山神あやかし保育園〜園長先生は、イケメンの天狗です〜

 目の前で紅が優雅に微笑んでいる。さっきとは違うどこか禍禍しい畏怖さえ感じさせる空気が彼を包んでいる。
 背中がぞくぞくするけれど、誰も食べてはくれないから、恐ろしくてどうにかなってしまいそうだ。
「のぞみ、さっき君は私と契約を結んだだろう?あやかしの世界で契約は絶対だ。期間は三月(みつき)、その間は嫌でもなんでもここで働いてもらうよ」
 それは試用期間ではないのですか?という心の中の反論は恐くて口には出せなかった。
 やっぱりこんな恐い職場では絶対に働けないと強く思う。だがそれすらもう言葉にできない。
「どうしても契約を解きたいというならば、のぞみの一番大切なものを差し出してもらうことになる。のぞみの、そのたましいを…」
 そう言って紅がのぞみに手を伸ばす。その手があと少しでのぞみに触れるというところまできたのを見て、ついにのぞみは気を失った。
「やりすぎたかな…」
 青い顔でぐったりとしてしまったのぞみを腕に抱いて、紅は呟いた。
「のぞせんせー」
 紅に群がりのぞみに手を伸ばす子供たちを、サケ子が少々手荒に追い払いながら呆れたような声を出した。
「何をやってるのですか」
 紅は頭を掻いた。
「ちょっとだけ脅かして、あわよくばぞぞぞをもう一度もらおうと思ったのだけど、思ったよりも彼女は怖がりだったようだ」
「そういうことを言っているのではありません。いったいどういうつもりなんです? 人間をここに入れるなんて。…契約だなんて嘘ついてまで」
 あやかし同士の約定がたましいを懸けるのは本当だが、あの契約はそうなってはいない。
「だって、初めからかの子が見えるなんて貴重じゃないか」
「でも人間です」と、サケ子がため息をついた。
「そりゃ、座敷童子はあやかしの中でも格が高いですから、見えない輩もいるのは確かです。でも探せばいるでしょう?この間面接に来た猫又だって」
「…猫又は、子供たちが嫌がったじゃないか」
 紅は口をとがらせた。
「それでも、ここで働きたいというあやかしはわんさかいるのです。あなたさまが本気になれば…」
「ああいう輩はごめんだよ」
 紅がいやいやをするように首を振ると、サケ子は再びため息をついた。
「まぁあいつらは、働きたいというよりも紅さまの嫁の座を狙っているという方が正しいですからね。でも稲荷の親父の紹介なら、この子も似たようなものでしょう? それにしては人間なのが解せないですけど」
 紅は腕の中ののぞみを見つめた。
「いや彼女にはその自覚はないようだ。ただ純粋に安いアパートに惹かれて来たのだろう」
「ならどうして」
「どうしてかねぇ」
 首を傾げて紅はのぞみのひたいにかかる黒いまっすぐな前髪に触れてみる。さらさらとした感触が指先に心地いい。
「紅さま、のぞ先生をお嫁にもらうの?」
 いつのまにか、かの子が背に乗っかって紅に尋ねた。
「さぁ、それはどうかな。でもしばらくは楽しくなりそうだね。かの子?」
「うん!」
 かの子が嬉しそうに答えて、同時にサケ子が三度めのため息をついた。
「生活できるようになったら迎えに来るから、そしたらまた一緒に住もう」
 四歳年上の兄颯太は、そう言ってのぞみが十四歳の時に施設を出て行った。のぞみと颯太の両親はのぞみが小学校に上がった年に不慮の事故で亡くなった。それ以来のぞみにとって家族とは、兄だった。
 十八歳で社会へ出た兄が、生活の基盤を整えて迎えに来てくれるのをのぞみは楽しみに待っていた。また家族として一緒に暮らせる日がくることを想像するだけで温かい気持ちになった。
 だがその日は来なかった。
 兄からの連絡は途絶えて、行方知れず。唯一の手がかりは、一度だけ来た葉書だった。
「お兄ちゃん…」
 白いモヤの中に兄の背中を見た気がして、のぞみは呼びかける。幼い頃は怖がりなのぞみが夜中にトイレに行くたびについて来てくれる優しい兄だった。迎えに来られないのは仕方がないにしても、連絡もろくにくれないなんて一体何があったのだろう。
「お兄ちゃん…」
 もう一度、呼びかけると頬を一筋涙が伝った。
 寂しい。
 会いたい。
 思い切って背中に抱きつくと柔らかな感触。振り返った兄がのぞみを優しく抱いた。大きな腕はのぞみを包む。
「うーん」
 すっかり安心して、その腕に頬ずりをしているうちに、のぞみの意識は浮上する。少し眩しい朝の光を感じてうっすらと目を開けると、夢の中と同じように誰かに包まれるように抱かれていた。
「…?!」
 異変を感じてぱっちりと目を開くと、至近距離に、にっこりと微笑む紅の笑顔。
「おはよう、のぞみ。気分はどう?」
「ぎゃー!!!」
「のぞみ、のぞみ、落ち着いて!昨日のことは謝るから、もうあんなことはしないから!」
「いやー!!怖い!殺されるー!」
「大丈夫、大丈夫!そんなことしないから!」
「いやー!」
 足と手をじたばたさせて暴れるけれど、のぞみを囲う腕はびくともしない。
「うーん…仕方がないな、のぞみ、ちょっと失礼するよ」
 腕の中で暴れるのぞみに手を焼きながら、紅はそう言うと身体を起こしてのぞみのうなじに唇を寄せた。
 パクリもぐもぐもぐ。
 ごくんと満足そうに喉を鳴らして、紅がのぞみの頭に口づけた。
「うーんやっぱり、美味しいなぁ。のぞみのぞぞぞは」
 その瞬間、のぞみの中の怖い気持ちが、少しだけ和らいだ。
 紅が赤い唇をぺろりと舐めて、にっこりと微笑んだ。
「少しは、落ち着いた?」
「こ、こ、こ…」
「ん? なあに?」
 バチン!
「この、変態!!」
 怖い気持ちがなくなったら、次は怒りが湧いて来た。まがりなりにも女子であるのぞみの布団になぜいっしょに寝ているのか。
 紅が嬉しそうに笑い出す。
「あはは!その様子だと元気だね。心配したよ、昨夜は青い顔をしてすっかりのびてしまったからね。しかもそのままぐーぐー寝てしまうし…」
 そうさせた張本人のくせに、悪びれることなくそんなことを言う紅を睨みながら、のぞみは慌てて布団を出る。だがすぐに、自分が白い浴衣を着ていることに気がついて目を剥いた。少しはだけだその浴衣を一生懸命直しながら、のぞみは真っ赤になってしまう。気を失う前は確かTシャツを着ていたはずなのに、これは一体…。
 視線を上げると、紅が布団に肘をついて寝そべったまま眉を上げて微笑んでいる。
 のぞみはぶんぶんと首を振って、そのことについては考えないことにした。
 それにしても、とのぞみは昨日のことを思い出す。確か彼はのぞみのたましいをもらうと言ったはずなのに、どうしてこんなことになっているのだろう。よく見てみると、二人がいるのは昨日借りることになったのぞみの部屋だ。すみっこには、駅前のホテルにあるはずののぞみの荷物が置いてあった。
 得意そうに紅が言う。
「昨日のうちに運んでおいたよ。引越しの手間が省けるだろう?」
 では彼はやはりのぞみがここで働くことを諦めてはいないのだ。たましいを取らないでやったから、いうことを聞けということか。
「…ウソつき」
 ぽつりと言うと紅がわずかに眉を上げた。
「あやかしはたましいを取らないって言ったじゃないですか」
「…保育園に来るあやかしたちはね。でも私のように神格を得たあやかしまた別なのだよ。…それでも昨夜のは本気ではなく、ただ少し驚かそうと思っただけなんだ。もちろんもうあんなことは絶対にしない。約束するよ」
(…でもそれは、ここで働くならばという条件付きでしょう?)
 のぞみは、朝日の中で優雅に微笑む紅をじっと見つめた。
 それにしても、テレビで見る天狗とは大違いだ。少し長い髪を今日は後ろで緩く結んで、薄い灰色の浴衣がよく似合っている。怖い存在であるはずなのに、どうしてこんなに美しいのだろう。
 一晩寝てどこかすっきりとした頭の中で、のぞみはそんなことを考えた。そして、ため息をついて口を開いた。
「…三か月」
「ん?」
「三か月でいいんですよね、契約書には確かその後は解除できるとありました」
 憮然として言うと紅が嬉しそうに目を輝かせた。
「先生になってくれるんだね?!」
 ガバッと身体を起こして紅が嬉しそうに声をあげる。
 のぞみはしぶしぶ頷いた。
「…目が覚めたら夢でしたっていうのを期待してましたけど、そうでもないようですし。考えてみたらよく確認せずに契約をしてしまった私にも非がありますから。…た、ただし!」
 のぞみは両腕を広げて今にも抱きつかんばかりの紅を、両手で押してストップをかける。
「こちらからも条件をつけさせて下さい」
 なにせ相手はあやかしだ。得体の知れない雇い主のもとで働くのだから、自分の身は自分で守らなくては。
 昨日はあんなに怖い顔をして脅かしたくせに、まるでおやつをもらったときの子供のように無邪気な笑顔で紅は頷いた。
「いいよ、なんだい?」
「私本当は怖がりなんです。今までの人生でそういうものはとことん避けてきましたから。たぶんそのまま働くのは無理そうです。その…ぞ、ぞぞぞを食べてもらわないと」
 古今東西、自分から"私のぞぞぞを食べて下さい"なんて言う人間はいないだろうとのぞみは思う。でもそうしないと絶対に無理だろうということもよくわかった。今だって、さっき紅が食べてくれたからこうやって顔を見て話せるのだ。
 紅が目を細めて、頷いた。
「願ってもない条件だね。のぞみのぞぞぞは美味しいからね。働いてくれるだけでなく食べてもいけるなんて、こんなにいい従業員はいないだろう」
 人を保存食みたいに言わないでほしいと睨みながらのぞみは、「それから!」と言葉を続ける。
「ちゃんと契約は守りますから、昨日みたいなのはやめて下さい。私、この街でやりたいことがあるんです。たましいを取られるわけにはいかないんです」
 今度は真面目な表情で紅は頷く。
「約束するよ。昨日は悪ふざけが過ぎたとちょっと反省したくらいなんだ。もうあんなことはしないし、のぞみのたましいも取らない。安心して」