六平は口を一文字にして何かを堪えるような顔だ。太一に捕まったことがよほど悔しいのだとのぞみは思った。だが彼を引き上げてみてそれだけではないことがわかった。
六平の足が血の色に染まっている。
「ろっくん、大丈夫!?」
のぞみは慌てて足の傷を確認する。幸いにもさほど深いものではなさそうだったが、そもそも身体能力の高い鬼の彼が怪我をすること自体が珍しい。のぞみが園で働くようになってからは初めてのことだった。
六平は唇を噛んで、必死に涙を堪えている。痛いのか、悔しいのかおそらくはその両方だろうとのぞみは思う。
だが鬼三兄弟の一番上である彼は、泣くことを恥だと思っているのだろう。いじらしいほどに一生懸命に我慢をしている。
「ろっくん、身体を洗って中に入ろう?」
のぞみが彼に言ったとき、後ろでわっと泣き声があがる。意外にも泣き出したのは太一だった。泥だらけの手で擦った真っ黒な顔でわんわんと声をあげている。
のぞみは彼を引き寄せて抱きしめた。
「太一君、大丈夫、大丈夫だから」
一方で六平の方は目を丸くしている。驚いて、涙は引っ込んでしまったようだ。そして唖然としながら口を開いた。
「な、なんでお前が泣くんだよぅ、太一」
同じことを思ったのか、七平と八平もやってきて、びっくりしたように太一を見ている。
「お前、勝ったんだぞ。オイラたちに」
「血が…、血が出てるじゃあないか!」
太一はのぞみの胸に顔を埋めて叫ぶように言う。その彼をのぞみは再びぎゅっと抱きしめた。
「血が出たら痛いよね、太一君はわかるもんね」
のぞみが言うと、六平がまたまた驚いたように声をあげた。
「太一お前、オイラのために泣いてるのか!?」
いつのまにか帰ってきていた紅が、六平を抱き上げた。
「人は情が深いのだ。お前が受けた傷はお前のものだとはしない。どれほど痛いかと頭に浮かべて、同じように心を痛める。おもしろいとは思わないか?なぁ、六平」
そしてみんなで水場へ行き、きれいになって部屋で手当てをする頃には太一の涙も止まっていた。
「…太一、約束どおり、オイラはお前の子分になるよ」
六平がむくれ顔のまま太一に言う。
以前に約束したことを守ろうとしているのだ。あやかしの間で"約束"は絶対だから。だが太一は、少し考えてから首を振った。
「お前みたいな生意気な子分はいらない」
「は!?だってお前!」
「子分はいらない…、子分じゃなくて…」
少し顔を赤くして、いいよどむ太一の言葉をのぞみはにっこりと笑って、引き継いだ。
「子分じゃなくて、仲間になりたいんだよね」
太一が真っ赤になって、こくんと頷いた。
鬼三兄弟は一瞬戸惑うように顔を見合わせる。だがすぐに互いに確認し合うように頷いた。
「わかったよ」
六平が言ってへへっと笑った。
「せっかくオイラを子分にするチャンスだったのに、太一お前変な奴だな。紅さまの言う通り、人間っておもしろいや」
それからみんなで紅が持って帰ったお土産の団子を食べた。駅前の団子屋の主人が、保育園の子らにと言って沢山くれたのだという。
太一もヒトシも長次郎も鬼の子もみんなで輪になってお腹いっぱいになるまで食べた。
そして降園時間なり志津が迎えに来た。
「母ちゃん! オイラ今日は仲間がいっぱいできたぞ!」
抱きついて、早速太一が報告をする。その背中に、鬼の子たちの声がかかった。
「太一、また明日な!明日こそは負けないぜ!」
太一も振り返ってそれに応える。志津が胸元から出した手拭いで目頭を押さえた。そしてのぞみの方へ視線を送り、ペコリと頭を下げた。
「…先生、ありがとうございます」
のぞみは慌てて首を振る。
「私は何も…、全て太一君の力です。お友達になりたいという彼の心が通じたのです」
本当に彼の頑張りには頭が下がる思いだった。全力でぶつかり、決してあきらめない。彼はその小さな身体に計り知れないほどの大きなパワーを隠し持っていたのだ。
のぞみは少し屈んで、太一と視線を合わせる。そしてにっこりと微笑んだ。
「今日は嬉しいことがいっぱいあったね。先生もすごく幸せな気持ちになっちゃった。ありがとう太一君」
のぞみの言葉に太一が鼻を掻いてへへへと笑う。照れているのが可愛らしいと再びのぞみが微笑んだとき、母親の方を振り返って少し意外なことを言った。
「母ちゃん、オイラ人間は嫌いだなんて思ってたけど、そうでもないや。大きくなったら、のぞ先生と夫婦になってもいいかい?」
突然の太一の言葉にのぞみは驚いて、でもすぐに嬉しくなった。学生時代に保育士になると決めたときに、このようなシチュエーションを想像した。いつかそんな風に言われるくらいの先生になりたいと。まるでその夢が叶ったみたいだ。
保育士としてはまだまだ未熟であることに違いはないが、それでもこの仕事の魅力は十分すぎるほどおしえてもらった。あやかし園にきてよかったと心から思う。
一方で志津の方は、息子の可愛らしい言葉に、真剣な顔で首を振った。
「いけません、太一。のぞみ先生は紅さまのお嫁さまなんだから」
「え?先生、そうなの?オイラと夫婦にはなってくれない?」
眉を下げて残念そうにのぞみに尋ねる太一に、のぞみの胸はきゅーんとなる。とっさに抱きしめたくなって手を伸ばしかけるが、背後から紅の声が被ってきてピタリと動きを止めた。
「では太一は私と恋敵になるわけだね。子どもだからって容赦はしないよ」
「こ、紅さま!」
のぞみは振り返って声をあげた。
大人たちならともかく子どもにまでありもしない嘘をつくなんて、どうかしてるとのぞみは思う。それなのに、紅の方はそんなのぞみには構わずに、太一に向かって語りかける。
「それに太一、おっかさんに言う前にまずはのぞ先生に確認しなくちゃいけなかった。そんなところはまだまだ子どもだね」
のぞみは紅を睨んで、太一に向き直ると肩を掴んで彼を見つめた。
「太一君、そんなふうに言ってくれて先生とっても嬉しいな。太一君が大きくなったら考えようね。それから、先生は紅さまのお嫁さまではないのよ。紅さまは冗談がお好きだから、いつもああやっておっしゃるだけで…」
「そうなのか?!」
「そうなんですか?!」
太一と志津が同時に声をあげる。志津が驚いていることに、のぞみの方も驚いてびくりと肩を揺らした。
それでも二人に向かって頷いた。
「実はそうなんです」
「でものぞみ先生、先生はアパートに住んでいらっしゃるでしょう?それに私…夫と結婚してからはあやかしの世界からは遠ざかっておりましたが、紅さまが人間のお嫁さまを迎えられたという話は、耳に入ってまいりました。それなのに、これはいったいどういう…」
志津が困惑しながら形の良い眉をひそめる。のぞみはそれを見つめながら、あらためて彼女が紅の妻であったことに納得がいく心地がした。
今まで会ったあやかしたちは、誰ものぞみの話を聞いてはくれなかったというのに。
紅が気まずそうにそっぽを向いた。
「私、あのアパートが紅さまのお嫁さまのためにあるなんて知らなかったんです。ただ、安いアパートがあるからって言われてここに来て、なんだか何もわからないままに入居してしまって…。後になってこづえさんから事情を聞いて本当にびっくりしました。だから、みんなが思うようなお嫁さまではないんですよ」
話をしている間に、みるみる志津の目が釣り上がっていく。白くてふさふさとした尻尾がぴーんと立った。
そしてそうっとその場を離れようとする紅をジロリと睨むと、「紅さま、どういうことです?」と彼を止めた。
紅がため息をついて振り返った。
「のぞみはすごく怖がりなんだ。あやかしのアパートだって知ってたら、入ってくれなかったよ」
「だからって!のぞみ先生を騙したんですね!」
「人聞きが悪いなー、少しだけ事実を隠していただけさ。そのことはもうすでにのぞみには謝って解決済みさ」
「だからって!」
青筋を立てる志津と心底うっとおしそうな紅、のぞみは慌てて二人の間に入った。
「し、志津さん、大丈夫です。私、今はこれでよかったって思ってますから。あやかしの子どもたちの先生をさせてもらえるなんて人間の中じゃ私くらいでしょう? むしろラッキーだったって思うくらい」
のぞみの言葉に紅は得意そうに眉を上げて、「ほーらね」と言った。
志津はそれでも納得はせずに、のぞみの両手を取り、少しだけ首を傾げてじっと見つめた。
「のぞみ先生、先生は太一の恩人です。いえ太一だけでなく、私ものぞみ先生にたくさん勇気をいただきました。…その先生をうまく言いくるめて、知らないうちにお嫁さまにしてしまおうという輩は、たとえ紅さまでも許しません」
志津はそこで言葉を切って、鋭い視線で紅を睨んだ。そしてもう一度のぞみに向き直る。
「先生、困ったことがあったらいつでも私におっしゃってくださいまし。キツネの一族は紅さまにだって負けません」
「あ、ありがとうございます…」
志津の勢いに押されるようにのぞみはこくんと頷いた。
背後で紅が、「やれやれまたうるさいのが、のぞみの味方に付いてしまった」とボヤいた。
少しだけ潮の香りのする風がざざざと大木の葉を揺らす。
その枝にのぞみは紅と二人腰掛けて眼下に広がる街の灯りを眺めている。
「怖くはない?」
紅がのぞみを後ろから抱いて、耳元で囁いた。
ついさっき、仕事終わりのアパートへ続く小道で、少し散歩をしないかと誘われて頷いたはいいけれど、まさか木の上だとは思わなかった。
飛び上がるためにのぞみを抱き上げた紅は、そのまま頑丈な木の枝に腰掛けてものぞみを腕の中から離さない。
いつもよりも遥かに近いその距離にのぞみは頬を真っ赤に染めて首を振った。
「だ、大丈夫です。大丈夫ですから…は、離して下さい」
だが紅はそののぞみのお願いを聞き入れるつもりはないようだった。
「少し風が出てきたからね。身体を冷やすといけないだろう?」
「そ、それはそうですけど…」
確かに風を感じる涼しい夜だ。それでもそれが嘘だと思うくらいにのぞみの身体は火照っている。