四月から五月にかけての連休、いわゆるゴールデンウィーク。
その真っ最中であるにもかかわらず予定などない私は、もちろんこの長い休みを持て余してしまっていた。
実家にでも帰ろうかと思ったけれど、帰ったとしても暇なことに変わりはない。
それに私は混雑している駅が大の苦手なのだ。
帰省をするなら、そのうちどこかの土日で行えばいい。
と言うわけで、私はアパートの部屋に引きこもってクロッキーを描いたり、近くの川沿いを散歩したりして、このゴールデンウィークを過ごしていた。
「トーワちゃん」
それは散歩後に買い物をして、再びアパートへ戻ったときのことだった。
頭上から妙に無機質な声で名前を呼ばれた。
その呼び方に聞き覚えがなかったわけではないけれど、一瞬戸惑って見上げれば、そこには柵に肘をつきながら私を見下ろす人影があった。
「原田さん……?」
「おう。俺の顔忘れてないよな?」
久しぶりに会った彼は、以前より少しだけさっぱりとした雰囲気になっていた。
近くまで寄って見てみれば、ヒゲがないし髪も短くなっている。
やはり元がいいとそれだけで爽やかに見えるから不思議だ。
「どこ行ってたんだ?」
「スーパーです。昼ごはんの材料を買いに」
「何つくんの?」
「親子丼です……って」
原田さんと話していると、すぐに彼のペースに呑まれそうになる。
私は会話の途中であるものの存在を思い出し、「ちょっと待っててください」と告げてから慌てて部屋へと戻った。
「これ預かってました」
「何それ」
取りに戻ったものを差し出すと、原田さんは不思議そうな目でそれを見つめた。
「女の人と喧嘩してたとき、彼女が落としていった絵です」
約一ヶ月ものあいだ私の手元にあったその絵。
原田さんはクリアファイルに入れたそれを確認すると、拍子抜けしたように笑った。
「すげー律儀。こんなの捨ててもよかったのに」
「えっ? じゃあ、もらってもいいですか?」
思わぬ言葉を聞き、食い気味に尋ねる。
手放すのが惜しかったほどのものだ。
いらないと言うのなら、ぜひとも自分のものにしたい。
「あー、あんた美大生なんだっけ。気に入ったのか? それ」
「はい。とても」
「俺の部屋に来たら、もっとあるけど」
「えっ! 見たいです!」
つまらないと思っていた休日は、実はなんとも運のいい日だったらしい。
間髪を入れずに頷くと、原田さんは驚いた顔をしてから「その代わり俺にも親子丼つくって」と交換条件を提示した。
「おじゃまします。親子丼できました」
「おっ、サンキュー」
出来上がった親子丼を手に原田さんの家を訪れたのは、きっかり二十分後のことだった。
鶏肉、たまご、玉ねぎの入ったスタンダードな親子丼は、つくり慣れてはいるものの、家族以外の人に食べてもらうのは初めてだ。
味は大丈夫だろうと思うけれど、やはり少しだけ緊張してしまう。
成人男性がどのくらい食べるかなんて知らないから、私は自分が食べる量の二倍ほどを盛って彼に手渡した。
多すぎるような気もするが、足りないよりはマシだろう。
「自分のは?」
「後で食べます。それよりも早く絵を見せてください」
「まあ焦んなよ。ほんとに好きなんだな」
逸る気持ちを抑えられなかった私は、原田さんが呆れるのにも構わず、駆け込むようにして彼の部屋へと上がった。
間取りは私の部屋と同じはずだから、真っ直ぐ進んだ扉の先が居室だろう。
廊下にまで染み入るように香っているのは油彩画独特の匂いだ。
その匂いを感じて、この人は本当に絵を描く人なんだなと改めて思う。
「ほらよ」
原田さんが気怠げに居室の扉を開ける。
その瞬間、私は思わず目を見張った。
八畳の部屋にはベッドと小さなテーブルがひとつずつ。
それ以外は多くのキャンバスと画材で埋め尽くされていたのだ。
中にある絵はほとんどが人物画だ。
男性や子供を描いたものもあるが、だいたいが女性をモデルにしたものだった。
「やっぱり……」
無意識のうちにもれ出た声がかすかに震える。
やはり原田さんの描く絵はミヤちゃんの絵に似ていると思った。
ミヤちゃんはまったくと言っていいほど人物画を描かなかったというのに、彼の絵を見ていると、なぜだかミヤちゃんの絵を思い出すのだ。
脳髄を焼き尽くすかのように、己の価値観も哲学も、まるごと染められてしまいそうな感覚。
もはや暴力的だと言っていいほどに、人を惹きつける力。
ミヤちゃんと同じそんな力が、原田さんの絵には宿っている。
その力に魅せられ、私は長い時間、言葉を失くして彼の絵に見入っていた。
羨ましい。
私もこんな風に描くことができたらいいのに。
そんなふうに歯噛みをしたくなるほどの羨望を感じていると、壁に立て掛けられたたくさんの絵の中に、ひとつだけ異彩を放つものを見つけた。
水彩画の作品。
唯一人物が描かれていない、水の流れの中に木が飲み込まれている絵だ。
その絵にだけ『水葬』というタイトルがついてある。
「原田さん、これ……」
気になって尋ねようと思い振り返ると、原田さんは真っ直ぐに私の方を見ていた。
どうやらすでに親子丼を食べ終えていたらしい。
いつから見られていたのだろう。
絵に没頭しすぎて、まったく気がつかなかった。
「“明日世界が終わるとしても、私は今日、林檎の木を植える”」
すると唐突に、原田さんはそう言った。
「なんですか? それ」
「知らねーの? マルティン・ルターっていうドイツの宗教改革者の言葉。明日世界が終わるのに、林檎の木を植えたって無駄だろ。だけど諦めずに今日を生きろとか、最後まで為すべきことをしろとか、そういう意味の格言になってる」
ならばこの絵の中の流れる木はきっと林檎の木なのだろう。
原田さんは明日世界が終わるとしたら、林檎の木を植えずに流してしまうのだろうか。
何も知らずに見れば美しいのに、その話を聞いた後ではこの絵がひどく厭世的に見える。
もう一度原田さんに視線を戻すと、彼は思い詰めたように厳しい顔をしていた。
気に障ることを言ってしまっただろうか。
そう思った瞬間、彼はふいに立ち上がり、追い詰めるように私との距離を詰めた。
「あんたバカだろ。それとも世間知らず?」
冷たい声が室内に響く。
文字通り目と鼻の先に原田さんの顔があるのに、なぜだか目を逸らすことができない。
「男の部屋にほいほい上がるなんてな、襲っていいですって言ってるようなもんなんだよ」
原田さんはそう言うと、私の肩を掴み、ゆっくりとフローリングの上に押し倒した。
険のある眼差しに射抜かれ、静かに息を呑む。
そう言えば203号室の女の人が、原田さんには気をつけろと言っていたっけ。
あの言葉を今さらながらに思い出しながら、けれども私はそれを他人事のように感じていた。
今まさに押し倒されている危険な状況だというのに、ふっと口から笑い声がもれてしまい、原田さんが怪訝な顔をする。
「……なんでここで笑うんだよ」
「いえ、人を襲うような顔をしているとは思えなかったので」
ニヤついた口元を隠すようにして手で押さえる。
けれど顔を歪める原田さんを見て、私はさらに笑い声を上げてしまった。
「おい」
「だって……!」
だって原田さんがあまりにもこの場にそぐわない顔をするから。
その思いつめた余裕のない切なげな顔は、捕食者というよりも被食者の顔だ。
襲われようとしているのは私のはずなのに、どうして彼がそんな顔をするのだろう。
そのアンバランスさに笑いが込み上げて、私は我慢をすることができなかった。
「あんたといると調子が狂うな」
呆れたように笑ってから、原田さんは私の上からゆっくりと退いた。
軽くなった肩に、彼の体温が残っている。
熱い手だった。
瞳にも言い知れない熱がこもっていたように思う。
その熱はなんなのかと聞いても、彼は笑ってごまかすような気がした。
「まあたしかに、色気もねーガキになんざ、勃つもんも勃たねーか」
案の定、原田さんは何事もなかったかのような下品な笑い方をした。
「この前も私のことガキって言いましたよね。私ってそんなに子供っぽいですか?」
今さっきそのガキを押し倒していたのはどこのどいつだと苛立ちつつも、話題を変えるためにそんなことを聞いてみる。
最近子供扱いされることが多くて気になっていたのだ。
自分では普通に年相応だと思うのに。
「女ってもっと髪とか顔とか服とか、あと爪とか? そういうもんに気を遣うんじゃねーの? その点あんたはどこも気にしてなさそうだし」
髪、顔、服、爪。
そう言われて、今の自分の姿を省みる。
染めたことのない肩までの黒髪に、化粧っ気のかけらもない顔。
服は動きやすさ重視の、シンプルなカットソーとデニム。
爪に至っては、色を乗せたことすらない。
世間一般の女の子たちに比べたら私は飾り気がないと思うけど、原田さんの言うとおり、別に気にしたことなんてなかった。
私はただ、絵を描くことにだけ没頭して生きていたから。
けれどたとえば203号室の女の人も、原田さんを平手打ちした女の人も、派手だがきちんと気を遣ってるように見えた。
あのミヤちゃんだって、持って生まれた美しさもあるけれど、多少は身なりを整えていたのだろう。
私も大学生になったことだし、やはり少しくらいはおしゃれをした方がいいのかもしれない。
「そうですね。頑張ってみます」
「あ? おお、頑張れ?」
「はい。じゃあ、絵も見終わったので帰りますね」
原田さんが使い終わった食器を持って立ち上がる。
そのまま退散しようと彼に背を向けると、後ろから「永遠」と呼び止められた。
「美味かった。またなんかつくれよ。絵、見せてやるから」
「気が向いたら」
「ああ」
私の答えに、原田さんが穏やかに笑う。
その目はしっかりと私を映しているのに、どこか遠くを眺めているように思えた。
◇
春の終わりのある日だった。
その日は一日中、生徒たちが終末論で盛り上がっていた。
あるAIによると、今年人類は滅亡してしまうらしい。
SNSやネットニュースなどに取り上げられたその話題は、好奇心旺盛な中学生の心に火をつけるには十分なものだった。
「昔もノストラダムスだのマヤ文明のだのが流行ったわよ。いつの時代にもそういうものはあるのね」
部活の終わりごろ、私とミヤちゃんはパレットを洗いながら、これといった話題もないため、だらだらと終末論について話していた。
「ミヤちゃんはさ、もしも明日世界が終わるとしたらどうする?」
「明日ねぇ」
いきなりそんなこと言われても、私だったらきっと何も思い浮かばないだろう。
やりたいことだって特にない。
もう二度とミヤちゃんと過ごすことができないのは、すごく残念だとは思うけれど。
「私は今まで描いた絵を全部燃やして」
「えー! もったいない!」
「そんなことないわよ。どうせ世界も終わるんでしょ? それから取っておいた白ワインも飲んで」
「うん」
「――――に会いにいくかな」
◇
「あれ……?」
ミヤちゃんの答えが聞こえないまま、フッと意識が覚醒した。
どうやら昔の夢を見ていたらしい。
ベッドから起き上がり、ここが自分の部屋だということを確認する。
原田さんの部屋を出て自分の親子丼を食べてから、私は昼寝をしてしまっていたようだ。
それにしても懐かしい夢。
ミヤちゃんはあのとき誰の名前を言ったんだっけ。
聞き覚えのない人の名前だったような気がするけれど。
明日世界が終わるとしたら、ミヤちゃんはその人に会いにいく。
私でもなく、他の誰でもなく、その人と死にたいと、そう思ったのだ。
それは私よりもずっと、彼女の心を掴んだ人がいたということでもあった。
今でもまだ覚えてる。
その事実が私にとって、唇を噛み切りそうになるほどに悔しいものだったことを。
その真っ最中であるにもかかわらず予定などない私は、もちろんこの長い休みを持て余してしまっていた。
実家にでも帰ろうかと思ったけれど、帰ったとしても暇なことに変わりはない。
それに私は混雑している駅が大の苦手なのだ。
帰省をするなら、そのうちどこかの土日で行えばいい。
と言うわけで、私はアパートの部屋に引きこもってクロッキーを描いたり、近くの川沿いを散歩したりして、このゴールデンウィークを過ごしていた。
「トーワちゃん」
それは散歩後に買い物をして、再びアパートへ戻ったときのことだった。
頭上から妙に無機質な声で名前を呼ばれた。
その呼び方に聞き覚えがなかったわけではないけれど、一瞬戸惑って見上げれば、そこには柵に肘をつきながら私を見下ろす人影があった。
「原田さん……?」
「おう。俺の顔忘れてないよな?」
久しぶりに会った彼は、以前より少しだけさっぱりとした雰囲気になっていた。
近くまで寄って見てみれば、ヒゲがないし髪も短くなっている。
やはり元がいいとそれだけで爽やかに見えるから不思議だ。
「どこ行ってたんだ?」
「スーパーです。昼ごはんの材料を買いに」
「何つくんの?」
「親子丼です……って」
原田さんと話していると、すぐに彼のペースに呑まれそうになる。
私は会話の途中であるものの存在を思い出し、「ちょっと待っててください」と告げてから慌てて部屋へと戻った。
「これ預かってました」
「何それ」
取りに戻ったものを差し出すと、原田さんは不思議そうな目でそれを見つめた。
「女の人と喧嘩してたとき、彼女が落としていった絵です」
約一ヶ月ものあいだ私の手元にあったその絵。
原田さんはクリアファイルに入れたそれを確認すると、拍子抜けしたように笑った。
「すげー律儀。こんなの捨ててもよかったのに」
「えっ? じゃあ、もらってもいいですか?」
思わぬ言葉を聞き、食い気味に尋ねる。
手放すのが惜しかったほどのものだ。
いらないと言うのなら、ぜひとも自分のものにしたい。
「あー、あんた美大生なんだっけ。気に入ったのか? それ」
「はい。とても」
「俺の部屋に来たら、もっとあるけど」
「えっ! 見たいです!」
つまらないと思っていた休日は、実はなんとも運のいい日だったらしい。
間髪を入れずに頷くと、原田さんは驚いた顔をしてから「その代わり俺にも親子丼つくって」と交換条件を提示した。
「おじゃまします。親子丼できました」
「おっ、サンキュー」
出来上がった親子丼を手に原田さんの家を訪れたのは、きっかり二十分後のことだった。
鶏肉、たまご、玉ねぎの入ったスタンダードな親子丼は、つくり慣れてはいるものの、家族以外の人に食べてもらうのは初めてだ。
味は大丈夫だろうと思うけれど、やはり少しだけ緊張してしまう。
成人男性がどのくらい食べるかなんて知らないから、私は自分が食べる量の二倍ほどを盛って彼に手渡した。
多すぎるような気もするが、足りないよりはマシだろう。
「自分のは?」
「後で食べます。それよりも早く絵を見せてください」
「まあ焦んなよ。ほんとに好きなんだな」
逸る気持ちを抑えられなかった私は、原田さんが呆れるのにも構わず、駆け込むようにして彼の部屋へと上がった。
間取りは私の部屋と同じはずだから、真っ直ぐ進んだ扉の先が居室だろう。
廊下にまで染み入るように香っているのは油彩画独特の匂いだ。
その匂いを感じて、この人は本当に絵を描く人なんだなと改めて思う。
「ほらよ」
原田さんが気怠げに居室の扉を開ける。
その瞬間、私は思わず目を見張った。
八畳の部屋にはベッドと小さなテーブルがひとつずつ。
それ以外は多くのキャンバスと画材で埋め尽くされていたのだ。
中にある絵はほとんどが人物画だ。
男性や子供を描いたものもあるが、だいたいが女性をモデルにしたものだった。
「やっぱり……」
無意識のうちにもれ出た声がかすかに震える。
やはり原田さんの描く絵はミヤちゃんの絵に似ていると思った。
ミヤちゃんはまったくと言っていいほど人物画を描かなかったというのに、彼の絵を見ていると、なぜだかミヤちゃんの絵を思い出すのだ。
脳髄を焼き尽くすかのように、己の価値観も哲学も、まるごと染められてしまいそうな感覚。
もはや暴力的だと言っていいほどに、人を惹きつける力。
ミヤちゃんと同じそんな力が、原田さんの絵には宿っている。
その力に魅せられ、私は長い時間、言葉を失くして彼の絵に見入っていた。
羨ましい。
私もこんな風に描くことができたらいいのに。
そんなふうに歯噛みをしたくなるほどの羨望を感じていると、壁に立て掛けられたたくさんの絵の中に、ひとつだけ異彩を放つものを見つけた。
水彩画の作品。
唯一人物が描かれていない、水の流れの中に木が飲み込まれている絵だ。
その絵にだけ『水葬』というタイトルがついてある。
「原田さん、これ……」
気になって尋ねようと思い振り返ると、原田さんは真っ直ぐに私の方を見ていた。
どうやらすでに親子丼を食べ終えていたらしい。
いつから見られていたのだろう。
絵に没頭しすぎて、まったく気がつかなかった。
「“明日世界が終わるとしても、私は今日、林檎の木を植える”」
すると唐突に、原田さんはそう言った。
「なんですか? それ」
「知らねーの? マルティン・ルターっていうドイツの宗教改革者の言葉。明日世界が終わるのに、林檎の木を植えたって無駄だろ。だけど諦めずに今日を生きろとか、最後まで為すべきことをしろとか、そういう意味の格言になってる」
ならばこの絵の中の流れる木はきっと林檎の木なのだろう。
原田さんは明日世界が終わるとしたら、林檎の木を植えずに流してしまうのだろうか。
何も知らずに見れば美しいのに、その話を聞いた後ではこの絵がひどく厭世的に見える。
もう一度原田さんに視線を戻すと、彼は思い詰めたように厳しい顔をしていた。
気に障ることを言ってしまっただろうか。
そう思った瞬間、彼はふいに立ち上がり、追い詰めるように私との距離を詰めた。
「あんたバカだろ。それとも世間知らず?」
冷たい声が室内に響く。
文字通り目と鼻の先に原田さんの顔があるのに、なぜだか目を逸らすことができない。
「男の部屋にほいほい上がるなんてな、襲っていいですって言ってるようなもんなんだよ」
原田さんはそう言うと、私の肩を掴み、ゆっくりとフローリングの上に押し倒した。
険のある眼差しに射抜かれ、静かに息を呑む。
そう言えば203号室の女の人が、原田さんには気をつけろと言っていたっけ。
あの言葉を今さらながらに思い出しながら、けれども私はそれを他人事のように感じていた。
今まさに押し倒されている危険な状況だというのに、ふっと口から笑い声がもれてしまい、原田さんが怪訝な顔をする。
「……なんでここで笑うんだよ」
「いえ、人を襲うような顔をしているとは思えなかったので」
ニヤついた口元を隠すようにして手で押さえる。
けれど顔を歪める原田さんを見て、私はさらに笑い声を上げてしまった。
「おい」
「だって……!」
だって原田さんがあまりにもこの場にそぐわない顔をするから。
その思いつめた余裕のない切なげな顔は、捕食者というよりも被食者の顔だ。
襲われようとしているのは私のはずなのに、どうして彼がそんな顔をするのだろう。
そのアンバランスさに笑いが込み上げて、私は我慢をすることができなかった。
「あんたといると調子が狂うな」
呆れたように笑ってから、原田さんは私の上からゆっくりと退いた。
軽くなった肩に、彼の体温が残っている。
熱い手だった。
瞳にも言い知れない熱がこもっていたように思う。
その熱はなんなのかと聞いても、彼は笑ってごまかすような気がした。
「まあたしかに、色気もねーガキになんざ、勃つもんも勃たねーか」
案の定、原田さんは何事もなかったかのような下品な笑い方をした。
「この前も私のことガキって言いましたよね。私ってそんなに子供っぽいですか?」
今さっきそのガキを押し倒していたのはどこのどいつだと苛立ちつつも、話題を変えるためにそんなことを聞いてみる。
最近子供扱いされることが多くて気になっていたのだ。
自分では普通に年相応だと思うのに。
「女ってもっと髪とか顔とか服とか、あと爪とか? そういうもんに気を遣うんじゃねーの? その点あんたはどこも気にしてなさそうだし」
髪、顔、服、爪。
そう言われて、今の自分の姿を省みる。
染めたことのない肩までの黒髪に、化粧っ気のかけらもない顔。
服は動きやすさ重視の、シンプルなカットソーとデニム。
爪に至っては、色を乗せたことすらない。
世間一般の女の子たちに比べたら私は飾り気がないと思うけど、原田さんの言うとおり、別に気にしたことなんてなかった。
私はただ、絵を描くことにだけ没頭して生きていたから。
けれどたとえば203号室の女の人も、原田さんを平手打ちした女の人も、派手だがきちんと気を遣ってるように見えた。
あのミヤちゃんだって、持って生まれた美しさもあるけれど、多少は身なりを整えていたのだろう。
私も大学生になったことだし、やはり少しくらいはおしゃれをした方がいいのかもしれない。
「そうですね。頑張ってみます」
「あ? おお、頑張れ?」
「はい。じゃあ、絵も見終わったので帰りますね」
原田さんが使い終わった食器を持って立ち上がる。
そのまま退散しようと彼に背を向けると、後ろから「永遠」と呼び止められた。
「美味かった。またなんかつくれよ。絵、見せてやるから」
「気が向いたら」
「ああ」
私の答えに、原田さんが穏やかに笑う。
その目はしっかりと私を映しているのに、どこか遠くを眺めているように思えた。
◇
春の終わりのある日だった。
その日は一日中、生徒たちが終末論で盛り上がっていた。
あるAIによると、今年人類は滅亡してしまうらしい。
SNSやネットニュースなどに取り上げられたその話題は、好奇心旺盛な中学生の心に火をつけるには十分なものだった。
「昔もノストラダムスだのマヤ文明のだのが流行ったわよ。いつの時代にもそういうものはあるのね」
部活の終わりごろ、私とミヤちゃんはパレットを洗いながら、これといった話題もないため、だらだらと終末論について話していた。
「ミヤちゃんはさ、もしも明日世界が終わるとしたらどうする?」
「明日ねぇ」
いきなりそんなこと言われても、私だったらきっと何も思い浮かばないだろう。
やりたいことだって特にない。
もう二度とミヤちゃんと過ごすことができないのは、すごく残念だとは思うけれど。
「私は今まで描いた絵を全部燃やして」
「えー! もったいない!」
「そんなことないわよ。どうせ世界も終わるんでしょ? それから取っておいた白ワインも飲んで」
「うん」
「――――に会いにいくかな」
◇
「あれ……?」
ミヤちゃんの答えが聞こえないまま、フッと意識が覚醒した。
どうやら昔の夢を見ていたらしい。
ベッドから起き上がり、ここが自分の部屋だということを確認する。
原田さんの部屋を出て自分の親子丼を食べてから、私は昼寝をしてしまっていたようだ。
それにしても懐かしい夢。
ミヤちゃんはあのとき誰の名前を言ったんだっけ。
聞き覚えのない人の名前だったような気がするけれど。
明日世界が終わるとしたら、ミヤちゃんはその人に会いにいく。
私でもなく、他の誰でもなく、その人と死にたいと、そう思ったのだ。
それは私よりもずっと、彼女の心を掴んだ人がいたということでもあった。
今でもまだ覚えてる。
その事実が私にとって、唇を噛み切りそうになるほどに悔しいものだったことを。