山神あやかし保育園〜園長先生は、イケメンの天狗です〜

 のぞみをちゃぶ台の前に座らせてから、宮司は契約書を見せた。
《雇用契約》
一、保育園内で起こったことは口外しない。
ニ、保育園で働いている間は、家賃はなし。
三、試用期間は、三ヶ月。その後は双方の合意により解消できる。
四、給料は…。
 そこまで読み進めて、のぞみは契約書から顔をあげた。相場より給料が高いような気がした。
 宮司はそんなのぞみの視線を受けて、「安心して」と微笑んだ。
「試用期間っていうのは建前だから」
「い、いいえ、そうじゃなくて…」
 そう言ってのぞみはもう一度契約書に視線を戻す。
「お給料…こんなにいただいて良いのですか。…私、実務経験はないのに…」
 まだ世間を知らないのぞみだけれど、保育士の仕事が大変な割にお給料が少ないということくらい知っている。ましてや、学校を出たてでまだ戦力になるかどうかわからないのぞみの給料としては多すぎると思った。
 もしかして私、良くない話に騙されかけている?
 宮司が、少しだけ申し訳なさそうにのぞみを見た。
「実はうちの保育園、勤務時間が特殊でさ。…夕方から深夜なんだ。だからなかなかなり手がなくてね」
「夜間…保育、ということですね」
 のぞみはもう一度契約書に目を落とした。なるほど、深夜勤務手当が入っているということか。
 宮司が神妙な顔で頷いた。
「事情があって夜にしか働けないという親御さんは案外と多いものだけど、夜に子どもを預かる保育園は限られているだろう? この街にはここしかないんだ」
 のぞみはふむふむと頷いた。
「うちの保育園に子どもを預けている親御さんの仕事は少々特殊だからね。小さい街だから、いろいろ噂になっても困るし。だから、契約書にはここでのことを口外しないことって項目が…」
「わかりました!!」
 大きな声で言ってのぞみは立ち上がる。俄然やる気が湧いてきた。
 夜に保育園なんてかわいそうと言う人もいるだろう。それでもそうやって生活している人がいる限り必要な場所なのだ。
 夜間保育へ通う親子が街の人たちの目を避けなくてはいけない状況には、施設で育ったのぞみにとってみればいろいろと思うところがあるが、それならば尚更力になりたいと思った。
「私頑張ります!!」
 のぞみは両手に作った拳をぎゅっと握りしめた。
 宮司が目を細めて、ふふふと笑った。
「じゃあ、契約成立だ。さぁ、ここにサインをして」
「私は紅(こう)、コウと呼んでくれ」
 雇用契約を結んだあと、さっそく職場見学をということになった。いつのまにか時刻は午後五時半を過ぎて、陽が傾きかけている。
 アパートを出て本殿への小道を紅について歩きながら、のぞみは不思議な感覚に襲われていた。ここへ来てからもうずいぶんと時間が経ったような気がする一方で、あっという間だったようにも感じる。
「コウ…」
 ぼんやりとしてのぞみは呟く。
 けれど、目の前で紅が微笑んで「そう」と頷いたのを見てすぐに慌てて首を振った。
「そ、そういうわけにはいきません! 目上の人を下の名前で呼ぶなんて…」
「うちは、そういうのは気にしないんだよ。園には君の他に保育士がもう一人いるんだけど、その子も私を名前で呼ぶよ?」
 全力で否定をしたのぞみに、紅は少しだけ残念そうに言った。それでも、そのもう一人の保育士と今日雇われたばかりののぞみとは立場が違うような気がする。
「わ、私には、無理です。え、園長先生と呼ばせていただきます!」
 思わず声をあげると紅は、少し驚いたように切れ長の目を見開いて、クスリと笑った。
「そんな風に呼ばれるのは初めてだけれど…、まぁ君が呼びやすいならそれでいいよ」
「そ、そうします…」
 頬を染めて答えながら、のぞみは全国津々浦々保育園はたくさんあれど、こんなに若くてかっこいい園長先生がいるのはこの保育園だけじゃないだろうかなどという不謹慎なことを考えた。
 もしかして、私ってすごくラッキー?
 そんなのぞみの内心はよそに、紅は再び本殿に向かって歩き出す。慌ててのぞみも後を追った。
 保育園は、本殿の裏の古い平家の建物だった。小さな園庭もあるけれど、森の木々に囲まれて、日の光はほとんど当たらないようだ。
 普通の保育園なら日当たりは重要だけれど、夜間保育園ならばこれでいいのかもしれない。そんなことを考えながら建物に足を踏み入れた瞬間、のぞみの背中をつーと冷たい汗が伝った。そしてぞぞぞと気持ちの悪い感覚が首筋を駆け抜ける。
 この感覚…。
 ここへ来てから何度か感じたこの感覚はなんだろう?こめかみからも汗が伝ってのぞみは思わず足を止めた。
「保育時間は大体、午後四時くらいから。ほら、もうみんな来てるよ」
 機嫌良く言って紅が振り返る。
 だがのぞみはその場に根が生えたように動けなかった。
 建物は古い日本家屋だった。玄関を入ると短い廊下を挟んで広い部屋が、一つ。その向こうに襖を開けっ放しにしてもう一部屋。どちらも外に出られるようになっていて、縁側の先には園庭だ。
「…子どもたち、どこにいるのですか」
 言いながら、のぞみは血の気が引いていくのを感じていた。だって、のぞみの目には子どもなんて一人も見えない。ただ誰もいない部屋と庭が広がっているだけなのだから。
 それなのに、ふふふとか、あははとか、きゃーとか、楽しそうな声とトタトタと子どもが走るような音だけが聞こえてきて、確かに"何か"はいるように思えるから不思議だった。
 これはまさか…。
 すっかり青ざめてしまったのぞみを見つめる紅の目尻が赤みを帯びた。
「あの…」
 思わずのぞみは後ずさる。ここに居てはいけないとのぞみの本能が警告する。
 ここは、私が居ていい場所ではない。
 だがいつのまにか、紅がのぞみの後にいて肩に両手を置いている。退路を絶たれて、のぞみはゴクリと喉を鳴らした。
 ふわりと香る、白檀の香り。
「いない…? 本当に? よぉく見てみて…」
 紅が囁く。
「目を凝らして…ほら」
 とろりと甘い砂糖菓子のような紅の声がのぞみの頭の中の一番奥へと届いた時、うっすらとぼんやりと、声の正体が輪郭をなしてゆく。
 うふふ。
 あはは。
 きゃ、きゃ、きゃ。
 部屋の中を、廊下を、それから日が差さない園庭を、転げ回り走り回る子どもたち。
 そこかしこで好き勝手に遊んでいる子どもたち…。
「ひっ…!」
 のぞみの喉の奥から引きつれたような声が出た。その声に反応して、子どもたちが一斉にこちらを向く。
 いやこれが子どもたちなのかどうなのか、とにかくみんな奇妙な見た目をしていた。
 ひとつ目、百目、のっぺらぼう。
 頭にお皿、頭にツノ、それから狐のようにふさふさの尻尾がある者も。
 もしかしてこれは…。
「おおおおお化け…!」
 腰が抜けて、へなりと床に座り込み、のぞみはあわあわと唇を震わせる。噛み合わない歯ががちがちと鳴った。
 力の入らない足で板間を蹴ってなんとか逃げようとするけれど、紅に抱き抱えられるように阻まれて叶わなかった。
「やっぱり君、見えるんだね。嬉しいなぁ。みんなおいで、新しい先生を紹介しよう」
 のぞみの背後で紅が嬉しそうに皆を呼ぶ。すると子どもたちが、興味津々といった様子でわらわらと集まってきた。
(よよよ余計なこと言わないで!)
 のぞみは心の中で叫ぶけれど、声に出すことはできなかった。