山神あやかし保育園〜園長先生は、イケメンの天狗です〜

「…保育園に来るあやかしたちはね。でも私のように神格を得たあやかしまた別なのだよ。…それでも昨夜のは本気ではなく、ただ少し驚かそうと思っただけなんだ。もちろんもうあんなことは絶対にしない。約束するよ」
(…でもそれは、ここで働くならばという条件付きでしょう?)
 のぞみは、朝日の中で優雅に微笑む紅をじっと見つめた。
 それにしても、テレビで見る天狗とは大違いだ。少し長い髪を今日は後ろで緩く結んで、薄い灰色の浴衣がよく似合っている。怖い存在であるはずなのに、どうしてこんなに美しいのだろう。
 一晩寝てどこかすっきりとした頭の中で、のぞみはそんなことを考えた。そして、ため息をついて口を開いた。
「…三か月」
「ん?」
「三か月でいいんですよね、契約書には確かその後は解除できるとありました」
 憮然として言うと紅が嬉しそうに目を輝かせた。
「先生になってくれるんだね?!」
 ガバッと身体を起こして紅が嬉しそうに声をあげる。
 のぞみはしぶしぶ頷いた。
「…目が覚めたら夢でしたっていうのを期待してましたけど、そうでもないようですし。考えてみたらよく確認せずに契約をしてしまった私にも非がありますから。…た、ただし!」
 のぞみは両腕を広げて今にも抱きつかんばかりの紅を、両手で押してストップをかける。
「こちらからも条件をつけさせて下さい」
 なにせ相手はあやかしだ。得体の知れない雇い主のもとで働くのだから、自分の身は自分で守らなくては。
 昨日はあんなに怖い顔をして脅かしたくせに、まるでおやつをもらったときの子供のように無邪気な笑顔で紅は頷いた。
「いいよ、なんだい?」
「私本当は怖がりなんです。今までの人生でそういうものはとことん避けてきましたから。たぶんそのまま働くのは無理そうです。その…ぞ、ぞぞぞを食べてもらわないと」
 古今東西、自分から"私のぞぞぞを食べて下さい"なんて言う人間はいないだろうとのぞみは思う。でもそうしないと絶対に無理だろうということもよくわかった。今だって、さっき紅が食べてくれたからこうやって顔を見て話せるのだ。
 紅が目を細めて、頷いた。
「願ってもない条件だね。のぞみのぞぞぞは美味しいからね。働いてくれるだけでなく食べてもいけるなんて、こんなにいい従業員はいないだろう」
 人を保存食みたいに言わないでほしいと睨みながらのぞみは、「それから!」と言葉を続ける。
「ちゃんと契約は守りますから、昨日みたいなのはやめて下さい。私、この街でやりたいことがあるんです。たましいを取られるわけにはいかないんです」
 今度は真面目な表情で紅は頷く。
「約束するよ。昨日は悪ふざけが過ぎたとちょっと反省したくらいなんだ。もうあんなことはしないし、のぞみのたましいも取らない。安心して」
 まだ出会って間もないあやかしの言葉だけれど、なんとなく信用できるような気がしてのぞみはホッと息を吐いた。
「それからこれは確認ですけど、お給料はちゃんと人間のお金でもらえるんですよね? その…あやかしのお金ではなく…」
 昔絵本で見た狸は、人を化かして葉っぱで買い物をしていた。それでは困るし、生活できない。
 のぞみの問いかけに、紅はくすくすと笑って、「大丈夫」と請け負った。
「なんなら銀行振込でもいいよ」
 え?あやかしが?と心の中で驚きながらものぞみは胸を撫で下ろした。
「それはどちらでも大丈夫です。条件というか確認は以上です。よろしくおねが…」
「決まりだ!!」
「ぎゃ!」
 突然ガバッと抱きしめられて、のぞみは思わず色気のない声をあげてしまう。紅の浴衣の合わせからちらりと胸元がはだけて見えて、直視できなかった。
 油断するとすぐこれだ。
 のぞみは力いっぱい両手で紅を押して、大きな声で宣言した。
「あたりまえですけど、セクハラもダメですからね!!」
 働くのはいつからでもいいと紅は言ったがのぞみはその日から働くことにした。のぞみの荷物は短大の学生寮から持ってきたスーツケース一つで、引越しなどという大げさなことは必要ないし、アパートに一人でいてもやることがないからだ。
 もともとのぞみはじっとしているのが苦手なたちで、しぶしぶでもなんでも働くことになったのなら、早く職場に慣れたいと思う。
 そして、午後四時少し前。
 保育園へ向かうためアパートの部屋を出ようと扉を開けたのぞみの目に飛び込んできたのはかの子の姿だった。廊下に座って、くすんくすんと泣いている。
「かの子ちゃん?」
 のぞみはびっくりして駆け寄った。
「どうしたの?」
「お母さん、お仕事行っちゃった…」
 そう言って泣くかの子を見てのぞみは昨日のことを思い出していた。母親が恋しくて鳥居の外にまでさまよいでてしまっていたかの子。昨日はまさかあやかしの子だなんて知らなかったから交番に連れて行こうなんて思ったけれど、紅が言う通りあのまま外へ出てしまっていたら大変なことになっていただろう。
「私がここにいるって知ってたの?」
 尋ねるとこくんと頷く。
「昨日、紅さまに聞いたんだ」
「そう…」
 のぞみは胸を撫で下ろした。
 昨日かの子は、紅に"勝手にどこかへ行ってはいけない"と言われていたから、外へ出るのはやめてのぞみのところへ来たのかもしれない。
 そっと頭を撫でてみるとつやつやのおかっぱ頭に確かな質感。あやかしの子だと知っていなければ、人間の子とそう変わらないように思える。
 幸い、ぞぞぞとはこなかった。
「じゃあ、先生と一緒に保育園に戻ろうか」と声をかけると、くすんと鼻を鳴らしてからこくんと頷く。
 あやかしの子も人間の子も、母と離れるのはつらいのだと、のぞみの胸がつきんと鳴った。
 のぞみはその小さな手を取って、本殿へと続く小道を歩き出す。園に着くと中には紅とサケ子がいて、かの子の姿を見て驚いている。
「おや、かの子。…どうしてのぞみと一緒に来たの?」
 紅が尋ねる隣で、サケ子が舌打ちをした。
「座敷童子のやつ、また早い時間に来て置いて行ったな。…まったく、無責任なやつだ」
 それを聞いてのぞみはびっくりしてしまう。てっきり一度、保育園で預かってから、かの子が出てきたのだと思っていたからだ。
 まだ開いていない保育園に置き去りにされたというならば、寂しくてかの子がのぞみのアパートに来てしまったのも頷ける。
「座敷童子は仕事が始まる時間が皆より早いからね」
 紅が言ってかの子を抱き上げた。
「だからって紅さま…!」
 サケ子は憤懣やるかたないといった様子で目を吊り上げる。だが同じことが何度もあったというならば彼女の怒りはもっともかもしれない。
「座敷童子は子どもに交じって遊ぶあやかしだから、暗くなる前に出なければいけないんだよ」
 紅がサケ子にというよりはあやかし初心者ののぞみに言った。のぞみは紅の目を見てゆっくりと頷いた。
 お昼、仕事が始まる前に街へ出かけて駅前の本屋へ行ってきた。そこでのぞみは人生で初めて"妖怪図鑑"なるものを買った。おどろおどろしいその表紙の本は、今までののぞみなら前を通るのもごめんだったけれど、これも子どもたちを知るためと目をつぶってえいやと手に取ったのだ。そして部屋で真っ先に読んだのが、"天狗"と、"座敷童子"のページだった。
 その本の解説によると座敷童子は子どものあやかし。夕方子どもたちが遊んでいる中に交ざって遊ぶあやかしだ。
「…子どもたちの人数がいつもより多い、でも誰が増えたかわからないっていうあやかしですよね」
 のぞみが言うと紅が「おや、お化け嫌いののぞみが、予習してきたの? えらいえらい」と、にっこり笑った。
 それをやや胡散臭そうに見てサケ子がため息をついた。
「人間の子どもは最近では友達と公園で遊ぶということ自体が減ったからね。座敷童子もなかなか大変なのはわかるんだけど…」
 なるほど、だから少しでも早く出勤しようとかの子を置いていくのか。
「それにしたって危ないよ。紅さまの結界から出てしまったらどうするんだ」
 サケ子の不満は座敷童子のルール違反に対してというよりは、かの子を心配してのことらしい。一方でのぞみの方は耳慣れない言葉に反応した。
「結界…?」
「そう、結界。あやかしの子はちょっとやそっとでは怪我したりはしない。でも悪いあやかしに連れ去られたりする可能性があるんだ。だから、預かっているんだよ。この神社の中は紅さまの結界に守られているから大丈夫なのさ」
「悪いあやかし…?」
 呟きながら、のぞみの背筋がぞぞぞとなった。悪いあやかしがここに来るかもしれないの?
「大丈夫」
 紅がすかさず言って、のぞみのうなじをそっと撫でた。そこから、ぽわんと薄い緑色のシャボン玉のようなものが出て、のぞみの恐怖心が薄らいでゆく。のぞみはそのシャボン玉をじっと見つめた。
「…それが"ぞぞぞ"ですか…?」
 紅が嬉しそうに微笑んで、そのシャボン玉を手でちぎって美味しそうに食べた。
「さすがのぞみ、見えるようになったんだね。そうだよ、これが"ぞぞぞ"さ。綺麗な色をしているだろう?」