ノラネコのピアニスト

 このまま帰れば、ジェニファはスタルスに、リアンがジョルジョバの養子になる事を伝えるだろう。
 自惚れる訳ではないが、リアンが自分の養子になる事を知ったスタルスが、どのようになってしまうかは、ジェニファの話を聞いた今だからこそ、ジョルジョバには想像できたのだ。
 スタルスは、リアンの父であるフェルドのピアノの才能を恨んでいる。そして、リアンのピアノにフェルドのピアノを重ねているとジェニファは言った。
 スタルスはリアンの名を聞く度、物に激しく当たるようになった。それは家族から見ても、常軌を逸している姿のようだ。
 スタルスは最早、リアンを憎み、恨んでいる。
 ジェニファが包み隠さず全てを話してくれたからこそ、ジョルジョバはそう感じた。
 ジェニファはスタルスに長年連れ添ってきた。ピアノの神と謳われたジョルジョバの子供として、リアンは受け入れられる。その事実を知った時、スタルスがどうなってしまうかは、ジョルジョバ以上に具体的に想像できた。

「…話さないと、いけないでしょうか?」

 ジェニファは、他人に答えを求めるものではないと分かりながらも、その切実な問いが、口から漏れたようだ。

「…話されない方がいい」

 断言しなければ、思い悩む日々が続くと思ったのだろう。ジョルジョバは、断言してそう言った。

「…でも」

「リアンの事を話されたら、ご主人は壊れてしまうかもしれない。話されない方がいい」

 躊躇しているジェニファの気持ちを、ジョルジョバは後押しした。
「…ありがとうございます」

 ジョルジョバの優しさに気付いたジェニファは、心の底からお礼を言った。

「お礼なんて言う必要はありません。それから、お嬢さんにも話さない方がいい。何処からご主人の耳に入るか、分かりませんからな」

「…分かりました…こんな事、私が言う資格はありませんが…リアンを幸せにしてあげてください」

「必ず幸せにします。任せてください」

 ジョルジョバは涙の止まらないジェニファを和まそうと、大袈裟に自分の胸を叩いた。その仕草を見たジェニファの心は、少しずつ和んでいった。

「…リアンは、ピアノを弾いていますか?」

 それもまた、ジェニファにとって気掛かりな事。

「えぇ、毎日楽しそうに弾いていますよ」

「…ジョルジョバさんが、リアンにピアノを教える事はあるんですか?」

「教えるという程ではありませんが、毎日お互いの演奏を聴いています」

「…よかった」

 涙に混じり、ジェニファの口から溜め息が漏れた。

「…リアンのおじいちゃんの遺言だったんです」

 ジェニファは目元の涙をハンカチで拭くと、穏やかな口調で話し始めた。

「マドルスの遺言?」
「えぇ…マドルスは死ぬ間際に、リアンのピアノの才能を伸ばして上げて欲しいと、私に頼みました」

「…そうですか、マドルスもリアンのピアノに惹かれた一人なんですね」

 ジョルジョバはそう言うと、遠い目をした。
 世間にはあまり知られてはいないが、ジョルジョバとマドルスは昔、親友と呼ぶ程に仲が良かった。しかしジョルジョバが表舞台から姿を消した時から、二人の関係は大きく崩れたのだ。
 血の滲むような練習を積み重ねても、誰もジョルジョバのピアノの域には辿り着けないだろう。それを誰よりも知っているからこそ、衰えた訳でもないのに、引退を告げたジョルジョバをマドルスは許せなかったのだ。
 引退を告げたその日から、ジョルジョバは一度もマドルスと言葉を交わしていない。
 一度拒絶されたからといって、親友ならば諦めずに何度も押し掛けていればと、マドルスが死んだ今となって、ジョルジョバは後悔しているのだ。
 ピアノ界を去ってからも、心のどこかでジョルジョバはマドルスの事を考えていた。
 リアンが、そのマドルスの孫であると知った時には、ジョルジョバは驚き、そして涙したのだ。そしてそれまでは気付かなかったが、リアンのピアノの中に、僅かに親友マドルスの面影を感じ、また涙を流した。

「…あの、これ」

 ジェニファがジョルジョバの前のテーブルの上に、何かを差し出した。

「これは?」

 聞かなくてもそれが銀行の通帳である事は、一目瞭然だ。しかしジョルジョバは、それが何を意味するものなのかを尋ねたのである。

「…マドルスが、リアンに残したお金です」

「遺産という事ですか?」

「はい…主人が管理していたのですが、これはマドルスがリアンに残したお金なんです」
「…この通帳がなくなったら、ご主人に何か言われるのではないですか?」

 ジョルジョバはその一点に、大きな不安を感じた。

「いえ、大丈夫です。最近、お金の管理は私が任されるようになりましたし…それにこれはリアンのお金なんです…もっと早く渡せていれば」

 ジェニファはそう言うと、本心から申し訳なさそうな顔をした。
 この通帳が無くなれば、スタルスが気付くかもしれない。しかしこの通帳を受け取れば、ジェニファの肩の荷も少しは降りるだろう。そして何よりも、受け取るかどうかはリアンが決める事。

「…分かりました。リアンに渡しておきます」

 ジョルジョバはそう言うと、自分の足下に置いている鞄に、通帳を仕舞った。
 少し時間が経った。
 そろそろこの家を出なければ、帰りの列車には間に合わないかもしれない。

「…では、わたしはこれで失礼します」

 話も終え、スーツの内ポケットの懐中時計で時刻を確認したジョルジョバは立ち上がった。

「…リアンの事、よろしくお願いします」

 最後までジェニファは、リアンの事を口にしている。暮らした期間は短いが、本当の子供のように、リアンの事を愛しているのだろう。
 ジョルジョバはそれを感じ取り、笑顔で答え、スタルス家を後にした。
 スタルスの耳にも、ピアノの音は届いている。そして周りの者の視線は、そのピアノの音を奏でる一人の少女へと向けられている。しかしスタルスの視線は、少女が演奏するステージへと向けられているものの、その目は少女を見ていない。少女が奏でるピアノの音は聞こえているものの、周りの者達とは違い、演奏を聴いてはいないのだ。
 スタルスは今、ピアノコンクールの審査をしている。そして、少女はそのコンクールの参加者。
 当たり前の事だが、審査される為に今ピアノを弾いている。しかし審査長を務めるスタルスは、ピアノの演奏を審査するどころではなかった。
 ジョルジョバの息子がこのコンクールに出場するという事実が、スタルスの心を職務を全うできない程にざわつかせているのだ。
 スタルスは自分では気付いていないが、誰と比べても負けぬ程にピアノを愛している。そしてそのピアノへの愛情は、彼が成長するに連れ、歪んだものになってしまった。
 誰よりもなりたいと願った、父親のようなピアニスト。そして誰よりも越えたいと思った、世界一のピアニストの父親を。
 尊敬して止まない父親から打たれた、ピアニストになるという夢の終止符。誰よりも認めている父親から才能がないと言われたからこそ、スタルスはピアノを弾く事を辞めたのだ。
 それからのスタルスは、ピアノを弾く者を憎んだ事はあっても、ピアノ自体を憎んだ事は一度もない。
 それは物に当たる事がある気丈の激しいスタルスが、一度たりともピアノを傷付けた事がない事から見ても分かるだろう。
 自分がなりたかった、世界一のピアニスト。
 その夢はジュリエが産まれた瞬間から、彼女に託された。しかし、スタルスは溺愛するジュリエにピアノを無理強いした事はない。
 ジュリエは、ジェニファのお腹の中にいる時からピアノの音を聴いている。
 それは産声を上げ、スタルスとジェニファからありったけの愛情を注がれ成長していく中でも、変わりはなかった。
 ジュリエは日々、ピアノの音に包まれながら、成長していったのだ。そんな彼女がピアニストになる夢を持ったのは、必然かもしれない。
 その小さな体と共に、日に日に成長していくジュリエのピアノ演奏。
 それは親馬鹿ではなく、誰が聴いても、同世代でライバルと呼べる者がいない程、彼女のピアノの腕前は誰よりも抜きん出ていた。その事実が、スタルスは堪らなく嬉しかったのだ。
 しかし、それはリアンのピアノの音を聴くまでの話。
 リアンのピアノは、スタルスが初めて敗北を知った、兄のフェルドの奏でる音そのもの。
 初めてリアンのピアノを聴いた時、スタルスはそう感じたのだ。
 ジュリエは世界一のピアニストにならなければならない。その真っ直ぐで純粋過ぎる思いが、スタルスの心を歪めているのだろう。
 ジュリエのピアノを凌ぐ可能性がある者が、このコンクールに出場している。その事実が、スタルスの心をさらに壊し始めていた。
 代わる代わる披露されていくピアノ演奏。
 皆が静かに耳を傾け演奏を聴いている中、スタルスだけは、未だ演奏に耳を傾けてはいなかった。

「あれ、ジョルジョバじゃないか?」

 苛立った指先を、忙しなくテーブルにぶつけているスタルスの耳に、そんな声が届いた。その声は、隣に座るヤコップにも聞こえていたようだ。

「息子さんを見に来たんですかね?」

 スタルスの気持ちなど知る由もないヤコップは、何の気なしに、そんな言葉を口にした。しかし、スタルスがその問い掛けに答える事はなかった。
 スタルスは食いしばった歯を軋ませながら、その声が聞こえてきた後方へと顔を向ける。そしてざわつく客席の中心に、スーツを着た白髪の老人を発見した。
 そこに座っているのは、紛れもなくあのジョルジョバ.フィレンチであった。
 今はステージの上で演奏する者は誰もいない。
 だからだろう、多くの観客はステージを見ずに、ピアノの神と称されるジョルジョバの姿をその目に焼き付けようと、彼を見詰めている。しかし、それは直ぐにジョルジョバの一つの動作で変わった。
 笑顔のジョルジョバは、突き立てた人差し指をステージに向けている。
 ジョルジョバを見詰めていた観客達は、彼の指先を辿り、指し示すステージ上へと視線を移した。そこには、ステージ中央に置かれたピアノへと向かう少年の姿があった。
 言わずもがな、少年はコンクールの出場者である。
 客席に座る者達は、出場者の応援で来ている者もいるだろうが、それ以外の者達は、ピアノ演奏を聴く事が好きな者達なのだろう。そうでなければ、長丁場となるこのコンクールの観客席には座らない筈だ。
 これから少年がピアノを演奏する事は、今までの流れから考えて、皆分かっている。
 一度ステージへと向けた視線を再びジョルジョバへと戻す不躾な者は、この会場にはいないようだ。
 一人を除いては。

「どうかしましたか?」

 ヤコップが声を掛けた。
 ステージ上の少年の演奏が始まりそうだ。しかしスタルスは、未だ後方へと顔を向け、ジョルジョバを睨み付けている。
 間もなく演奏が始まる。
 ヤコップは審査員の長であるスタルスの肩に手を置き、その名を呼んだ。

「…スタルスさん」

 そこでようやく気付いたスタルスは、険しい顔付きを整え、肩に手を置くヤコップを一瞥した後、視線をステージへと戻した。
 ステージ上の少年が緊張した面持ちのまま、ピアノを弾き始めた。その緊張感が指先を伝い、ピアノの音にも微かに入り混じっている。
 直ぐにその音に気付いたスタルスの表情が、またしても険しくなった。
 由緒あるこのコンクールに、人前で緊張しながら演奏する者が出場している事に、スタルスは怒りを覚えたのだ。しかし、普段のスタルスならばこれ程の怒りは感じなかっただろう。
 その正体に未だ気付いてはいないが、ジョルジョバの息子の存在が、スタルスをおかしくしているのだ。
 少年の奏でる曲が終盤に入った。
 先程の緊張が嘘のように、少年の奏でるピアノの音は、その曲の持ち味である躍動感を見事に表している。しかし、それを評価できぬ程に、心が捻れてしまったスタルスは、少年を睨み付けたままだ。
 一度の失敗さえ許せないスタルスは、握り締めたペンで、その怒りを審査用紙に捻り付けた。
 スタルスの持つ審査用紙が真っ黒に染まる頃、少年の演奏が終わった。
 一人、また一人と、ステージ中央のピアノを弾いていく。
 途中休憩を挟みながらの長丁場となったこのコンクールも、もう直ぐ終わりを迎えそうだ。
 リアンは今、ステージ横にある控え室で、ピアノ演奏を聴いている。そして、リアンの耳に届いていたピアノの音が止んだ。
 聞こえてくる拍手の音。そして、その拍手の音も暫くして消えた。係員の男が、ステージ袖から顔を出し、リアンを呼ぶ。

「リアン.フィレンツェさん、こちらへどうぞ」

 閉じていた瞳をゆっくりと開いたリアンは、椅子から立ち上がると、ステージへ向かい歩き出した。
 ピアニストにとって両手とは、命と並ぶ程、大事なもの。
 ピアニストになれなかったスタルスの両手には、その手を守るように、未だ真っ白な手袋が常に嵌められている。その真っ白な手袋が、薄らと赤く染まり始めた。
 短く手入れされているにも関わらず、手袋の中の爪は、柔らかな手の平を傷付けている。スタルスは手袋越しに爪が食い込む程、拳を強く握り締めているのだ。そして、血走って見えるその両目が見詰める先は、ピアノだけが置いてある、今は誰も居ないステージ。
 そのステージの袖から、誰かが現れた。

「…なっ!」

 スタルスは我が目を疑った。
 その視線の先に、自分と血の繋がりのある、一人の少年が歩いていたのだ。
 リアンである。
 共に過ごした期間は短く、顔付きも変わっているものの、スタルスはその少年がリアンであると、直ぐに分かった。
 ピアノへと一歩一歩近付いて行くリアンの顔は、緊張しているように見える。そして、軽く握ったリアンの指先は、微かに震えている。
 無理もないだろう。客席には大勢の人が座っている。リアンはこれまでに、こんなに大勢の前で、ピアノを演奏した事がないのだ。
 ピアノの前に着いた。
 ピアノの前には、黒い背もたれの付いた椅子が置かれている。
 静まり返った会場に、椅子が引かれていく音が木霊した。椅子に腰掛けたリアンは、目の前のピアノの鍵盤を見詰める。
 艶やかな白と、光沢のある黒。
 それ以外の色は、そこには存在しない。
 物心付いた時から、いつでも近くにはピアノがあった。
 初めてピアノで音を出した時の事は覚えてはいないが、初めて弾いた曲は覚えている。
 鍵盤を見詰めるリアンは、求めるように指先を近付けて行く。