結局オープンキャンパスに向けて、私の絵は野村先生に貸し出されることになった。
継臣さんとも毎日のように会話をしているが、あの日のような深刻な空気になることはない。
ただただ平凡に時間は過ぎていく。
6月に入ってからはグループワークも増えていった結果、私は今までよりも忙しい日々を過ごしていた。
「よぉ。久しぶりだな」
「原田さん?」
けれどこの人のことは、なぜか折に触れて思い出すことがあった。
たぶん彼の絵の強烈さに当てられたのだろう。
大学からの帰ると、いつもと同じくアパートの柵に肘をついてタバコを吸っていた原田さんは、へらへらとした笑みを浮かべながら私を見下ろしていた。
「日曜なのに、どこ行ってたんだよ」
「課題があって大学に行ってました」
「へぇ。大変だな」
まるで昨日も会っていたかのような空気感に拍子抜けする。
この人の顔を見るのはゴールデンウィーク以来、ほぼ一ヶ月ぶりだというのに。
久しぶりに見た原田さんは、また少しヒゲが伸び、だらしない雰囲気になっていた。
それにしても、ずっとアパートに帰ってきていた様子はなかったのに、いったいどこで何をしていたのだろうか。
「ずっと見かけませんでしたけど、どこかに行ってらっしゃったんですか?」
「ああ。仕事でモルディブに」
そう思って尋ねてみると、あっさりとした調子で予想外の答えが返ってきた。
モルディブって、たしかリゾート地が有名なインド洋の島国だ。
言われてみれば、以前より肌が灼けたような気がする。
きっと長い時間を浜辺ででも過ごしていたのだろう。
「きちんとお仕事をされていたんですね」
「しないと飯が食えねーだろ?」
何気なく失礼なことを言ったような気がするが、原田さんは意にも介していないようだった。
しかしそんなところで、なんの仕事をしていたというのだろう。
事情を聞けば聞くほど謎の深まる人だ。
いや、それとももしかして。
「絵を描くお仕事をされているんですか?」
あんなにも大量の画材を所持していて、あんなにも絵を描く腕があるなら、その技術を職業にしていてもおかしくない。
それにモルディブといえば海の綺麗なところだから、美しい絵がいくらでも描けそうだ。
「当たらずも遠からず、かな」
「えっ?」
「普段は出張ホストやってんだよ。絵は売りのひとつで、客に要望されたら描いてる」
「んん?」
出張ホストとはなんだろうか。
初めて聞く職業だ。
私が知らない単語に言葉を詰まらせていると、原田さんはそれに察してかニヤリと笑みを浮かべた。
「どんな職業なのか知らねーって顔だな」
「すみませんね、無知で」
「ははっ、まぁ普通の女子大生は利用しないから当然だ。でも、あんたもホストってのは知ってるだろ?」
指を差される代わりに、タバコの火がついた方を向けられる。
ホストって、男の人がお客さんにお酒を出したり接待をしたりする、あの職業だろう。
それなら聞いたことがあると、こくりと頷く。
「出張ホストってのは、ホストクラブみたいな箱に属してなくて、客のところに直接向かうホストのことだよ」
「はぁ、なるほど」
そうか、お客さんのところへたびたび向かうから、彼はよく姿をくらますのだろう。
得心のゆく説明に、私は何度も頷いた。
「羽振りのいい奥さんとかには今回みたいに旅行に連れてってもらえてな。海を背景に死ぬほど描かされたけど、けっこう綺麗だったぜ?」
ふっと煙を吐き出しながら、原田さんは旅行での話をしてくれた。
海と空が混じり合って一緒くたになってしまったかのような青の世界と、ヤシの木にサンゴ礁、水上コテージ。
それらはすべて私の知らない世界の話だった。
この人は自分の絵の価値と有効的な使い方を知っている。
ミヤちゃんとは真逆だ。
それなのに、どうして原田さんを見ているとミヤちゃんのことを思い出してしまうのだろう。
「ではお部屋にあった絵はお客さんがモデルなんですか?」
原田さんの部屋にあった絵は、ひとつを除いて人物画だった。
そう尋ねると、原田さんは臆することなく「セフレの分もある」と言った。
「絵が得意って言うと、けっこう女が釣れるんだ」
その言葉に、初めて見た原田さんの絵を思い出す。
裸の女の人の絵。
それは行為の後に描かれたから、そんな絵だったのだろうか。
赤裸々な話に閉口しながら、それでも私は少しだけ羨ましく思った。
モデルになった人たちは、原田さんの絵を描く姿を見ることができたのだろう。
私も見てみたい。
彼から世界が生み出される瞬間を。
「大好きな絵がそんなふうに扱われてて幻滅した?」
私が押し黙ったままそんなことを考え込んでいると、気を悪くしたと思われたのか、原田さんは窺うような視線をこちらに向けた。
「絵を描く理由なんて人それぞれですから」
彼の問いに首を振りながら、しかし頭の中ではまったく別のことを考える。
私は手を見ていた。
原田さんの節くれだったその手を。
この手から絵が生み出されるのかと思うと、体を流れる血が沸騰するかのように騒ぎ出す気がする。
原田さんの絵が見たい。
私の狭い世界と価値観を、その絵で塗り替えてほしい。
あの日、ミヤちゃんの絵を見たときのように。
そんな欲望が止めどなく溢れ出てくる。
「今度は原田さんが絵を描くところ見せてもらえませんか。代わりにお好きなごはんをつくりますから」
だから無意識にそう言い出していた。
あの感覚を、もう一度味わいたくて。
◇
「永遠。あなた、いちおう受験生でしょ? 勉強は大丈夫なの?」
ミヤちゃんがそう言ったのは、ちょうど模試が行われる前日のことだった。
明日大切な何かがあるからと言って、私は部活に出るのをやめたりはしない。
今の私は、この部活の時間のために日々を過ごしていると言っても過言ではないのだから。
「ミヤちゃんがそういう先生っぽいこと言うなんて、ちょっと意外」
彼女が私の勉強の心配をしたことなんて今まで一度もない。
どういう心境の変化かと茶化すと、ミヤちゃんは呆れたように眉を顰めた。
「受験に失敗してから私のせいって言われても困るもの」
「あははっ、大丈夫だよ。勉強の時間はちゃんと取ってる。行きたいところ、そんなに偏差値高くないし」
第一志望の高校は、家から一番近い県立の高校だ。
普通科だけの平凡な学校だと聞き、あまり悩むことなくそこに決めた。
担任や両親からは将来を見据えた上で考えろと言われたけれど、将来のことなんて何も分からない。
やりたいこともないし、目指している職業だってない。
別に特殊なことをしたいとは思わないから、高校選びが将来を左右するとは思えないけれど。
けれど考えてみれば、私には何もないのだ。
趣味も特技も才能も、これといった何かがない。
「……ねぇ。ミヤちゃんはどうして先生になったの?」
私と違って、ミヤちゃんには確固たる才能も人目を引く美貌もある。
彼女に似合う華やかな舞台なんていくらでもあったはずだ。
それなのに、どうして片田舎の中学校の美術教師になんてなったのだろう。
「なあに? 私は教師に向いてないって?」
「ち、違うけど」
ただ、もったいないと思うのだ。
こんなところでせっかくの才能を燻らせて、その価値を私なんかが独り占めにしている。
それに、私は単純に羨ましかった。
彼女は選ばれた人だ。
神様に愛された人だ。
比類なき、彼女だけのものを持っている。
それに比べて、私は換えの効くその他大勢。
この世にいてもいなくても変わらないような人間だ。
私だってできることなら、ミヤちゃんのような選ばれし人間になりたかった。
そんなもの、持たざる者の嫉妬だって分かってはいるけれど、今の私にはミヤちゃんが傲慢に見える。
せっかくの才能を活用しないなんて、才能を持たない人間に失礼じゃないか。
「教師になるって言ったとき、周りにもよく反対されたわ。あなたもそう思うんでしょう?」
「うん」
「このあいだ言ったとおり、絵を売る仕事はしたくなかったのよ」
たしかにミヤちゃんは言った。
彼女の絵は人を惑わせるのだと。
「絵を売らないのは、毒のせいだったよね?」
「そう。私の絵は後世に遺したくない。人目にだって、なるべく触れさせない方がいいの」
不敵に、そして少し悲しげにミヤちゃんは笑った。
彼女の真っ白な肌が蛍光灯の光を受けて輝いているのを見て、思わず目を細める。
ああ、本当に毒みたいだ。
彼女の絵も、彼女自身も。
だってすでに、いやきっと最初から、私は彼女の毒がほしくてたまらなかった。
体の芯も心の芯も、訳が分からなくなるまで侵してほしい。
「絵を売る仕事はしたくなかったけど、絵を描く仕事はしたかったの。私にできることなんてそれくらいしかないもの」
「それで先生になったの?」
「そう。絵は遺したくないけど、培った技術なら誰かに伝えてみたいと思って」
「じゃあ私がミヤちゃんの技術を受け継ぐんだね」
「あら、生意気言うわね。そんな簡単なものじゃないわよ?」
めったに笑わないミヤちゃんが、その日はとても嬉しそうに笑った。
天才と呼ばれた彼女がいったい何を考えて生きていたのか、凡人の私には到底計り知ることはできなかった。
彼女を理解しようとするなんて不可能だ。
そもそもそんなことをしようとすることが間違いなのだ。
私はようやくそのことに気づいたが、けれどもうすでに遅すぎたようだった。
彼女への憧れはいつしか醜い独占欲へと変わっていた。
いつのことだったか、ミヤちゃんは私を純粋だと評したけれど、そんな私はもうどこにもいない。
嫉妬や欲望に全身を侵されているのが今の私だ。
まるで真っ白な絵の具がコバルトブルーに染められていくように、じわじわと姿を変えていく。
毒された私は、以前の自分には戻れないのだろう。
「でも、永遠が受け継いでくれるなら本望だわ」
満ち足りたような声が、悪魔のささやきのように私の耳へと届く。
自分がおかしくなっていることを自覚しながら、それでも私はミヤちゃんへと近づくことをやめられなかった。
◇
毒を毒をと求めてきた。
そしてあの毒を持つ人に、私はまたしても出会ってしまったのだと思った。
その存在を認めれば、もちろん手を伸ばさずにはいられない。
「俺に関わるのはもうやめな」
しかし原田さんの返事は、私が期待したものではなかった。
「どうしてですか……?」
この前は料理をつくる代わりに、また絵を見せてくれると言ったのに。
原田さんは新しいタバコに火をつけながら、私の責めるような視線を平然と受け止める。
「毒が回るから」
そのまま、まるで自嘲するように彼はそう言った。
どうしてその言葉を選んだのだろう。
ミヤちゃんと同じような感性を持っているのか、それとも誰かから聞き及んだことがあるのか、そんなことは分からないけれど。
私はひたすらに原田さんの瞳を見つめていた。
心の奥に燻っていた欲望という名の火が、彼のその言葉によって、再び勢いを取り戻すのを感じながら。
継臣さんとも毎日のように会話をしているが、あの日のような深刻な空気になることはない。
ただただ平凡に時間は過ぎていく。
6月に入ってからはグループワークも増えていった結果、私は今までよりも忙しい日々を過ごしていた。
「よぉ。久しぶりだな」
「原田さん?」
けれどこの人のことは、なぜか折に触れて思い出すことがあった。
たぶん彼の絵の強烈さに当てられたのだろう。
大学からの帰ると、いつもと同じくアパートの柵に肘をついてタバコを吸っていた原田さんは、へらへらとした笑みを浮かべながら私を見下ろしていた。
「日曜なのに、どこ行ってたんだよ」
「課題があって大学に行ってました」
「へぇ。大変だな」
まるで昨日も会っていたかのような空気感に拍子抜けする。
この人の顔を見るのはゴールデンウィーク以来、ほぼ一ヶ月ぶりだというのに。
久しぶりに見た原田さんは、また少しヒゲが伸び、だらしない雰囲気になっていた。
それにしても、ずっとアパートに帰ってきていた様子はなかったのに、いったいどこで何をしていたのだろうか。
「ずっと見かけませんでしたけど、どこかに行ってらっしゃったんですか?」
「ああ。仕事でモルディブに」
そう思って尋ねてみると、あっさりとした調子で予想外の答えが返ってきた。
モルディブって、たしかリゾート地が有名なインド洋の島国だ。
言われてみれば、以前より肌が灼けたような気がする。
きっと長い時間を浜辺ででも過ごしていたのだろう。
「きちんとお仕事をされていたんですね」
「しないと飯が食えねーだろ?」
何気なく失礼なことを言ったような気がするが、原田さんは意にも介していないようだった。
しかしそんなところで、なんの仕事をしていたというのだろう。
事情を聞けば聞くほど謎の深まる人だ。
いや、それとももしかして。
「絵を描くお仕事をされているんですか?」
あんなにも大量の画材を所持していて、あんなにも絵を描く腕があるなら、その技術を職業にしていてもおかしくない。
それにモルディブといえば海の綺麗なところだから、美しい絵がいくらでも描けそうだ。
「当たらずも遠からず、かな」
「えっ?」
「普段は出張ホストやってんだよ。絵は売りのひとつで、客に要望されたら描いてる」
「んん?」
出張ホストとはなんだろうか。
初めて聞く職業だ。
私が知らない単語に言葉を詰まらせていると、原田さんはそれに察してかニヤリと笑みを浮かべた。
「どんな職業なのか知らねーって顔だな」
「すみませんね、無知で」
「ははっ、まぁ普通の女子大生は利用しないから当然だ。でも、あんたもホストってのは知ってるだろ?」
指を差される代わりに、タバコの火がついた方を向けられる。
ホストって、男の人がお客さんにお酒を出したり接待をしたりする、あの職業だろう。
それなら聞いたことがあると、こくりと頷く。
「出張ホストってのは、ホストクラブみたいな箱に属してなくて、客のところに直接向かうホストのことだよ」
「はぁ、なるほど」
そうか、お客さんのところへたびたび向かうから、彼はよく姿をくらますのだろう。
得心のゆく説明に、私は何度も頷いた。
「羽振りのいい奥さんとかには今回みたいに旅行に連れてってもらえてな。海を背景に死ぬほど描かされたけど、けっこう綺麗だったぜ?」
ふっと煙を吐き出しながら、原田さんは旅行での話をしてくれた。
海と空が混じり合って一緒くたになってしまったかのような青の世界と、ヤシの木にサンゴ礁、水上コテージ。
それらはすべて私の知らない世界の話だった。
この人は自分の絵の価値と有効的な使い方を知っている。
ミヤちゃんとは真逆だ。
それなのに、どうして原田さんを見ているとミヤちゃんのことを思い出してしまうのだろう。
「ではお部屋にあった絵はお客さんがモデルなんですか?」
原田さんの部屋にあった絵は、ひとつを除いて人物画だった。
そう尋ねると、原田さんは臆することなく「セフレの分もある」と言った。
「絵が得意って言うと、けっこう女が釣れるんだ」
その言葉に、初めて見た原田さんの絵を思い出す。
裸の女の人の絵。
それは行為の後に描かれたから、そんな絵だったのだろうか。
赤裸々な話に閉口しながら、それでも私は少しだけ羨ましく思った。
モデルになった人たちは、原田さんの絵を描く姿を見ることができたのだろう。
私も見てみたい。
彼から世界が生み出される瞬間を。
「大好きな絵がそんなふうに扱われてて幻滅した?」
私が押し黙ったままそんなことを考え込んでいると、気を悪くしたと思われたのか、原田さんは窺うような視線をこちらに向けた。
「絵を描く理由なんて人それぞれですから」
彼の問いに首を振りながら、しかし頭の中ではまったく別のことを考える。
私は手を見ていた。
原田さんの節くれだったその手を。
この手から絵が生み出されるのかと思うと、体を流れる血が沸騰するかのように騒ぎ出す気がする。
原田さんの絵が見たい。
私の狭い世界と価値観を、その絵で塗り替えてほしい。
あの日、ミヤちゃんの絵を見たときのように。
そんな欲望が止めどなく溢れ出てくる。
「今度は原田さんが絵を描くところ見せてもらえませんか。代わりにお好きなごはんをつくりますから」
だから無意識にそう言い出していた。
あの感覚を、もう一度味わいたくて。
◇
「永遠。あなた、いちおう受験生でしょ? 勉強は大丈夫なの?」
ミヤちゃんがそう言ったのは、ちょうど模試が行われる前日のことだった。
明日大切な何かがあるからと言って、私は部活に出るのをやめたりはしない。
今の私は、この部活の時間のために日々を過ごしていると言っても過言ではないのだから。
「ミヤちゃんがそういう先生っぽいこと言うなんて、ちょっと意外」
彼女が私の勉強の心配をしたことなんて今まで一度もない。
どういう心境の変化かと茶化すと、ミヤちゃんは呆れたように眉を顰めた。
「受験に失敗してから私のせいって言われても困るもの」
「あははっ、大丈夫だよ。勉強の時間はちゃんと取ってる。行きたいところ、そんなに偏差値高くないし」
第一志望の高校は、家から一番近い県立の高校だ。
普通科だけの平凡な学校だと聞き、あまり悩むことなくそこに決めた。
担任や両親からは将来を見据えた上で考えろと言われたけれど、将来のことなんて何も分からない。
やりたいこともないし、目指している職業だってない。
別に特殊なことをしたいとは思わないから、高校選びが将来を左右するとは思えないけれど。
けれど考えてみれば、私には何もないのだ。
趣味も特技も才能も、これといった何かがない。
「……ねぇ。ミヤちゃんはどうして先生になったの?」
私と違って、ミヤちゃんには確固たる才能も人目を引く美貌もある。
彼女に似合う華やかな舞台なんていくらでもあったはずだ。
それなのに、どうして片田舎の中学校の美術教師になんてなったのだろう。
「なあに? 私は教師に向いてないって?」
「ち、違うけど」
ただ、もったいないと思うのだ。
こんなところでせっかくの才能を燻らせて、その価値を私なんかが独り占めにしている。
それに、私は単純に羨ましかった。
彼女は選ばれた人だ。
神様に愛された人だ。
比類なき、彼女だけのものを持っている。
それに比べて、私は換えの効くその他大勢。
この世にいてもいなくても変わらないような人間だ。
私だってできることなら、ミヤちゃんのような選ばれし人間になりたかった。
そんなもの、持たざる者の嫉妬だって分かってはいるけれど、今の私にはミヤちゃんが傲慢に見える。
せっかくの才能を活用しないなんて、才能を持たない人間に失礼じゃないか。
「教師になるって言ったとき、周りにもよく反対されたわ。あなたもそう思うんでしょう?」
「うん」
「このあいだ言ったとおり、絵を売る仕事はしたくなかったのよ」
たしかにミヤちゃんは言った。
彼女の絵は人を惑わせるのだと。
「絵を売らないのは、毒のせいだったよね?」
「そう。私の絵は後世に遺したくない。人目にだって、なるべく触れさせない方がいいの」
不敵に、そして少し悲しげにミヤちゃんは笑った。
彼女の真っ白な肌が蛍光灯の光を受けて輝いているのを見て、思わず目を細める。
ああ、本当に毒みたいだ。
彼女の絵も、彼女自身も。
だってすでに、いやきっと最初から、私は彼女の毒がほしくてたまらなかった。
体の芯も心の芯も、訳が分からなくなるまで侵してほしい。
「絵を売る仕事はしたくなかったけど、絵を描く仕事はしたかったの。私にできることなんてそれくらいしかないもの」
「それで先生になったの?」
「そう。絵は遺したくないけど、培った技術なら誰かに伝えてみたいと思って」
「じゃあ私がミヤちゃんの技術を受け継ぐんだね」
「あら、生意気言うわね。そんな簡単なものじゃないわよ?」
めったに笑わないミヤちゃんが、その日はとても嬉しそうに笑った。
天才と呼ばれた彼女がいったい何を考えて生きていたのか、凡人の私には到底計り知ることはできなかった。
彼女を理解しようとするなんて不可能だ。
そもそもそんなことをしようとすることが間違いなのだ。
私はようやくそのことに気づいたが、けれどもうすでに遅すぎたようだった。
彼女への憧れはいつしか醜い独占欲へと変わっていた。
いつのことだったか、ミヤちゃんは私を純粋だと評したけれど、そんな私はもうどこにもいない。
嫉妬や欲望に全身を侵されているのが今の私だ。
まるで真っ白な絵の具がコバルトブルーに染められていくように、じわじわと姿を変えていく。
毒された私は、以前の自分には戻れないのだろう。
「でも、永遠が受け継いでくれるなら本望だわ」
満ち足りたような声が、悪魔のささやきのように私の耳へと届く。
自分がおかしくなっていることを自覚しながら、それでも私はミヤちゃんへと近づくことをやめられなかった。
◇
毒を毒をと求めてきた。
そしてあの毒を持つ人に、私はまたしても出会ってしまったのだと思った。
その存在を認めれば、もちろん手を伸ばさずにはいられない。
「俺に関わるのはもうやめな」
しかし原田さんの返事は、私が期待したものではなかった。
「どうしてですか……?」
この前は料理をつくる代わりに、また絵を見せてくれると言ったのに。
原田さんは新しいタバコに火をつけながら、私の責めるような視線を平然と受け止める。
「毒が回るから」
そのまま、まるで自嘲するように彼はそう言った。
どうしてその言葉を選んだのだろう。
ミヤちゃんと同じような感性を持っているのか、それとも誰かから聞き及んだことがあるのか、そんなことは分からないけれど。
私はひたすらに原田さんの瞳を見つめていた。
心の奥に燻っていた欲望という名の火が、彼のその言葉によって、再び勢いを取り戻すのを感じながら。