教授の言葉に続き、皆は思いの丈をそれぞれが口にした。
「話してくれんか?何故、リアンがここに来たのか」
教授は未だ俯くリアンの両手を、温かな手の平で包み込んだ。
「…両親は、僕が幼い頃に死にました…それからは、父親の親友のジャンに育ててもらっていたんです」
リアンは自分の両手を包み込む教授の大きな両手を見詰めながら、ぽつりぽつりとこれまでの自分の人生を語り始めた。
「…でも、僕には…お互い知らなかったけど…祖父が居たんです…そして、祖父と偶然出会い、僕は祖父に育ててもらっていました…」
言葉の続きを声にする前に、その時の事が頭に広がったリアンは、そこで言葉を止めた。
マドルスが死んだ時の感情が、鮮明に甦ったリアンの頬に、一粒の涙が零れる。しかし、その悲しみを包み込んでくれる温かな手の平に包まれているリアンは、涙を堪え、言葉を繋げた。
「…祖父が亡くなり、僕は叔父の家で暮らしていました。しかし叔父は父さんを恨んでいたみたいです…そして僕の事も」
「…何で叔父さんは、リアンの父親を恨んでいたんじゃ?」
決して好奇心からではなく、心配しているからこそ、教授は聞きたいのだろう。
リアンにもその思いが伝わったのだろう、ありのままを話し始めた。
「叔父さんは、父さんの弾くピアノを恨んでいました」
「…ピアノ?リアンの父親はピアニストなのか?」
リアンがあれだけのピアノを弾くのだ。
父親も名のあるピアニストだと教授が思うのも、不思議ではないだろう。
「いえ、画家でした…でも父さんはピアノが凄く上手くて、僕は父さんの弾くピアノが大好きでした」
「リアンがそう言うんじゃ、相当上手かったんじゃろう…しかし、何故叔父さんは、ピアノが上手いだけで親父さんを恨む必要があるんじゃ?」
「…詳しくは知りませんが、叔父さんは才能がありながらピアニストの道を捨てた父さんを許せなかったそうです」
様々な事を思い出しながら喋るリアンは、とても悲しそうだ。
「…そうか…辛い事を思い出させて、すまなかったな…リアンの生まれ故郷は何処なんじゃ?」
教授はそう聞きながら、優しくリアンの頭を撫でた。
「…隣町です」
優しく頭を撫でる教授とは目を合わせる事なく、リアンは溜め息を吐くように、切なげに答えた。
「…リアンを育ててくれたジャンさんは、隣町にはもういないのか?」
切なげなその態度に気付きながらも、リアンの将来を真剣に考える教授は、それを確かめずにはいられなかった。
「…ジャンはもう、この世にはいません」
唇を微かに震わせ、リアンはぽつりと答えた。
「…そうか…すまんな…最後に聞かせてくれ。リアンには他に身内はいないんじゃな?」
「…はい」
質問を終えた教授は、静かに目を閉じた。そして次に目を開けた時には、優しげな瞳でリアンを見詰めていた。
「リアンが良ければ、わしの息子にならないか?」
「え?…いえ」
予期せぬ言葉に、リアンの口からそんな言葉が漏れた。
「わしはリアンの年も知らない、こんな老いぼれじゃが、この数日間でリアンの事は分かったつもりじゃ。リアンも少しはわしの事を分かってきた頃じゃろ?」
教授は問い掛ける形で言葉を止めた。しかし、戸惑っているリアンの口からは、返事が聞こえてはこない。
「…リアン、わしは悪い人間か?」
戸惑っているリアンを見詰める教授は、質問を変えた。
「…教授が、悪い人間な訳ないじゃないですか」
リアンは顔を上げ、自分を見詰めるその瞳を見詰め返す。
「…なら、前向きに考えて欲しい。直ぐに答えをくれとは言わん。よく考えて答えを出してくれ」
教授はそう言うと、全てを包み込むような優しい笑顔を浮かべた。
「…はい」
その笑顔に包み込まれたまま、リアンは静かに頷いた。
「…最後に言わせてくれ。わしは本心でリアンを息子にしたいんじゃ。それだけは分かってくれ」
自分を真っ直ぐに見詰める教授のその瞳で、それが嘘ではないとリアンには分かった。
それから一週間。
リアンと教授は親子になった。
戸籍上では本当の親子ではないが、血の繋がる親子にも負けない関係になっていくと、仲間の皆はそう思っている。
鏡の前で身支度をするリアンの顔は、まだあどけなさはあるものの、あの頃よりも大人になっている。
ホームレスとして生活していた頃から、約二年。その歳月が、リアンの顔立ちを変えたのだ。
変わったのは顔立ちだけではない。無論、背も伸びたし、声だって変わっている。十六歳になったばかりのリアンは、成長期真っ只中なのである。そして、変わったのは見た目だけではない。
路上に建てた小屋で暮らしていたリアンは、今では教授が買った、立派な家で暮らしている。そして、変わったのはリアンだけではない。
教授こと、ジョルジョバ.フィレンチも変わった。
見た目が綺麗になった事もそうだが、大きく変わった事がある。ジョルジョバは、仕事をしているのだ。
人の親になるという事は、その子供の手本にならなければならない。それをジョルジョバはちゃんと理解した上で、リアンを我が子にする事を望んだのだ。
気になるのは仕事の内容だが、ジョルジョバは彼にしか出来ない事をしている。人に癒しと感動、その他にも様々な感情を抱かせるような仕事をしている。
察しがいい者ならば、もう彼の仕事が分かったのではないだろうか。
ジョルジョバは、彼の天職であるピアニストをしている。
仕事を始めるにあたり、ジョルジョバにはピアニスト以外の選択肢はなかった。
ピアノ教師ではなく、ピアニストに拘ったのだ。
リアンに、ピアニストという職業を間近で見せたかった。それがどんなに素晴らしい職業であるかという事を。ピアニストになる事を望んでいるリアンに伝えたかったのだ。
ジョルジョバの復帰に、彼を知る者達は歓喜に震えた。
ジョルジョバは、定期的に暮らしている街にある会場でコンサートを開いている。
熱狂的なファンも多かったジョルジョバ。彼の演奏を聴きに、世界中から様々な人種が会場に押し寄せている。
復帰したジョルジョバは、その会場でしか、コンサートを開いていない。それは、少しでもリアンと過ごせる時間を増やしたかったからだ。しかしそれは、我が子を溺愛する気持ちだけで、そんな風に過ごしている訳ではない。
勿論、血の繋がる本当の子供のように愛情を注いでいるが、ジョルジョバはリアンにピアノを教える事に、仕事以上の生き甲斐を感じているのだ。
そして、ジョルジョバは感じていた。
急速に腕前を上げていくリアンのピアノを聴く内に、自身の腕前も上がってきている事を。リアンに感化されているのだ 。
お互いが認め合い、二人は共に成長している。
「おはよう」
部屋を出てリビングへと入ったリアンは、テーブルの前に座っているジョルジョバに、朝の挨拶を交わした。
「おはよう。今日から新学期じゃな」
白く伸びた顎髭を触りながら、ジョルジョバは笑顔でリアンを出迎える。
「うん。でも、早く卒業したいな」
そう言いながら、リアンはジョルジョバの対面に座った。
「何故じゃ?学校は楽しくはないのか?」
ジョルジョバは心配そうに我が子を見詰めた。
「いや、楽しいよ。でも、早くピアニストになりたいんだ」
ピアニストとしてのジョルジョバの姿を間近で見てきたリアンは、学友と過ごす楽しい青春時代よりも、いち早く感動を与えるピアニストになりたいと、強い憧れを抱いている。しかし、それは憧れだけでは留まらないだろう。ピアニストとして成功する。その音色を聴いた者ならば、誰しもがそう思うかもしれない。
リアンは既に、復帰前のジョルジョバと比べても、遜色のない腕前を持っているのだ。
「まあ、そう焦るな。学生時代は生涯の友ができる時でもあるんじゃぞ。ピアニストは卒業してからでもできるが、学生時代は卒業してからは、できないんじゃぞ」
「それは分かってるんだけど…あーあ、早くピアニストになりたいな」
リアンは将来の自分を見据えるように、リビングに置かれたピアノへと視線を移した。
「…さっき弾いたばかりなのに、ピアノを弾きたくてうずうずしとるのか?」
ジョルジョバの言う通り、ずっとピアノを見詰めていたリアンの顔は、弾きたさに満ちている。そしてジョルジョバの言う通り、先程までリアンは、自分の部屋でピアノを弾いていたのだ。
余程ピアノを弾くのが好きなのだろう。
「…だめ?」
「…約束じゃろ?学校に行く前は、決めた時間にしか弾かないと。また遅刻してしまうぞ?」
ジョルジョバは誰にも負けぬ程ピアノが好きだと自負していたが、自分以上にピアノが好きなリアンに、苦笑いを浮かべた。
「飯が出来たぞ」
リアンはその声に聞き覚えがあった。
それもその筈だ。彼はこの家で料理をする為に雇われているコックなのだから。
「おはよう、ビスコ」
彼の名はビスコ。
かつてリアンがホームレスとして暮らしていた時にできた仲間である。
「いつもの時間通りじゃな。時間にピッタリなのは、ビスコらしいの」
ジョルジョバ家では、朝飯の時間は決まっている。 その時間通りに、毎朝ビスコは出来たての料理を運んでくるのだ。そして、運んでくるのはビスコだけではない。いつものように直ぐ後から、彼がやってくる筈だ。
「おはよう、ショルスキ」
執事が着るような黒いスーツに身を纏い、料理を運んで来たショルスキに、リアンは挨拶をした。
「おはようございます」
かつて無口で名を馳せた男は、とても聞き取りやすい声で挨拶を返した。
「旦那様、今日はお昼に市長と会食が入っております。それなりの格好でお出掛けください」
ショルスキは、昔の彼を知る者からは信じられない程の長文を喋った。
「おお、そうじゃったな、ありがとう…それからショルスキ、昔のように教授と呼んでくれんか?旦那様と呼ばれると、むず痒くてたまらん」
ジョルジョバは小鼻をぽりぽりと掻いた。実に照れ臭そうである。しかし、誇りを持ちながら執事の仕事をしているショルスキは、いくら雇い主である旦那様の頼みでも、聞くことはなかった。
「駄目です。旦那様は私の雇い主。そして私は、この家に仕える身。私はこの家に仕えている限り、旦那様を旦那様と呼び続けます」
「ショルスキはお堅いのー」
ジョルジョバは口を尖らせて、笑顔を浮かべた。
朝からしっかり食べるをコンセプトに作られた朝食が載った皿は、食べるのがもったいない程に美しく盛り付けてある。そしておかずの品数も多く、どれから食べるか迷う程、全てが美味そうだ。
「いただきます」
リアンとジョルジョバは、きっちりと手を合わせ、食する事への感謝の気持ちを口にした。
ビスコとショルスキはテーブルには着いてはいない。
仲間ではあるが、二人とも雇われの身。ショルスキだけではなく、ビスコもそれをちゃんと弁え、昔のように一緒には食事を取る事は少なくなったのだ。
ジョルジョバは皆と食事をする事を望んでいるのだが、致し方がないだろう。
「ごちそうさまでした」
あんなに綺麗に盛り付けられていたのが遠い昔のように、二人の皿の上は食べ終わったソース以外は何も残ってはいない。
「じゃあ、学校行ってくるね」
もう一度口をナフキンで拭うと、リアンは席を立ち、鞄を取りに自室へと戻って行く。そして鞄を持つと、玄関へと続く長い廊下の上を歩いた。
「リアン、もう行くのか?」
朝からトンカチを手に、廊下の壁の修繕をしていたジョルノは、近付いてきたリアンに右手を挙げた。
「おはよう、ジョルノ。もう、学校に行く時間だよ」
リアンは爽やかに右手を挙げ返した。
「…本当だ。時間が経つのは早いもんだな」
一時間前から作業を始めていたジョルノは、額に滲んだ汗を首に掛けているタオルで拭った。
ジョルノという男は集中して物事を行うと、時間を忘れる癖があるのだ。
「ジョルノは、もう朝ご飯食べたの?」
時間にゆとりを持って通学しているリアンは、ジョルノとの会話を始める。
「食べた食べた!今日もビスコの飯は美味かったな!」
食べた料理を思い出しているのだろう、ジョルノは溢れてきた涎を啜った。
「美味しかったね。ジョルノ、作業は進んでる?」
リアンの言う作業とは、家の修繕の事である。
約二年。ジョルノ一人で作業しているが、まだまだ終わりそうにないのだ。
皆は知らない事だが、ジョルジョバは家を買う時に、至る所に修繕が必要なこの家を選んだ。それは偏に、元大工のジョルノに、仕事を用意する為である。
「お坊ちゃん、お時間です」
二人が楽しげに話していると、声が聞こえた。ジョルノはどう見ても、お坊ちゃんと呼ばれる程、若作りをしていない。このお坊ちゃんはリアンに向けられているのだ。
そして、この家でリアンの事をお坊ちゃんと呼ぶのは、一人しかいない。
くるりと声がした方へと顔を向けたリアンの先には、やはりショルスキが立っていた。
「うん、行ってくるね」
リアンはいたずらをして叱られた子供のように、ぺろっと舌を出すと、二人に手を挙げ、玄関へと急いだ。
いつもそうだが、ジョルノと話す時は時間を忘れてしまう。機関銃のような、ジョルノの矢継ぎ早に繰り出すお喋りも原因なのだが、年齢こそ大きくかけ離れいるものの、リアンはジョルノを親友だと思っているのだ。
親友とのお喋りは、時間を忘れがちになるもの。リアンにも、それが当てはまるのだろう。
そして、親友だと思っているのはリアンだけではない。ジョルノもそう思っている。
この二年という月日の中で、二人はより親密になったのだ。
玄関のドアを開けると、目の前に一台の黒い車が停まっていた。光沢があり、傷一つ付いていないところから見て、大事に乗られている事が分かる。
助手席のドアを開けたリアンは、挨拶をしながら、車に乗り込んだ。
「おはよう」
「おはよう、今日はゆっくりなんだな」