「おおっと、お菊さーん。食べちゃダメってこの間も言ったよねー? オイタがすぎるんじゃないかい?」
『別にいいじゃない。美味しそうだったんだもの』
「そうかい……? がしゃどくろの骨なんてスープにもならないよ、お菊には出汁の効いたきつねうどんがお似合いさ!」
『うどんもいいけどいなり寿司の方が好きよ。作間ぁ、帰ったら作ってくれる?』
「今日はもう遅いから、明日な」
『フフッ! 私も手伝うわ!』
「いいなぁ。見せつけてくれるその溺愛っぷりをボクにも分けてくれたらいいのにー」
本谷さんはそう言って笑うのを横目に、お菊と呼ばれた狐は青年の肩に戻ると、じっと私を見つめて言う。
『ねぇ、どうしてこの子から名簿の匂いがするの?』
「へ……め……めい、ぼ?」
『そう、名簿。鬼やがしゃどくろが狙ってたってそういうことよ? ……あ、そっか。人間の貴女には何も見えないし、名簿を持っていれば妖怪が居ても……ん? ってことはこの声も聞こえないはずよね……?』
狐が首をこてんと傾けながらも品定めするように見てくる。あざと可愛い容姿ながらも、目力の威圧感に押されて逸らせない。
名簿なんて知らないし、妖怪に狙われるようなことはしてない。そもそも妖怪なんて存在をどう信じろと?
……いや、それよりも、
「――しゃ、喋ったあああ!?」
『失礼な人間ね! 人様に指を向けないでよ!』
「いや狐! 人っていうより狐でしょ!?」
「菊、はしゃぎすぎ」
『はーい……作間、いつになくクールね? そういうところも好きっ!』
喋る狐が作間と呼んだ彼の頬に擦り寄ると、周りに浮いていた鬼火が嬉しそうに揺れる。
え、鬼火って狐の気分と同調するの?
「あははっ! こんなに楽しそうにしている二人は珍しいね。うんうん、良いことだ!」
二人に気を取られていると、本谷さんが後ろで腹を抱えて笑っていた。
「いやぁ、お嬢さん。左足は大丈夫かい? 随分しっかりと掴まれていたみたいだけど……ああ、見せなくてもいいよ。骨が折れていないから歩けるだろうけど、悪化させるのは良くない。作間くん、肩を貸してあげてよ」
『ちょっと、私の特等席を人間に使わせるの?』
「菊はいつも乗ってるんだからいいでしょ。怪我人が優先だよ」
彼は宥めながら喋る狐を地面に降ろすと、私の腕を引っ張って立ち上がらせてくれた。
昨夜、バーで本谷さんと一緒に入ってきた『きーくん』に似ていたけど、よく見れば髪は茶髪で、目の下の隈がくっきりと出ている。おそらく別人だろう。
「あ、ありがとう、ございます……」
「どういたしまして。大した怪我じゃなくてよかった。とりあえず書店に行こう。確か、薬箱によく効く軟膏があった気が……」
「あーアレね! 美味しいよねぇ!」
「は……? もしかして食べたんですか?」
本谷さんは両頬を手で押さえながらとても嬉しそうに――身体が軟体動物かのようにぐねぐねと動いているのは照れ隠しだろうか――、呆れた顔で見ている青年を置き去りにして一人で語り始めた。
「もうね、ほんのり甘い香りが気になって気になって仕方がなくってさぁ! その軟膏は少し特殊でね、打撲や絞め痕に効果があるんだよ。……それにしても作間くん、ちゃんと【こちら側】の勉強してくれてるなんて、ボクは嬉しいよ! あ、ちなみにその軟膏はね、癖のある苦みと味気のない油が溶けると、まるでバターみたいな濃厚な……」
「気にしなくていいからね。いつもこんな感じだから、相手にしない方がいい」
「冷たい! 立派に育った鍾乳石を背後から貫かれたように冷たい!」
ジロッと彼が本谷さんを睨みつけると、更に頬が緩んで不思議な動きが増したのを見て確信する。ヒロさんが言っていた通り、悪い人ではないけど変人だ。
二人のやりとりについていけずに目を逸らすと、ひっくり返っている大男に纏った黒い靄が消えていた。そこに残ったのは頭から二つの角、口から牙を生やし、鋭い爪を持った鬼の姿だった。
「なに……あれ……」
『あら。もしかして……見えちゃった?』
足元から問いかける狐の声は、どこか嬉しそうだった。周りで揺れている鬼火からして、この状況を楽しんでいるのかもしれない。
恐る恐る狐がいる方へ目を向けて問う。
「あ……あああれって、見えちゃいけなかったものなの……?」
『そうねぇ。貴女にとっては視えない方が幸せだったかも』
「言っておくけど、ボクはちゃーんとキミに忠告したからね?」
先程と打って変わって、本谷さんの冷めた声色が辺りに響く。ついさっきまで変な動きをしていた人とは思えない真剣な顔つきで、私のリュックを指さした。
「キミ、昨晩帰るときにボロボロの紙束みたいなのを拾わなかったかい? ボクの勘が正しければ、そのリュックの中に入っていると思うんだよねぇ」
「紙束……?」
帰り道で紙束なんて拾ったっけ? 首を傾げて考えながらリュックの口を開くと、昨日郵便受けに入っていたボロボロの和装本があった。
「……え?」
帰ってからの記憶は少し曖昧だけど、鞄に入れた覚えはない。出かけるときもテーブルに置いてあるのを見かけてそれっきりだ。
酔いが回って勝手にリュックに入れた? いや、休憩中に本を取り出すときにはなかった。
慎重に和装本を取り出すと、昨日は汚れていた表紙の文字がはっきりと読めるようになっていた。
【滑瓢】
…………読み方がわからない。
しかめっ面で凝視していると、フフッと笑う声が聞こえた。
「それはね、【ぬらりひょん】って読むんだよ。何処からともなくやってきて人の家に上がり、呑気にお茶を飲んでその場に馴染んでいる。そしてまたぬらりくらりと、いつの間にか何処かへ行ってしまう妖怪さ」
本谷さんは私の前に来て和装本を指さすと、どこか懐かしそうに目を細めた。
「妖怪って……昔話に出てくる? このボロボロの本と何か関係があるんですか?」
「これが大アリなんだよ。その和装本はね、変わり者のぬらりひょんが、自分の配下にいる妖怪の名前を書き留めた名簿なんだ。煤だらけで読めないだろうけど、汚れの下には妖怪の名前が書かれているんだよ。そしてこの和装本を手にした者には、強力なぬらりひょんの妖力を受け継ぐことができるって有名なのさ」
「……えっと……?」
「ま、簡単な話。その本が唐突にやってきて、妖怪のくだらない争いにお嬢さんは巻き込まれちゃった! ……って感じかな?」
語尾に星や音符が見えるような、随分能天気そうな口調で訳の分からない怖い話をする本谷さんに、私は無言ながらも引きつった顔で固まった。
「あれ? お嬢さん、大丈夫かい?」
「……これが大丈夫に見えますか?」
「じゃないだろうね、うん。……おっと。この話はいったんここまでにしておこうか。鬼が起きてしまったようだ」
「へ……?」
本谷さんが笑ったと同時に、何か重い物が地面に落ちた音が響き渡った。
さっきも似たような音を聞いた気がすると思いながら音が聞こえた方へ向くと、ひっくり返っていた鬼がゆっくり起き上がって息を荒くし、こちらをギロリと飛び出した眼で睨みつけていた。
黒い靄はもうどこにもなく、ゴツゴツした体格に鋭い爪。先程の何かが落ちた音は、私に振り上げていた金属バット――ではなく、沢山の棘が付いた金棒を叩きつけると、衝撃で地面のコンクリートに亀裂が走っていた。
先程とは違う風貌に怖くなって思わずよろけると、本谷さんが肩を掴んで支えてくれた。
「無理はないさ。初めて妖怪を見る人間にとってアレはかなりショッキングだろう。最近の若い子は珍しいものを見かけたら、すぐSNSに拡散するから放置してそのまま傍観してるんだけど……お嬢さんは巻き込んじゃったから、お詫びにこの本谷さんが助けてあげよう! 有難く思いたまえ!」
「は……?」
「無駄話はいいから。本谷さん、さっさとその人連れてってください」
「おおっ! ってことは、キミ達に頼んじゃっていいのかい?」
『それとも貴方が金棒の藻屑になる? 良いわよ、残った骨は私が食べてあげる』
「それは大変だ! ささっ、お嬢さんこちらにどーぞ!」
「うわっ!」
青年と喋る狐に促されて――というより脅されて?――本谷さんは私の腕を掴んで走り出す。からんころん、と忙しなく下駄が鳴るのを構わずに商店街を走り抜けていく。
振り返ると、金棒を振り回す鬼のまわりを青白い鬼火がぐるりと囲んでいた。彼らは大丈夫だろうか?
「あの二人のことなら心配無用さ! お菊の鬼火に見とれている暇があるなら、自分の心配をした方が良いよ!」
「え?」
「言っただろう? 考えすぎるのは誘惑の始まりだと。夜は【良くないもの】が集まるご馳走の時間だからね」
周りの時間が止まるような静けさの中、あの時と同じように本谷さんは冷めた声色で言った。
駅の方から歩いて商店街に入るとあまり気付かないが、立ち並ぶ店の終わりには古びた木造建築が一軒建っている。
出入り口に掲げられた看板には「山田書店」と書かれており、この商店街の中で一番古い店らしい――と、ヒロさんが言っていたっけ。
本谷さんに連れられて書店に入ると、奥にある座敷に通された。外観の割には綺麗に整頓されており、田舎のおばあちゃん家に里帰りしたときの懐かしい匂いがした。
併設されているの台所で何かを落とす音が聞こえてきたけど、今の現状が理解できない私の耳にはほとんど入ってこない。
暫くして二つの湯呑を乗せたお盆を持って本谷さんが戻ってきた。
「何もないところで退屈だろうけど、せめてあの二人が帰ってくるまで待っててね。はい、お茶」
「あ、ありがとうございます……?」
受け取った湯呑に口を近づけようとすると、お茶の中で何かが浮かんでいるのに気付いた。
茶柱……にしては歪な形をしている。
「……これ、毒とか虫とか入ってたりとか……しませんよね?」
「んー? なんだーい?」
あ、なんか入れたなこいつ。
丸眼鏡ごしの笑顔を見ながら湯呑をちゃぶ台にそっと戻す。
鬼に襲われていたとはいえ、勢いでここまで連れてこられたのは何か企みでもあるのだろうか。確かにもし本谷さん達が来なかったら、今頃金棒の餌食になっていたのかもしれない。
黒い靄の下で見えた骨の手も、鬼の本来の姿もこの目で見てしまった。
これが夢でなければ何を信じればいい?
……いや、そもそも鬼に襲われること自体、にわかに信じ難いんだけどね?
とにかく今はこの変人と同じ空間にいることが何より怖い。まだ肩を貸してくれた青年の方がどれほどよかったことか。
落ち着かない私を見て、年季の入った座布団に座った本谷さんが見透かしたように笑う。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。彼らなら上手く切り抜けられるさ。ここ最近、商店街に出てくる鬼の数が頻繁に目撃されていてね。昨日の夜も一緒にいたんだよ?」
「え? でもバーには……」
「ん? ……ああ、そっか。丁度お嬢さんが帰った後に入ってきたから会ってないのか。それでも今日、初めて会った彼らがキミを逃がして鬼を鎮めようとした……なんて素晴らしい! これを運命の友情と呼ばずなんと言おう? どうだ、友情の記念として、ボクと乾杯しようじゃないか!」
「いや、意味がわからないんですけど……なんかダサいし」
「うわぁ……お嬢さんも冷たくあしらうタイプの子だね……いいねぇ」
あ、この人本当にヤバいかもしれない。
若干緩くなった口元と羨ましそうな眼の色から、身の危険を感じた。
「そんなことより、この状況を説明していただけませんか? どうして鬼に襲われたのか心当たりがないし、私には鬼も喋る狐も、名簿のことも信じられないんです。これって現実に起こってることですか? それとも私、帰ってる途中で死んじゃったとか? なんでもいいんです、教えてください!」
リュックから和装本を取り出してちゃぶ台の上に置く。ボロボロの和装本をじっと見つめた本谷さんは、丸眼鏡を直してから口を開いた。
「じゃあ話すけど――お嬢さんが商店街から入ってここに来るまで見えていたものは、全て現実に起こっていることだよ。キミ自身が電車で寝過ごしている訳でも、死んだわけでもない。その証拠と言っては何だが、キミの左足首にはがしゃどくろに掴まれた痕が残っている。あの時感じた恐怖も痛みも、本物さ」
本谷さんに言われて自分の左足を確認する。左足の丁度くるぶしの上あたりに、大きな細い五本の青紫色の線がくっきり残っている。痛みはもうほとんど感じないが、掴まれたとはっきり残った痕が気味が悪い。
「妖怪って、その……人間を襲ったりするんですか?」
「んー……なんとも言えないね。少なくともここら辺の妖怪は人間に友好的だよ。今回お嬢さんが狙われたのはおそらく、リュックに入っていた和装本が関係しているんだと思うんだよね」
「……この本、一体何なんですか?」
少し長くなるよ、と一言置いて本谷さんは語り始めた。
*
「さっきも少し話したけど、その和装本は遥か昔、【妖怪の総大将】と謳われたぬらりひょんが自分の配下にいる妖怪の名前を書き残した名簿なのさ。
ここ近辺の地域はそのぬらりひょんの領地でね、名簿に名前を書いて配下に置くことを交換条件として、妖怪がこの地で生活することを許可した。
勿論、よくテレビや漫画で見かける忠誠を誓う盃も交わしているよ。
名簿を作った理由はわかっていない。ただぬらりひょん自身が几帳面の変わり者で、身寄りのない妖怪を自分の領地に住まわせ、危機が迫った時にはすぐ駆け付けるほど、優しく慕われる存在だったと、彼らは皆、口をそろえて言っている。
そんなぬらりひょんがある日、忽然と姿を消した。
居なくなったかと思えば、すぐ戻ってくる彼の行動を知っている多くの妖怪たちは、いつものことだと思って誰も探すことをしなかった。短くて数時間後、長くて三日。遠い地域の領主に会いに行って一ヵ月戻ってこなかったこともあった。
それでも彼は必ず戻ってきた。だからこの日も誰も気に留めなかったんだ。
しかし、三か月が経っても帰ってこないことに嫌な予感がした妖怪たちは、ようやく近辺を探し始めた。
ぬらりひょんが帰ってくる気配は一向になかった。
するとそこに、一人の人間が彼らの前に現れて『渡してくれと頼まれた』と、名簿と共に手紙を差し出したんだ。
手紙にはぬらりひょんの字で、野暮用で領地を無期限で不在にすること、戻ってくるまで人間と共存することを命じると書かれていた。
更に名簿にかけられた妖術によって、一部の領地がぬらりひょんの力によって余所者の妖怪から守られていることがわかると、多くの妖怪が集まって生活するようになった。
――その領地がこの商店街周辺なのさ。
昼間の商店街でも妖怪が混ざっていたりするから、もしかしたらお嬢さんもどこかで会っているかもね。
しかし、名簿があるからといって領地が守られているとは限らない。
妖力は有限だ。妖怪が消えれば名簿の妖術は無効になる。近頃はどうやら結界が弱まっているようでね、余所者が入ってきてはぬらりひょんの名簿を寄越せと怒鳴り散らしている。実力行使の名残が残っている妖怪は、奪えば勝ちとでも思っているんだろうね。
実際に名簿にはかなりの妖力が込められている。しかも妖怪の総大将の妖力だ。欲しがらないわけがない。
いつしか『ぬらりひょんの名簿を手にすれば領地を統べる力を得る』と噂されるようになった。
最近、頻繁に鬼が商店街に現れているって言っただろう?
彼らは名簿の噂を聞きつけてやってきたんだ。彼らを見つけるたびに、商店街の妖怪が見回って追い出す日々が続いている。
困ったモンだよ。触れられないまじないが掛かっている名簿を、どうやって彼らに差し出せば良いんだろうね」
*
「触れられない? 私、普通に持てますけど……」
ポストに入っていた和装本――ぬらりひょんが書いたとされる妖怪の名簿は、込められた妖力のおかげで今の商店街ある地域一帯が守られていた、というところまでは固い頭に強引に押し込んで理解できた。
しかし妖力が強いのであれば触れるどころか、見つけられるのではないだろうか?
金棒を叩きつけて地割れを起こす怪力や、鬼火を出す術を持ち合わせていないごく普通の一般人にはわからないけど。
本谷さんはちゃぶ台の上に置かれた名簿を見つめた。
「妖怪たちから聞いた話だと、ぬらりひょんが名簿を書き込んでいるところは見かけたものの、机の上に置いた途端スッと消えてしまったらしい。でもぬらりひょんが触れると何事もなく名簿がそこに置かれていた。……つまり?」
「つまり……?」
「つまり、名簿には所有者以外が触れられないように、妖術がかけられていたんだ。……いや、この場合、『まじない』といった方がいいかもしれない。災いを取り除くためのものだからね。ぬらりひょんは妖怪とはいえ、個人情報を集めていたのだから、漏洩しない対策だったんだろう」
そういって本谷さんは表紙をそっと撫でると、丁寧な手つきで開いた。相変わらず煤で汚れて読めないが、懐かしむようにゆっくりとページを捲っていく。
「お嬢さんは小学生の頃、プロフィール帳を友人に渡して集めたことはあるかい? ぬらりひょんがやってることはそれと同じなのさ。ただ、防犯対策として暗証番号をつけるのではなく、触れられる者を限定させ、中身を所有者しか読めないようにした。だから他の妖怪には見えないし、置かれた場所を見ても触れることができない仕組みになっている。几帳面な変わり者だね」
「そこまで徹底していたのに、どうして今は触れられるんでしょうか」
所有者しか触れられない名簿――これが本当であれば、私が郵便受けから取り出すことも、本谷さんがページを捲ることも不可能のはずだ。
「んー……ここからはボクの推測なんだけど、条件を変えたんじゃないかな」
「条件?」
「そう。ぬらりひょんは何らかの理由で、急遽領地を離れることになってしまった。数日で戻る予定が無期限で不在になる。――ということは、ぬらりひょんは領地に残した妖怪たちを守ることができない。そこで苦肉の策として、妖力を込めた名簿を何らかの方法で領地へ戻し、結界の役割を担ってもらおうと考えた」
「何らかの方法? 瞬間移動とか、空を飛ぶとか?」
「そんな便利なものがあったら彼自身がすぐ戻ってるさ! それよりももっと地道で、世渡り上手な妖怪ができる方法――なんだと思う?」
――と言われましても。
しかめっ面で考えても、状況を飲み込むだけで精一杯の私の頭はすでにキャパオーバーだ。全く思いつかない。
そろそろパンクして煙が出てくるのが見えたのか、本谷さんは話を続けた。
「彼は人間の中に混ざっていても、自然と溶け込んでお茶をご馳走されているんだよ? そんな彼が人間と仲良くしないわけがない」
「……もしかして、名簿を人間に渡した?」
「その通り! 彼は仲良くなった人間に名簿を託して、名簿だけを領地に残った妖怪たちへ戻す手段を考えた。人間に託す際、名簿に触れられる条件を書き換えた可能性があるとしたら?」
そこまで言われてようやく理解した。
妖怪にとって身近な存在で、その中でもぬらりひょんが名簿を託せるほど信頼している人間であれば、名簿だけは領地へ戻ってくることが可能だろう。
しかし、今日みたいに人間が持っているところを狙う妖怪だっていれば、人間自体が裏切る可能性も考えると、少々リスクが高いような気がする。
「多少の危険に関しては想定内だっただろうね。でも実際に、名簿を託された人間は、何事もなく領地に辿り着いた。恐らくその時も、まじないがかかっていたのだろう。触れられる条件に【人間】を加え、道中に見つからないように仕組んだ」
まぁ、本当のところはわからないんだけどねぇ、と。
本谷さんの話し方は説明、というより昔話を懐かしんでいるようで、ページを捲りながらも時々うっとりした表情を浮かべていた。
「ちなみに、名簿がその後どこに保管されていたかは知らないよ。一説として、名簿を持ってきた人間が、領地を気に入って一緒に暮らし始めたという話があるから、その彼が管理していたんじゃないかな。名簿の有無を確認できる者が限られているのなら、妖怪たちは人間を近くに置いておきたかっただろう。そこで一緒に暮らすよう提案し、商店街を作って領地を盛り上げたんだ。……いつか帰ってくる領主を、彼らは今でも信じている」
「でも今になっても帰ってこないって――」
最後まで言い切る前に、本谷さんは首を静かに横に振った。
多くの妖怪が、信頼するぬらりひょんを待つために人間と暮らすことを選んだとして、何年、何十年――下手したら何百年以上も前から、彼の指示に従って、人間と共にあの商店街に住んでいる。
遠い昔に交わした忠誠なんて、ぬらりひょんが忘れているかもしれないのに、それでも彼らは今でも信じている。
「……彼を待ち続ける理由は、名簿があるからといっても過言ではないだろう。なんせ、名簿自身もぬらりひょんだからね」
「へ……?」
ページを捲る手を止めて、呆れたように笑う。
「この名簿はね、不思議なことに人間が目を少し離すといつの間にか消えて、新しい人間を領地へ連れてくるんだよ。最初は驚いて大騒ぎしていたが、名簿が連れてきた人間は皆、妖怪との生活を楽しいと喜び、次第に移り住みたいと交渉してくる人間が増えた。その積み重ねでできたのが、商店街なのさ。ぬらりひょんを知る妖怪たちは『連れてくる人間を選ぶ目は、領主と変わらない』と笑ったそうだよ」
あ、でも名簿に目はないか! と茶目っ気全開で言う本谷さん。
仕事帰りに寄るヒロさんのバーにも妖怪が居て、人間と一緒に呑んでいるのかもしれないと思うと、上手く紛れるものなんだなぁと感心する。
「本谷さんも名簿に連れてこられたんですか?」
「まあねー。ああ、作間くんとお菊はちょっと変わっているかも」
「お菊って……喋る狐の?」
「そう、あの子は【妖狐】なんだ。普段はもふもふの姿で可愛らしい見た目だけど、本来の姿もなかなか別嬪さんで――」
『褒められるのは嫌いじゃないけど、遺言はそれでいいの? 灰になる準備はできたと受け取るわよ』
後ろから聞こえたと同時に、私の周りに先程の青白い鬼火が現れたかと思えば、青年の肩の上で可愛らしい白い狐の姿で在りながら、九つの尻尾を揺らす彼女が本谷さんを睨みつけていた。
「あらー……思っていた以上に早かったね」
『早いに決まってるわよ。今のは私と作間への侮辱と捉えていいのかしら?』
「ちょっ、ちょっと待っておくれよ! いくら何でも横暴じゃないかい!?」
焦る本谷さんを横目に満足そうに鼻を鳴らすと、狐は飛び降りて私の足元をじっと見つめた。がしゃどくろに掴まれた足を見て、大きく溜息を吐く。
『最悪……全く手当してないじゃない。作間の手を煩わせるようなことしないでよね!』
「うわっ! 忘れてた……美味しくお茶を淹れることだけに全集中を注いでいたからねぇ……」
『お茶の中にトカゲの尻尾の破片を入れておいてよく言えるわね? 本当にどうしようもない奴!』
「菊、想定内だから大丈夫だよ。おねーさん、手当するから足出して」
呆れた声と共に青年がいつの間にか隣に座って使い込まれた救急箱を開く。
「じ、自分でやりますから!」
「いいから、怪我人はじっとしてて。別に足をちょん切ってやろうとか思ってないから安心して」
と、言葉とは相反するようにふんわりと微笑む。これは大人しく従った方がよさそうだ。
「それじゃあ、お願いします。えっと……」
「俺は作間巧。作間でいいよ。できればタメ口で話してほしいな。さっきから喋ってる狐の子は菊姫。皆からお菊って呼ばれてて……」
『ちょっと! なんで私も紹介するのよ!』
「俺としては二人が仲良くなってくれたら嬉しいんだけど、駄目なの?」
『……しょうがないわね! 特別に呼ばせてあげてもいいわ!』
頬を赤らめながらも拗ねる狐――改め、お菊さん。いや、ちゃん?
「どっちでもいいよ。呼ばれるの嬉しいみたいだからさ」
「……私、何も言ってないんですけど、なんでわかったんですか」
「さぁ、どうしてでしょう。はい、終わったよ」
彼はとぼけながら、足首に包帯を巻き終えてテープで固定してくれた。少しだけ救急箱の中身が見えたけど、訳の分からない薬草が数種類とトカゲの干物、何やらうにょうにょと動く何かが見えた気がして、思わず顔をしかめた。
「ね? 俺が手当した方がよかったでしょ?」
「……そうですね」
彼は読心術でも使えるのか。それとも実は彼も妖怪で、考えていることを見抜ける力があったりするのだろうか。
ああ、今日だけで頭が破裂しすぎだよ!
「お嬢さんは考えすぎて隙ができちゃったんだねぇ。お気の毒に」
先程まで黙っていた本谷さんが窓の外を見ながら言った。何の話だろうと首を傾げると、見透かしたように「襲われた原因だよ」と続ける。
「名簿を奪う目的の他に考えられるのが、人間の心の隙間だよ。確か昨日、働いている店からクビ宣言をされたと言っていたね。店長から何を吹き込まれたのかは知らないけど、考える時間の中でキミは苛立ちと後悔で何もかも放棄したくなったはずだ。妖怪はそういった人間の元へ行きたがる習性があるからねぇ。……そうだ、がしゃどくろの手や鬼の姿が見える前、黒い靄が見えなかったかい?」
「あ……」
本谷さんに言われて頭に浮かんだのは、仕事に行く前の電車で見かけたサラリーマンと、事務所から出てきた店長の姿だった。サラリーマンの時は何度か瞬きしている間に消えてしまったけど、店長に巻き付いていた黒い靄は喋る度に身体に巻き付いていった。
血の気が一気に引くのを感じると、本谷さんが見たんだね、と続けた。
「名簿は妖怪の気配を察すると、その姿を黒い靄で表す。お嬢さんの目には、あの鬼が金属バットを持つ黒い靄で全身を覆われた大男に見えただろう? 導かれた者は皆、同じように見えるのさ」
本谷さんは一度もこちらを見ることなく、淡々と仮説を述べる。それが正しいのかはわからないけど、少なくとも今日だけで目の前で起こった出来事から考えたら、ほとんど当たっているかもしれない。
難しい顔をしていたのが分かったのか、本谷さんは私を見て小さく笑って立ち上がった。
「今日はもう妖怪は寄ってこないから安心して。でも怪我もしているし……作間くん、お嬢さんを送ってやってくれ。お菊はちょっと用事を頼まれてくれるかい?」
『私と作間を引き剥がす気……?』
「そうじゃないよ。作間くんを守るために必要な用事さ」
腑に落ちないといった表情ながらも、お菊さんは本谷さんの肩に飛び乗った。彼女の周りに浮いていた鬼火がしょんぼりしたように火力が弱まった気がする。
「お嬢さん、この名簿はキミが預かっていてくれ。持ち歩いていれば【良くないもの】から身を守ってくれるだろうし、ここに置いて保管しても勝手にキミの元へ戻ってしまうだろうからね」
「戻ってくるって……そんなことあるんですか?」
「だってぬらりひょんだよ?」
さも当然と言いたげな顔で言われると、私は首を傾げた。
私はリュックに名簿を入れると、既に出入り口で待っていた作間くんのもとへ行く。
「それじゃあまたね、お嬢さん。困ったら何時でも山田書店に来るといい」
『作間に手なんか出したら承知しないわよ!』
「お、おやすみなさい……」
二人に見送られて書店を出て歩いていると、作間くんがスマートフォンを取り出して言う。
「妖怪が見える者同士、何かあったときのために連絡先を交換しておかない?」
「いいけど……あの、作間くんは人間なの?」
「そうだよ。菊が取り憑いてからもう何年になるかな……」
「とり……?」
スマートフォンを操作しながら、彼の言葉に眉を顰める。
私の空耳でなければ、彼は今「取り憑いて」って言った?
「いろいろあったんだけど、俺がここに居られるのは全部、菊のおかげだから」
どこか誇らしげな表情で彼は笑う。目の下のクマもどこか幸せそうに見えた。
「まさか、初対面のおねーさんに妖怪呼ばわりされるとは思ってなかったけどね」
「うっ……ごめん」
「全然。気にしないで。それにあんな怖い経験したんだもん。疑心暗鬼になっても仕方がないよ」
「……あの商店街って、いつもあんな感じなの?」
「ここ最近はそうだね。本谷さんが余所者を見つけると、商店街に住んでいる妖怪たちが動くよ」
「本谷さんって、何者なの?」
私の問いかけに、作間くんは少し考え込んだ。聞いてはいけないことだっただろうか、と後になって後悔していると、彼は笑って言う。
「なんて言ったらいいんだろう……そうだな、人と妖怪を傍観している変わり者、みたいな。要は変人って言葉が合っているのかもしれないね。あ、おねーさんのことなんて呼べばいい? 久野さん? 芽衣ちゃん?」
「……もう何でもいいよ」
私の名前、一言も言ってないのに何でわかるの……!
彼といい本谷さんといい、急に人が変わったかのように話す口調や表情が忙しい。わざと話を逸らされたので、これ以上聞き返さなかったものの、代わりに年下キャラを前面に押し出してきた作間くんの問いかけには適当に返した。
本谷さんと妖怪に出会った翌日から、アルバイトの日以外は家から一歩も出ようとしなかった。
がしゃどくろに掴まれた左の足首の痣は、次第に薄れて見えなくなったものの、得体のしれないものに襲われた恐怖は未だに残っている。
しばらくは商店街を避けて駅に行ったり、どんなに夜遅くなっても遠回りをして帰宅する日々が続いた。
本谷さんの話を真に受けているわけではないが、ぬらりひょんの名簿はリュックの中に入れっぱなしにしている。
そんな日々が続いたある日、夕方に仕事を終えて最寄の駅の改札から出ると、後ろから作間くんに声をかけられた。
相変わらず目元の隈はくっきり残っているものの、爽やかな笑顔を振り撒いている。思っていたより早い再会だった。
「……そうだよね。商店街の方に家があるなら、どこかで会うはずだよね」
「今更? 時間帯が違うから今まで会わなかったんだろうね。俺は大学やバイトがあっても夕方にはここら辺にいるし、久野さんは朝早く出ても夜遅いでしょ?」
「そう……だね。作間くん、学校帰り?」
「そうだよ。久野さんはカフェのバイト?」
「カフェじゃないよ。今日は掛け持ちしている別のバイト帰り」
工場のレーン作業で、ダイレクトメールの中身を詰めて封を閉じるだけの簡単な仕事だ。
カフェで前の店長から「社会保険を抜けろ」と脅されたことがあってから、掛け持ちでできる仕事をさがしていたところ、飲食とは別の仕事で高時給だったため、週三日を目安に入れている。
「なんか意外。カフェにしなかったのはなんで?」
「店舗が違うと、レシピが混ざってわからなくなるから。それにどうせなら別のこともやってみようと思って」
例えあの店をクビになっても、飲食の仕事は続けたい。いつか戻れるように、求人サイトも見ないといけないなぁと一人で思い更けていると、隣で作間くんがどこか満足そうに微笑んだ。
「なに?」
「ううん。なんでも」
「そういえば、お菊さんは?」
初めて会った時もお菊さんは作間くんの肩に乗っていた。彼が私に手を貸してくれたとき、『私の特等席を人間に使わせるの?』と拗ねるほどくっついていたのに、今日はどこにも見当たらなければ、黒い靄も見えない。
「菊なら本谷さんのところだよ。そうだ、久野さんって帰るとき商店街を通るよね? せっかくだし、皆に会いに行こうよ」
「皆?」
「商店街で暮らす妖怪たちだよ。よし、善は急げだ!」
作間くんは楽しそうに言って私の腕を掴むと、商店街の方へ引っ張るようにして歩いていく。
「大丈夫だって。本谷さんも妖怪たちは友好的だって言ってたでしょ? もしかしたら久野さんと既に会ってるかもしれないじゃん? 人間と生活リズムを合わせるために、日中でも動いている妖怪が多いんだよ。勿論、個人差はあるだろうけどね」
ちなみに菊は夜型だからあまり出歩かないよ、と足を止めることなくされるがまま商店街へ向かう作間くん。
何度も言ってるけど、私はまだ何も言ってないんだって。
そもそも全ての妖怪が誰にでも友好的だったら、名簿を用意する必要だってなかったじゃん。
……考えてみればおかしな話だ。
妖怪を惹きつけ、妖怪から守る名簿。――ぬらりひょんが何の為に作ったのかわからないけど、名簿が無ければ妖怪が襲ってくることも、人間が関わることもなかったのだろうか。
「……それ、皆の前で言っちゃ駄目だよ」
腕を掴む手を緩めて私の横に並ぶと、寂しそうな顔をして言う。真っ直ぐ見つめられる瞳をなぜか逸らすことができない。
「名簿は妖力が込められているって言っただろ? 妖力があるってことは、ぬらりひょんが生きている証拠なんだよ。目の前から消えても人間を連れて名簿は戻ってきたし、火事に巻き込まれて煤だらけになっても、名簿だけは形が残ってたことだって今まで何度もあったんだ。……そんな奇跡を見た彼らは、『ぬらりひょんがどこかで生きてる』ことを信じてあの場所を守っているんだよ」
「……ぬらりひょんって、そんなに信頼されてるの?」
「俺は会ったことないけど、皆優しくて変わったお方だって聞いたよ」
いつか会ってみたいね、と笑って作間くんはまた歩き出す。
彼の前で考えるのはできる限りやめよう。警戒しながら彼の後を追った。
「しぐれ商店街」と書かれたアーチをくぐってすぐに、比較的新しいチェーン店のカフェや賃貸物件屋、百円ショップなどが並んでいる。その中にも通路ギリギリまで革靴が並んだ靴屋や古着屋も負けじと並んでおり、どこか昔の雰囲気を残していた。
駅が近いこともあってか、仕事帰りのサラリーマンや食材を詰め込んだエコバックを持って子供の手を引いて歩くお母さん、カフェの窓際の席で懸命に勉強している学生の姿も見受けられる。
私はこの近くに住み始めてまだ数年しか経っていないけど、それこそ立ち飲みバー「鈴々」のヒロさんくらいとしか交流はない。
というのも、私の仕事と通勤時間からして夜遅くに帰ってくることの方が多く、夜の八時を越えて営業しているのは居酒屋くらいだからだ。