山神あやかし保育園〜園長先生は、イケメンの天狗です〜

 この状況で、"嫁だ"と周りに誤解をされて…。のぞみはうーんと唸って頭をぐしゃぐしゃとかいた。
 こづえがため息をついた。
「あんたにまだその気がないのは、私はわかるけど、とにかくもう否定はできないだろうね。どうあがこうが"嫁"だと認識されちまった。紅さまは昔からアパートを出てゆく嫁を止めたりはなさらない。だからあんたが出て行くことはできるだろうが、その場合もかつては"嫁"だったという事実は消せないだろうよ。つまり人間でいうバツイチだ」
「バツイチ!?私まだ二十一歳なのに!!」
 いや年齢の問題ではない。そもそも彼氏だっていたことがないのにと、のぞみはガッカリとして眉を下げた。
 例えあやかしの世界の話しだとはいえ、もうのぞみは半分はこの世界に足を突っ込んでいるのだ。ショックを受けるのは仕方がないだろう。
 そんなことを考えていると「のぞみは、バツイチにはならないよ」という声が聞こえてのぞみは振り返る。紅が扉にもたれて立っていた。
「紅さま」
 紅は駆け寄るかの子を抱き上げて、その頭を撫でた。
「つまりは、ちゃんと否定をしてくれるということですね?」
 確認するようにのぞみは言う。
 紅はこづえとのぞみのところへやってきて、ちゃぶ台の前に座り、にっこりと笑う。
 そして「もちろん、違う」と首を振った。
「え? じゃあ、どういう…」
 首を捻るのぞみの隣で、こづえが胡散臭そうに紅を見ている。
「それはもちろん、のぞみがアパートを出ることはあり得ないからだよ。私が許さない」
 平然として無茶苦茶なことを言う紅にのぞみは声をあげる。
「なっ…!そんなの私の自由です!契約の話は嘘だったって紅さまが、言ったじゃないですか」
「それが本当だって誰が言った?」
「はぁ?」
 もういい加減なことばかり言う紅にのぞみは呆れかえってしまう。だがそれでも本気で嫌いになれないところが厄介だとのぞみは思った。
 ニヤニヤとする紅を横目に見て、こづえが突然立ち上がった。
「のぞみ、ごめん。さっきの話は訂正するよ。紅さまは嫁がアパートを出て行くを止めないと言ったけれど、どうやらあんたは別らしい。…おそらく簡単には出られない、諦めな」
「え!そんな…!こづえさん!?」
 驚き声をあげるのぞみを振り切るようにこづえは首を振ってかの子に笑いかけた。
「それじゃ、私は仕事へ行くよ。かの子いい子にしてるんだよ」
「うん、いってらっしゃい!」
 逃げるようにこづえが消えた部屋で、紅がかの子を膝に抱いたまま微笑んだ。
 そして、「さすがはこづえだ。私のことをよくわかってるなぁ」と言った。
「今日から、新しい子どもが入るんだ」
 こづえがいなくなったのぞみの部屋で、かの子と一緒におやつをかじりながら紅が言った。
 のぞみは出勤前の準備としてエプロンをつけようとしていた手を止めて振り返る。
「新入園児ですか?」
「そう」
「へえ…」
 夏に差しかかろうとするこんな時期に珍しい…という気がしたが、よく考えてみればあやかしの仕事には年度は関係ないかとのぞみは思い直す。
 だがそれよりも意外なことを紅が言った。
「先月までは、隣町の夜間保育園に通っていたんだそうだよ」
「隣町のって…、隣町にもあやかしの保育園があるんですか?」
 のぞみが尋ねると、紅はいいやと首を振った。
「人間の保育園だよ」
「え?じゃ、もしかして人間の子ですか」
 のぞみの言葉に紅は今度はうんと頷いた。
「正確には半分人間かな。父親が人間で、母親がキツネ…いわゆるお稲荷さんだな」
「お稲荷さん…」
 のぞみは呟く。このワード聞き覚えがあるような…。
「稲荷の親父の親戚だよ」
「そうなんですか!」
 のぞみにアパートを紹介してくれた不動産屋のおじさんは、キツネのあやかしだったのか。
「どうやら初めは半分は人間だから、人間として育てようと思ったみたいだ。でもうまくいかなくて、そこの保育園でトラブルになったらしいよ。それでうちに」
 のぞみはもう一度そうなんですかと相槌を打つ。だが心の中では別のことを考えていた。
「紅さま」
「ん?」
「…あやかしと人間が夫婦になることもあるんですね…」
 考えてみれば、あやかしたちが人間ののぞみを紅の嫁だと思っているのだから、あり得なくもないということか。
 同じ種族のあやかし同士でないと夫婦にならないというのは年寄りの考えだと一平も言っていた。
 それでも実際にそうなって、子までなしている夫婦がいることに驚きだった。
 紅が、「もちろんあるよ」と言ってにっこりとしてのぞみを見た。
「私たちがそうじゃないか」
「なっ…! わ、私が言っているのは、本当の夫婦のことです!」
 声をあげると、かの子が笑ってのぞみを指差した。
「のぞせんせーまっかっかー」
 紅がうーんと唸って首を傾げる。そして何かを思い出すように遠い目をした。
「そう言われてみれば、この辺りではかなり久しぶりだね。前にも言ったけれど、あやかしを受け入れることができる人間はもうほとんどいないからね。あやかしの方も、それがわかっているから"ぞぞぞ"を稼ぐ以外は近寄らない。でも昔は人間とあやかしの距離はもっと近くて、そう珍しいことでもなかったんだよ。とはいえあやかし園で半分とはいえ人間の子を預かるのは初めてだから、のぞみがいてくれてよかったよ」
 あやかし園のルールはあやかしの子を預かることが前提になっている。あやかしの子は、とにかく身体能力が高い。しかもケガをしにくい上に、多少のケガなら手当てもいらないという。
 だからあやかし園での彼らの扱いは言葉は悪いけれど、少々雑になっている部分だ多々あった。
 半分とはいえ人間の子が混ざると不都合が出てくるかもしれない。
「わかりました!」
 のぞみは言って立ち上がる。
 俄然やる気になってきた。今こそ、大学で学んだ保育の知識が役に立つのだ。少ない荷物の中に教本を無理やり詰めて持ってきた甲斐があるというものだ。
 のぞみは、さっさとエプロンをつけるとかの子に呼びかけた。
「かの子ちゃん、新しいお友達が来るんだって、楽しみだね! そろそろ保育園行こうか!」
 かの子が微笑んで頷いた。
「うん!」
 のぞみがかの子と手を繋いで保育園へ行くと、見知らぬ親子が玄関の前に立っていた。
 真っ黒い短髪の髪にぴょこんと白い耳を出してお尻からふさふさとした尻尾が生えている四歳くらいの男の子とその母親と思しき女性だ。
 母親は、切れ長の目と泣きぼくろが色っぽい綺麗なキツネで、紫陽花柄の浴衣を涼しげに着こなしている。
 おそらくついさっき聞いたばかりの新入園児だろう。アパートの方からやってきたのぞみたち三人に気がついて、母親の方が丁寧に頭を下げた。
「紅さま、お久しぶりでございます。ご無沙汰してしまい、申し訳ありませんでした」
「あぁ志津、久しぶり」
 紅がにこやかに応えると、志津と呼ばれた母親が男の子の背中を押した。
「この子がお世話になります太一です。どうぞよろしくお願いします」
 男の子が負けん気の強そうな目で紅を睨んで口を開いた。
「お前が紅さまか?あやかしの親玉だって聞いてるぞ!強いのか?」
 紅に対して、挑むように言うその姿にのぞみは少し驚いた。
 あやかしたちは皆一様に、紅を長として敬い丁寧に接している。子どもたちも例外ではなく、親からよく言い聞かされていて、まるで父親のように接してはいるがぞんざいな口をきいたり、はむかったりするような者はいなかった。
「これ! 太一」
 志津が慌てて男の子の頭を抑える。そして紅に向かって頭を下げた。
「申し訳ありません」
 一方で紅の方は特に気にする様子もなく、「元気だなぁ」と笑って言った。
「父親の方が人間ですゆえ、なかなか言い聞かせられておりませんで、申し訳ありません」