「あの子には、あやかし同士の関係について家でもよく言い聞かせてはいるのですが、どうしても飲み込めないようです。…これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいかないと思いまして、もう保育園へ行かせるのはやめにしようかと、今夜はご相談に来たのです」
「え? ま、待ってください!」
突然の退園宣言に、のぞみは思わず声をあげた。それはいくらなんでも乱暴な結論ではないかとのぞみは思う。
「ま、まだ、二週間です。太一君だけではなくて他の子たちも戸惑っている部分があるのだと思いますから、もう少し様子をみましょう!」
「でも…他のあやかしたちから不満が出ているとも聞きましたし…」
そう言って志津はちらりと紅を見る。紅はそれを否定も肯定もしなかった。
普通の保育園なら保護者からの要望は電話で伝えられるだろうが、ここはあやかしの保育園。何か別の方法で紅に伝わるのかもしれないとのぞみは思った。
なるほどそれならば突然志津が退園などと言い出したわけがわかる。だがそれではあまりに太一がかわいそうだ。
「私、私も人間だから太一君の気持ちはよくわかります。強い弱い関係なく、対等に友達でありたいと思うことは人間の世界では普通のことです。もう少し様子をみましょう! 怪我をしてしまうのは、本当に申し訳ないですけど…それは紅さまが気をつけて下さいますから、少しは減る…と思います」
のぞみが頬を染めて一生懸命に説得すると、志津は伺うように紅を見た。
紅が微笑んで頷いた。
「誰に何を言われたのかは知らないけれど、他のあやかしたちの言うことは気にしなくていい。志津は太一のことだけ考えていなさい」
志津がまた涙ぐんで、少し考えてから深々と頭を下げた。
「…では、ご迷惑をおかけするとは思いますが…よろしくお願いいたします」
再び闇へ消えてゆく後姿をじっと見つめて、のぞみは小さく拳を作る。そして、もっと真剣に彼らと向き合わなくてはと決意した。
アパートに灯るのぞみの部屋の灯りを紅は巨大な木の上に腰掛けて、見つめている。
結界の中は安全だ。
のぞみに害をなすあやかしはもちろん"あちらさん"だって入っては来れない。
それでも彼女がここへ来てからは、少なくともあの灯りが消えるまではこうやって毎日見守るのが紅の日課になっていた。
「…紅さま」
音もなく現れたのはさっき帰っていったばかりの志津だった。
「帰ったんじゃなかったのかい」
紅はのぞみの灯りからは目を離さないまま返事をした。
「…一言お礼を申し上げたくて」
白いキツネは首をたれて、少し離れたところに控えている。
「太一を受け入れて下さって、ありがとうございます。あやかしたちからの苦情も、うまくやってくださって…」
「保育園のためだもの」
なんでもないことだと紅は首振る。
その時、のぞみがパタパタと足早に離れの風呂へ向かう様子が見えた。
深夜に風呂に入るのはちょっと怖いけれど、汗を流さずには寝られないと言っていた。それなら付き添ってやると言ったら、真っ赤になって頬を膨らませたのを思い出して、紅の口元が自然と緩む。
紅は志津を振り返った。
「太一のことは、あまり心配しなくていいよ。急かさなければ、なんとかなるだろう」
紅が微笑むと、志津がコンと鳴いて頷いた。そして紅の視線の先をじっと見つめた。
「良い方ですね。可愛らしくて…」
「そうだろう? それにすごく頑張り屋さんなんだ。子どもたちにも好かれているし。太一のことも彼女がいればきっと何かいい解決方法が見つかると思う」
少し得意げに言う紅に、志津が切れ長の目を瞬かせた。
「紅さまは、少し変わられましたね」
志津の言葉に紅はわずかに眉を上げた。
「そう? …老けたかな」
「まぁ、ふふふ。昔は…いえ昔もお優しくはありましたけれど、どこか近寄りがたいものを常に背負っていらっしゃいました。今みたいな柔らかい表情の紅さまは、初めてでございます」
思いがけない志津の言葉に、紅は少し照れ臭くなって、鼻の頭をぽりぽりとかいた。
「それは…、褒めているのだろうか」
「ふふふ、もちろんそうでございます。新しいお嫁さまの影響ではないですか」
紅は少し考えて、「うん、そうかもしれないね」と頷いた。
初めは軽い好奇心だった。
嫁をよこすはずの稲荷の親父のいたずらに、少しだけ乗っかってやろうと思ったのだ。
それなのに…。
紅は浴衣の胸の辺りをぎゅっと掴んでのぞみがいる風呂場の灯りをじっと見つめた。
怒ったり笑ったり忙しく変わる表情、子どもたちを見つめる優しい眼差し。
「まだ出会って間もないというのに、私の中に入り込んで、…今じゃそばにいないと落ち着かないくらいなんだ。人間って不思議だね、志津」
志津が微笑んで頷いた。
「ふふふ、私も連れ合いと一緒になってからは驚くことばかりでございます。昔はあやかしと人間の距離が近かったなんて年寄りの言葉、嘘だと思っていましたけれど、本当なのだと実感しております。何しろ、人は情が深い」
「うん…でも、私たちも…本当はそうなのかもしれないよ。だからあのとき…、私たちは夫婦でいられなくなったのだろう」
そう言って紅は遠い目をした。森でフクロウがホーホーと鳴いている。
黙り込む二人の視線の先で、のぞみがほかほかとゆげを立てて風呂場から出てきた。桃色に染まりつやつやとしているあの頬を突くのがここのところの紅のお気に入りだ。
「お嫁さまに…、私たちのことを伝えてありますか」
志津が静かに問いかける。紅は黙って首を振った。
「私からは、何も。そのうち、おしゃべりなこづえあたりから聞くかもしれないけれど。口止めしといた方がいいと思う?」
志津が、白い尻尾をピンと立てた。
「紅さま、なりません。きちんと自分の口からお話し下さいませ。人はあやかしと違って過去が気になるものでございます」
「それは…そうかもしれないけれど」
紅は口を尖らせて、肩を落とした。
「…嫌われるのが怖いんだ」
「まぁ! ふふふ」
志津がふわりと尻尾を揺らして笑う。
「あやかしの長さまが、なんてお姿。とても子どもたちには見せられませんね」
「だってこの間も嫁が六人いたことをこづえに暴露されたんだ。これ以上何か知られたら、出て行ってしまうかも」
本当にあの時は肝を冷やした。
「それでも!」
再び志津の尻尾がピンと立ち上がった。
「おなごは殿方の口から聞きたいものでございます。必ずあなたさまの口から聞かせて差し上げてくださいませ。それより前に言わないように、こづえさんには私から言っておきますゆえ」
紅は少し驚いて彼女を見た。
「…志津はどうしてそこまでするんだい?」
「あなたさまに…、幸せになっていただきたい。ただそれだけにございます。それに私は情の深い人間の妻ですから」
のぞみの部屋の灯りが消えているのを確認してから、紅は立ち上がる。
風のない静かな夜を月が照らしている。
紅は、頭を下げて立ち去る白いキツネの後ろ姿をじっと見つめて呟いた。
「志津は強くなったな。さて私は…」
志津と話をした次の日、のぞみは子どもたちの園庭での遊びに、太一とともにまざることにした。
今までは危ないからとサケ子と紅に止められていたけれど、側から見ているだけではわからないこともあるはずだと思ったからだ。
だがこののぞみの提案に、紅は眉をひそめて否と唱えた。
「怪我をするよ、私は賛成できないな」
それは重々承知だった。それでものぞみは諦めなかった。
「私研修で行った保育園で外遊びでは大人気だったんですよ!女の先生だけど力持ちだって」
子ども達とともに遊び、得られるものは頭の中で考えて得られるものより何倍も意味があるとのぞみは思う。
人間としてあやかしの子どもたちにまざる太一の気持ちが、自分ならわかるかもしれない。
「もちろん危険なことはしないようにします。だから、お願いします」
そう言って頭を下げると紅は少し考えてからやや渋い顔で頷いた。
「…わかった。ただし、くれぐれも無理をしてはいけないよ」
「ありがとうございます!!」
こうしてのぞみは、紅の了解を取り付けて外遊びに加わることになった。
「ねぇ、みんな。今日は追いかけごっこに先生も入れてくれない?」
夕食後我先にと園庭に転がり出る子どもたちに、のぞみは声をかける。
すぐに、「うん、いいよ!」という元気な答えが返ってきた。
今までは外の遊びにのぞみは加わらないというのが子どもたちの間でも当たり前になっていたから、驚きながらも嬉しそうにしてくれているのが可愛らしい。
のぞみの胸に温かいものが広がった。
「良かった!太一君行こう!」
のぞみはみんなより少し遅れて縁側で靴を履いている太一に言った。
園庭で子どもたちがしている遊びは大抵鬼ごっこのようだった。
メンバーに本当の鬼の子、六平、七平、八平が混ざっているのが可笑しくてのぞみはくすりと笑ったけれど、内容は思ったよりもハードだった。
まず、のぞみの知っている鬼ごっことはルールが逆だった。
鬼は、六平七平八平の三人で、彼らが追いかけるのではなく、彼らを皆で追いかけるのだ。
並外れた素早さとジャンプ力がある彼らを捕まえることは、至難の技だ。しかも、桁外れにスタミナがあるからいつまでたっても終わらない。これを降園時間まで延々と続けるというのだから、開いた口が塞がらないというのはこのことだ。
それでも単純な遊びほど面白いのかもしれないとのぞみは思う。その日はずっと鬼の子たちの背中を夢中になって追いかけた。
捕まりそうで捕まらない彼らを挟み撃ちにして、あと一歩で逃したときは一つ目の子ヒトシと太一と共に地団駄を踏んで悔しがった。
勢い余って、河童の子のための小さな池にのぞみがはまってしまったときは皆、お腹がよじれるまで笑いころげた。
そして降園時間が近づく頃には、太一とのぞみ、それから鬼を追いかける役の子たちの間にはある連帯感が生まれていた。
「あー楽しかった!でもさすが鬼の子三兄弟、なかなか捕まらないね。悔しいなぁ」
のぞみが縁側でヘトヘトになって言う。
太一がひたいに玉のような汗を浮かべて、へへへと笑った。
「明日は絶対捕まえてやる」
ヒトシが大きな一つ目をパチパチとさせて太一を見た。
「太一お前賢いんだな。滑り台で挟み撃ちはなかなかいい作戦だったぜ。オイラ、鬼には敵わないって思っていたけど太一の作戦があれば、捕まえられる気がしたよ」
本当にその通りだった。
太一は、ここ数日で鬼の子の動きをよく観察していたらしい。滑り台で追い詰めようと皆に言ってあと少しのところまで彼らを追い詰めた。
今までは子ども達だけで遊んでいたから、太一の言葉に耳を貸す者がいなかったようだ。だが今日はのぞみがいたから太一も少し大胆に振る舞えたのだろう。そしてその結果、皆の彼を見る目が今日一日で少し変わった。
「明日はもっとすごい作戦を考えてくることにするよ」
太一がそう答えたとき、六平が口を挟んだ。
「へん、どんな作戦を立てても一緒さ。半分人間のお前になんか絶対に捕まらないからな!もしもお前がオイラを捕まえられたら、その時はオイラお前の子分になってやらぁ!」
半分人間であることを否定するような言い方に、のぞみの胸がコツンと鳴った。だがどのように注意をすべきかを考えあぐねているうちに、靴を脱いだ太一が縁側に立ち上がる。
そして、母親似の白い尻尾をピンと立てて切れ長の瞳で六平を睨んだ。
「今の言葉、忘れるなよ」