「…あのお酒って、毎年買うお酒だよね?…うん、買ってくる」
リアンは地図と代金を貰い、ジャンをベッドに寝かせると、隣町にある酒屋へと向かった。
ジャンの車で何度も行った事がある店だ。地図もあるし、迷うはずはない。リアンはそう思った。
車で行けば、三十分程で着く場所。しかし、歩くとこんなに遠いのか。
歩き始めて一時間、まだ半分も来ていなかったリアンは、そう思った。
それから大分経ったが、午前中の内にリアンは酒場に辿り着いた。そして目的の酒を買うと、帰り道を急いだ。
リアンの手には、ウィスキーの入った袋が握られている。このウィスキーは、フェルドに酒場を譲り渡した、先々代の店主のエルラが大好きだったものだ。
今日は、そのエルラの命日。
命日には、街を去った昔の常連客達が、戻ってくる。その命日に酒場でこのウィスキーを無償で振る舞う習慣が、フェルドの代から続いているのだ。
リアンが酒場に着いた頃には、もう、夕方になっていた。
「…リアン」
酒場に入ったリアンを、店の中で待っていた昔の常連客が呼んだ。
「ん?どうしたの?」
「ジャンが屋根から落っこちた」
「…えっ?」
「足を折って、今病院にいるぞ」
「本当!?」
リアンはウィスキーを置くと、慌てて病院へと急いだ。
病院に着いたリアンは、『本日休業』の札の掛かったドアを叩き続けた。
暫くすると、ドアが開いた。ドアを開けて出てきたのは、酒場の常連客のジョアンだ。
「リアン、マスター足の骨折っただけだからな。そんなに心配するな」
泣き出しそうな顔のリアンにそう言うと、優しく肩を抱き寄せ、ジョアンは病室へと案内した。
病室の前は、酒場の常連客達が大勢いた。
「俺達、追い出されちゃったよ」
常連客の一人が笑顔で言った。
笑っているところを見ると、どうやら命には別状ないようだ。
リアンはドアを開け、病室に入った。
病室では、ベッドに寝そべるジャンと、その傍らで椅子に座っている老人が、何やら話しをしていた。
「…よっ、リアン…悪いな」
ジャンが、リアンに気付いた。
「…大丈夫?痛くない?」
リアンは涙を浮かべ、とても心配している様子だ。
「まだ、ちっと痛いけど、大丈夫だ!」
ジャンは親指を立て、にっこりと笑った。
「なんで足の骨折ったの?」
「…いや、屋根が気になったから、また登ったら、落っこちたんだ」
ジャンは申し訳なさそうな様子だ。
「…もう」
「…まぁ、そんなに怒るなよ…それより、リアンに紹介したい人がいるんだ」
ジャンはそう言うと、椅子に座っている老人へと視線を向けた。
リアンはその老人に見覚えがある。昨日酒場に来ていた、あの老人だ。
「…どうも、こんにちは」
リアンは挨拶をし、頭を下げた。そして、頭を戻した時に、リアンは驚いた。
老人は目に涙を浮かべ、泣いていたのだ。
「リアン、あのな…」
ジャンは何か、言い難そうにしている。
「…え?何?」
「…こちらはフェルドのお父さん…つまり、お前のおじいちゃんだ」
言い終わると、ジャンは唇を噛み締めた。そうしなければ、涙が溢れ出てきてしまうのだろう。
先程までのジャンの元気は、演技だったようだ。
「…おじいちゃん?」
リアンは一瞬、頭が真っ白になった。
「…フェルドの息子のリアンだね」
老人はわなわなと震える手で、リアンを抱き寄せた。
「…おじいちゃん?」
リアンは抱かれながら、呟いた。
「…すまなかった…すまなかった」
老人は泣きながら、何度も謝った。
「…わしの名はマドルス・ソーヤ…お前のじいちゃんだ」
マドルスは抱き寄せていた両手を、リアンの肩に載せると、涙を流しながら微笑んだ。
「………」
リアンは、どこかフェルドに似ているマドルスの顔を見て、涙が滲み出てきた。
「…リアン…今日からおじいちゃんと暮らせ」
涙を堪えているのだろう。そう言ったジャンの拳は、強く握られている。
「…えっ!?」
「…俺の足折れちゃったしな…当分店も休まなきゃ駄目だしな」
「…僕が店をやるよ」
「…お前は学校もあるし、酒場は深夜まで開かなきゃだめなんだ。いいから、おじいちゃんと暮らせ」
「…やだよ!」
いつまでも、ジャンと暮らしていたいのだろう、リアンは叫んだ。
「…今の俺じゃお前を養えないんだ…それに店を閉めて旅に出ようと思ってたんだ」
ジャンはリアンの為を思い、嘘を吐いた。
「…僕も付いて行くよ」
「…お前は邪魔なんだ…お前が居ると、いつまでも、俺は結婚もできやしない」
「………」
返す言葉を無くしたリアンは、泣きながら病室を飛び出して行った。
その後ろ姿を悲しい目で見送ったジャンは、マドルスに頭を下げた。
「…リアンを頼みましたよ」
マドルスは頷き、リアンを追い掛ける為に、病室から出て行った。そして病室に一人きりになったジャンは、ようやくおもいっきり泣けたのだ。
リアンは病院を出て、直ぐの所でうずくまり泣いていた。
そんなリアンの肩に、マドルスは優しく手を載せる。
「…じいちゃんと、一緒に暮らそうな」
マドルスは跪き、目線をうずくまるリアンに合わせた。
「…うん」
リアンはジャンが言った言葉が、嘘だと分かっていた。
自分の為を思った、優しい嘘だという事を。しかし、自分が居なくなればジャンは結婚できるかもしれない。自分の存在がジャンの自由を縛っている。リアンはそう思った。
「…いつから一緒に暮らすの?」
それが一週間後なのか、一ヶ月後なのかは分からないが、出来るだけ先にして欲しいと願いながら、リアンは尋ねた。
「…今日、じいちゃんと一緒に帰ろうな」
予想だにしない答えに、悲しみながらもリアンはただ一言、「うん」と答えるしかなかった。
二人はリアンの荷物を纏めに、酒場へと向かった。酒場では、エルラの好きだったウィスキーを、昔の常連客達が飲みながら供養していた。
「リアン、おかえり」
昔の常連客達が、声を掛けた。
「…うん、ただいま」
リアンは悲しみを悟られないように、作り笑顔で答えると、そのまま二階へと上がり、荷物を纏めだした。
鞄に詰められるだけ荷物を詰め終わったリアンは、視線を壁に向けた。
壁にはフェルドが描いた絵が、沢山飾ってある。
汽車で帰る事をマドルスから聞いている。全てを持って行く事は不可能だ。
さよならじゃない。また直ぐにこの部屋に戻る日が来る。
リアンは最初に目がいった、一枚の絵だけを額縁に入れたまま、布で包んだ。
自分の荷物は持てるだけ纏めた。
リアンはジャンの部屋に行き、着替えを別の鞄に詰めると、今まで育ててくれた感謝の手紙を書き、テーブルの上にそれを置いた。そして、名残惜しむ背中だけを残し、一階へと降りて行った。
「…リアン、そんなに荷物持ってどこに行くんだ?」
昔の常連客が尋ねた。
「…うん、ちょっとね…おじさん、お願いがあるんだけど…後でこの荷物をジャンに届けて欲しいんだ」
本当は自分で渡したい。手紙なんかではなく、直接感謝の気持ちを伝えたい。しかし、それをすれば、決意が揺らぐだろう。リアンは頼むしかなかったのだ。
「ん?…もう俺達も帰ろうとしてたからいいけど」
リアンの様子に気付いた昔の常連客は、不思議そうな顔をして荷物を受け取った。
「…おまたせ」
リアンは外で待っていたマドルスに向かい、作り笑顔を見せた。
「うん…じゃあ、挨拶しに病室に戻るか」
マドルスは少し不安そうな顔をした。
「…ううん、行かなくていい」
その顔を見せないように、リアンは俯いた。
「…いいのか?」
「…うん」
マドルスはほっとした。
ジャンに会えば気持ちが揺らぐと思ったのだろう。
「…じゃあ行こうか…学校には転校する事を、明日電話しといてやるからな」
「…うん」
リアンは思い出のいっぱい詰まった酒場を振り返り、見詰めた。
唇を噛み締めた。そうしなければ、涙が溢れ出していただろう。
別れじゃない。また帰ってくる。リアンはその気持ちを胸に、マドルスに顔を向けた。
「…行こう」
マドルスは優しい笑顔を浮かべた。そして、リアンの肩に優しく手を置くと、二人は歩き出した。
二人が次に辿り着いたのは、小高い丘の上だった。すっかり空は茜色に染まり切っている。二人はフェルド達夫婦が眠る墓の前で、両手を合わせた。
リアンは両親と会話をしているのだろう。いつまでも目を閉じ、両手を合わせ続けている。
「…リアン」
小さな肩を、温もりのある、その大きな手で包まれた。
ようやく目を開いたリアンの目には、うっすらと滲むものがあった。その涙をマドルスは指先で拭うと、リアンの手を引き、駅へと向かった。
駅には既に、蒸気を上げている汽車が停まっている。
夜に染まり始めた空と同化して見える汽車の中に、二人の姿は消えて行った。
白い蒸気が上がっている。どこか物悲しい汽笛を上げ、汽車は走り出した。
慣れ親しんだ風景が、車窓から消えて行く。その姿を涙を堪え、リアンは見詰め続けた。
マドルスもまた、そんなリアンを見詰め続けた。
話はリアンがジャンの病室を訪れる、二時間程前に遡る。
既に処置を終えていたジャンの病室は、酒場の常連客達で賑わっていた。
そこにマドルスが来た。
「…お話があるのですが」
マドルスの顔は真剣そのものだ。
「…はい、みんなちょっと、二人きりにしてくれないか」
歯向かう者はいなかった。
常連客達はドアの前に立つマドルスを横目で見ながら、病室から出て行った。
病室に静けさが戻った。初めに口を開いたのは、ジャンだった。
「…そこに椅子がありますから、どうぞ」
「…はい」
マドルスは、ジャンの近くに置かれている椅子に腰掛けた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「…わたしはフェルドの父親です」
「…フェルドの」
フェルドの写真を悲しそうに見ていマドルスの様子から、その可能性もあると考えていたジャンは、あまり驚いていない様子だ。
「…申し遅れました。私の名はマドルス・ソーヤといいます」
マドルスは悲しそうな顔をしている。
「…マドルス・ソーヤ?…ってあの?」
ジャンはその名前を知っていた。そして、記憶に残る昔見た雑誌に写っていたマドルス・ソーヤと、目の前にいるマドルスの顔が重なった。
「…世界的に有名なピアニストですよね?」
「…ただのピアニストです」
そう謙遜したマドルスの顔は、より悲しみに染まっている。
「…息子の子供…孫の名前を教えてくれませんか?」
「…リアンと言います」
「…リアン」
マドルスはリアンの名を呟きながら、堪えていた涙を流した。
「…私はずっと息子を探していました…そしてやっと出会えることができたんです…今日、息子達の墓に行ってきました」
マドルスは、人から聞いたフェルド達夫婦が眠る墓を参った帰り道に、ここにきた。
「…あなたがリアンを育ててくれていたのですか?」
「親友の子供ですし…自分の子供だと思っていますから」
「…ありがとうございました」
マドルスは、しわくちゃの手でジャンの手を握り締めた。
「…これは今まで育ててくれていたお礼です」
マドルスは握り締めていた手を離すと、床に置いた鞄から、何かを取り出した。
それはジャンが見た事がないような、幾つもの札束だった。
「…そんな物いりません」
ジャンは金を受け取らなかった。
「…リアンを私に返して貰えないでしょうか?」