山神あやかし保育園〜園長先生は、イケメンの天狗です〜

 耳慣れない名をのぞみが繰り返したとき、「そろそろ出勤の時間だよ、こづえ」という声がして、二人は振り向く。
 紅が扉にもたれかかるようにして立っていた。
「紅さま」
 かの子が駆け寄る。
 こづえを見る紅の目尻が少しだけ赤みを帯びた。
「も、もうそんな時間か」
 こづえが少し慌てたように言って立ち上がる。そしてそそくさと仕事へ行ってしまった。それをかの子と一緒に見送りながら、のぞみは隣の紅を盗み見た。
 その綺麗な横顔に、いつもののぞみをからかうような雰囲気はない。ただ怖いくらいに近寄りがたい空気が漂っているだけだった。
 なんだか急に彼をまったく知らない人のように感じてのぞみの胸が苦しいくらいに痛んだ。
 アパートの秘密なんて、きっと少しぞぞぞとするだけで大したことはないだろうと思っていた。黙っていた紅に少し文句を言って、笑って済むような。だがそうではないと、紅の横顔が言っている。
「…少し、山へ行ってくる。かの子をお願いできるかい?」
 いつもと変わらない穏やかな口調。それが返って、二人の間にけして超えることのできない隔たりを作っているように思えた。
 のぞみは頭に浮かんだすべての疑問を尋ねることなどできないままに、ただ「はい」と答えるしかなかった。
 その日を境に紅ののぞみに対する態度が目に見えてよそよそしくなった。表向きは今までどおり優しくて穏やかな彼のままのようにも思えるが、気軽にのぞみをからかったり触れたりすることはなくなった。
 彼は仕事中でもかまわずにのぞみに触れて怒らせたり、わざと驚かしてのぞみをぞぞぞとさせることもしょっちゅうだったが、それも全部なくなった。
(これが当たり前なんだから…よかったじゃない、セクハラがなくなって)
 のぞみはそう自分に言い聞かせながら、心の中にぽかりと空いた穴に一生懸命気がつかないフリをした。
 今の状況を寂しく思うなんて、いったい自分はどうしてしまったのだろう?
 だがよく考えてみれば勢いだけで見ず知らずの土地に来たのぞみが心細い思いをせずに今日まで楽しく働けているのは、紛れもなく彼のおかげなのだ。 
 それなのに、過去のことを根掘り葉掘り探るようなことをしたのぞみに対して怒っているのかもしれないと思う。けれど謝ることなどできないままに、数日が過ぎた。
「紅さまと何かあったのかい?」
 ある日、紅が山へ行っていない時間にサケ子がのぞみに問いかけた。
 のぞみはそのこと自体に少しショックを受けてしまう。やはり紅ののぞみに対する態度が変わったことはサケ子からみてもわかるくらいなのだと。だがどう答えていいかは、さっぱりわからなかった。
「…サケ子さんは、あのアパートが紅さまの奥さんのためにあることを知っていたんですか?」
 のぞみが恐る恐る尋ねると、サケ子はすぐに頷いた。
「もちろん、知っていたよ。…紅さまがのぞみを入れた時はいったいどういうつもりなのかと思ったんだけど」
「私、そのアパートのことをこづえさんから聞いたんです。それでその時に、紅さまの昔の奥さんのことも聞いてしまったんです。私…紅さまに、部屋を貸してもらって、仕事までさせてもらって…、きっと紅さまは困っている私を哀れに思ってそうしたのに、紅さまの昔のことを知りたがったりしたから、不快に思われたのだと思います」
 のぞみはしょんぼりと眉を下げた。
 サケ子はそんなのぞみをやや驚いたように見てから、うーんと首をひねった。
「紅さまがのぞみを不快に…ねぇ」
「きっとそうです」
「…のぞみ、あやかしなんてもんは人とは違ってあまり深く考えて行動しないものなんだよ。紅さまがアパートへのぞみを入れたのは、ただ単にのぞみが気に入ったからだと私は思うけどね。私も初めはびっくりしたけど、のぞみは真面目でよく働くし、子どもたちにも好かれているだから、今じゃ正解だったと思うよ。紅さまがのぞみによそよそしくしているのは…もっと単純な何かがあるような気がするけど」
 あやかしであるサケ子の意見にしかしのぞみは納得できなかった。単純な何かなんてさっぱり心当たりがない。
 それでも…と言いかけるのぞみの言葉は子どもの声に遮られた。
「せんせー、おむかえ来たー!」
 もうそんな時間かと思って振り返ると鬼の子だった。のぞみは、はいはいと返事をして、とりあえず紅のことを頭から追い出した。
 そして三人いる鬼の子たちを連れて玄関へ向かう。外にいたのは母親でも父親でもない鬼だった。初めて見る顔だと少しだけ訝しむのぞみの手を離れて、子どもたちが駆け出す。そしてその鬼に飛びついた。
「一平兄ちゃん!!」
 なるほど兄かとのぞみは納得する。そう言われれば両親よりは少し若い。人間でいうとのぞみと同じくらいだろうか。
 それにしてもおしゃれだった。
 すらりとしたデニムのパンツに形のいい白いシャツ、首にはスカルモチーフのアクセサリー、茶色い髪にはふわりとパーマまであたっている。そこにツノがなければ街を歩く若者と見分けがつかないくらいだ。
 鬼といえば虎柄のパンツというイメージしかないのぞみからしたら、彼の出で立ちは"意外"の一言だが、よく考えてみれば鬼一家は子どもも両親も皆いい服を着ている。
 一方で、若い鬼は飛びつく子どもたちを軽々と抱き上げている。見た目はすらりとした今時の若者風でもやはり鬼は力持ちだと感心しながらのぞみは微笑んだ。
「おかえりなさい。今日も、みんな良い子でしたよ。少し雨になりそうでしたから中で遊んだんですが、私の掃除を手伝ってくれたりして…ふふ、廊下を雑巾がけで競争したりしました」
 一平と呼ばれたその兄が声につられるようにのぞみを見て、声をあげた。
「君がのぞ先生か!弟たちから話は聞いてるよ。やぁ、本当に可愛いなぁ!」
「え?…は?」
 突然の彼の言葉にのぞみはそう答えるのか精一杯だった。ぐいっと顔を近づける彼に目を白黒させてしまう。そんなのぞみに一平はさらにたたみかけるように言った。
「君、父兄の間でも大評判だよ。かわいいし、子どもたちをよくみてくれるって」
「え?あ、ありがとうございます」
 父兄とはすなわちあやかしたちだ。あやかしたちの間で自分のことが噂になっているとは…そのことに少し戸惑いながらも、のぞみはお礼の言葉を口にした。
 何にせよ、人間の保育士でも受け入れてもらえてるようで嬉しかった。
「いたらないこともあるかと思いますが、よろしくお願いします」
 そう言ってのぞみが微笑むと、一平は弟たちを下ろしていきなりのぞみの腕をぐいっと引いた。
「僕は一平、鬼一家の長男だよ。よろしく!ねぇ、今度デートしない?人間の君でも楽しめるプランを立てるよ。僕あやかしだけどお金も稼いでいるからさ、ほしい物なんでも買ってあげるよ!」 
 急に近くなった距離、遠慮のない言葉にのぞみは面食らって反射的に後ずさりしたくなる。だが鬼の強い力には敵わなかった。
「え? あ、あの…」
「兄ちゃん、のぞせんせーは紅さまのお気に入りだぞ!アパートに住んでるんだから、絶対そうだって母ちゃんが言ってたじゃないか」
 弟たちの抗議にも一平はめげない。
「いいんだよ、べつに。アパートの嫁が他のあやかしとくっついたって紅さまは気にしないって話だよ。去るもの追わずなんだよ。だから、ね?僕にもチャンスをちょうだい!」
「あの、離して下さい。困ります」
「いいじゃん、いいじゃん!」
「ナンパなら他所でやりな!小僧」
 手を振り解けないでいるのぞみに助け船を出してくれたのは建物から出てきたサケ子だった。サケ子は、口元の布を素早く外して一平を睨みつける。そして耳まで裂けた口で嫌味を言った。
「長男がこれじゃあ、鬼一家が子沢山なのも頷ける。…節操がないのは血筋かい?」
 その迫力にのぞみを掴んでいた一平の手が緩む。のぞみは素早く彼から離れてホッと息を吐いた。
「邪魔すんなよぉー、口裂け女」
 悔しそうに言って弟たちの手を引き、一平は森へそそくさと帰って行く。その後姿に、「さっさと帰れ」とサケ子が吠えた。そして再び布で口元を覆っている彼女にのぞみは頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いいんだよ」
 サケ子が微笑む。だがすぐに眉を寄せて一平が帰っていった方向を睨んだ。
「それにしても油断も隙もない奴だ」
 のぞみは一平に掴まれた腕をさすった。強い力で引かれたことには恐怖を覚えたが、それ以上に触れられたこと自体が嫌で嫌でたまらなかった。紅とだってこのくらいの触れ合いは何度もあったけれど、一度もこんなふうに思ったことはなかったのに。
「要注意だね、一平は。まったく鬼一家は目障りだ。"ぞぞぞ"も銭も他のあやかしより稼ぐから、自分たちは特別だと思ってやがる」
「お金も…?」
 のぞみは腕をさすりながら呟いた。
「そういえば、お金も持ってるって言ってました」
 サケ子が渋い顔で頷いた。
「そうなんだ、奴らの稼ぎ方は特殊でね。人間の…子どもを脅かすのさ。確か親が子どもを叱るときに、代わりに電話に出てやるらしい」
「あ!」
 のぞみは思わず声をあげた。そういえばそんなアプリがあったような…。
「その方法だと、"ぞぞぞ"も銭も同時に稼ぐことができるからね。賢いとは思うけど、桁違いに稼ぐから態度がでかくなってきて他のあやかしにとってはいい迷惑さ」
 なるほど、だから鬼一家はいつも良い服を着ているのか。
「とにかくこのことは紅さまに報告して、一平にはきつく言ってもらおう」
 だがそういうサケ子の言葉にのぞみは慌てて首を振った。
「こ、紅さまには、言わないでください!お願いです。私、大丈夫ですから」
「でも…」
 サケ子が眉を寄せた。
「本当に!さっきサケ子さんがきつく言ってくれたから、もう大丈夫ですよ。…そもそも一平さんはほとんどお迎えに来られないですし…」
 サケ子はそれもそうだと思ったのか、黙って頷いた。
 のぞみはホッと息を吐く。
 これ以上紅を煩わせなくないと強く思う。トラブルを起こして、やっぱり人間なんか雇うんじゃなかったなんて思われたらと想像するだけで胸がぎゅっとなった。
 のぞみはふるりと震えて、自分で自分を抱きしめる。一平に掴まれた腕がズキズキと痛んだ。紅以外の人に触れられたくないというこの気持ちの正体に、のぞみはもう気がつきかけている。それでも目を逸らすしかないと自分に言い聞かせて、唇を噛んだ。
 気がついてどうにかなるものでもないだろう。
 そう彼は…、好きになってもどうにもならない相手なのだから。