山神あやかし保育園〜園長先生は、イケメンの天狗です〜

 それでも…。
 のぞみの脳裏に、かの子の寂しそうな瞳が浮ぶ。
「まぁ…迎えが遅いのはその通りだから、様子を見て私からも話してみよう」
 紅の言葉に、のぞみは頷く。
 だがもしこづえが、仕事ではない理由で遅くまでかの子を預けているのだとしたら、かの子がかわいそうだという思いはのぞみの中に確実に影を落としていた。しかもこづえは次の日も、その次の日もアルコールの匂いをさせて帰ってきたから、のぞみの中のその思いはどんどん大きくなっていった。
 そして三日後、ついにそれが爆発した。
 その日の迎えは特に遅くて丑三つ時もとうに過ぎた頃だった。しかも間の悪いことにかの子は夕食後に別の子どもと喧嘩をしてしょげていたから、自分以外の子どもが帰って一人だけになった際、泣き出してしまったのだ。
「お母さん、いつ帰ってくるの?」と言って泣くかの子にのぞみの胸が締め付けられた。両親が亡くなってすぐの頃はのぞみもよく泣いて、兄を困らせた。
 そんなことまで頭に浮かんで、いつまでたっても現れないこづえにのぞみは苛立ちを募らせた。
 そうしてやっと現れたこづえが、また例によって酒に酔っていたもんだから、のぞみの頭の中は彼女への疑念でいっぱいになった。
「あの、こづえさん」
 少しふらふらとしたまま、かの子を連れて森へ帰ろうとするこづえの背中に、のぞみは遠慮がちに呼びかける。こづえは振り向いて、眠そうな目でのぞみを見た。
「なに?」
「…かの子ちゃん毎日いい子でお母さんのお迎えを今か今かと待っているんです。でも今日は、どうしても寂しくて泣いてしまったんです」
「…だからなに?」
 のぞみは、胸のところで拳をぎゅっと握りしめた。
「お、お仕事が大変なのはわかりますけど、も、もう少し…ほんのちょっとでも早く来てあげてくれませんか? せめて他の子たちと同じくらいの時間に…」
 本当に、何をしているか知らないけれど少なくともお酒を飲む暇があるなら早く迎えに来てやってほしいと強く思う。
 一方でこづえの方は眉を寄せてのぞみを睨んだ。
「あんた、私が遊んでるとでも言いたいわけ?!」
「そ、そうじゃありません…でも」
「じゃあ、何なんだよ!」
 こづえの剣幕に建物から紅が出てきた。サケ子も駆けつけようとするけれど、それは紅が制したようだった。
「こづえ、のぞみはかの子を本当に心配してるんだよ」
 紅がのぞみとこづえの間に割って入る。こづえは紅に訴えた。
「でも紅さま、これじゃあんまりだ。まるで私が遊びまわっているみたいじゃないか。そもそも紅さまは子どもを預けている間、親が何をしていてもいいって言ったでしょう?」
 紅は、「それはそうだよ」と頷いてから、「それでも」と言葉を続けた。
「もとはといえばお前の迎えが遅いのが原因だろう?のぞみは早い時間からかの子と一緒にいて、あの子をずっと見ているんだ。少しくらい意見してもいいはずだよ」
 紅の言葉にこづえは黙り込んで悔しそうにのぞみを睨んだ。
 のぞみは早くもこの話をしたことを後悔し始めていた。こんなこと、言ったからどうなるものでもないだろうに。
 こづえが本当に子思いの母親で、仕事をしていない時間があるのならのぞみなどに言われなくとも迎えに来ているだろうし、そうでないならのぞみが何を言っても変わらないだろう。
「私は、お前が何をしてようと構わないよ。ただ今後はルールは守ってもらう。いいね?」
 紅が言うと、こづえはしぶしぶ頷いた。そして、やや乱暴にかの子を引っ張って森へ帰ってゆく。その後姿を見つめながらのぞみの胸がキリリと痛んだ。
 のぞみがこづえに小言めいたことを言ってしまったことを本当に後悔したのは、次の日だった。こづえがいつもの時間にアパートにかの子を預けにこなかったのだ。
 幸いあらかじめそれを見越していた紅が保育園前でかの子を見つけて連れてきてくれたが、のぞみはひどく落ち込んだ。
 開園前の時間はかの子も機嫌よく過ごしているから、連れてこないでほしいなどとは思っていない。だがルールを守れと言われたから、こっちもダメだと思ったのだろう。いやそれよりも、うるさいことを言ったのぞみには、かの子を任せたくないと思われたのかもしれない。
 紅は、ヘソを曲げているだけだから気にするなと言うけれど、そう簡単にはいかなかった。働く親に安心して子どもを預けてもらうのが保育士の役割だというのに、追い詰めるようなことを言うなんて。
 のぞみはその日、夕食までの時間を憂鬱な気持ちで過ごした。そんなのぞみに夕食を終えた頃、紅から声がかかった。
「のぞみ、役所へ出す書類はそろそろできたかい?」
 のぞみは、背中とお腹にくっついている鬼の子をこちょこちょとくすぐりながら振り返って頷いだ。
「はい、できてます。事務室の机の上にまとめておきました」
 役所に出す書類は、結局何日かに分けて少しづつ仕上げた。明日にでも郵便に出そうと思って封筒に入れてある。
 紅は事務室へ戻りその封筒を取ってくると、再びのぞみに声をかけた。
「じゃあ、ちょっと役所まで届けに行こう。おいでのぞみ、ついでに街を案内しよう」
「え…?…でも、役所は開いてないんじゃ…」
 いやそれよりも二人でわざわざ行く必要がないように思う。
 だが紅はにっこりと笑って、「大丈夫」と言った。
「うちは夜間保育園だから、書類は大抵守衛さんに預けることになってるんだ。おーい!サケ子!」
 サケ子がはいはいと言って現れた。
「私はのぞみと、役所へ行ってくるよ。ちょっと寄り道するかもしれないからね。あとを頼む」
 勝手なことを言う紅にサケ子は慣れた様子でまたはいはいと言った。
「でもわざわざ二人で行くほどでも…」
 のぞみは躊躇して言い淀む。
「いいからいいから、ちょっとのぞ先生を借りるよ」
 紅はのぞみにひっついている鬼の子にそう言ってのぞみの手を引っ張った。
「紅さま、ずるーい!」
 鬼の子が不満げに声をあげる。のぞみは小さなツノがぴょこんと生えている二人の頭を優しく撫でた。
「先生たち、お仕事だからね。ごめんね」
 だが、二人は納得しない。そして驚くべきことを言った。
「オイラの母ちゃんが、のぞ先生と紅さまは絶対あやしいって言ってたぞ! 二人でやらしい所へ行くつもりだろ」
「な…!」
 のぞみは絶句して真っ赤になった。
 鬼の一家は子沢山で、保育園に通う歳の子は彼らを含めて三人だが、上に兄弟がたくさんいる。だから時折こんな風に訳もわからずませたことを言うのだ。それにしても聞き捨てならない、ひどい内容だ。
 鬼の子の母親は、一体何を子どもに吹き込んでいるのやらと、のぞみの頭にもツノが生えそうな心地がした。
 一方で紅の方は平然として、「やっぱり、鬼はするどいなぁ」と言った。
「な…!紅さま!」
「やーい!あたりだあたり」
 鬼の子二人が大喜びではやし立てる。のぞみはますます頭から煙を出した。
「紅さま!いい加減なことを言わないで下さい!!」
「そうだお前たち、このことは母上に言うんでないよ。私たちの関係はまだ他のあやかしには秘密なんだ」 
 そう言って人差し指を唇に当てる天狗をのぞみは睨んで怒鳴りつける。
「紅さま!!」
「はいはいそこまでだよ、お二人さん。いいから早く行っとくれ」
 ぱんぱんと手を叩いて、サケ子が間に入る。のぞみは真っ赤な顔で、しぶしぶ頷いだ。
 鬼の子たちはようやく納得して、のぞみから離れて園庭に向かって走り出す。紅は、はははと声をあげて笑いながら、のぞみを引き寄せた。
 そして、「鬼の期待に応えて、帰りに連れ込み宿にでも寄ろうか」などと囁いたものだから、またのぞみは彼をバチンとやってしまうのだった。
 カランコロンと下駄を鳴らす紅と並んで、のぞみは夜の街を歩いている。ネオンに浮かぶ紅の綺麗な横顔をのぞみは不思議な気持ちで見つめていた。
 のぞみにとってはすけべなあやかしである紅は、街では"山神神社の宮司さん"として親しまれているようだった。あちらこちらから声をかけられては、機嫌よく応えている。あやかしとしてひっそりと暮しているものと思っていたが、堂々と街に溶けこんでいるのだから驚きだった。
 そして街の人たちは、紅が連れているのぞみにも興味津々だった。
「宮司さん、珍しいですね。女性を連れているなんて」
 それに対して、普通に新しい保育士だと紹介してくれればいいものを、「ははは、私もそろそろいい歳ですからね」などと言うものだから、そのたびにのぞみは真っ赤になって、否定をすることになった。
 それでもそうして、街の人たちとのやりとりしているうちに、のぞみの中の鬱屈としていた気持ちが少しだけ晴れてゆく。少し海の香りが混じる夜の風も頬に心地よく感じた。