はぁはぁと荒い息を吐きながら、君島のぞみ(きみしまのぞみ)は、山頂まで続く石の階段を上っている。
まだ五月だというのに、太陽はじりじりと照りつけて真夏のような暑さだった。吹き出た汗がこめかみからあごへと伝って、ポタポタと落ちた。
「あぁ、もう無理!」
誰に言うでもなく雲ひとつない空に宣言をして、のぞみは足を止めるとくるりと後ろを向いて階段に腰を下ろす。
そしてふぅーと長い息をついて、眼下に広がる街を見つめた。
ひしめき合うように連なる家々、その間を縫うように走る単線の鉄道、先にはキラキラと輝く大海原が広がっている。
さして大きくはないこの海辺の街に、のぞみは昨日到着したばかりだ。
住むところも、仕事も決まってはいない。それでもある目的のためにここへやってきた。
「きれい…」
そう呟いて、のぞみはペットボトルの水をごくごくと飲んだ。
昨夜のぞみが泊まった駅前のホテルのフロント係は、これから住む所を探すというのぞみに、近くの不動産屋を紹介してくれた。
「君みたいな可愛い子ならサービスしてくれるんじゃないかな」
だが彼の親戚がやっているというその不動産屋のおじさんは、のぞみの条件を聞くとうーんと唸って眉を下げた。
「ちょっと厳しいなぁ…」
のぞみには、お金も職も身よりもない。保証人になってもらえる人もなく、仕事に就いていないのでは、貸せる部屋がないというのだ。
「せめて仕事があれば、オーナーに掛け合ってあげられるけど」
おじさんはそう言って、つるつるの頭を掻いた。
のぞみはこの時になって、自分の考えの甘さを痛感した。とりあえず、ここへ来ればなんとかなると思っていたけれど、甘かったようだ。
住所が決まらなければ、仕事に就くことも難しいのかもしれない。
のぞみは眉を下げた。
「この春、短大を卒業したので保育士の資格はあります。だからなんとかこの街で仕事が見つかればと思ったんです。本当は、仕事を見つけてから来る方がいいことくらいわかっていましたけど、一刻も早くこの街に来たかったから…」
おじさんは、目をパチクリとさせてのぞみを見た。
「どうしてこの街に?」
「…兄を、探しているんです」
のぞみがしょんぼりとして言うとおじさんは気の毒そうに、「何か事情がありそうだね」と言った。そしてしばらく考えたあと、あるアパートを紹介してくれた。
「うちが扱っている物件じゃないんだが知り合いから格安のアパートを探している人がいたら紹介してほしいと言われているんだ。古い神社の敷地内にあるこれまたすごく古いアパートだから家賃は安くでいいし、保証人も保証料もいらないって言ってたような…」
「本当ですか!?」
おじさんの言葉にのぞみは飛び上がる。学校を出たばかりののぞみにだって少しくらいなら貯えはあるが、それでも家賃は安ければ安い方がいい。
思わずすぐにその話に飛びつきそうになって、でもすぐに"いや待てよ"と思い眉を寄せた。そんな都合のいい話があるのだろうか。古くて格安で…もしや事故物件?
そんなのぞみの考えは、顔に出ていたようで、おじさんはぷっと吹き出すとはははと笑った。
「そう警戒しなくても大丈夫! この街のことでわしの耳に入らんことはないからな。あのアパートで何かあったという話は聞かんよ。だが本当に古くてね、家賃もそう取れんから、わしは間に入らんのだよ。大家は地元でも信頼の厚い神社の宮司さんだから、女の子の一人暮らしでも安心じゃないかな」
そして細い目をもっと細くしてのぞみの後ろを指さした。
「ほら、ここからも見える、あの山の上の神社だよ。電話しておくから今から行っておいで」
不動産屋を後にしたのぞみは、その足ですぐに神社を目指した。期待半分不安半分。今は少しだけ不安の方が多いかもしれない。
のぞみはため息をついて、上ってきたばかりの階段を眺めた。いくら格安とはいえこの長い長い階段を毎日登り下りする自信はなかった。
振り返って見上げると頂上まではあと少し、登り切ったところに古びた大きな鳥居があって、『山神神社』と書いてあった。
その周りは鬱蒼とした森に覆われている。のぞみがいる場所からは本殿は見えなかった。
「どうしてこんなところにアパートが…」
呟いてもうひと口水を飲む。そしてよいしょと立ち上がったとき、くいっとTシャツの裾を引かれたような気がした。
振り返ると裾の先に小さな女の子が立っていた。
「え? あ、あれ…?」
女の子は右手でのぞみのTシャツを掴み、もう一方の手で指しゃぶりをしながら、大きな瞳でのぞみをじっと見つめている。
(この子一体どこから来たんだろう…?)
階段を上り始めてから、今の今まで子どもどころか人っ子一人いなかった。声すら聞かなかったというのに。
(神社の方から来たのかな?)
鳥居の方に目を凝らしてもやはり人影はなかった。
のぞみはもう一度階段に座る。そして女の子と視線を合わせた。
「どうしたの? お母さんは?」
尋ねながら三歳くらいだろうかとあたりをつける。迷子なら交番に連れて行かなくてはと思った。このくらいの子なら、名前くらいは言えるかもしれない。
「お母さん…」