彼女がこの件に関してどこかイライラとしていたのは、かの子を心配する気持ちと自分自身の限界との板挟みになっていたからかもしれない。
サケ子が口は悪いが非情なあやかしではないというのは今日一日でよく分かった。
「でも、こづえさんはなぜあれほど働くのでしょう?」
現代があやかしにとって厳しい時代だといってもそれは他のあやかしだって同じだろう。こづえだけじゃないはずだ。
「あぁ、それは…彼女は夫婦者ではないからね」
紅が言った。
「夫婦者ではない…」
のぞみは呟く。そういえば大抵のあやかしは、夫婦で預けに来て、夫婦で迎えに来ていた。
「親が一人なら…まぁ、その分"ぞぞぞ"をたくさん稼がなきゃいけないからね。必然的に」
なるほど彼女はシングルマザーというわけか。まだ若いのに子どもを一人で育てるのは大変だろうとのぞみは彼女に少しばかり同情的な気持ちになる。
だが次の紅の言葉がそれを否定する。
「ま、でもこづえはもうすぐ百歳になるベテランママだから…」
「え!?ひゃ、ひゃく!?」
のぞみは目を剥いて声をあげる。どこからどうみても小学生に見えたのに。
一方で、紅は平然として頷いた。
「そうだよ。こづえはあの通り気が強くて喧嘩っ早いから、何度も夫婦別れをしてるんだ。私が知っているだけで、そうだな…五回くらいは。でもそのたびにできる子どもはしっかりと育てあげているから、そう心配することはないよ」
のぞみは唖然として、こづえとかの子が消えていった森の方を見つめた。
「何にせよ、のぞみとかの子が仲良しになってくれて良かったよ。初めはのぞみがこづえに似ているから、くっついていったのかと思ったけれど、それ以上に相性がいいのかもしれないね」
「…私、こづえさんに似てますか?」
のぞみはまだ唖然としたまま、どこかうわの空で紅に尋ねる。そういえば、昨日も彼はそんなことを言っていたなと思いながら。
はっきり言って、ジュニア雑誌から抜け出してきたようなこづえと、野暮ったい自分のどこに共通点があるのか、さっぱりわからなかった。
紅はにっこりと笑って、「似ているよ」と頷いた。
「二人とも、子どもみたいに見えるところが」
「なんですか、それ!」
のぞみは声をあげる。
「私は成人してます!」
紅がはははと軽快に笑いだす。そして目を細めてのぞみを見た。
「それはもちろん知ってるよ! それでも…ね」
のぞみは頬を膨らませた。いつまでも高校生に間違えられるのがのぞみのコンプレックスなのだ。
紅がその頬を、笑いながら突いた。
「でもかの子だけじゃなく、他の子にとってものぞみは特別らしい。…なにかあやかしを引きつけるモノがあるようだ。今日一日、子どもたちと過ごす君を見ていてそう思ったよ」
自分があやかしに好かれる体質だなんて一日前の自分が聞いたなら、とんでもないと腰を抜かしたに違いない。でも今はただ素直に、それが本当ならうれしいと思う。そして自分の中に、その変化をもたらしたものの正体にのぞみは想いを巡らせた。
…もしかしたら、自分も何かに惹かれ始めているのかもしれない、そんなことをぼんやりと考えた。
園の建物へ入ると、すでに明かりは消えていて誰もいなかった。
「サケ子はもう帰ったみたいだね。のぞみももう今日はお終いだ。お疲れ様」
紅が言った。のぞみは頷いて、「お疲れ様でした」と頭を下げて玄関を出る。
だがアパートへの小道を行こうとすると、紅がカランコロンと下駄を鳴らして並んでついてくるのに気がついて足を止めた。
「あの…」
「送って行くよ。暗いし、怖いだろう?」
そう言われてのぞみは、アパートへの小道を見つめる。小道は月明かりに照らされて、それほど暗くはないし、アパートはすごく近い。
ここに来る前ののぞみにだって夜道を歩くことくらいあったのだから、怖いとは思わなかった。しかも神社の中は紅の結界に守られているという話だし…。
「大丈夫です。一人で帰れます」
そう言って歩き出そうとするけれど、手を取られてぎゅっと握られてしまう。
そのあやかしとは思えない温もりに、のぞみの胸がキュンと跳ねた。誰かと手を繋ぐなんて、記憶にある限り小さい頃の兄が最後だ。
「あの…」
「わかってるよ。セクハラはなしだろ?でもこれは親切だ。もう丑三つ時を過ぎたよ。私の結界が"あちらさん"に効くって誰か言った?」
「…効かないんですか?」
「さぁ、どうだろう?」
そう言って紅は、カランコロンと下駄を鳴らして歩きだす。のぞみもそれ以上は何も言わずに従った。
時間にしたら十数秒の道のりをゆっくりと歩いてアパートへ着くと紅が振り向いて微笑んだ。
「今日は一日よくがんばってくれたね。また明日」
手が離れるのを少し寂しいと思いながら、のぞみは月明かりに浮かぶ紅の赤い瞳を見つめた。
「はい、おやすみなさい」
のぞみの保育士としての第一日目が終わった。
次の日からほぼ毎日、かの子がのぞみのアパートへ来るようになった。午後三時を過ぎた頃に、コンコンと鳴るドアを開くとかの子が立っている、そんな具合だった。こづえの方はというと先に行ってしまうのか姿を見ることはなかった。
紅も大抵は同じくらいの時間に来て、出勤前のひとときをのぞみの部屋でかの子と遊びながら過ごしてゆく。のぞみが作る遅い昼ごはんを三人で囲むことさえあった。
普通に考えて、毎日上司が部屋に来るなんておかしいとのぞみは思うけれど、ちっとも嫌だとは思えないから不思議だった。いやむしろその逆で、二人が来るのを楽しみにしている自分が心の中に確実にいて、そのことにのぞみ自身ひどく戸惑っていた。
かの子はともかく紅の方の来訪を楽しみにする理由はいったいなんだろう。
いくら考えてもわからないけれど、自分の部屋でかの子を膝に抱いている彼を見るだけで妙な安心感を覚えるのだ。
彼は神格まで得ているあやかしだから、妙な術で自分は懐柔されているのかもしれないとのぞみは無理やり自分を納得させる。でももしそうだとしてもそれでもいいとすら思えるのだからやっかいだった。
そんなふうにして、概ねのぞみの保育士生活は順調にスタートした。
ただ一つの心配ごとを除いては。
ただ一つの心配ごと…それはかの子の母親、こづえのことだった。
「…紅さま、ここのところ毎日こづえさんのお迎えが遅いんです。どう思われますか」
ある日の帰り道、のぞみは思い切って紅に切り出す。この帰り道を二人で手を繋いで歩くというのも毎日の習慣となりつつあった。
これもどう考えてもおかしいとのぞみは思うけれど、"あやかしの常識などは自分にはわからないのだから"と自分に言い聞かせ、納得するしかなかった。というのもやっぱり少しも嫌だとは思えなかったからだ。
結局いまだにのぞみは、紅の結界が"あちらさん"に効くかどうかを知らないままだ。
「うーん、どうと言われても…。残業が困るなら、のぞみは先に帰るようにするかい?」
「そうじゃありません」
のぞみは首を振った。
「そうじゃなくて…、その、こづえさん毎日何をしてるんだろうって…」
毎日お迎えに来る彼女の格好は相変わらず派手だった。短いスカート、派手な化粧、およそ子どもたちに混ざって遊ぶ格好ではない。アルコールの匂いをプンプンさせて、明らかに酔っ払っていることさえあった。
いつも一番最後に迎えに来るが、よく考えたらそんな時間に人間の子どもたちは遊んでいない。だとすれば彼女は毎日一体何をしているのだろう。
「あやかしたちが、どうやって"ぞぞぞ"を稼ぐのかまでは私は関知しないよ。さらに言えば仕事をしてなくても構わない。それで"ぞぞぞ"を食べられなくて消えてしまったとしても、それはそれで構わないのさ」
こともなげに紅は言う。でもそれではあまりにもかの子がかわいそうだとのぞみは思った。
保育園でのかの子は、徐々に他の子に馴染みつつある。のぞみがいなくても園庭で他の子と一緒になって走り回る姿も見られるようになってきた。それでもお迎えの時間が近づくと側へ来て小さな手でのぞみの手をぎゅっと握る。自分のお迎えは一番最後だとわかっていても、玄関の方にじっと目を凝らす姿がのぞみの胸を刺した。
「人間の保育園では、子を預けた親が何をしているかまで気にするの?」
紅に聞かれてのぞみは黙り込んでしまう。
人間の保育園は保育が必要な子どもしか入れないというルールがあるから、仕事をしていない日は預けないで下さいということもできるだろう。でもここは、あやかしの保育園なのだ。さらに言えば紅のボランティアみたいなもので…。
その紅が"仕事でなくても構わない"というならば、そうなのだろう。
それでも…。
のぞみの脳裏に、かの子の寂しそうな瞳が浮ぶ。
「まぁ…迎えが遅いのはその通りだから、様子を見て私からも話してみよう」
紅の言葉に、のぞみは頷く。
だがもしこづえが、仕事ではない理由で遅くまでかの子を預けているのだとしたら、かの子がかわいそうだという思いはのぞみの中に確実に影を落としていた。しかもこづえは次の日も、その次の日もアルコールの匂いをさせて帰ってきたから、のぞみの中のその思いはどんどん大きくなっていった。
そして三日後、ついにそれが爆発した。
その日の迎えは特に遅くて丑三つ時もとうに過ぎた頃だった。しかも間の悪いことにかの子は夕食後に別の子どもと喧嘩をしてしょげていたから、自分以外の子どもが帰って一人だけになった際、泣き出してしまったのだ。
「お母さん、いつ帰ってくるの?」と言って泣くかの子にのぞみの胸が締め付けられた。両親が亡くなってすぐの頃はのぞみもよく泣いて、兄を困らせた。
そんなことまで頭に浮かんで、いつまでたっても現れないこづえにのぞみは苛立ちを募らせた。
そうしてやっと現れたこづえが、また例によって酒に酔っていたもんだから、のぞみの頭の中は彼女への疑念でいっぱいになった。