明日 世界が終わるとしても、君は涙を流さない

気がつけば美大に入学してから三週間も経っていた。
新しい生活にも慣れ始め、今のところこれといった不満はない。
勉強が主だった今までとは違い、長い時間を絵に費やすことができるなんて、少し不思議な気もするけれど。
そんななか、気がかりなことがひとつだけあった。
原田さんの絵だ。
私はまだ彼に絵を返していない。
なぜなら彼は入学式の前日に会ってからアパートに帰って来ていない様子なのだ。
いつでも返すことができるように持ち歩いてはいるけれど、肝心の本人に会えなくては仕方がない。

それにしても変な人だと思う。
引っ越してきてから一週間は姿を見せなくて、初めて会った後の数日は毎日のように女の人を部屋に連れ込んで、それから再び三週間も帰ってきていないなんて。
不定期の仕事でもしているんだろうか。
謎の多い人だ。

原田さんのことを考えながら、私は夕方になってからもアトリエに残って絵を描いていた。
地元ではない大学に来てしまったために知り合いはいない。
社交的な性格でもないから友人もいない。
バイトをする予定すらない。
暇を持て余した私は、課題もないのに毎日のように一人で絵を描き続けているのだ。
かと言って、これといった成果はないのだけれど。

当面の目標は自分の世界を創り出すことだった。
けれどどうしても悪い癖が抜けない。
自分の絵の中のどこかで、ミヤちゃんの面影を感じてしまう。
きっと知らずしらずのうちに彼女を意識してしまっているのだろう。
どうすれば独創的なものに仕上がるのだろうか。
描けども描けども、その糸口は見出せない。

「やっぱりすごいよね」

一人でキャンバスに向かっていると、明るい声が響いた。
驚いて振り返れば、アトリエの入り口に男の人が立っているのが見える。

「俺、柳さんの絵が好きなんだ」

「えっと……」

「ごめんごめん、驚かせた? 忘れ物を取りにきただけだったんだけど、見入っちゃった」

男性はそう言いながら、隅のテーブルの上に置かれていたビニール袋を手に取った。
にこにこと愛想よく笑う彼の顔を、ジッと見つめる。
この人、知ってる。
たしか周りの人たちに“カッキー”と呼ばれている、同じ絵画科の一年生だ。
明るくて声が大きくていつも人の中心にいる、私とはまるで正反対の人。

「俺、柿本継臣(かきもとつぐおみ)。同じ一年だけど、多浪だから二十三歳。よろしくね」

「柳です。十八歳です。よろしくお願いします」

「すごっ。やっぱ柳さんって現役だったんだ」

からからと笑う柿本さんに向かって、たどたどしく頷く。
勢いに釣られて自己紹介をしてみたけれど、彼は先ほどから私を柳さんと呼ぶから、おそらくは私のことを知っていたのだろう。
話したことなんて一度もないはずなのに。
柿本さんのような目立つ人ならともかく、私のような地味な人間のことを、どうして。

「それにしてもラッキーだな。俺さ、柳さんと話してみたかったんだよね」

「私とですか?」

「うん。ファンなの、柳さんの」

ファン。
そんなこと、生まれて初めて言われた。
柿本さんは座っている私の横に並ぶと、キャンバスを眺めながら瞳を輝かせた。
彼は私よりも年上だけれど、その目はまるで少年のように澄んでいる。

「綺麗だよね。柔らかいっていうか、優しいっていうか。それなのに力強さもあるし。ごめん、上手く言葉にできないんだけど、柳さんって人の心を癒すような絵を描くなって思うんだ」

様々な言葉を使ってくれた柿本さんの褒め言葉に対して、私は「ありがとうございます」としか返せなかった。
こういうとき、私はとても複雑な気持ちになる。
今までも描いた絵を褒められることはあった。
たまには賞をもらえることだってある。
それなりに多くの絵を描いてきたし、最低限の技術は身についているだろう。
けれど私の絵はミヤちゃんの世界の模倣でしかないのだ。
だから評価をされているのは彼女の面影が見えるところ。
それは私の力ではない。
そう思えて仕方ないのだ。

「あれ? もしかして自信がないやつだった?」

「えっ?」

「いや、なんか悲しそうだからさ」

そう言われて、思わず顔を両手で押さえた。
自分ではきちんと笑っているとつもりだったのに、どうやら違ったらしい。
柿本さんが気まずそうに眉を下げるのを見て、申し訳なく思いながら頷く。

「えっと、そうなんです。自分の絵に自信が持てなくて」

「そうなんだ。柳さんくらい描けても、そういうことを思うものなんだね」

柿本さんの言葉に小さく返事をする。
キャンバスに広がる私の絵。
どこかに感じる既視感。
避けようとすればするほど、ミヤちゃんのモノマネになってしまいそうになる。

「俺の知り合いにも同じことを言ってた人がいたよ。すごく上手いのに自信が持てないって」

柿本さんが懐かしそうに目を細める。
もしかしたらこういう気持ちは誰しもが持つものなのかもしれない。
聞いたことはなかったけれど、もしかしたらミヤちゃんだって。

「その方は自信を取り戻せましたか?」

「分からない。長いこと会ってないから」

「そう、ですか」

「でもまだ絵を描いている気がするな。息をするみたいに絵を描いていたから」

その言葉に私はハッとさせられた。
息をするみたいに絵を描くのは、ミヤちゃんも同じだった。
彼女も毎日毎日、飽きることなく絵を描いていたのだ。
描いていなければ生きていけないとでも言うかのように。
実際に彼女はそうだったのかもしれないけれど。





ミヤちゃんに出会うまで、私は絵を描くことがあまり得意ではなかった。
昔から真っ白な画用紙に好きなものを描いていいと言われても、何も思い浮かばず、どうしようもできなかったのだ。
当然図工や美術の授業だって苦手にしていた。
そんな私が自分から絵を描きたいと思う日が来るなんて、きっと誰にも予想できなかっただろう。

美術部に入部してすぐのころ。
水彩絵の具でドリッピングという技法にチャレンジしている私の横で、ミヤちゃんは今日もひたすらに絵を描いていた。
一昨日から描き始めたそれは、だんだんと色味を増している。
全面に押し出された青。
海に見えなくもないその絵は、なんだか見ているだけで苦しくなるようなものだった。
まだ描き途中だというのに、もうすでに私の心を掴んでいる。

「ねぇ。ミヤちゃんはどうして絵を描くの?」

彼女の真剣な横顔を見つめながら、私は静かに尋ねた。
私はミヤちゃんに憧れて絵を描き始めたのだ。
ミヤちゃんのように、人を魅了するような世界を自分でも生み出してみたいと思って。
それなら彼女が絵を描くのにも、私と同じく何か理由やきっかけがあったりするだろうか。
気になって聞いてみると、ミヤちゃんは筆を置いてから少しだけ仰ぎ、ふいに「毒抜きかな」と呟いた。

「毒抜き?」

「絵を描くっていうのは、私の中の毒が体から出て行って形になるようなものなの。そうして定期的に毒抜きをしないと、私は生きていけない」

私の中の毒?
そうしないと生きていけない?
ミヤちゃんの言っている意味が分からずにいると、彼女は苦々しい笑顔を浮かべた。

「永遠は理解しなくていいよ」

「どうして?」

「こんなこと、知らない方がいいの」

ミヤちゃんの言葉に、私は子供扱いされたような気がして口を尖らせた。
たしかにミヤちゃんから見たら私はまだまだ子供なのだろう。
けれど中学生はそこまで話が分からないほど子供ではないのに。

「あなたみたいな人間がたまにいるのよ。私の毒に興味を示すやつ」

「だけどあんまり深入りしちゃだめよ」と言ったきり、ミヤちゃんは再びキャンバスに向かうと、もう口を開くことはなかった。
彼女のそばの机には、空になったコバルトブルーと白のチューブがひとつずつ転がっている。
その白いチューブの方に触れながら、私はミヤちゃんの言葉について考えていた。

絵を描くことほど、私が今までに熱中できたものはない。
それほどまでに打ち込めるものがあるというのは自分でもいいことだと思っていたのに、ミヤちゃんは無条件に賛成してはいないかったのだ。
いったいどうしてなのだろう。
それに自分の絵を毒なんてマイナスな言い方をしなくてもいいのに。

ミヤちゃんの持つ筆がキャンバスをなぞる。
パレットの上では混じり気のない白がコバルトブルーを加えられ、淡い青へと変わっていた。





柿本さんが帰ったあと、私も少しして帰る支度をした。
もう時刻は十八時になる。
うどんが残っていたはずだから、今日の夕飯はそれにしよう。
一人暮らしを始めてからずいぶんとご飯が適当になってしまったと感じつつ帰り道を歩いていると、ふいに前方から女の人が見えた。

「こんばんは」

挨拶をすると、女性は少し間を置いてから私に気づいてくれた。
彼女は隣の203号室に住んでいる方だ。
表札が無記名だから名前は知らないけれど、たまに会ったときに挨拶をしている。
春だとはいえまだまだ外は寒いというのに、彼女はとても短いスカートを履いていた。
これからお仕事なのだろうか。

「ほんと、今どき近所の人間に挨拶する子供なんて珍しいわよね」

「そうですか?」

「私は嫌いじゃないけど」

くすくすと笑う女性は、少し化粧が濃いけれど妖艶でとても綺麗だ。
私とそれほど歳は変わらないような気もするけれど、彼女から見ても私は子供に見えるのだろうか。
ミヤちゃんに言われたときは中学生で、子供と言われても仕方ない年齢だったけれど、このあいだは原田さんにも子供扱いされたのだ。
もうすぐ十九歳になるというのに。

「あなた、まだあの部屋に住んでるわよね?」

どうすれば年相応に大人っぽく見えるのだろうかと考えていると、女性は何やら神妙な顔つきをした。

「はい、住んでますよ。引っ越してきたばかりですし」

「そう。なら、隣の男には会った?」

女性の問いに、あのだらしない姿が頭に浮かぶ。
隣の男とは原田さんのことだろう。
そう思い「会いました」と答えると、彼女は気の毒そうにため息を吐いた。

「気をつけた方がいいわよ。碌でもない男だから」

――碌でもない男。

あの女性関係を見るに分かっていたことだけれど、いったい私は何に気をつければいいのだろう。
彼は私のような子供っぽい女になんて、まったく興味がなさそうだけれど。

「あの人の女性関係が爛れていることは知ってます」

「それもあるけど、それだけじゃないわ」

「それだけじゃないとは?」

「なんと言うか、目がね。すごく投げやりでしょう? いつ死んでも構わないとでも言いたげな目。ああいう目をした人間には関わらない方がいいのよ」

そう言い残して、ひらりと手を振った彼女が甘い香水の香りを漂わせながら去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、私はなぜだか立ち尽くしてしまっていた。

いつ死んでも構わないとでも言いたげな目。
そんな目を、私は以前にも見たことがあったのだ。
胸騒ぎを感じながら再び家路を辿る。
アパートの前の街灯は電球が切れかけているのか、パチパチと音を立てながら明滅していた。
四月から五月にかけての連休、いわゆるゴールデンウィーク。
その真っ最中であるにもかかわらず予定などない私は、もちろんこの長い休みを持て余してしまっていた。
実家にでも帰ろうかと思ったけれど、帰ったとしても暇なことに変わりはない。
それに私は混雑している駅が大の苦手なのだ。
帰省をするなら、そのうちどこかの土日で行えばいい。
と言うわけで、私はアパートの部屋に引きこもってクロッキーを描いたり、近くの川沿いを散歩したりして、このゴールデンウィークを過ごしていた。

「トーワちゃん」

それは散歩後に買い物をして、再びアパートへ戻ったときのことだった。
頭上から妙に無機質な声で名前を呼ばれた。
その呼び方に聞き覚えがなかったわけではないけれど、一瞬戸惑って見上げれば、そこには柵に肘をつきながら私を見下ろす人影があった。

「原田さん……?」

「おう。俺の顔忘れてないよな?」

久しぶりに会った彼は、以前より少しだけさっぱりとした雰囲気になっていた。
近くまで寄って見てみれば、ヒゲがないし髪も短くなっている。
やはり元がいいとそれだけで爽やかに見えるから不思議だ。

「どこ行ってたんだ?」

「スーパーです。昼ごはんの材料を買いに」

「何つくんの?」

「親子丼です……って」

原田さんと話していると、すぐに彼のペースに呑まれそうになる。
私は会話の途中であるものの存在を思い出し、「ちょっと待っててください」と告げてから慌てて部屋へと戻った。

「これ預かってました」

「何それ」

取りに戻ったものを差し出すと、原田さんは不思議そうな目でそれを見つめた。

「女の人と喧嘩してたとき、彼女が落としていった絵です」

約一ヶ月ものあいだ私の手元にあったその絵。
原田さんはクリアファイルに入れたそれを確認すると、拍子抜けしたように笑った。

「すげー律儀。こんなの捨ててもよかったのに」

「えっ? じゃあ、もらってもいいですか?」

思わぬ言葉を聞き、食い気味に尋ねる。
手放すのが惜しかったほどのものだ。
いらないと言うのなら、ぜひとも自分のものにしたい。

「あー、あんた美大生なんだっけ。気に入ったのか? それ」

「はい。とても」

「俺の部屋に来たら、もっとあるけど」

「えっ! 見たいです!」

つまらないと思っていた休日は、実はなんとも運のいい日だったらしい。
間髪を入れずに頷くと、原田さんは驚いた顔をしてから「その代わり俺にも親子丼つくって」と交換条件を提示した。



「おじゃまします。親子丼できました」

「おっ、サンキュー」

出来上がった親子丼を手に原田さんの家を訪れたのは、きっかり二十分後のことだった。
鶏肉、たまご、玉ねぎの入ったスタンダードな親子丼は、つくり慣れてはいるものの、家族以外の人に食べてもらうのは初めてだ。
味は大丈夫だろうと思うけれど、やはり少しだけ緊張してしまう。
成人男性がどのくらい食べるかなんて知らないから、私は自分が食べる量の二倍ほどを盛って彼に手渡した。
多すぎるような気もするが、足りないよりはマシだろう。

「自分のは?」

「後で食べます。それよりも早く絵を見せてください」

「まあ焦んなよ。ほんとに好きなんだな」

逸る気持ちを抑えられなかった私は、原田さんが呆れるのにも構わず、駆け込むようにして彼の部屋へと上がった。
間取りは私の部屋と同じはずだから、真っ直ぐ進んだ扉の先が居室だろう。
廊下にまで染み入るように香っているのは油彩画独特の匂いだ。
その匂いを感じて、この人は本当に絵を描く人なんだなと改めて思う。

「ほらよ」

原田さんが気怠げに居室の扉を開ける。
その瞬間、私は思わず目を見張った。
八畳の部屋にはベッドと小さなテーブルがひとつずつ。
それ以外は多くのキャンバスと画材で埋め尽くされていたのだ。
中にある絵はほとんどが人物画だ。
男性や子供を描いたものもあるが、だいたいが女性をモデルにしたものだった。

「やっぱり……」

無意識のうちにもれ出た声がかすかに震える。
やはり原田さんの描く絵はミヤちゃんの絵に似ていると思った。
ミヤちゃんはまったくと言っていいほど人物画を描かなかったというのに、彼の絵を見ていると、なぜだかミヤちゃんの絵を思い出すのだ。
脳髄を焼き尽くすかのように、己の価値観も哲学も、まるごと染められてしまいそうな感覚。
もはや暴力的だと言っていいほどに、人を惹きつける力。
ミヤちゃんと同じそんな力が、原田さんの絵には宿っている。
その力に魅せられ、私は長い時間、言葉を失くして彼の絵に見入っていた。

羨ましい。
私もこんな風に描くことができたらいいのに。
そんなふうに歯噛みをしたくなるほどの羨望を感じていると、壁に立て掛けられたたくさんの絵の中に、ひとつだけ異彩を放つものを見つけた。
水彩画の作品。
唯一人物が描かれていない、水の流れの中に木が飲み込まれている絵だ。
その絵にだけ『水葬』というタイトルがついてある。

「原田さん、これ……」

気になって尋ねようと思い振り返ると、原田さんは真っ直ぐに私の方を見ていた。
どうやらすでに親子丼を食べ終えていたらしい。
いつから見られていたのだろう。
絵に没頭しすぎて、まったく気がつかなかった。

「“明日世界が終わるとしても、私は今日、林檎の木を植える”」

すると唐突に、原田さんはそう言った。

「なんですか? それ」

「知らねーの? マルティン・ルターっていうドイツの宗教改革者の言葉。明日世界が終わるのに、林檎の木を植えたって無駄だろ。だけど諦めずに今日を生きろとか、最後まで為すべきことをしろとか、そういう意味の格言になってる」

ならばこの絵の中の流れる木はきっと林檎の木なのだろう。
原田さんは明日世界が終わるとしたら、林檎の木を植えずに流してしまうのだろうか。
何も知らずに見れば美しいのに、その話を聞いた後ではこの絵がひどく厭世的に見える。
もう一度原田さんに視線を戻すと、彼は思い詰めたように厳しい顔をしていた。
気に障ることを言ってしまっただろうか。
そう思った瞬間、彼はふいに立ち上がり、追い詰めるように私との距離を詰めた。

「あんたバカだろ。それとも世間知らず?」

冷たい声が室内に響く。
文字通り目と鼻の先に原田さんの顔があるのに、なぜだか目を逸らすことができない。

「男の部屋にほいほい上がるなんてな、襲っていいですって言ってるようなもんなんだよ」

原田さんはそう言うと、私の肩を掴み、ゆっくりとフローリングの上に押し倒した。
険のある眼差しに射抜かれ、静かに息を呑む。
そう言えば203号室の女の人が、原田さんには気をつけろと言っていたっけ。
あの言葉を今さらながらに思い出しながら、けれども私はそれを他人事のように感じていた。
今まさに押し倒されている危険な状況だというのに、ふっと口から笑い声がもれてしまい、原田さんが怪訝な顔をする。

「……なんでここで笑うんだよ」

「いえ、人を襲うような顔をしているとは思えなかったので」

ニヤついた口元を隠すようにして手で押さえる。
けれど顔を歪める原田さんを見て、私はさらに笑い声を上げてしまった。

「おい」

「だって……!」

だって原田さんがあまりにもこの場にそぐわない顔をするから。
その思いつめた余裕のない切なげな顔は、捕食者というよりも被食者の顔だ。
襲われようとしているのは私のはずなのに、どうして彼がそんな顔をするのだろう。
そのアンバランスさに笑いが込み上げて、私は我慢をすることができなかった。

「あんたといると調子が狂うな」

呆れたように笑ってから、原田さんは私の上からゆっくりと退いた。
軽くなった肩に、彼の体温が残っている。
熱い手だった。
瞳にも言い知れない熱がこもっていたように思う。
その熱はなんなのかと聞いても、彼は笑ってごまかすような気がした。

「まあたしかに、色気もねーガキになんざ、勃つもんも勃たねーか」

案の定、原田さんは何事もなかったかのような下品な笑い方をした。

「この前も私のことガキって言いましたよね。私ってそんなに子供っぽいですか?」

今さっきそのガキを押し倒していたのはどこのどいつだと苛立ちつつも、話題を変えるためにそんなことを聞いてみる。
最近子供扱いされることが多くて気になっていたのだ。
自分では普通に年相応だと思うのに。

「女ってもっと髪とか顔とか服とか、あと爪とか? そういうもんに気を遣うんじゃねーの? その点あんたはどこも気にしてなさそうだし」

髪、顔、服、爪。
そう言われて、今の自分の姿を省みる。
染めたことのない肩までの黒髪に、化粧っ気のかけらもない顔。
服は動きやすさ重視の、シンプルなカットソーとデニム。
爪に至っては、色を乗せたことすらない。
世間一般の女の子たちに比べたら私は飾り気がないと思うけど、原田さんの言うとおり、別に気にしたことなんてなかった。
私はただ、絵を描くことにだけ没頭して生きていたから。
けれどたとえば203号室の女の人も、原田さんを平手打ちした女の人も、派手だがきちんと気を遣ってるように見えた。
あのミヤちゃんだって、持って生まれた美しさもあるけれど、多少は身なりを整えていたのだろう。
私も大学生になったことだし、やはり少しくらいはおしゃれをした方がいいのかもしれない。

「そうですね。頑張ってみます」

「あ? おお、頑張れ?」

「はい。じゃあ、絵も見終わったので帰りますね」

原田さんが使い終わった食器を持って立ち上がる。
そのまま退散しようと彼に背を向けると、後ろから「永遠」と呼び止められた。

「美味かった。またなんかつくれよ。絵、見せてやるから」

「気が向いたら」

「ああ」

私の答えに、原田さんが穏やかに笑う。
その目はしっかりと私を映しているのに、どこか遠くを眺めているように思えた。





春の終わりのある日だった。
その日は一日中、生徒たちが終末論で盛り上がっていた。
あるAIによると、今年人類は滅亡してしまうらしい。
SNSやネットニュースなどに取り上げられたその話題は、好奇心旺盛な中学生の心に火をつけるには十分なものだった。

「昔もノストラダムスだのマヤ文明のだのが流行ったわよ。いつの時代にもそういうものはあるのね」

部活の終わりごろ、私とミヤちゃんはパレットを洗いながら、これといった話題もないため、だらだらと終末論について話していた。

「ミヤちゃんはさ、もしも明日世界が終わるとしたらどうする?」

「明日ねぇ」

いきなりそんなこと言われても、私だったらきっと何も思い浮かばないだろう。
やりたいことだって特にない。
もう二度とミヤちゃんと過ごすことができないのは、すごく残念だとは思うけれど。

「私は今まで描いた絵を全部燃やして」

「えー! もったいない!」

「そんなことないわよ。どうせ世界も終わるんでしょ? それから取っておいた白ワインも飲んで」

「うん」

「――――に会いにいくかな」





「あれ……?」

ミヤちゃんの答えが聞こえないまま、フッと意識が覚醒した。
どうやら昔の夢を見ていたらしい。
ベッドから起き上がり、ここが自分の部屋だということを確認する。
原田さんの部屋を出て自分の親子丼を食べてから、私は昼寝をしてしまっていたようだ。

それにしても懐かしい夢。
ミヤちゃんはあのとき誰の名前を言ったんだっけ。
聞き覚えのない人の名前だったような気がするけれど。
明日世界が終わるとしたら、ミヤちゃんはその人に会いにいく。
私でもなく、他の誰でもなく、その人と死にたいと、そう思ったのだ。
それは私よりもずっと、彼女の心を掴んだ人がいたということでもあった。

今でもまだ覚えてる。
その事実が私にとって、唇を噛み切りそうになるほどに悔しいものだったことを。
ゴールデンウィークもとうに明け、もう五月の末に差しかかる。
気候もずいぶんと暖かくなってきたため、キャンパスの中庭にあるベンチで休んでいると、一人の男性がこちらに向かって走ってくるのが見えた。

「あっ、いたいた。柳ー!」

この声は柿本さんのものだ。
初めて会話を交わした日から、彼は何かと私に話しかけてくれるようになったのだ。
私に駆け寄ってきてくれた柿本さんは、今日も人好きのする笑顔を浮かべている。

「どうかしましたか?」

「これ。お菓子をたくさんもらっちゃってさ。一人じゃ食べきれないから、柳にもちょっともらってもらおうと思って」

そう言って、柿本さんはテキストの上に盛られたお菓子の山を私に向かって差し出した。

「アメとかチョコとか……あっ、この抹茶ミルクが美味しかったよ」

かわいらしい包装のそれらは、女の子の好みそうなものばかりだ。
たぶん女性からもらったものなのだろう。
この人は本当に男女問わず人望が厚い。

「ありがとうございます柿本さん。いただきます」

私はその中から、おすすめされた抹茶ミルク味のアメをひとついただいた。
さっそく封を切り、アメを口に含む。
すると柿本さんの言うとおり、濃厚な甘さが舌の上に広がった。
授業終わりの少し疲れた体には嬉しい糖分だ。

それにしても、どうして柿本さんは私のような口数の少ない人間に話しかけてくれるのだろうか。
もしかしたらぽつんと一人で孤立している私を、優しい彼は放っておけないのかもしれない。
私は別に一人でいることが苦ではないのだけれど、とは言え柿本さんと話をするのは楽しかった。
それはいつも笑顔で話題も豊富で、人を嫌な気持ちにさせない彼の人柄のおかげなのだろう。

「あの、何か……?」

そんなことを考えていると、気づけば柿本さんにジッと見つめられていた。
その視線に戸惑って言葉を詰まらせれば、彼がムッとしたように眉を顰める。

「さん付けしなくていいのに」

「ああ、そのことですか」

それは数日前に話をしたことだった。
同じ一年生なのによそよそしいからと、柿本さんは私を柳と呼ぶようになり、私も彼の愛称で呼んでいいと言われたのだ。
しかし男の人とそんなに親しくしたことのない私には違和感があった。
なんと言うか、少しハードルが高い。

「……ほかの呼び方ではダメですか?」

“カッキー”という名前はすごくかわいいし呼びやすいと思うけれど、なぜか自分が呼ぶとなると緊張してしまう。
私がそう言うと、柿本さんは腕を組んでうーんと考え込む仕草をした。

「じゃあさ、継臣って呼んでよ。俺の名前って言いづらいらしくて、あんまりそっちで呼ばれたことないんだよね」

「継臣さん?」

「そうそう。はは、なんかいいね。新鮮」

人柄のよさがにじみ出るような笑顔で継臣さんが笑う。
裏表がなくて優しくて、彼の周りに人が集まる理由がよく分かる笑顔だ。

「ちょっとカッキー! 何女の子口説いてんの!」

するといつの間にか後ろにいた男の人たちが、継臣さんをからかう言葉を投げた。
あれは同じ学科の人たちだ。
先ほどまでの会話を聞かれていたのだろうか。
女の子とはもしかしなくとも私のことだろう。
今のは口説くとか、そういうものではないのに。

「そういうのじゃないから!」

私の心の声を代弁するように、継臣さんが声を張り上げる。
しかしその顔は真っ赤だ。
からかわれることに慣れていないのだろうか。
そんな状態では説得力がないと彼はますます冷やかされ、場を収めるのにけっこうな時間がかかった。

「ごめんね、柳。気にしないで。本当にあいつら子供だよね」

「ふふっ、耳まで赤くなってますよ、継臣さん」

「ちょっと! 柳までそういうこと言うの!?」

耳を隠しながらうろたえる継臣さんは、大人の男の人だというのにかわいいという言葉がよく似合う。
その姿を微笑ましく眺めていると、彼はふいに目線を下へと向けた。

「あっ、ごめん。柳、何か読んでる最中だった? 邪魔しちゃったね」

「ああ、大丈夫ですよ。暇つぶしに読んでいただけなので」

膝に乗せていたものを継臣さんの目の前に掲げる。
それは今朝コンビニで買った、女性向けのファッション雑誌だった。

「服でも探してるの?」

「はい。大人っぽく見えるようになりたいなと思って」

しかしいざ買ってみたはいいものの、私はどうにも混乱してしまっていた。
綺麗な服はたくさん載っているけれど、自分には到底似合いそうにもないものばかりなのだ。

「へぇ。柳もそういうことを気にしたりするんだね」

「それ、どういう意味ですか」

「いやいや、女の子らしいなって」

くっくと笑う継臣さんをじとっと見上げる。
やはり彼にも子供っぽいと思われていたのだろう。
不貞腐れながら、もう一度誌面に目を落とす。
まだ五月だけれど、内容は夏のことばかりだ。

「継臣さんはどういう服がいいと思いますか?」

「俺? あー、浴衣とか好きだな。大人っぽく見えるし」

「普段着にはちょっとですね」

「あとはマフラーぐるぐるしてる子とかもかわいいと思う」

「それも季節的に無理があります」

ふざけたように提案する継臣さんは、しかしそれからハッと思いついたように手を打った。

「じゃあさ、手っ取り早く髪を伸ばして染めてみたらいいんじゃない?」

「髪ですか?」

「うん。かなり印象が変わると思うよ」

ふと、耳にぬくい温度が伝わった。
私の肩までの髪に継臣さんが触れたのだ。
彼の手からこぼれた一筋が、さらりと頬を掠める。

「でも傷んだらもったいないよね。キレーな髪だし」

「いえ、別にそんな」

「って、これセクハラか! ごめん!」

継臣さんの焦った声とともに、触れられていた髪がすべて手放される。
一瞬、息をするのを忘れた。
久しぶりに人の体温を感じて、顔に熱が集中するのが分かる。
他意のあることではなかったのに、変に意識してしまった。

「柳さん」

赤くなる顔が見られないように急いで顔を俯かせていると、よいタイミングで誰かから名前を呼ばれた。
声がした方を振り向けば、構内から男性が出てくるのが見える。

野村(のむら)先生」

「急に声をかけてしまってすまないね。頼みたいことがあったんだ」

現れたのは、絵画科の助教である野村先生だった。
まだ二十代後半と、学生とほとんど変わらない若さである彼は、この美大の卒業生でもあり、私がよくお世話になっている方だ。

「私に何か……?」

「うん。柳さんは6月に最初のオープンキャンパスがあることは知っているかな」

「すみません、知りませんでした」

「いや、それは構わないんだけど、そのオープンキャンパスの日に君の絵を貸してもらいたいんだ。模擬授業で高校生に見せたくて」

「すごいじゃん柳!」

継臣さんの明るい声が響く。
しかし私は突然のことに頭が追いつかなかった。

「私のですか?」

「ああ、ぜひ。教授方にも、君の作品は評判がよくてね」

「ありがとうございます……」

感謝の言葉が、まるで懺悔のように先細りして発せられる。
それには理由があった。
自分の絵が褒められるたび、私の頭の中には、誰かの囁く声が反響するのだ。

――それはあなたの力じゃない。
――評価されているのは、ミヤちゃんの面影が見える部分よ。

剥き出しの正論が私の心をちくちくと刺す。
そんなことは分かってる。
だからどうにかしようとしているんじゃない。
ぐるぐると心の中に黒い靄がかかるみたいに、残酷な気持ちになっていく。
称賛の言葉を素直に受け止められない。

「柳さん?」

「先生、ごめん。柳、さっきから体調が悪いみたいで」

「そうか、すまなかったね」

視界から野村先生が消えて、私の目からはなぜか涙が溢れてきた。
そんな自分が情けなくて、しょうがない。





「お金にはしないって何度も言ってるでしょう!? もうそのことで電話をしてくるのはやめて! 迷惑だから!」

その声が聞こえてきたのは、部活が始まる少し前のことだった。
美術準備室で電話をしていたらしいミヤちゃんは、どうやらものすごく荒れているらしい。
いつも気怠げな彼女がそんな大きな声を出すところを見たことがなくて、私は驚きを隠せずに呆然としていた。

「ミヤちゃんどうしたの? 大丈夫?」

「あら、もう来ていたの? 変なことを聞かせちゃったわね。ごめんなさい」

「ううん。無理しないでね」

冷めてしまった様子のコーヒーを飲みながら、ミヤちゃんは描き途中の絵の前に座った。
色を乗せ始めたばかりのキャンバスには、赤い花びらだけが印象的に咲いている。

「子供が気を遣わなくていいのよ」

「私、そんなに子供じゃないよ」

少しムッとして反論すると、ミヤちゃんはくすくすと笑った。
けれどどこか無理をして笑っているように見えて、私まで苦しくなってしまう。
彼女は感情の変化に乏しいが、表現が素直だから、すぐに心の内が見えてしまうのだ。

「父親から絵を売ることを打診されててね。あんまりしつこいから、イライラしちゃって」

「売りたくないの?」

「絶対に嫌ね」

ミヤちゃんが怒りを滲ませながら言い切る。
自分の絵を評価されるとか、勝手に値段をつけられるとか、そういうことが嫌なのだろうか。
私の頭の中ではそんなことしか思い当たらなかったが、ミヤちゃんの見解はまるで違うものだった。

「自信過剰って思われても仕方ないけど、私の絵は特定の人を惑わせるのよ。そんなもの、世に出したくなんかないわ」

人を惑わせる。
その言葉を耳にして、私はいつかミヤちゃんから聞いた、彼女が絵を描く理由を思い出していた。

ミヤちゃんが絵を描くのは、自分の中の毒を抜くためだ。
彼女が言う毒というものがいったいなんなのかは分からないけれど、一般的に言う人を害するものという意味なのだとしたら、絵に込められたその毒が人を惑わせるのかもしれない。
私も彼女の毒に深入りはするなと、釘を刺されたっけ。

「私の父は絵画コレクターでね。私の絵に狂って、いずれ世界に広めたいなんて馬鹿げた夢を見ているの。教師になった娘を認めず、今からでも有名な画家にしようと、おかしいくらい躍起になってる」

ミヤちゃんが自嘲ぎみに笑う。
その話が本当だとしたら、私もいつかその毒によって狂ってしまうのだろうか。

「絵を売ることはしたくない。だけど絵を描くことはやめられない。やめてしまったら、私は死んでしまうから」

きっぱりと言い切ったミヤちゃんに、私は少しだけ恐れを懐いた。
彼女はひたすら自分のためだけに生きている。
まるで彼女を取り巻くものすべてが、自分のものであるかのように。





私もミヤちゃんみたいに強く真っ直ぐに生きられたらいいのに。
弱虫で情けなくて、嫌になる。

「……取り乱してすみません。ありがとうございました」

いきなり泣き出して、継臣さんには情緒不安定なやつだと思われただろうか。
これ以上、こんな姿を見られたくない。
そばにいてくれた継臣さんにお礼を言ってから、私は彼から逃げ出すように立ち上がった。

「泣きたいときは泣いた方がいいんだよ。溜め込む方がよくない」

しかしその場を立ち去ろうとした瞬間、継臣さんに手を取られ、私は逃げ損なってしまっていた。
彼はというと、なぜかとても深刻そうな顔つきになって言葉を詰まらせている。
いったいどうしたのだろう。
苦し紛れに「あの」と窺うような声を出すと、ようやく継臣さんはいつもの笑顔を取り戻してくれた。

「やっぱり柳は俺の知り合いに似てるよ」

「自分の絵に自信がないと言っていた人ですか?」

「そう。俺はその人に何もしてやれなくて、そのうち音信不通になってしまったんだ」

ああ、だから彼は助けられなかったその人の代わりに、私を助けようとそばにいてくれるのか。
彼の心に巣食うものの正体を知らず、私はぼんやりとそんなことを考えていた。
結局オープンキャンパスに向けて、私の絵は野村先生に貸し出されることになった。
継臣さんとも毎日のように会話をしているが、あの日のような深刻な空気になることはない。
ただただ平凡に時間は過ぎていく。
6月に入ってからはグループワークも増えていった結果、私は今までよりも忙しい日々を過ごしていた。

「よぉ。久しぶりだな」

「原田さん?」

けれどこの人のことは、なぜか折に触れて思い出すことがあった。
たぶん彼の絵の強烈さに当てられたのだろう。
大学からの帰ると、いつもと同じくアパートの柵に肘をついてタバコを吸っていた原田さんは、へらへらとした笑みを浮かべながら私を見下ろしていた。

「日曜なのに、どこ行ってたんだよ」

「課題があって大学に行ってました」

「へぇ。大変だな」

まるで昨日も会っていたかのような空気感に拍子抜けする。
この人の顔を見るのはゴールデンウィーク以来、ほぼ一ヶ月ぶりだというのに。
久しぶりに見た原田さんは、また少しヒゲが伸び、だらしない雰囲気になっていた。
それにしても、ずっとアパートに帰ってきていた様子はなかったのに、いったいどこで何をしていたのだろうか。

「ずっと見かけませんでしたけど、どこかに行ってらっしゃったんですか?」

「ああ。仕事でモルディブに」

そう思って尋ねてみると、あっさりとした調子で予想外の答えが返ってきた。
モルディブって、たしかリゾート地が有名なインド洋の島国だ。
言われてみれば、以前より肌が灼けたような気がする。
きっと長い時間を浜辺ででも過ごしていたのだろう。

「きちんとお仕事をされていたんですね」

「しないと飯が食えねーだろ?」

何気なく失礼なことを言ったような気がするが、原田さんは意にも介していないようだった。
しかしそんなところで、なんの仕事をしていたというのだろう。
事情を聞けば聞くほど謎の深まる人だ。
いや、それとももしかして。

「絵を描くお仕事をされているんですか?」

あんなにも大量の画材を所持していて、あんなにも絵を描く腕があるなら、その技術を職業にしていてもおかしくない。
それにモルディブといえば海の綺麗なところだから、美しい絵がいくらでも描けそうだ。

「当たらずも遠からず、かな」

「えっ?」

「普段は出張ホストやってんだよ。絵は売りのひとつで、客に要望されたら描いてる」

「んん?」

出張ホストとはなんだろうか。
初めて聞く職業だ。
私が知らない単語に言葉を詰まらせていると、原田さんはそれに察してかニヤリと笑みを浮かべた。

「どんな職業なのか知らねーって顔だな」

「すみませんね、無知で」

「ははっ、まぁ普通の女子大生は利用しないから当然だ。でも、あんたもホストってのは知ってるだろ?」

指を差される代わりに、タバコの火がついた方を向けられる。
ホストって、男の人がお客さんにお酒を出したり接待をしたりする、あの職業だろう。
それなら聞いたことがあると、こくりと頷く。

「出張ホストってのは、ホストクラブみたいな箱に属してなくて、客のところに直接向かうホストのことだよ」

「はぁ、なるほど」

そうか、お客さんのところへたびたび向かうから、彼はよく姿をくらますのだろう。
得心のゆく説明に、私は何度も頷いた。

「羽振りのいい奥さんとかには今回みたいに旅行に連れてってもらえてな。海を背景に死ぬほど描かされたけど、けっこう綺麗だったぜ?」

ふっと煙を吐き出しながら、原田さんは旅行での話をしてくれた。
海と空が混じり合って一緒くたになってしまったかのような青の世界と、ヤシの木にサンゴ礁、水上コテージ。
それらはすべて私の知らない世界の話だった。
この人は自分の絵の価値と有効的な使い方を知っている。
ミヤちゃんとは真逆だ。
それなのに、どうして原田さんを見ているとミヤちゃんのことを思い出してしまうのだろう。

「ではお部屋にあった絵はお客さんがモデルなんですか?」

原田さんの部屋にあった絵は、ひとつを除いて人物画だった。
そう尋ねると、原田さんは臆することなく「セフレの分もある」と言った。

「絵が得意って言うと、けっこう女が釣れるんだ」

その言葉に、初めて見た原田さんの絵を思い出す。
裸の女の人の絵。
それは行為の後に描かれたから、そんな絵だったのだろうか。
赤裸々な話に閉口しながら、それでも私は少しだけ羨ましく思った。
モデルになった人たちは、原田さんの絵を描く姿を見ることができたのだろう。
私も見てみたい。
彼から世界が生み出される瞬間を。

「大好きな絵がそんなふうに扱われてて幻滅した?」

私が押し黙ったままそんなことを考え込んでいると、気を悪くしたと思われたのか、原田さんは窺うような視線をこちらに向けた。

「絵を描く理由なんて人それぞれですから」

彼の問いに首を振りながら、しかし頭の中ではまったく別のことを考える。
私は手を見ていた。
原田さんの節くれだったその手を。
この手から絵が生み出されるのかと思うと、体を流れる血が沸騰するかのように騒ぎ出す気がする。
原田さんの絵が見たい。
私の狭い世界と価値観を、その絵で塗り替えてほしい。
あの日、ミヤちゃんの絵を見たときのように。
そんな欲望が止めどなく溢れ出てくる。

「今度は原田さんが絵を描くところ見せてもらえませんか。代わりにお好きなごはんをつくりますから」

だから無意識にそう言い出していた。
あの感覚を、もう一度味わいたくて。





「永遠。あなた、いちおう受験生でしょ? 勉強は大丈夫なの?」

ミヤちゃんがそう言ったのは、ちょうど模試が行われる前日のことだった。
明日大切な何かがあるからと言って、私は部活に出るのをやめたりはしない。
今の私は、この部活の時間のために日々を過ごしていると言っても過言ではないのだから。

「ミヤちゃんがそういう先生っぽいこと言うなんて、ちょっと意外」

彼女が私の勉強の心配をしたことなんて今まで一度もない。
どういう心境の変化かと茶化すと、ミヤちゃんは呆れたように眉を顰めた。

「受験に失敗してから私のせいって言われても困るもの」

「あははっ、大丈夫だよ。勉強の時間はちゃんと取ってる。行きたいところ、そんなに偏差値高くないし」

第一志望の高校は、家から一番近い県立の高校だ。
普通科だけの平凡な学校だと聞き、あまり悩むことなくそこに決めた。
担任や両親からは将来を見据えた上で考えろと言われたけれど、将来のことなんて何も分からない。
やりたいこともないし、目指している職業だってない。
別に特殊なことをしたいとは思わないから、高校選びが将来を左右するとは思えないけれど。
けれど考えてみれば、私には何もないのだ。
趣味も特技も才能も、これといった何かがない。

「……ねぇ。ミヤちゃんはどうして先生になったの?」

私と違って、ミヤちゃんには確固たる才能も人目を引く美貌もある。
彼女に似合う華やかな舞台なんていくらでもあったはずだ。
それなのに、どうして片田舎の中学校の美術教師になんてなったのだろう。

「なあに? 私は教師に向いてないって?」

「ち、違うけど」

ただ、もったいないと思うのだ。
こんなところでせっかくの才能を燻らせて、その価値を私なんかが独り占めにしている。

それに、私は単純に羨ましかった。
彼女は選ばれた人だ。
神様に愛された人だ。
比類なき、彼女だけのものを持っている。
それに比べて、私は換えの効くその他大勢。
この世にいてもいなくても変わらないような人間だ。
私だってできることなら、ミヤちゃんのような選ばれし人間になりたかった。
そんなもの、持たざる者の嫉妬だって分かってはいるけれど、今の私にはミヤちゃんが傲慢に見える。
せっかくの才能を活用しないなんて、才能を持たない人間に失礼じゃないか。

「教師になるって言ったとき、周りにもよく反対されたわ。あなたもそう思うんでしょう?」

「うん」

「このあいだ言ったとおり、絵を売る仕事はしたくなかったのよ」

たしかにミヤちゃんは言った。
彼女の絵は人を惑わせるのだと。

「絵を売らないのは、毒のせいだったよね?」

「そう。私の絵は後世に遺したくない。人目にだって、なるべく触れさせない方がいいの」

不敵に、そして少し悲しげにミヤちゃんは笑った。
彼女の真っ白な肌が蛍光灯の光を受けて輝いているのを見て、思わず目を細める。

ああ、本当に毒みたいだ。
彼女の絵も、彼女自身も。
だってすでに、いやきっと最初から、私は彼女の毒がほしくてたまらなかった。
体の芯も心の芯も、訳が分からなくなるまで侵してほしい。

「絵を売る仕事はしたくなかったけど、絵を描く仕事はしたかったの。私にできることなんてそれくらいしかないもの」

「それで先生になったの?」

「そう。絵は遺したくないけど、培った技術なら誰かに伝えてみたいと思って」

「じゃあ私がミヤちゃんの技術を受け継ぐんだね」

「あら、生意気言うわね。そんな簡単なものじゃないわよ?」

めったに笑わないミヤちゃんが、その日はとても嬉しそうに笑った。
天才と呼ばれた彼女がいったい何を考えて生きていたのか、凡人の私には到底計り知ることはできなかった。

彼女を理解しようとするなんて不可能だ。
そもそもそんなことをしようとすることが間違いなのだ。
私はようやくそのことに気づいたが、けれどもうすでに遅すぎたようだった。

彼女への憧れはいつしか醜い独占欲へと変わっていた。
いつのことだったか、ミヤちゃんは私を純粋だと評したけれど、そんな私はもうどこにもいない。
嫉妬や欲望に全身を侵されているのが今の私だ。
まるで真っ白な絵の具がコバルトブルーに染められていくように、じわじわと姿を変えていく。
毒された私は、以前の自分には戻れないのだろう。

「でも、永遠が受け継いでくれるなら本望だわ」

満ち足りたような声が、悪魔のささやきのように私の耳へと届く。
自分がおかしくなっていることを自覚しながら、それでも私はミヤちゃんへと近づくことをやめられなかった。





毒を毒をと求めてきた。
そしてあの毒を持つ人に、私はまたしても出会ってしまったのだと思った。
その存在を認めれば、もちろん手を伸ばさずにはいられない。

「俺に関わるのはもうやめな」

しかし原田さんの返事は、私が期待したものではなかった。

「どうしてですか……?」

この前は料理をつくる代わりに、また絵を見せてくれると言ったのに。
原田さんは新しいタバコに火をつけながら、私の責めるような視線を平然と受け止める。

「毒が回るから」

そのまま、まるで自嘲するように彼はそう言った。
どうしてその言葉を選んだのだろう。
ミヤちゃんと同じような感性を持っているのか、それとも誰かから聞き及んだことがあるのか、そんなことは分からないけれど。
私はひたすらに原田さんの瞳を見つめていた。
心の奥に燻っていた欲望という名の火が、彼のその言葉によって、再び勢いを取り戻すのを感じながら。

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