ゴールデンウィークもとうに明け、もう五月の末に差しかかる。
気候もずいぶんと暖かくなってきたため、キャンパスの中庭にあるベンチで休んでいると、一人の男性がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
「あっ、いたいた。柳ー!」
この声は柿本さんのものだ。
初めて会話を交わした日から、彼は何かと私に話しかけてくれるようになったのだ。
私に駆け寄ってきてくれた柿本さんは、今日も人好きのする笑顔を浮かべている。
「どうかしましたか?」
「これ。お菓子をたくさんもらっちゃってさ。一人じゃ食べきれないから、柳にもちょっともらってもらおうと思って」
そう言って、柿本さんはテキストの上に盛られたお菓子の山を私に向かって差し出した。
「アメとかチョコとか……あっ、この抹茶ミルクが美味しかったよ」
かわいらしい包装のそれらは、女の子の好みそうなものばかりだ。
たぶん女性からもらったものなのだろう。
この人は本当に男女問わず人望が厚い。
「ありがとうございます柿本さん。いただきます」
私はその中から、おすすめされた抹茶ミルク味のアメをひとついただいた。
さっそく封を切り、アメを口に含む。
すると柿本さんの言うとおり、濃厚な甘さが舌の上に広がった。
授業終わりの少し疲れた体には嬉しい糖分だ。
それにしても、どうして柿本さんは私のような口数の少ない人間に話しかけてくれるのだろうか。
もしかしたらぽつんと一人で孤立している私を、優しい彼は放っておけないのかもしれない。
私は別に一人でいることが苦ではないのだけれど、とは言え柿本さんと話をするのは楽しかった。
それはいつも笑顔で話題も豊富で、人を嫌な気持ちにさせない彼の人柄のおかげなのだろう。
「あの、何か……?」
そんなことを考えていると、気づけば柿本さんにジッと見つめられていた。
その視線に戸惑って言葉を詰まらせれば、彼がムッとしたように眉を顰める。
「さん付けしなくていいのに」
「ああ、そのことですか」
それは数日前に話をしたことだった。
同じ一年生なのによそよそしいからと、柿本さんは私を柳と呼ぶようになり、私も彼の愛称で呼んでいいと言われたのだ。
しかし男の人とそんなに親しくしたことのない私には違和感があった。
なんと言うか、少しハードルが高い。
「……ほかの呼び方ではダメですか?」
“カッキー”という名前はすごくかわいいし呼びやすいと思うけれど、なぜか自分が呼ぶとなると緊張してしまう。
私がそう言うと、柿本さんは腕を組んでうーんと考え込む仕草をした。
「じゃあさ、継臣って呼んでよ。俺の名前って言いづらいらしくて、あんまりそっちで呼ばれたことないんだよね」
「継臣さん?」
「そうそう。はは、なんかいいね。新鮮」
人柄のよさがにじみ出るような笑顔で継臣さんが笑う。
裏表がなくて優しくて、彼の周りに人が集まる理由がよく分かる笑顔だ。
「ちょっとカッキー! 何女の子口説いてんの!」
するといつの間にか後ろにいた男の人たちが、継臣さんをからかう言葉を投げた。
あれは同じ学科の人たちだ。
先ほどまでの会話を聞かれていたのだろうか。
女の子とはもしかしなくとも私のことだろう。
今のは口説くとか、そういうものではないのに。
「そういうのじゃないから!」
私の心の声を代弁するように、継臣さんが声を張り上げる。
しかしその顔は真っ赤だ。
からかわれることに慣れていないのだろうか。
そんな状態では説得力がないと彼はますます冷やかされ、場を収めるのにけっこうな時間がかかった。
「ごめんね、柳。気にしないで。本当にあいつら子供だよね」
「ふふっ、耳まで赤くなってますよ、継臣さん」
「ちょっと! 柳までそういうこと言うの!?」
耳を隠しながらうろたえる継臣さんは、大人の男の人だというのにかわいいという言葉がよく似合う。
その姿を微笑ましく眺めていると、彼はふいに目線を下へと向けた。
「あっ、ごめん。柳、何か読んでる最中だった? 邪魔しちゃったね」
「ああ、大丈夫ですよ。暇つぶしに読んでいただけなので」
膝に乗せていたものを継臣さんの目の前に掲げる。
それは今朝コンビニで買った、女性向けのファッション雑誌だった。
「服でも探してるの?」
「はい。大人っぽく見えるようになりたいなと思って」
しかしいざ買ってみたはいいものの、私はどうにも混乱してしまっていた。
綺麗な服はたくさん載っているけれど、自分には到底似合いそうにもないものばかりなのだ。
「へぇ。柳もそういうことを気にしたりするんだね」
「それ、どういう意味ですか」
「いやいや、女の子らしいなって」
くっくと笑う継臣さんをじとっと見上げる。
やはり彼にも子供っぽいと思われていたのだろう。
不貞腐れながら、もう一度誌面に目を落とす。
まだ五月だけれど、内容は夏のことばかりだ。
「継臣さんはどういう服がいいと思いますか?」
「俺? あー、浴衣とか好きだな。大人っぽく見えるし」
「普段着にはちょっとですね」
「あとはマフラーぐるぐるしてる子とかもかわいいと思う」
「それも季節的に無理があります」
ふざけたように提案する継臣さんは、しかしそれからハッと思いついたように手を打った。
「じゃあさ、手っ取り早く髪を伸ばして染めてみたらいいんじゃない?」
「髪ですか?」
「うん。かなり印象が変わると思うよ」
ふと、耳にぬくい温度が伝わった。
私の肩までの髪に継臣さんが触れたのだ。
彼の手からこぼれた一筋が、さらりと頬を掠める。
「でも傷んだらもったいないよね。キレーな髪だし」
「いえ、別にそんな」
「って、これセクハラか! ごめん!」
継臣さんの焦った声とともに、触れられていた髪がすべて手放される。
一瞬、息をするのを忘れた。
久しぶりに人の体温を感じて、顔に熱が集中するのが分かる。
他意のあることではなかったのに、変に意識してしまった。
「柳さん」
赤くなる顔が見られないように急いで顔を俯かせていると、よいタイミングで誰かから名前を呼ばれた。
声がした方を振り向けば、構内から男性が出てくるのが見える。
「野村先生」
「急に声をかけてしまってすまないね。頼みたいことがあったんだ」
現れたのは、絵画科の助教である野村先生だった。
まだ二十代後半と、学生とほとんど変わらない若さである彼は、この美大の卒業生でもあり、私がよくお世話になっている方だ。
「私に何か……?」
「うん。柳さんは6月に最初のオープンキャンパスがあることは知っているかな」
「すみません、知りませんでした」
「いや、それは構わないんだけど、そのオープンキャンパスの日に君の絵を貸してもらいたいんだ。模擬授業で高校生に見せたくて」
「すごいじゃん柳!」
継臣さんの明るい声が響く。
しかし私は突然のことに頭が追いつかなかった。
「私のですか?」
「ああ、ぜひ。教授方にも、君の作品は評判がよくてね」
「ありがとうございます……」
感謝の言葉が、まるで懺悔のように先細りして発せられる。
それには理由があった。
自分の絵が褒められるたび、私の頭の中には、誰かの囁く声が反響するのだ。
――それはあなたの力じゃない。
――評価されているのは、ミヤちゃんの面影が見える部分よ。
剥き出しの正論が私の心をちくちくと刺す。
そんなことは分かってる。
だからどうにかしようとしているんじゃない。
ぐるぐると心の中に黒い靄がかかるみたいに、残酷な気持ちになっていく。
称賛の言葉を素直に受け止められない。
「柳さん?」
「先生、ごめん。柳、さっきから体調が悪いみたいで」
「そうか、すまなかったね」
視界から野村先生が消えて、私の目からはなぜか涙が溢れてきた。
そんな自分が情けなくて、しょうがない。
◇
「お金にはしないって何度も言ってるでしょう!? もうそのことで電話をしてくるのはやめて! 迷惑だから!」
その声が聞こえてきたのは、部活が始まる少し前のことだった。
美術準備室で電話をしていたらしいミヤちゃんは、どうやらものすごく荒れているらしい。
いつも気怠げな彼女がそんな大きな声を出すところを見たことがなくて、私は驚きを隠せずに呆然としていた。
「ミヤちゃんどうしたの? 大丈夫?」
「あら、もう来ていたの? 変なことを聞かせちゃったわね。ごめんなさい」
「ううん。無理しないでね」
冷めてしまった様子のコーヒーを飲みながら、ミヤちゃんは描き途中の絵の前に座った。
色を乗せ始めたばかりのキャンバスには、赤い花びらだけが印象的に咲いている。
「子供が気を遣わなくていいのよ」
「私、そんなに子供じゃないよ」
少しムッとして反論すると、ミヤちゃんはくすくすと笑った。
けれどどこか無理をして笑っているように見えて、私まで苦しくなってしまう。
彼女は感情の変化に乏しいが、表現が素直だから、すぐに心の内が見えてしまうのだ。
「父親から絵を売ることを打診されててね。あんまりしつこいから、イライラしちゃって」
「売りたくないの?」
「絶対に嫌ね」
ミヤちゃんが怒りを滲ませながら言い切る。
自分の絵を評価されるとか、勝手に値段をつけられるとか、そういうことが嫌なのだろうか。
私の頭の中ではそんなことしか思い当たらなかったが、ミヤちゃんの見解はまるで違うものだった。
「自信過剰って思われても仕方ないけど、私の絵は特定の人を惑わせるのよ。そんなもの、世に出したくなんかないわ」
人を惑わせる。
その言葉を耳にして、私はいつかミヤちゃんから聞いた、彼女が絵を描く理由を思い出していた。
ミヤちゃんが絵を描くのは、自分の中の毒を抜くためだ。
彼女が言う毒というものがいったいなんなのかは分からないけれど、一般的に言う人を害するものという意味なのだとしたら、絵に込められたその毒が人を惑わせるのかもしれない。
私も彼女の毒に深入りはするなと、釘を刺されたっけ。
「私の父は絵画コレクターでね。私の絵に狂って、いずれ世界に広めたいなんて馬鹿げた夢を見ているの。教師になった娘を認めず、今からでも有名な画家にしようと、おかしいくらい躍起になってる」
ミヤちゃんが自嘲ぎみに笑う。
その話が本当だとしたら、私もいつかその毒によって狂ってしまうのだろうか。
「絵を売ることはしたくない。だけど絵を描くことはやめられない。やめてしまったら、私は死んでしまうから」
きっぱりと言い切ったミヤちゃんに、私は少しだけ恐れを懐いた。
彼女はひたすら自分のためだけに生きている。
まるで彼女を取り巻くものすべてが、自分のものであるかのように。
◇
私もミヤちゃんみたいに強く真っ直ぐに生きられたらいいのに。
弱虫で情けなくて、嫌になる。
「……取り乱してすみません。ありがとうございました」
いきなり泣き出して、継臣さんには情緒不安定なやつだと思われただろうか。
これ以上、こんな姿を見られたくない。
そばにいてくれた継臣さんにお礼を言ってから、私は彼から逃げ出すように立ち上がった。
「泣きたいときは泣いた方がいいんだよ。溜め込む方がよくない」
しかしその場を立ち去ろうとした瞬間、継臣さんに手を取られ、私は逃げ損なってしまっていた。
彼はというと、なぜかとても深刻そうな顔つきになって言葉を詰まらせている。
いったいどうしたのだろう。
苦し紛れに「あの」と窺うような声を出すと、ようやく継臣さんはいつもの笑顔を取り戻してくれた。
「やっぱり柳は俺の知り合いに似てるよ」
「自分の絵に自信がないと言っていた人ですか?」
「そう。俺はその人に何もしてやれなくて、そのうち音信不通になってしまったんだ」
ああ、だから彼は助けられなかったその人の代わりに、私を助けようとそばにいてくれるのか。
彼の心に巣食うものの正体を知らず、私はぼんやりとそんなことを考えていた。
気候もずいぶんと暖かくなってきたため、キャンパスの中庭にあるベンチで休んでいると、一人の男性がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
「あっ、いたいた。柳ー!」
この声は柿本さんのものだ。
初めて会話を交わした日から、彼は何かと私に話しかけてくれるようになったのだ。
私に駆け寄ってきてくれた柿本さんは、今日も人好きのする笑顔を浮かべている。
「どうかしましたか?」
「これ。お菓子をたくさんもらっちゃってさ。一人じゃ食べきれないから、柳にもちょっともらってもらおうと思って」
そう言って、柿本さんはテキストの上に盛られたお菓子の山を私に向かって差し出した。
「アメとかチョコとか……あっ、この抹茶ミルクが美味しかったよ」
かわいらしい包装のそれらは、女の子の好みそうなものばかりだ。
たぶん女性からもらったものなのだろう。
この人は本当に男女問わず人望が厚い。
「ありがとうございます柿本さん。いただきます」
私はその中から、おすすめされた抹茶ミルク味のアメをひとついただいた。
さっそく封を切り、アメを口に含む。
すると柿本さんの言うとおり、濃厚な甘さが舌の上に広がった。
授業終わりの少し疲れた体には嬉しい糖分だ。
それにしても、どうして柿本さんは私のような口数の少ない人間に話しかけてくれるのだろうか。
もしかしたらぽつんと一人で孤立している私を、優しい彼は放っておけないのかもしれない。
私は別に一人でいることが苦ではないのだけれど、とは言え柿本さんと話をするのは楽しかった。
それはいつも笑顔で話題も豊富で、人を嫌な気持ちにさせない彼の人柄のおかげなのだろう。
「あの、何か……?」
そんなことを考えていると、気づけば柿本さんにジッと見つめられていた。
その視線に戸惑って言葉を詰まらせれば、彼がムッとしたように眉を顰める。
「さん付けしなくていいのに」
「ああ、そのことですか」
それは数日前に話をしたことだった。
同じ一年生なのによそよそしいからと、柿本さんは私を柳と呼ぶようになり、私も彼の愛称で呼んでいいと言われたのだ。
しかし男の人とそんなに親しくしたことのない私には違和感があった。
なんと言うか、少しハードルが高い。
「……ほかの呼び方ではダメですか?」
“カッキー”という名前はすごくかわいいし呼びやすいと思うけれど、なぜか自分が呼ぶとなると緊張してしまう。
私がそう言うと、柿本さんは腕を組んでうーんと考え込む仕草をした。
「じゃあさ、継臣って呼んでよ。俺の名前って言いづらいらしくて、あんまりそっちで呼ばれたことないんだよね」
「継臣さん?」
「そうそう。はは、なんかいいね。新鮮」
人柄のよさがにじみ出るような笑顔で継臣さんが笑う。
裏表がなくて優しくて、彼の周りに人が集まる理由がよく分かる笑顔だ。
「ちょっとカッキー! 何女の子口説いてんの!」
するといつの間にか後ろにいた男の人たちが、継臣さんをからかう言葉を投げた。
あれは同じ学科の人たちだ。
先ほどまでの会話を聞かれていたのだろうか。
女の子とはもしかしなくとも私のことだろう。
今のは口説くとか、そういうものではないのに。
「そういうのじゃないから!」
私の心の声を代弁するように、継臣さんが声を張り上げる。
しかしその顔は真っ赤だ。
からかわれることに慣れていないのだろうか。
そんな状態では説得力がないと彼はますます冷やかされ、場を収めるのにけっこうな時間がかかった。
「ごめんね、柳。気にしないで。本当にあいつら子供だよね」
「ふふっ、耳まで赤くなってますよ、継臣さん」
「ちょっと! 柳までそういうこと言うの!?」
耳を隠しながらうろたえる継臣さんは、大人の男の人だというのにかわいいという言葉がよく似合う。
その姿を微笑ましく眺めていると、彼はふいに目線を下へと向けた。
「あっ、ごめん。柳、何か読んでる最中だった? 邪魔しちゃったね」
「ああ、大丈夫ですよ。暇つぶしに読んでいただけなので」
膝に乗せていたものを継臣さんの目の前に掲げる。
それは今朝コンビニで買った、女性向けのファッション雑誌だった。
「服でも探してるの?」
「はい。大人っぽく見えるようになりたいなと思って」
しかしいざ買ってみたはいいものの、私はどうにも混乱してしまっていた。
綺麗な服はたくさん載っているけれど、自分には到底似合いそうにもないものばかりなのだ。
「へぇ。柳もそういうことを気にしたりするんだね」
「それ、どういう意味ですか」
「いやいや、女の子らしいなって」
くっくと笑う継臣さんをじとっと見上げる。
やはり彼にも子供っぽいと思われていたのだろう。
不貞腐れながら、もう一度誌面に目を落とす。
まだ五月だけれど、内容は夏のことばかりだ。
「継臣さんはどういう服がいいと思いますか?」
「俺? あー、浴衣とか好きだな。大人っぽく見えるし」
「普段着にはちょっとですね」
「あとはマフラーぐるぐるしてる子とかもかわいいと思う」
「それも季節的に無理があります」
ふざけたように提案する継臣さんは、しかしそれからハッと思いついたように手を打った。
「じゃあさ、手っ取り早く髪を伸ばして染めてみたらいいんじゃない?」
「髪ですか?」
「うん。かなり印象が変わると思うよ」
ふと、耳にぬくい温度が伝わった。
私の肩までの髪に継臣さんが触れたのだ。
彼の手からこぼれた一筋が、さらりと頬を掠める。
「でも傷んだらもったいないよね。キレーな髪だし」
「いえ、別にそんな」
「って、これセクハラか! ごめん!」
継臣さんの焦った声とともに、触れられていた髪がすべて手放される。
一瞬、息をするのを忘れた。
久しぶりに人の体温を感じて、顔に熱が集中するのが分かる。
他意のあることではなかったのに、変に意識してしまった。
「柳さん」
赤くなる顔が見られないように急いで顔を俯かせていると、よいタイミングで誰かから名前を呼ばれた。
声がした方を振り向けば、構内から男性が出てくるのが見える。
「野村先生」
「急に声をかけてしまってすまないね。頼みたいことがあったんだ」
現れたのは、絵画科の助教である野村先生だった。
まだ二十代後半と、学生とほとんど変わらない若さである彼は、この美大の卒業生でもあり、私がよくお世話になっている方だ。
「私に何か……?」
「うん。柳さんは6月に最初のオープンキャンパスがあることは知っているかな」
「すみません、知りませんでした」
「いや、それは構わないんだけど、そのオープンキャンパスの日に君の絵を貸してもらいたいんだ。模擬授業で高校生に見せたくて」
「すごいじゃん柳!」
継臣さんの明るい声が響く。
しかし私は突然のことに頭が追いつかなかった。
「私のですか?」
「ああ、ぜひ。教授方にも、君の作品は評判がよくてね」
「ありがとうございます……」
感謝の言葉が、まるで懺悔のように先細りして発せられる。
それには理由があった。
自分の絵が褒められるたび、私の頭の中には、誰かの囁く声が反響するのだ。
――それはあなたの力じゃない。
――評価されているのは、ミヤちゃんの面影が見える部分よ。
剥き出しの正論が私の心をちくちくと刺す。
そんなことは分かってる。
だからどうにかしようとしているんじゃない。
ぐるぐると心の中に黒い靄がかかるみたいに、残酷な気持ちになっていく。
称賛の言葉を素直に受け止められない。
「柳さん?」
「先生、ごめん。柳、さっきから体調が悪いみたいで」
「そうか、すまなかったね」
視界から野村先生が消えて、私の目からはなぜか涙が溢れてきた。
そんな自分が情けなくて、しょうがない。
◇
「お金にはしないって何度も言ってるでしょう!? もうそのことで電話をしてくるのはやめて! 迷惑だから!」
その声が聞こえてきたのは、部活が始まる少し前のことだった。
美術準備室で電話をしていたらしいミヤちゃんは、どうやらものすごく荒れているらしい。
いつも気怠げな彼女がそんな大きな声を出すところを見たことがなくて、私は驚きを隠せずに呆然としていた。
「ミヤちゃんどうしたの? 大丈夫?」
「あら、もう来ていたの? 変なことを聞かせちゃったわね。ごめんなさい」
「ううん。無理しないでね」
冷めてしまった様子のコーヒーを飲みながら、ミヤちゃんは描き途中の絵の前に座った。
色を乗せ始めたばかりのキャンバスには、赤い花びらだけが印象的に咲いている。
「子供が気を遣わなくていいのよ」
「私、そんなに子供じゃないよ」
少しムッとして反論すると、ミヤちゃんはくすくすと笑った。
けれどどこか無理をして笑っているように見えて、私まで苦しくなってしまう。
彼女は感情の変化に乏しいが、表現が素直だから、すぐに心の内が見えてしまうのだ。
「父親から絵を売ることを打診されててね。あんまりしつこいから、イライラしちゃって」
「売りたくないの?」
「絶対に嫌ね」
ミヤちゃんが怒りを滲ませながら言い切る。
自分の絵を評価されるとか、勝手に値段をつけられるとか、そういうことが嫌なのだろうか。
私の頭の中ではそんなことしか思い当たらなかったが、ミヤちゃんの見解はまるで違うものだった。
「自信過剰って思われても仕方ないけど、私の絵は特定の人を惑わせるのよ。そんなもの、世に出したくなんかないわ」
人を惑わせる。
その言葉を耳にして、私はいつかミヤちゃんから聞いた、彼女が絵を描く理由を思い出していた。
ミヤちゃんが絵を描くのは、自分の中の毒を抜くためだ。
彼女が言う毒というものがいったいなんなのかは分からないけれど、一般的に言う人を害するものという意味なのだとしたら、絵に込められたその毒が人を惑わせるのかもしれない。
私も彼女の毒に深入りはするなと、釘を刺されたっけ。
「私の父は絵画コレクターでね。私の絵に狂って、いずれ世界に広めたいなんて馬鹿げた夢を見ているの。教師になった娘を認めず、今からでも有名な画家にしようと、おかしいくらい躍起になってる」
ミヤちゃんが自嘲ぎみに笑う。
その話が本当だとしたら、私もいつかその毒によって狂ってしまうのだろうか。
「絵を売ることはしたくない。だけど絵を描くことはやめられない。やめてしまったら、私は死んでしまうから」
きっぱりと言い切ったミヤちゃんに、私は少しだけ恐れを懐いた。
彼女はひたすら自分のためだけに生きている。
まるで彼女を取り巻くものすべてが、自分のものであるかのように。
◇
私もミヤちゃんみたいに強く真っ直ぐに生きられたらいいのに。
弱虫で情けなくて、嫌になる。
「……取り乱してすみません。ありがとうございました」
いきなり泣き出して、継臣さんには情緒不安定なやつだと思われただろうか。
これ以上、こんな姿を見られたくない。
そばにいてくれた継臣さんにお礼を言ってから、私は彼から逃げ出すように立ち上がった。
「泣きたいときは泣いた方がいいんだよ。溜め込む方がよくない」
しかしその場を立ち去ろうとした瞬間、継臣さんに手を取られ、私は逃げ損なってしまっていた。
彼はというと、なぜかとても深刻そうな顔つきになって言葉を詰まらせている。
いったいどうしたのだろう。
苦し紛れに「あの」と窺うような声を出すと、ようやく継臣さんはいつもの笑顔を取り戻してくれた。
「やっぱり柳は俺の知り合いに似てるよ」
「自分の絵に自信がないと言っていた人ですか?」
「そう。俺はその人に何もしてやれなくて、そのうち音信不通になってしまったんだ」
ああ、だから彼は助けられなかったその人の代わりに、私を助けようとそばにいてくれるのか。
彼の心に巣食うものの正体を知らず、私はぼんやりとそんなことを考えていた。