「……ごめん、トイレ」
それだけ絞り出すと、返事も待たずに遊羽は椅子から立った。紗枝から顔を背け、社殿から遠ざかろうとただ歩く。早く離れようという一心で歩を進める。一刻も早く神社を抜け出たい。
途中、背後の音を探っていたが、紗枝が追ってくる気配はなかった。
気づくと日本庭園風の庭木に囲まれていた。どうやら、社務所の前に出たようだった。迷子受付やお守り販売のブースがある。
祭囃子は遠く、屋台もなかった。裏方のスペースなのだろう。社務所にはトイレ案内の張り紙がある。トイレを使わせてもらおう、と遊羽は思った。
玄関の引き戸に手をかけると、抵抗無く動いた。鍵はかかってない。中は普通の民家にしか見えなかった。
「入って大丈夫、なはず……」
玄関の灯りは消えていて薄暗い。廊下にも人の気配はない。遊羽は上がって大丈夫だろうかと疑問に思ったが、上がり框にスリッパが並んでいて、脇に木製の下駄箱がある。
「お邪魔しまーす……」
いちおう声をかけみたが返事はない。腰が引けながらも、スリッパに履き替えて板張りの廊下を歩く。忍び足で廊下を歩く姿はまるで泥棒だ。自分の姿を想像して、遊羽はひとり苦笑した。
きぃ……、きぃ……、きぃ……。
板張りの床は踏むたびに軋み音を立て、廊下を反響する。まるで廊下全体が軋んでいるようなだ。真後ろから誰かがついてくるような錯覚さえする。
途中、何度も振り返りながら廊下を進むと、突き当たりを曲がったところに、トイレがあった。
ドアノブに手をかけたところで、遊羽は振り向いた。開いたままのガラス戸がある。覗き込むと、そこは台所だった。灯りは消えていて、誰もいない。人の気配を感じたのは気のせいだろう。
用を済ませた遊羽は、ふと台所に立ち寄った。水を一杯もらおう、遊羽はそう思った。落ち着いたせいで少し余裕が出てきたのかもしれない。さっきまで早く帰ろうと思ってた癖に、我ながら現金な性格だ。と、遊羽はひとり苦笑した。
テーブルには大皿に盛られた総菜が敷き詰められている。それを横目に迂回して奥のシンクに向かう。スプーンや包丁が乱雑に詰め込まれた乾燥棚からコップを抜き出した。
(はぁ………………)
先ほどの紗枝の話は、ちょっとしたイタズラのつもりだろうか。怪談話にしては気味が悪く、妙に生々しい話だった。神楽の最中にそんな話をするなんて、イタズラが過ぎる。だが、遊羽も遊羽で勝手に抜け出してきたのは、失礼だっただろう。
遊羽は頭を振った。もう帰るんだ。だからこれ以上考えても仕方ない。このお祭りは地元の人のためのもので、遊羽はあくまで部外者だ。そう思うことにした。
(そういえばプリンがあるって、紗枝が言っていたな)
コップの水を飲みながら冷蔵庫を開けてみる。酒や総菜が詰め込まれてる中に、カッププリンが二個が置いてある。コンビニで見かける安物だ。すぐに食べられるように使い捨てのスプーンが上に載っている。
勝手に食べるつもりはない。なんとなく気になっただけだ。背中で冷蔵庫の扉を閉め、そのまま寄りかかる。バッグからスマホを取り出してみると、圏外ではなく、通信可能な状態になっていた。
驚いてスマホを凝視していると、視界の隅に赤いものがよぎった。遊羽は誘われるようにそれを見た。
ビクッ!
飛び上がるほど驚いて、遊羽はスマホを落としそうになった。
