「…………ねぇ、こっち」
耳元で女の囁き声がした。振り向いた先の屋台の中年男と目があった。が、男はすぐに手元に視線を落とし、たこ焼きをひっくり返しはじめた。その手前を男の子を連れた父親が通り過ぎていく。周囲には、声の主らしき女性は見当たらない。
ぞくり、と悪寒が走った。得体の知れない恐怖を感じる。が、寒気は汗をかいて冷えたせいだ、と自分に言い聞かせて、歩みを再開した。
「…………ねぇ」
「…………そっちじゃないよ」
「…………あっちだよ」
まただ。女の声が聞こえてくる。祭囃子にまぎれて、確かに耳元に届く。その声は異様なほどクリアに左耳だけに届く。まるで耳元で囁かれているようだ。
聞こえた瞬間、遊羽は何度も左側を振り向くが、近くに女はいない。声が聞こえてから振り向くまで一、二秒だ。囁くほど近くにいたら絶対に気づくはずだ。
耳の虫かも。遊羽は以前読みかじった知識を思い返していた。頭の中で音楽が再生される現象で、意志とは無関係に延々に頭の中に鳴り響き、自分では止められない。ディラン効果ともいうらしい。声が聞こえる事例があるかまでは知らない。
昔見たホラー映画の声を無意識に再生しているのかも。そう考えながら石階段を登っていると、また声が聞こえた。今度は急ぐ女の口調だった。
「すみません、ちょっと通ります」
「あ、すみません」反射的に謝り、遊羽は右に避けた。「あ――」
避けた先に石段は無く、踏み出した足が空を切った。気付いたときには手遅れだった。急な浮遊感にバランスを崩す。直後、腰に硬い衝撃が襲う。考える間もなく、腕や脚をぶつけながら、石階段を一番下まで転げ落ちた。
「いたたた……」
階段下で上体を起こした。遅れて痛みが襲ってくる。尻餅をついたまま手足をさする。膝や脛を数箇所ぶつけているものの、血は出てない。骨も折れていないようだ。
見上げると、階段を登りきった親子連れの背中が見えた。が、女の姿はない。周囲を見回すも、声の主らしき人物は見当たらなかった。
遊羽の周囲に人だかりができ始めていた。慌てて立ち上がり、声をかけられる前に大丈夫だとアピールする。
さっきの女の声が、囁き声に似ていたのを思い返し、身震いした。