「悪いモノが耳にとり憑く」
遊羽は左耳から聞こえていた声を思い出して、身震いした。
「猜疑心は捨てること。先の見えない暗闇に聞き耳を立てると、些細な物音が、人の喧騒が、木々のざわめきが、すべて恐怖に感じるものだよ。危険にばかり耳を傾けていると足元をすくわれる」
淡々とした口調でしゃべる少女であるが、少なくとも目の前に夢や幻ではなく存在してる。そのことで遊羽は幾分か冷静さを取り戻せた。
「で、でも……、赤ずきんの正体を聞いてはいけないのは、カタミミ様に敬意を払っているからであって、禁忌を破ったことで耳に憑くモノとは別モノでしょ。なんで……」
「同じモノだよ」少女は答えた。
「だって、カタミミ様は――」遊羽の言いかけた言葉を少女は遮った。
「それを聞いてはいけないよ」
遊羽は口をつぐんだ。少女の言っていることに釈然としない。少女は顎を上げて遊羽を見た。やはりそれは紗枝の顔だった。
少女は人懐っこく微笑むと、手に持っていた赤ずきんを遊羽にかぶせた。驚いて、思わず肩をすくめた。
「ひっ…………」
「う、ご、か、な、い、で」
少女は遊羽にかぶせた赤ずきんの位置を調整している。その手つきは布越しにも温もりを感じられるほど優しく思えた。手際良く整えられていて、気づくと、胸元のリボンを結ばれていた。
「今日が終わるまで、かぶっていなさい」
ぽんぽんと遊羽の頭を優しく叩き、目先の布をぐいっと引っ張っられた。強い力に遊羽の首も前に傾いた。一瞬、視界が赤一色に染まったのち、ふたたび目の前をみると、少女の姿は消えていた。
――しゃん。
左の耳元で鈴の音が響いた。ひどく懐かしく感じ、赤ずきんの上から左耳に触れて鈴を鳴らす。
――しゃん、しゃん。
左耳に手を添えたままキッチンを見回す。が、少女の姿はなかった。
「……カタミミ様?」
返事はない。キッチンには遊羽だけだった。かがんでテーブルの下を覗き込んでみたが人はいない。覗き込む前から隠れるほどのスペースがないことはわかっていた。
ふと、シンクに置いたプリンを思い出し、振り返えった。が、そこにプリンはなかった。慌てて冷蔵庫の扉を開くが、そこにもプリンはなかった。
赤ずきんと耳元で鳴る涼しい鈴音だけが、少女がいた痕跡だった。少女は音もなく出て行った。そう思うしかなかった。
「あっ、そうだ!」
紗枝へ送ったメッセージを思い出し、握ったままのスマホを見た。メッセージアプリが表示されている。紗枝からの返信かと思っていた遊羽は、メッセージを読んで愕然とした。
『送信エラー 宛先が存在しません』
