いつもの紅からは想像もできない真摯な言葉がのぞみの身体を貫いた。みるみるうちに視界がにじんで彼を見つめる瞳から涙が溢れた。
あやかしに恋などしても仕方がないという思いも、たとえ気持ちが通じあってもうまくいかないことばかりじゃないかという不安も、全てのことが今この瞬間にのぞみの中から消え失せた。
たとえどんな形であっても、彼の隣にありたいと心から思う。迷いはもうない。
紅がのぞみの涙をそっと人差し指ですくう。そして不安そうに眉を寄せた。
「のぞみ? どうして泣くの? 私の気持ちは迷惑かい?」
のぞみはふるふると首を振った。
「違います。ただ、うれしくて…。私、私も紅さまが好きです。お嫁さまにして下さい」
「のぞみ!!!」
紅がのぞみを抱きしめて喜びを爆発させた。
「本当に、本当に、本当だね!! あやかしの世界で約束事は絶対だよ。やっぱりやめたなんて言っても許さないから」
ぎゅうぎゅうと苦しいくらいに自分を包む彼の背中にのぞみもそっと手を回した。
「やっぱりやめたなんてなんて言いません。あの、でも…一つだけお願いがあります」
紅が少しだけ身体を離してのぞみの頬に手を当てた。
「なんだい?なんでも言ってごらん」
のぞみはうつむいて少し考えを巡らせる。人同士ならば当たり前のことだけれど、紅は天狗であやかしの長(おさ)だ。もしかしたら非常識な願いかもしれないという考えが頭に浮かんだ。それでもやっぱり言わなくてはとのぞみは思う。これだけは譲れない。
「アパートに…、他の女性を入れないでください。つまり、その…お嫁さまは私だけにしてくだ…」
「もちろんだよ!!」
「きゃあ!!」
最後まで言い終わらないうちに再び紅がのぞみを抱きしめる。
もうだいぶ慣れたとはいえ、やっぱりのぞみは驚いてしまう。それでも、紅の言葉には大きく安堵した。
あやかしの常識、人間の常識、違いは沢山あるだろうが、なるべくのぞみも合わせるように努力しようと思っている。だがこれだけはどうしてもあやかしのように割り切ることはできないだろう。
そのくらい彼のことを愛おしいと思う。
「大丈夫、のぞみ以外は嫁に取らない。稲荷の親父にはもう誰もよこさないように言っておくよ。のぞみが嫌ならあのアパートは取り壊して、別に二人の新居を建てよう。最新家電を入れてのぞみが住みやすいように」
紅がのぞみに頬ずりをしながら甘く耳に囁いた。
のぞみは頬を染めて首を振る。
「そ、そこまではしなくても…。私あのアパート好きなんです。こづえさんと、かの子ちゃんが遊びに来るあの部屋が…」
それにあのアパートは、サケ子やこづえ保育園の子ども達、それから紅に出会うきっかけとなったのぞみにとって大切な場所だ。
なくなるなんて寂しすぎる。
いつのまにかのぞみの頬にあった紅の手が移動して、のぞみの唇をそっとたどる。
(紅さまの目、きれい…)
ぼんやりとのぞみがそんなことを考えたとき紅の長いまつ毛が近づいて、唇に柔らかい口づけが降ってきた。
「じゃあさっそく、アパートへ戻って婚礼だ」
初めての口づけの余韻が残りまだぼんやりとしているのぞみに、紅が嬉しそうに囁いた。そして今にも抱き上げようとするのを、はっとしてのぞみは止めた。
「ちょ、ちょ、ちょっと待って下さい!婚礼って、そ、それはつまり…?」
ふふふと笑って、紅はにっこりとして頷きかける。
「もちろん、子を成すためのアレだよ」
「ちょ、ちょっと待って下さい!!」
のぞみは必死になって声をあげる。
ついさっき心が決まったばかりだというのに、いくらなんでも展開が速すぎる。
一方で紅の方はというと驚いたように眉を上げて、あぁ、と言ってからまた微笑んだ。
「あやかし同士が夫婦になるときは人間のように、大っぴらに儀式をしたりはしないのだけど、もちろんのぞみは人間だからきちんとした婚礼もあげようね。子どもたちも呼んで盛大に。でもまずは何はともあれ…」
再び抱き上げようとする紅の腕の中でのぞみは精一杯身をよじる。そして両手で彼の胸を押し返した。
「だから!どうしてすぐにそうなるんですか!!」
「だってもう我慢できないよ。今までだって散々焦らされてきたのに…」
のぞみは必死で首を振った。
「そ、そうじゃなくて、私、い、今すぐにお嫁さまになるとは言ってません! 紅さまもいずれでいいと言ったじゃないですか!」
「え?そうなの?」
紅がぴたり動きを止めて、のぞみを見た。
「…そうです」
のぞみの言葉にショックを受けて、ぽかんと口を開けている紅を見て、のぞみの胸がちくりと痛んだ。こんなに喜んでくれているのにと。
それでも言わなくてはとのぞみは思う。そうでないとすぐにでもアパートへ連行されてしまうだろう。そしてすぐに"婚礼"だ。
のぞみは唖然とする紅から視線を逸らし、街の灯りを見つめて少し長いため息をついた。
「ごめんなさい、紅さま。私…この街へは兄を探しに来たんです。このまま紅さまと夫婦になるのだとしても、できれば…結婚式には兄にも来てもらいたい…私の、たった一人の家族なんです…」
あやかし園に休みはない。
親たちの仕事に土曜も日曜もないからだ。それでも人間の保育園と同じように、のぞみは休みをもらっている。
その休みを利用してのぞみは兄を探しを続けていた。
だが未だ手がかりは掴めないままだった。
少ししょんぼりとしてうつむくのぞみを見つめていた紅が思い出したように声をあげた。
「そうだった!今日の寄り合いで聞いてきたよ。のぞみのお兄さんのこと」
「…え?兄のことを?」
のぞみが呟いて顔を上げると、機嫌良く頷く紅と目が合った。
「私は、あやかし探しなら得意だけれど、人間となるとからきしダメだからね。人のことは人に聞くのが一番だと思ってさ。今日は地域の情報通が集まる寄り合いだし、ちょうどいいからいろいろと聞いてきたよ」
「紅さま…」
「まぁ、小さい街とはいえ、最近では人の出入りも多いからあまり期待はしてなかったんだけど」
そう言って紅はのぞみをじっと見つめた。
のぞみの胸がドキドキと鳴った。
「商店街にある小さな寿司屋に数年前から働いている寿司職人が、『君島』というそうだ」
「本当ですか!?…きゃ!」
のぞみは声をあげて立ち上がる。だがその拍子に勢い余ってぐらりと体勢をくずし枝から落ちそうになった。
それを危なげなく受け止めつつ、紅が眉を寄せた。
「のぞみ、まだ本当にその人が君のお兄さんかどうか、わからないんだ。あまり期待をしすぎないようにしなくては、違ったときにつらい思いをするよ。…だから、私も本当はまだ言わないでおこうと思ったのだけれど」
彼の心配そうな表情を見つめながら、のぞみの胸は感謝の気持ちでいっぱいになった。
今夜紅は、駅前の商店街の寄り合いに顔を出したのだが、これはとても珍しいことなのだとサケ子が言っていた。
紅は人間の集まりには極力参加をしないようにしている。
それは彼が人間を避けているというわけではないらしい。
紅が行くと彼があやかしだとは知らないおじさん連中から、やれ見合いをしろだの、あそこの娘はどうだだのとからまれるからだ。
面倒くさいから本当に必要な時だけにするよと日頃はほとんど参加しないという話だった。
それでも今夜行ったのは、おそらくはのぞみのためだろう。
しかもそれをあらかじめ言わなかったのは、空振りに終わったときにのぞみをがっかりさせないように配慮してくれたに違いにない。
「紅さま」
のぞみはふいに泣きそうになって、紅の胸に抱きついた。あやかしは人間よりも情が薄いなんて嘘だと思う。
紅はいつものぞみを大切にしてくれているじゃないか。
それからサケ子もこづえも志津も、みんなみんな温かい心でのぞみを包んでくれている。
紅の言っている人物が兄でなかったとしても大丈夫だという確信にも似た気持ちがのぞみの心に湧き上がった。
自分にはこんなに温かい仲間がいるのだから。
「その寿司職人についてはちょっと気になることもあるんだ。もう少し私に任せてくれないか。必ず、ちゃんと伝えるから」
紅がのぞみを抱きしめて、頭を撫でた。
のぞみは彼の香りに包まれて頷いた。この腕の中は心の底から安心できる場所だ。
「紅さまにお任せします。私のためにいろいろしてくれて…ありがとうございます」
紅がのぞみの頭に頬ずりをして、口づけた。
「可愛い可愛いのぞみのためだもの」
「へー、キツネが味方になったんだ」
いつもの時間のぞみ部屋でお茶をすすってこづえが言う。のぞみはこくんと頷いた。
「いい人ですね。志津さん」
こづえはうーんと首を傾げてから「でも、すごく怖い」と顔をしかめた。
「まぁ、味方になってくれるなら百人力だよ。何しろ紅さまに意見することができるのは志津くらいだろうから」
のぞみはそういえばと、昨夜のことを思い出した。紅がのぞみを騙したことをすごく怒ってくれていた。
あんな風に言ってくれたのは彼女だけだった。
「私ものぞみのことは大好きだけど、紅さまは怖い。だからあまり力になってやれなくて申し訳ないと思うんだけど…」
「そ、そんなことないです!いつも話を聞いてもらってとってもありがたいんです!」
のぞみの言葉にこづえは嬉しそうに微笑んで、隣に座るかの子の頭を撫でた。
「まぁ、何にせよ。これからもしもあんたが本気でアパートを出たくなったとしたら、力になってくれるのは志津だと思う」
のぞみはこづえの言葉の意味を少しの間考えてから、あ、と声を漏らして頬を染めた。