いやそれよりも二人でわざわざ行く必要がないように思う。
だが紅はにっこりと笑って、「大丈夫」と言った。
「うちは夜間保育園だから、書類は大抵守衛さんに預けることになってるんだ。おーい!サケ子!」
サケ子がはいはいと言って現れた。
「私はのぞみと、役所へ行ってくるよ。ちょっと寄り道するかもしれないからね。あとを頼む」
勝手なことを言う紅にサケ子は慣れた様子でまたはいはいと言った。
「でもわざわざ二人で行くほどでも…」
のぞみは躊躇して言い淀む。
「いいからいいから、ちょっとのぞ先生を借りるよ」
紅はのぞみにひっついている鬼の子にそう言ってのぞみの手を引っ張った。
「紅さま、ずるーい!」
鬼の子が不満げに声をあげる。のぞみは小さなツノがぴょこんと生えている二人の頭を優しく撫でた。
「先生たち、お仕事だからね。ごめんね」
だが、二人は納得しない。そして驚くべきことを言った。
「オイラの母ちゃんが、のぞ先生と紅さまは絶対あやしいって言ってたぞ! 二人でやらしい所へ行くつもりだろ」
「な…!」
のぞみは絶句して真っ赤になった。
鬼の一家は子沢山で、保育園に通う歳の子は彼らを含めて三人だが、上に兄弟がたくさんいる。だから時折こんな風に訳もわからずませたことを言うのだ。それにしても聞き捨てならない、ひどい内容だ。
鬼の子の母親は、一体何を子どもに吹き込んでいるのやらと、のぞみの頭にもツノが生えそうな心地がした。
一方で紅の方は平然として、「やっぱり、鬼はするどいなぁ」と言った。
「な…!紅さま!」
「やーい!あたりだあたり」
鬼の子二人が大喜びではやし立てる。のぞみはますます頭から煙を出した。
「紅さま!いい加減なことを言わないで下さい!!」
「そうだお前たち、このことは母上に言うんでないよ。私たちの関係はまだ他のあやかしには秘密なんだ」
そう言って人差し指を唇に当てる天狗をのぞみは睨んで怒鳴りつける。
「紅さま!!」
「はいはいそこまでだよ、お二人さん。いいから早く行っとくれ」
ぱんぱんと手を叩いて、サケ子が間に入る。のぞみは真っ赤な顔で、しぶしぶ頷いだ。
鬼の子たちはようやく納得して、のぞみから離れて園庭に向かって走り出す。紅は、はははと声をあげて笑いながら、のぞみを引き寄せた。
そして、「鬼の期待に応えて、帰りに連れ込み宿にでも寄ろうか」などと囁いたものだから、またのぞみは彼をバチンとやってしまうのだった。
カランコロンと下駄を鳴らす紅と並んで、のぞみは夜の街を歩いている。ネオンに浮かぶ紅の綺麗な横顔をのぞみは不思議な気持ちで見つめていた。
のぞみにとってはすけべなあやかしである紅は、街では"山神神社の宮司さん"として親しまれているようだった。あちらこちらから声をかけられては、機嫌よく応えている。あやかしとしてひっそりと暮しているものと思っていたが、堂々と街に溶けこんでいるのだから驚きだった。
そして街の人たちは、紅が連れているのぞみにも興味津々だった。
「宮司さん、珍しいですね。女性を連れているなんて」
それに対して、普通に新しい保育士だと紹介してくれればいいものを、「ははは、私もそろそろいい歳ですからね」などと言うものだから、そのたびにのぞみは真っ赤になって、否定をすることになった。
それでもそうして、街の人たちとのやりとりしているうちに、のぞみの中の鬱屈としていた気持ちが少しだけ晴れてゆく。少し海の香りが混じる夜の風も頬に心地よく感じた。
役所からの帰り道は真っ直ぐに神社の方へは戻らずに、繁華街を抜けてゆく。そして居酒屋やカラオケ店、バーなどが立ち並ぶ通りに差し掛かったとき、聞き覚えのある声がしたような気がしてのぞみは足を止めた。
「やだー!」
「きゃははは」
ハイテンションで道を占領する若者グループの中に、こづえがいた。
「紅さま、あれ…」
のぞみは紅の袖を引いた。
「いやー今日は可愛い子ばかりだったから、ラッキーだったよー」
「ねーねー、今度このメンバーでバーベキューしない?」
会話の内容から察するに、男女のグループは合コン帰りのようだった。こづえは少し丈の長い水色のワンピースを着て笑みを浮かべて話をしている。驚くべきことに、十歳くらいに見える容姿でも周りは違和感を感じていないようだった。
立ち止まりそのグループをじっと見つめる紅とのぞみに、こづえも気がついたようだった。今日はどことなく控えめに見えるマスカラの目をパチパチとさせてこちらを見ている。
「こづえ」
紅が声をかけると、グループを抜けて紅の方へ歩み寄った。そして少し気まずそうに、のぞみをチラリと見た。
「遅くまで、お疲れさま」
紅が微笑むと、こづえはほっと息を吐いて頷いた。
べつに嫌味でもなく言う紅の様子にやはりとのぞみはわずかな落胆を覚える。今目の前でこづえが仕事をしないで遊んでいるのを見たというのに、やはりそれでもいいということか。これがあやかし園のルールなのだ。
「今日はうまくいきそうかい?」
だがそんなのぞみの内心はよそに紅がこづえに尋ねたとき、こづえが抜けたあとの男女が騒ぎ始めた。
「ねーねーじゃあさー連絡先交換しようよー! グループ作ろう、グループ」
「いいよ~!」
「えーと女の子たちは、ひとりふたり…あれ?君たち四人じゃなかった?」
「…そうだよ。今日は四対四で…って、あ、あれ…?」
こづえが男女に背を向けたまま、ニヤリと笑う。そのいかにもあやかしらしい笑みにのぞみの背筋がぞぞぞと震えた。一方で彼らの方にはこづえの姿はもう見えていないようで、一人足りないと騒いでいる。
「えー…たしかにいたよね? ほらレシートにも八名様って…」
「…」
「…そういえば、私、聞いたことがある。この辺りで合コン後に女の子が一人足りなくなる現象。現代の座敷童子なんて言われてるんだよ。…都市伝説だと思っていたけど…」
「やだっ!」
一人が声をあげたとき、こづえがふわりと飛び上がる。そして男女のうなじにそっと触れて、彼らから出る"ぞぞぞ"を素早く奪って戻ってきた。その光景にのぞみも"ぞぞぞ"きたけれど、それは紅がくすりと笑いながら食べてくれた。
のぞみはこづえの周りにふわふわと浮かぶ、濃い緑色の"ぞぞぞ"を唖然として見つめた。つまりこづえは遊んでいたのではなく、合コンに混ざり"ぞぞぞ"を稼いでいたというわけだ。
「さすが、百歳の大ベテラン」
パチパチと手を叩いて称賛の言葉を口にする紅をこずえはじろりと睨んだ。
「…まだ、九十八です」
「あ、あの!」
反射的に声をあげるのぞみにこづえが視線を移す。のぞみは真っ赤になって、頭を下げた。
「す、すみませんでした!その…、き、昨日のこと。余計なことを言ってしまって…」
まさかそんな方法で"ぞぞぞ"を稼いでいるとは思わなかったというのは言い訳にしかならないだろう。派手な格好で酒を飲んで帰ってくるから働いていないのだろうという短絡的な考えしか頭に浮かばなかった自分が恥ずかしくて不甲斐ない。
申し訳ない気持ちでいっぱいになった。どう罵られたとしても仕方がない。
もしかしたら、やっぱり人間の保育士なんて嫌だと言われてしまうかもしれないとすら思う。だがそんな風に覚悟しているのぞみに、こづえから出た言葉は、意外なものだった。
「…いや、こっちこそ、申し訳なかったよ。怒鳴ったりして。あんたは、人間なんだから分からなくて当然のこともあるだろうに」
「こづえさん…」
のぞみは言葉を失って彼女を見つめる。
「紅さまの言う通り、あんたはかの子をよく見てくれているようだ。あの子が…他の子に混ざって遊べるようになったのはあんたのおかげだと、口裂けが言ってたよ」
思いがけず優しい言葉をかけられて、のぞみの視界が滲んでゆく。
「あの子が他の子と遊べないのは、私も気にしていたのさ。あやかしの世界では子どもたちが仲良しこよしする必要はないけれど、あの子は座敷童子だ。友だちを作れないようじゃおまんまは食えないからね。それに、私がかの子に寂しい思いをさせていたのも事実だった。『座敷童子は片親だからろくに"ぞぞぞ"を食べさせられてないんだろう』なんて言う連中を見返してやりたくて、少しばかり意地になっていたようだ。今日、あんたのアパートへ行けないと知ったかの子に泣かれて気がついたよ。もう何十年も母親をしてるのに、情けないよ」
そう言ってこづえは首を振った。
「そ、そんなことはないと思います!」
のぞみは思わず声をあげる。
こづえが目をパチパチさせてのぞみを見た。
「か、かの子ちゃんは、始まる前も保育園時間もいつもいい子にしています。…お迎えの時間は寂しくなっちゃうこともありますけど…お母さんがお仕事を頑張っているって、分かってるんだと思います。…もしよかったら、今まで通り、保育園が始まる前は私のアパートに連れてきて下さい」
こづえが少し意外そうに首を傾げた。
「こづえさんのお仕事が、明るいうちから始まるのは変わらないでしょうし、それに私かの子ちゃんが来るのは、楽しみにしてるんです。今日かの子ちゃんがアパートに来なくて寂しかったのは…私も一緒でした」
今日はかの子もどことなく元気がなかった。それもこれも自分が引き起こしたことなのだと思うとかの子に対しても申し訳ないと思う。そしてなによりお母さんが仕事に行ってから保育園へ開くまでの時間を安全に過ごしてほしい。
そんな思いを込めてのぞみがこづえを見つめると、彼女は安堵したように小さくため息をついて頷いた。
「ありがとう、そうさせてもらうよ」