え? まさかお金のために?
「あやかしの子たちは、"ぞぞぞ"以外に普通のご飯も欲しがるし、おもちゃも本も必要だ。建物だってだいぶがたがきてるからちょこちょこ直さなきゃいけないし…。あやかしたちは、お金は稼がないから保育料は取れないんだよ。でもそれじゃあ、のぞみに給料が払えないだろ?」
「…サケ子さんは?」
「いや彼女は給料はなしだ。彼女の場合は別にメリットがあるんだ。つまり、私のために働くことであやかしとしての格が上がるというね。それに彼女にはお金は必要ない」
それは紅も同じだろう。でもそれならば、なぜ彼は保育園をやっているのだろう。今の話が本当ならば、あやかし園は完全に紅のボランティアだということになる。
のぞみはパソコンを立ち上げながら難しい顔で役所関係の書類を探す紅の、きれいな横顔をじっと見つめる。
天狗は古くは大陸から伝わったといわれるあやかしで、地域によっては山神さまと呼ばれ、人間の信仰の対象にもなってきた。
その彼が、なぜ…。
「あぁ、これだ。これこれ…ん?のぞみ?どうかした?」
事務所の入口で立ち尽くしているのぞみに紅が不思議そうに問いかける。
「え?あ、いえ…。何でもありません」
のぞみが答えると、紅はいくつか追加で指示をした。そして、「夕食までには戻るよ」と言って部屋を出て行った。
その背中は先ほどまでとは違い、近寄りがたい空気に満ちているような気がして、のぞみの胸がキュッとなった。
結局、事務処理にのぞみは夕食までの時間を全て費やした。申請書の中でわからないところがあったので役所の方へ電話をしたら、『山神保育園』に新しくのぞみが入ったことを知った担当者が、飛び上がって喜んで、今までの園の書類上の不備を山ほどよこしてきたからだ。
どうやら本当に紅もサケ子も書類関係は苦手らしい。二人ともあやかしなのだから、それは仕方がないと思うと同時に、のぞみのやる気に火がついた。紅に"ぞぞぞ"を食べてもらわないと子どもたちのところにも行けないなんて情けないと思ったけれど、そんな自分にもやれることがあるのが嬉しかった。
しばらくは夢中で取り組んだが、いかんせん量が多すぎて、夕食だとサケ子が声をかけにくるだんになっても、まだ半分以上が残っていた。
「あら、そこまでしてくれているんだね。助かるよ、役所がうるさかったんだ」
机の上をのぞきこんでサケ子が嬉しそうに言う。人間ののぞみにだってややこしく感じる手続きに、サケ子はうんざりとしていたのだろう。
「いえ、それよりも何も子どもたちのこと、お手伝い出来なくすみません。夕食の準備、お手伝いします」
のぞみは首を振って立ち上がった。
あやかし園の夕食は、普通よりも少し遅い午後九時ごろだ。事務所を出ると、ふた部屋続きのふすまが取り払われて座卓が一直線に並べられている。その周りで子どもたちが、ご飯を今か今かと待っていた。
少しだけぞぞぞときかけたのぞみだけれど、それよりもその光景に懐かしい思いを抱いで胸が温かくなるのを感じていた。十八歳までを過ごした施設では、こんな風にみんなで集まってご飯を食べた。施設を出て短大の学生寮に入ってからは、食事の時間は決まっていたものの基本的には個々だったから、こんな風にみんなで一斉に食べるのは久しぶりだ。
ご飯自体は街の弁当屋で毎日お弁当を頼んでいるようだった。子ども用が二十、大人用が二つ。それをサケ子と二人で並べていると、紅が帰ってきた。
「紅さま、お帰りなさい!」
途端に子どもたちが紅のもとへ駆け寄って、足に絡みついたり背中に飛びついたりして、部屋は大騒ぎになった。
紅は何人もの子どもたちに乗っかられながらも大して重そうにもせずに一人一人の頭を撫でてやっている。まるでお父さんが仕事から帰って来たみたいだと苦笑しながら部屋を見回したのぞみは、かの子が部屋の隅で膝を抱えていることに気がついた。うつむいて、寂しそうにしている。
「こういう時、かの子ちゃんは行かないんですね」
のぞみはサケ子にこっそり言った。開園前はあんなに嬉しそうに紅に抱かれていたのに。
「かの子は、園に通いだしてまだ日が浅いからね。他の子どもに交じるのが嫌なのさ。大抵は、母親がくるまでああやってじっとしてるよ」
のぞみはサケ子の言葉に驚いて、かの子をじっと見つめた。なるほど、まだ園に来て間もないなら母親が恋しくてさまよい出るのも頷ける。しかもずっとあぁしてるなら、母親が迎えに来るまで尚更長く感じるだろう。
「さぁさ、そのくらいにして早く食べとくれ!」
弁当を全て並び終えたサケ子が、パンパンと手を叩いて声を張り上げると子どもたちは、素直に従った。
「いただきまぁす!」
皆がいっせいに手を合わせるのに少し遅れてかの子も席に着く。それを視線で追って少し安堵したのぞみの肩をサケ子が叩いた。
「悪いけど、のぞみはここで子どもたちと食べてくれない? 私は事務所で食べるよ。私が一緒に食べると子どもたちが泣くんだ」
わかりましたと頷きながらものぞみは首を傾げる。
一緒に食べると子どもたちが泣く?
サケ子はそんなのぞみに涼しげな目元を細めてふふふと笑う。そして口元を覆っている布を指さした。
「わけを知りたい?」
のぞみは何やら背筋がむずむずとするのを感じていた。そういえば見た目は普通の綺麗なお姉さんにしか見えないサケ子は、いったい何のあやかしなんだろう。変わったところといえば口元を布で覆っていることくらいで…。
見ない方がいいとのぞみの本能が警告するのに、視線はその布に吸い寄せられて動かせなかった。
サケ子が嬉しそうに微笑みながらその布をゆっくりと外すと…、その口は、耳まで届くくらいに真っ赤に裂けている。
「ひっ!」
のぞみは、思わず声をあげてしまう。後ろで何人かの子が泣き出した。
「サケ子先生こわーい!」
口裂け女だったのか!!
口も聞けないくらいに驚いて、腰をぬかさんばかりののぞみのうなじをいつのまにか側に来ていた紅がそっと撫でた。
「ダメじゃないか、サケ子。勝手にのぞみをぞぞぞとさせちゃ。のぞみの"ぞぞぞ"は誰にもやらないと言っただろ?」
ぽわんと宙に浮く"ぞぞぞ"を見つめながらのぞみはふぅーと長い息を吐いた。あぁ、びっくりした。
サケ子はカラカラと笑いながら再び布で口元を覆った。
「本当に怖がりだねぇ、あんた」
口以外は本当に綺麗な女の人だ。そう思うとのぞみはなんだか、怖がって声をあげてしまったことを申し訳なく思った。
「あ、あの…すみませんでした。怖がったりして」
恐る恐る謝ると、サケ子は一瞬何を言われたのかわからないというように目を見開いて次の瞬間、ははははと声をあげて笑い出した。
「なんで謝るのさ! 変な子だね!」
「え? で、でも、女の人の顔が怖いだなんて…」
失礼だろう。のぞみは彼女の反応にやや面食らいながら答える。それをサケ子は一蹴した。
「私はあやかしだよ? 『お姉さん綺麗ですね』『ありがとう、これでもかい?』『ぎゃー!!』となって一人前なのさ。ここであんたが驚かなかったとしたら、それこそわたしゃ、消えなきゃいけない」
「そ、そうなんですね…。わかりました」
そんな二人のやりとりを、のぞみの後ろで見ていた紅は、くすくすと笑った。
そして、「のぞみは、本当に純粋に怖がってくれるから、子どもたちの練習にちょうどいいかもしれないね」などという聞き捨てならないことを言った。
夕食が終わるとのぞみは園の中を掃除をするようにサケ子に言われた。
あやかし園では、人間の保育園のように保育士が常に子どもの側にいる必要はあまりないらしい。子どもたちが怪我をしないように見守ったり、喧嘩を止めたりする必要がないというのだ。
「あやかしの子には、喧嘩も怪我も必要だからね。だからとにかく結界の中にいてくれさえすればそれでいいんだよ。大抵の子は親にもきつく言われているから園から出ようなんて思わないんだけど…」
そう言ってサケ子は、部屋の隅に視線を送る。かの子がうずくまっていた。
「時々、かの子がいるかどうかだけを気をつけていれば」