ノラネコのピアニスト

 スタルスが十五才の時、部屋でピアノを弾いていると、それは起きた。
 家に居たマドルスが、スタルスの部屋の前を通り掛かったのだ。
 部屋から漏れ聞こえてくるピアノのメロディー。
 マドルスは部屋の前で足を止めると、スタルスのピアノの音に耳を傾ける。そして暫くすると、スタルスの部屋へと入って行った。
 スタルスは入ってきた人物に驚き、ピアノを弾く手を止めた。
 自分の部屋にマドルスが入った事は、スタルスの記憶には一度もない。
 ノックも無しに入ってきた予期せぬ人物の訪問に、戸惑いよりも喜びがスタルスの体を支配していく。そしてスタルスは、マドルスに聴かせるように、心を込めて再びピアノを弾き始めた。

『父さん聴いて…こんなに上達したんだよ』

 スタルスはそんな思いを込め、目を閉じピアノを弾いている。しかし、マドルスは直ぐにピアニストらしからぬ行動を取り始めた。
 演奏を遮るように、喋りだしたのである。

「…お前は明日から、ピアノのレッスンをしなくていい」

 スタルスの軽やかに動いていた指先が、ぴたりと止まった。

「…なんで?…なんでだよ!?」

 わなわなと震えるスタルスは、それを確かめるように叫んだ。

「お前には才能がない」

 そう言ったマドルスは、冷たい目をしている。
 スタルスは、ピアノの鍵盤を叩き付けた。
 部屋の中に、メロディーにならないピアノの音が響き渡った。

「明日からバイオリンのレッスンでも始めるか?…いや、お前には楽器を演奏する才能がないんだな…指揮者のレッスンを始めるんだ」

 マドルスはそう言い残し、直ぐに部屋から出て行った。
 怒り、悲しみ、悔しさ。
 様々な感情に体を支配されていくスタルスは、豆ができ、それが潰れ、固くなるまで練習した指先を見詰める。
 誰よりも認めてもらいたい者に、努力した全てを否定された。
 スタルスの心は、その瞬間から壊れ始めた。
 それからのスタルスは、ピアノに触れなかった。そして、父親の言い付け通りに指揮者のレッスンを開始したのだ。しかし、時たま微かに聞こえてくるフェルドのピアノの音を聞く度、スタルスは発狂しそうになっていた。
 自分は認めてもらえなかったピアノの才能が、フェルドにはある。
 その事実に、スタルスの心は大きくねじ曲がってしまったのだ。そして、フェルドの事を兄としてではなく、歪んだ感情で見るようになってしまった。
 フェルドが家を出て行ってからも、スタルスはピアノに触れる事はなかった。
 ただマドルスの言い付け通りに、指揮者としてのレッスンを、一生懸命励んでいたのだ。
 自分の才能を認めてくれなかったという、恨み以上の気持ちを持ちながらも、スタルスは休む暇もなく、日々レッスンに明け暮れた。
 全ては、自分の全てを否定したマドルスに、自分という存在を認めさせる為だけに。しかし、そんなスタルスの指揮者のレッスンを、マドルスは一度も見ることはなかった。
 フェルドが出て行ってからのマドルスは、家にいる間は、自分の部屋に篭もっていた。
 スタルスには、まるで興味を示さなかったのだ。
 スタルスはマドルスに認めてもらいたい一身で、タクトを振り続けた。しかし、マドルスはやはり、スタルスに興味をもたなかったようだ。
 スタルスは二十五歳の時、マドルスの手を借りる事なく、自分だけの力で指揮者として初めて舞台に立った。しかしそんな門出の日さえ、我が子の初ステージをマドルスは見ようとはしなかった。
 スタルスの初舞台は観客を沸かせた。
 皮肉なものだ。スタルスには、指揮者としての才能があったようだ。そしてスタルスはその後、世界的に有名な指揮者へと変貌して行く。しかしマドルスは、未だ一度もスタルスの舞台を見たことがない。
 スタルスはピアノを辞めてから今までずっと、白い手袋を付けている。
 それはピアニストにとって手は命が故。
 ピアニストになる夢を捨てさせられたマドルスに対する、せめてもの反抗心なのかもしれない。
 マドルスの葬儀は、親族だけでしめやかに行われた。
 リアンは棺の中で眠るマドルスを見て、涙が止まらなかった。
 リアンに見守られながら死んでいったマドルスは、最後までジャンの死を言えないままこの世を去った。
 最後の最後まで、リアンに嫌われる事を恐れたのだ。

『リアン、生まれてきてくれてありがとう』

 この言葉を最後に、マドルスは息をひきとった。
 葬儀が終わった。
 葬儀を終えた次の日。
 荷物を纏め終えたリアンの元に、スタルス家の遣いの者が訪れた。そしてリアンは、その者と共に、スタルス家へと向かった。
 スタルス家に着いたリアンを出迎える者は、誰もいなかった。しかしそれは、意図的にやっているのではない。屋敷が広すぎる為、ジェニファもジュリエも、リアンが来た事に気付かなかったのだ。

 
「今日からこちらが、リアン様のお部屋になります」

 執事は荷物を部屋に置きそう言うと、部屋から直ぐに出て行った。
 一人残されたリアンは、部屋の中を見回す。
 広さはマドルスの家にいた時の部屋と比べても、大差ない程、一人には十分過ぎる程広い。
 部屋の中には、机やソファー、ベッドなどはあったが、ピアノはなかった。
 リアンは荷物を床に置き、いかにもフカフカなベッドに腰掛けた。そしてマドルスの形見となった、首に掛けている銀色のネックレスを手に取り、何かを思うように眺めた。
 あんなに流した涙は渇れることなく、流れ落ちていく。
 暫くベッドに腰掛けて涙を流していると、執事が呼びに来た。
 リアンは涙を洋服の裾で拭った。そして部屋を出ると、執事の後を静かに付いて行った。
 執事が案内した部屋の中では、三人が長テーブルの前に座っていた。スタルスとジェニファとジュリエだ。
 長テーブルの上には、食器やパンが並んでいる。そして、リアンは執事に案内された席に座った。

「…今日からお世話になります…よろしくお願いします」

 リアンはスタルス達に向け、緊張した面持ちで頭を下げた。

「ごめんね出迎えられなくて。リアンはもう我が家の一員なんだから、本当の家族だと思って接してね」

 ジェニファは、にこやかな笑顔を浮かべている。

「よろしくね」

 リアンと同い年のジュリエは、恥ずかしそうに言った。
 スタルスはリアンをちらりと見るだけで、返事はしなかった。
 そして夕食が始まった。
 リアンは食事をしていても、悲しみのせいであまり味を感じなかった。
 ついこの間までマドルスと会話をしていた事を思い出し、自然と涙が込み上げてくる。
 ぽとりと落ちた涙で、スープはしょっぱくなった。

「食事中に泣くな!」

 泣き声を上げていた訳ではないが、頬に伝う涙を見て、スタルスは叱り付けた。
 その一言で部屋の中は、沈黙に包まれて行く。
 リアンは涙を我慢し、食事を続けた。しかし、食欲など湧かなかった。そして、リアンは殆どの料理を残してしまった。

「うちの料理は口に合わないか?」

 スタルスは眉を寄せている。

「…あなた」

 たまらずジェニファが言った。

「食欲がないだけよね…無理して食べなくてもいいからね」

 ジェニファは、優しい笑顔をリアンに向けている。
 食事を終えたリアンは、自室に戻り荷物の整理を始めた。
 複数並べた写真立てには、両親とジャンの他に、マドルスの写真が加わっている。
 そしてフェルドの絵を壁に飾り付けた後、ベッドに寝そべり、暫く呆然と眺めていた。
 疲れていたのだろう。リアンはそのまま眠りの世界に落ちていった。

「おはようございます」

 執事の声でリアンは目を覚ました。
 目の周りは泣きながら眠っていたせいか、涙の跡でがびがびになっている。
 リアンは洗面所に向かい、顔を洗った。そして、鏡に写る自分の顔を見詰めた。実に悲しそうな顔をしている。
 リアンは頬を叩き、気合いを入れた。いつまでも悲しんではいられない。今日から新しい学校に行く事になっているのだ。
 顔を洗い終わったリアンは、食事をする部屋へと向かった。

「おはようございます」

 食卓に付いていたスタルス達に向かい、リアンは頭を下げた。

「おはよう」

 ジェニファとジュリエはにこやかにリアンを出迎えたが、スタルスは返事をせず、新聞を読み続けている。
 執事が運んできた、ほんのりと湯気立つスープが皆の前に置かれると、朝食が始まった。
 昨日の夕飯の時もそうだが、スタルス家の食卓は静かだ。しかし、そんな沈黙を破るように、スタルスが口を開いた。

「…リアン、学校ではソーヤ家の名に恥じない振る舞いをしろよ」

 目玉焼きを食べていたリアンに、視線を向ける事なくスタルスは言った。

「…はい」

 リアンはフォークを置き、静かに頷いた。
 その言葉を最後に、食卓はまた沈黙に包まれる。
 リアンは息が詰まりそうだった。そして、愉快だったジャンとの朝食を思い出した。
 大笑いしながら食べたハムステーキ。具沢山なサラダ。朝っぱらからステーキなんて日もあった。
 ジャン元気かな…
 死んだとは知らないジャンの事を考えているうちに、リアンはマドルスを亡くした悲しみが少し和らいだ。
 朝食が終わり、リアンはジュリエと共に、専属の運転手が運転する車に乗り学校へと向かった。
 リアンはジュリエと同じ学校に通う事になっている。
 その車中、リアンはジュリエと話をした。同い年とあって、話が合う。
 ジュリエは目がパッチリとしていて大きい。
 黙っていれば、フランス人形のような可憐さがあるのだ。
 リアンはジュリエの顔が近づく度、ドキドキとしていた。そして会話を重ねていくうちに、ジュリエはとても優しい性格だと感じ取った。
 家族だったマドルスを亡くしてリアンが落ち込んでいると思ったのだろう、ジュリエは彼女なりのユーモアで笑わせてくれている。
 リアンがマドルスが亡くなって以来、こんなに笑ったのは始めての事だ。
 学校に着くまでの間に、リアンとジュリエは、古くからの友人のように仲良くなった。
 学校に着いたジュリエは、リアンを職員室に案内した。そして教師にリアンを紹介すると、手を振りながら自分の教室へと向かって行く。
 リアンは教師に自己紹介をし、その教師から紹介された、これから担任になるミシェラという女教師の前で、再び頭を下げ、自己紹介をした。
 ミシェラはにこやかに自己紹介を仕返すと、二人は職員室から出て、教室へと向かう。

「…今日からお世話になる、リアン・ソーヤです…よろしくお願いします」

 教室に入ったリアンは、今日からクラスメイトになる皆の前で頭を下げた。
「リアン」

 リアンが頭を下げていると、声を掛けられた。
 リアンが頭を上げて声がした方を見ると、ジュリエが無邪気に手を振っている。どうやらジュリエと同じクラスになった様子だ。

「私のいとこなの。みんなよろしくね」

 ジュリエは立ち上がり、皆に言った。するとクラスメイトの誰かが拍手をした。それに釣られ、クラスメイト全員が拍手をし、教室に拍手の音が響き渡った。

「よろしくお願いします」

 リアンは顔を真っ赤にしながら、担任のミシェラから指定された席に着いた。
 隣には、奇遇にもジュリエが座っている。
 リアンが席に着くと、ジュリエはにこやかに白い歯を見せ笑った。リアンも照れた表情を浮かべ、笑顔を返した。そして、休み時間になる度クラスメイトがリアンの元にやって来た。
 前の学校同様に、皆優しげだ。