洗面所で身支度を済ませたリアンは、朝食の席に着いた。
「いただきます」
リアンはうれしそうに言うと、トーストにかぶり付いた。
リアンはこの朝食の時間が大好きだ。
夕食のような一人でする食事よりも、誰かとする食事の方が、美味いに決まっている。
それに朝からやけにテンションの高いジャンは、毎日のように、朝食の席でおもしろい話をしてくれる。毎日話していて、よく話が尽きないものだ。
今も丁度、ジャンのトークショーが始まったところだ。
「リアンいいか、好きな女をデートに誘う時は、バラの花束をプレゼントしろ…俺はそれで成功してきた」
ジャンはトーストに、バターを塗りたぐりながら言った。
「…」
リアンはハムステーキを切っていた手を止め、口をポカーンと開けてジャンを見詰めた。
ジャンは十二才の少年に、女の口説き方をレクチャーしだしたのだ。
リアンが口をアングリするのも、しかたがないだろう。
ジャンはそんなリアンの様子はおかまいなしに、さらに話を続ける。
「あれは、俺が十八の時だ…クラスで一番可愛い女の子をデートに誘ったんだ!でもな、そん時、俺の他に五人も同時に彼女をデートに誘ったんだぞ。彼女は誰を選んだと思う?…俺だよ、俺!なんでだと思う?…俺はその時、彼女にバラの花束をプレゼントしたんだよ」
ジャンはこの上ないぐらいに笑顔を浮かべている。
実は、ジャンが女性をデートに誘った事があるのは、この時の彼女だけだったのだ。
女性の前では極度にあがってしまうジャンは、三十五年の人生の中で、唯一、彼女だけをデートに誘う事ができたのである。
別に不細工という程、顔は悪くないのだが、ジャン自身、何故女性の前であがってしまうのか原因が分かっていなかったのだ´。きっと幼少の頃にでも、トラウマがあるのだろう。
故にジャンは三十五を過ぎても、結婚をしないでいる。いや、できないでいるのだ。
「フェルドも俺のアドバイスを聞いて、ソフィアにバラの花束をプレゼントしたから、お前が生まれてきたんだぞ」
ジャンは懐かしむような顔をして言った。
ソフィアというのは、今は亡きリアンの母親で、この街では有名な美しい女性だった。
リアンが美しい顔立ちなのは、ソフィアの血を引いているせいかもしれない。
画家を志して放浪の旅を続けていたフェルドが、この街に落ち着いたのも、街の風景や雰囲気を気に入った事もあっただろうが、やはりソフィアの存在が大きかったのだろう。
フェルドは初めてソフィアを見た時、身体中に電気が走ったと、親友であるジャンに語っていた。
それほどに運命めいたものを、フェルドは、ソフィアに感じたのだそうだ。
しかし、ソフィアと初めて会話らしい会話をしたのは、フェルドがこの街に来てから、三年の歳月が流れていた。
フェルドはジャン同様に、女性が苦手だったのである。
しかし、ジャンのアドバイス通りにバラの花束を贈ったフェルドは、それだけの理由ではないだろうが、無事にソフィアと結婚する事ができたのだ。
「リアンお前、フェルドから、ソフィアとの馴れ初めの話聞いた事あるか?」
「…なれそめ?…なれそめって、なに?」
「んっ?…馴れ初めっていうのは…んー…」
ジャンは綺麗に尖った顎に手を這わせると、動かなくなってしまった。
この男は何か考え事をすると、動かなくなってしまう特異体質なのだ。
「…ん?もう、こんな時間か…今日は店、久しぶりに休みだから、続きは夕食の時にでも話そうな」
ジャンはようやく動き出した。
「うん。じゃあ、学校に行ってくるね」
壁に掛けられている時計を一瞥すると、リアンは食べ残した料理達に別れを告げ、学校へと旅立った。
リアンは酒場がある商店街を、いつものように歩いている。
朝の今の時間、店を開けている所は、ちらほらとしかない。いや、それは朝の時間帯だけではなかった。
ジャンの話によれば、この商店街も昔は常に人で賑わっていたということだ。
しかし、ジャンがまだ子供の頃に起きた地震が原因で、土壌が崩れ、水が汚れてしまった為に、この街で盛んに行われていた酒作りができなくなってしまったのだ。そのせいで、酒を作る酒蔵も全てなくなってしまい、この街の人口も半分以下になってしまった。
酒職人に頼っていたこの商店街にある店も、何件潰れたことだろう。
リアンは、この過去の遺物になりつつある商店街を歩く度、寂しい気持ちに襲われていた。
同級生の子の家が、ここ最近、何件も閉店している。
この街では仕事らしい仕事がない為、店を閉めた人達は、また一人、また一人とこの街からいなくなってしまっている。
商店街を抜けると、永遠に続くかと思う程に伸びる坂の前で、リアンは立ち止まった。
リアンは毎朝ここで、同級生の花屋の倅のドニーと待ち合わせをしている。
「おはよう!」
リアンが寒そうに手を暖めていると、背後から声を掛けられた。声の主はドニーだ。
ドニーは緑色の長袖の裾で、鼻水を拭うと、「よーい、ドーン!」と言って、急な坂道を駆け出して行く。
リアンもドニーにつられて、駆け出した。
最近二人の間では、朝の坂道競走が流行っている。いつも勝つのはドニーだったが、「今日こそは」という気持ちで、リアンは両手を思いっきり振って、無我夢中で走った。
「ハァハァ…」
リアンが疲れ切った足を震わせ、息を切らして坂道の途中で立ち止まろうとした時、ドニーが鼻水を拭いながらリアンの方へ振り返り叫んだ。
「あとちょっと!がんばれリアン!」
ドニーの声援を聞いて、リアンは力を振り絞った。
「ハァハァ…ハァハァハァ」
リアンはドニーと共に、永遠とも思えた坂の頂上に辿り着き、肩で息をする。
「やったー!リアン!一回も立ち止まらずに登り切ったね!」
ドニーははしゃぎながら、自分の事のように喜んだ。
リアンはゆっくりと後ろを振り返り、今まで一度も一足で登り切れなかった坂の頂上から見える街の風景を見渡した。
商店街の建物が、いつもより小さく見える。
「よし!今度は学校まで競走だ!」
ドニーがそう言うと、二人はまた駆け出して行った。
学校に着いたリアン達は、二人きりの教室で、先生が来るのを静かに待った。
去年の今頃、まだあと十人は居たクラスメートも、とうとう二人きりになってしまっている。
「リアン、学校終わったら…」
「しっ、先生がもう来る頃だよ」
リアンはドニーの言葉を遮った。
「…コツコツ」
静寂の中、足音が聞こえてきた。
その音は確実にリアン達に近付いてきている。
「…コツ…コツ」
足音はリアン達の居る教室のドアの前でピタリと止まった。そして、ドアが静かに開いた。
教室に入ってきたのは、担任のライアという女の先生だ。
ライアはリアン達を横目でチラリと見ると、教壇へと向かった。
二人は背筋を伸ばし、ライアが教壇に辿り着くのを静かに待った。
「起立!きおつけ!おはようございます!」
軍隊ばりの大声で叫ぶドニーの号令の元、リアンは背筋を伸ばし、規則正しく頭を下げる。
「着席!」
ドニーの合図で、二人は椅子に座った。
「…おはようございます」
二人とは対照的に、ライアは静かな声で挨拶を返した。
そして直ぐさま二人に背を向けると、古ぼけた黒板に文字を書き出した。
ライアの背中を見たリアンとドニーは、互いに顔を見合わせ、静かに溜め息を吐いた。二人の様子からして、ライアが厳しい教師である事が分かるだろう。
ライアは日によって感情が違う女性である。
今日はおとなしい日。二人はそう思った。
そんな彼女は、黒板に機械的に文字を書く作業を進めている。
「…リアン」
「しっ!」
リアンはドニーの問い掛けを遮った。
ライアに見付かりでもしたら、お尻叩きの刑に処せられる事が分かっているようだ。
「ドニー君、ちゃんとノート書いてるの?」
ライアは黒板に文字を書きながら、振り返る事なく尋ねた。
「はい!ちゃんと書いてます!」
ドニーは立ち上がり叫んだ。
その手からはびっしょりとした汗が染み出てきている。
「分かった、座りなさい」
その言葉を聞き、ドニーは椅子に腰掛けると、リアンに向かい無理やり笑顔を作った。しかし、ドニーの笑顔はひきつっている。
リアンは怒られたくない一心で、ノートをテキパキと書いていった。
授業の終了を知らせるチャイムが鳴った。
「…では、終わります」
ライアは静かにそう言うと、二人に視線を送る事なく教室から出て行った。
「あぶなかった!」
そう言ったドニーは、台風が去ったかのような、安堵した表情をしている。
「あぶなかったね」
リアンは自分が注意されたかのように、未だ緊張した顔付きをしている。そんなリアンの表情を見たドニーは、溜息を付くと、自分のお尻を優しく撫でた。
数日前、ライアのご機嫌を損ねたドニーは、お尻叩きの刑を喰らったばかりだったのだ。痛みは既に引いているのだが、ドニーはお尻が痛いような気がした。
「なぁ、リアン学校終わったら秘密基地に行こうぜ!」
ドニーは自分のお尻を、まだ擦っている。
「うん、いいよ」
リアンはその仕草を見て、可笑しそうに笑った。そして今日の授業は、ライアのご機嫌を損ねる事なく、無事に全て終える事ができた。
姿勢を正し、ライアに別れの挨拶を済ませると、二人は秘密基地へと向かった。
秘密基地とは、数年前に店を畳んだ、町はずれにぽつんと一軒だけ建っている、元楽器屋の建物の事を言っている。今は窓ガラスが割れている空き家だ。
二人は数ヵ月前から、ここで毎日のように遊ぶようになっていた。
「リアン、ピアノ弾いてくれよ!」
秘密基地に着いた途端、ドニーは言った。
笑顔で頷いたリアンは長袖を捲ると、ピアノの鍵盤に指を這わせる。そして勝手に動く指先に任せ、即興で作った曲を奏で始めた。
ドニーは耳を澄ませ、目を閉じ、うっとりとしている。
今リアンが弾いているピアノは、空き家だったこの店に元からあった物だ。見た目はだいぶ傷だらけだ。おそらく楽器屋だった主人が金にならないと思い、持っていかなかったのだろう。しかしリアンはこの場所にくる度、ピアノを丁寧に拭いている。その為だろう、傷だらけではあるが、ピアノらしい光沢を放っている。
ドニーはこの場所に来る度、リアンにピアノ演奏をせがんだ。
芸術が分かるかは定かではないが、リアンの演奏を聴く度、うっとりとしているのだ。
うっとり顔のドニーは、急に踊りだした。
リアンが曲調を、悲しい雰囲気から陽気なものに変えたのだ。
「イェーイ!ウバウバ!」
ドニーは変てこな掛け声で踊りまくった。
そんな仕草を見て、吹き出しそうになるのを堪えながら、リアンはダンスに合わせてピアノを弾き続けた。しかし、そんな楽しい時間もそろそろ終わりの時間が迫ってきたようだ。
秘密基地で過ごす時間は、一時間までと二人は決めていた。
リアンもドニーも店の手伝いがある為、この秘密基地には一時間しか居ないと決めているのだ。
今日は酒場は休みだったが、二人はいつもの時間になり、秘密基地を後にした。
帰り際、ドニーは滅多にしない真剣な顔付きになり、リアンに何か言おうとし、口篭もった。
「どうしたの?」
「…リアン…やっぱりいいや」
ドニーは作ったような笑顔を浮かべ、顔の前で大袈裟に手を振った。
「…何?」
滅多に見せないドニーの真剣な顔を見たリアンは、何を言おうとしたのか気になって仕方がなかった。しかし、ドニーは苦しそうな笑顔を浮かべるだけで何も言わない。
「…さあ、帰ろう!競走だ!」
ドニーはリアンに背を向けると、一人駆け出した。