山神あやかし保育園〜園長先生は、イケメンの天狗です〜

 昨夜気持ちが通じたことを伝えなくてはとのぞみは思う。そうでなければ、紅の言動は彼女に誤解を与えてしまう。
 だがどのように言えば良いかがわからずに言葉に詰まってしまった。
(お嫁さまになりました…ではないし、お嫁さまになる約束をしました、というべきかな?)
 思いを巡らせるのぞみより先に紅が得意そうに宣言した。
「のぞみと私は昨夜、本当の夫婦になったのだよ。だから今後はそういった心配は無用だ、こづえ」
「え!…そうなの?」
 こづえは絶句してのぞみを見る。その目が、何か違うことを想像しているように思えて、のぞみは思わず声をあげた。
「ち、違います!もう、紅さま!ちゃんと言って下さいよ!いつかはお嫁さまになりますというお約束をしただけです。だから、アパートを出て行くことはないっていうのは本当ですけど…」
 厳密にはまだ夫婦ではないというのぞみの主張は、こづえとっては大した違いはないようだった。
「ついに丸め込まれたか…」と言って机に突っ伏した。
 紅がそれをじろりと睨んだ。
「何が、"紅さまは怖い"だ。こづえほど私の悪口をのぞみに吹き込むあやかしはいないというのに。見逃してやってるじゃないか」
 こづえはそれを無視して立ち上がる。そして少し哀れむようにのぞみを見た。
「のぞみ、大丈夫だからね。いい女になるにはいろいろな経験が必要だ。嫌なことがあったらいつでも夫婦別れしていいんだよ。私は夫婦別れの玄人だから、いつでも相談に乗るよ。女は一人が一番さ。でも、おめでとう」
 そう言ってかの子をひと撫ですると、のぞみが何か言う前に消えた。
 唖然とするのぞみの隣で紅が苦々しい表情で舌打ちをした。
「相変わらず、おしゃべりなやつだ」
「のぞせんせーおはよー!!」
 午後四時をまわったあやかし園の玄関先、ぞくぞくと子ども達が登園する。その中でひときわ大きな声で挨拶をしながら飛びついてきたのは、太一だった。
「おはよう、太一君。元気だねぇ」
 子どもとはいえパワーがある太一をなんとか受け止めながらのぞみは微笑む。だが、あることに気がついて首を傾げた。
「あれ?太一君、耳と尻尾は?」
「ふふふ、隠しているのです」
 太一の代わりに志津が答える。今日も菖蒲柄の浴衣を涼やかな着こなして、ため息が出るほど美しい。
「人間のふりをする練習を始めるって言って、昨日から。ふふふ、今まではあんなに嫌がっていたというのにどういう心境の変化かしら」
「のぞせんせーと夫婦になるなら絶対に必要だろう?」
 太一がのぞみを見上げてニカっと笑う。のぞみはうれしくなって太一を抱き上げた。
「先生のために?嬉しいな」
 だがすぐに紅の声に遮られて顔をしかめた。
「太一それは無用な努力だ」
 太一が紅に向かって舌を出した。
「のぞせんせーは、正式なお嫁さまではないと言っていたぞ、ならオイラにもチャンスはあるはずだ」
「残念だなぁ、太一。昨日は確かにそうだったんだが、あのあと私たちは正式に…」
「紅さま!!」
 のぞみは慌てて太一を下ろすと、こづえのときのように誤解を招くような宣言をしようとする紅の口を両手で塞ぐ。だが、すかさず紅に抱き上げられてしまい声をあげた。
「きゃっ!」
「照れ屋だなぁ、のぞみは。だが、幼子だからといって思わせぶりなことはだめだよ。あとから傷つくのは太一だからね」
 紅が腕の中でじたばたと暴れるのぞみに向かって愉快そうに囁く。のぞみは大人げないことをすると、彼を睨んだ。
「紅さま!無理強いはいけませんよ!!」
 別の角度から立腹をして、志津も青筋を立てている。
 紅はそんな二人のことは気にも留めずに優雅に微笑んで、子を預けて仕事へ向かおうとするあやかし達に向き直る。そして、嬉しそうに口を開いた。
「皆んな、忙しい時間に申し訳ないが聞いてくれ。今までのぞみが私にとって何ものなのかを、疑問に思っていた者も多いと思う。実際、私たちの関係は私たちの間でも曖昧なところがあったのだが、ついに昨夜はっきりしたんだ。のぞみは、いずれ…そう遠くない将来に、私の妻になることを受け入れた。つまり許嫁といったところだな」
 あやかしたちに、おお!というどよめきが起きた。
「こ、紅さま!」
 のぞみは紅に抱き上げられたまま声をあげる。
「なんだい?のぞみ」
「ここここんなところで、いきなり発表しないで下さい!」
 恥ずかしくて、のぞみは真っ赤になってしまう。大人のあやかしだけではなく子ども達も見てるというのに。
 紅が何がダメなんだというように首を傾げた。
「のぞみははっきりとさせたかったんだろう?お嫁さまではなくて、許嫁だと今言わなくていつ言うの?今日の降園後にでもあやかし大集会を開くかい?私はそれでもいいけれど」
 一平が追放された夜に、あやかしというあやかしがのぞみと紅を見ていたという話を思い出して、のぞみはぶんぶんと首を振った。
 でも考えてみれば、ひっそりと目立たなく紅のお嫁さまになりたいというのぞみの希望は、無理なことなのかもしれない。長(おさ)である紅の婚姻はこの辺りのあやかしにとっては他人事ではないのだから。
 のぞみがどういう存在なのかがはっきりとした今、皆一様に安心した表情で「紅さま、許嫁さま、おめでとうございます」と頭を下げている。
 のぞみに向かって"本当なのか"という視線を送っていた志津も、のぞみが頷いたのを見て安心したように息を吐いて頭を下げた。
 太一だけが、がっかりだというように眉を下げている。それを志津が優しくされど厳しく言い聞かせた。
「紅さまはこの辺りのあやかしの長さまです。保育園にいる間、紅さまの結界があなたを守ってくれているのよ。その紅さまのお嫁さまが大好きなのぞみ先生で嬉しいじゃない。お嫁さまになっても、先生が先生であることには変わらないのだから」
 のぞみは紅の腕から逃れて太一のところへ歩み寄る。
 太一がのぞみをじっと見つめて口を開いた。
「のぞ先生、お嫁さまになっても先生でいてくれる?」
「もちろんだよ!」
 のぞみは太一の肩をギュッと掴んだ。少し潤んだ瞳がいじらしくて、愛おしい。
「先生はずっとあやかし園の先生だよ。太一君が保育園に来てくれたら毎日遊べるからね」
 のぞみの言葉に太一が安心したように微笑んだ。
「約束だぞ!」
「うん、約束する。じゃあ、早速保育園に入ろうね」
 そう言ってのぞみは太一の手を握り保育園へ向かおうとする。そののぞみを志津が少し遠慮がちに呼び止めた。
「あの…のぞみ先生…、少しよろしいですか?」
「…はい?」
 志津はチラリと紅の方へ視線を送る。
「こんなこと、先生にお願いしてもいいものかわからないのですが…」
 紅は我先にとお祝いの言葉を述べるあやかしたちに囲まれて、人だかりならぬあやかしだかりの中にいる。
 こちらの会話は聞こえていないようだった。
 志津は何か紅に許可でもとりたいのか、そちらを気にしているが、のぞみはかまわずに先を促した。
「なんですか? 私でできることなら」
 志津はそれでも少し遠慮していたが、少し考えてから心に決めたように頷いてから話し始めた。
「実は主人のことなんです」
「旦那さんの?」
 志津の話が意外な切り口から始まったことに、のぞみは少し戸惑いながら聞き返す。
 志津が難しい表情で頷いた。
「以前先生には、主人が私と一緒になるために家族と縁を切った話はしましたよね」
 のぞみは黙ったまま頷いた。
「私、どうしても彼に家族との交流を再開してほしいのです。太一も人間のフリをする練習を始めたことですし…でも多分彼はすぐにうんとは言わないでしょう。以前にも話をしたことはあるのですが、頑なに断られていますから。…もし、私たちがあやかしだとバレて世間に知られるようなことになったら大変だと、それだけを考えているようです」
 志津はそこで言葉を切って、小さくため息をついた。頑なな夫をどのように説得すべきか悩み続けているのだろう。
「今日は主人の仕事が少し早く終わるんです。せっかくだからお迎えに来て、太一の保育園を見たいと言っているのですが…」
 そう言って志津はのぞみの手を掴みぎゅっと握った。
「先生、少しだけでいいので主人と話をしてくれませんか?あやかし園には人間の先生もいらっしゃることは話してあります。人間の中にものぞみ先生のようにあやかしを受け入れてくださる人もいるのだと知れば、主人の考えも変わるかもしれません」
「なるほど…」
 呟きながらのぞみの胸がぎゅんとなった。本当に志津が心から夫を愛おしく思っているのだということが伝わってくる。
 のぞみは志津の目を見て頷いた。
「わかりました。私に何ができるかわかりませんが、さりげなくお話をしてみます」
 おそらく何か特別なことを言う必要はないだろうとのぞみは思う。ただ子ども達とのぞみが楽しく過ごしているのを見るだけでも伝わるものがあるはずだ。
「…ありがとうございます」
 志津が安堵したようにため息をついた。