気がつけば美大に入学してから三週間も経っていた。
新しい生活にも慣れ始め、今のところこれといった不満はない。
勉強が主だった今までとは違い、長い時間を絵に費やすことができるなんて、少し不思議な気もするけれど。
そんななか、気がかりなことがひとつだけあった。
原田さんの絵だ。
私はまだ彼に絵を返していない。
なぜなら彼は入学式の前日に会ってからアパートに帰って来ていない様子なのだ。
いつでも返すことができるように持ち歩いてはいるけれど、肝心の本人に会えなくては仕方がない。

それにしても変な人だと思う。
引っ越してきてから一週間は姿を見せなくて、初めて会った後の数日は毎日のように女の人を部屋に連れ込んで、それから再び三週間も帰ってきていないなんて。
不定期の仕事でもしているんだろうか。
謎の多い人だ。

原田さんのことを考えながら、私は夕方になってからもアトリエに残って絵を描いていた。
地元ではない大学に来てしまったために知り合いはいない。
社交的な性格でもないから友人もいない。
バイトをする予定すらない。
暇を持て余した私は、課題もないのに毎日のように一人で絵を描き続けているのだ。
かと言って、これといった成果はないのだけれど。

当面の目標は自分の世界を創り出すことだった。
けれどどうしても悪い癖が抜けない。
自分の絵の中のどこかで、ミヤちゃんの面影を感じてしまう。
きっと知らずしらずのうちに彼女を意識してしまっているのだろう。
どうすれば独創的なものに仕上がるのだろうか。
描けども描けども、その糸口は見出せない。

「やっぱりすごいよね」

一人でキャンバスに向かっていると、明るい声が響いた。
驚いて振り返れば、アトリエの入り口に男の人が立っているのが見える。

「俺、柳さんの絵が好きなんだ」

「えっと……」

「ごめんごめん、驚かせた? 忘れ物を取りにきただけだったんだけど、見入っちゃった」

男性はそう言いながら、隅のテーブルの上に置かれていたビニール袋を手に取った。
にこにこと愛想よく笑う彼の顔を、ジッと見つめる。
この人、知ってる。
たしか周りの人たちに“カッキー”と呼ばれている、同じ絵画科の一年生だ。
明るくて声が大きくていつも人の中心にいる、私とはまるで正反対の人。

「俺、柿本継臣(かきもとつぐおみ)。同じ一年だけど、多浪だから二十三歳。よろしくね」

「柳です。十八歳です。よろしくお願いします」

「すごっ。やっぱ柳さんって現役だったんだ」

からからと笑う柿本さんに向かって、たどたどしく頷く。
勢いに釣られて自己紹介をしてみたけれど、彼は先ほどから私を柳さんと呼ぶから、おそらくは私のことを知っていたのだろう。
話したことなんて一度もないはずなのに。
柿本さんのような目立つ人ならともかく、私のような地味な人間のことを、どうして。

「それにしてもラッキーだな。俺さ、柳さんと話してみたかったんだよね」

「私とですか?」

「うん。ファンなの、柳さんの」

ファン。
そんなこと、生まれて初めて言われた。
柿本さんは座っている私の横に並ぶと、キャンバスを眺めながら瞳を輝かせた。
彼は私よりも年上だけれど、その目はまるで少年のように澄んでいる。

「綺麗だよね。柔らかいっていうか、優しいっていうか。それなのに力強さもあるし。ごめん、上手く言葉にできないんだけど、柳さんって人の心を癒すような絵を描くなって思うんだ」

様々な言葉を使ってくれた柿本さんの褒め言葉に対して、私は「ありがとうございます」としか返せなかった。
こういうとき、私はとても複雑な気持ちになる。
今までも描いた絵を褒められることはあった。
たまには賞をもらえることだってある。
それなりに多くの絵を描いてきたし、最低限の技術は身についているだろう。
けれど私の絵はミヤちゃんの世界の模倣でしかないのだ。
だから評価をされているのは彼女の面影が見えるところ。
それは私の力ではない。
そう思えて仕方ないのだ。

「あれ? もしかして自信がないやつだった?」

「えっ?」

「いや、なんか悲しそうだからさ」

そう言われて、思わず顔を両手で押さえた。
自分ではきちんと笑っているとつもりだったのに、どうやら違ったらしい。
柿本さんが気まずそうに眉を下げるのを見て、申し訳なく思いながら頷く。

「えっと、そうなんです。自分の絵に自信が持てなくて」

「そうなんだ。柳さんくらい描けても、そういうことを思うものなんだね」

柿本さんの言葉に小さく返事をする。
キャンバスに広がる私の絵。
どこかに感じる既視感。
避けようとすればするほど、ミヤちゃんのモノマネになってしまいそうになる。

「俺の知り合いにも同じことを言ってた人がいたよ。すごく上手いのに自信が持てないって」

柿本さんが懐かしそうに目を細める。
もしかしたらこういう気持ちは誰しもが持つものなのかもしれない。
聞いたことはなかったけれど、もしかしたらミヤちゃんだって。

「その方は自信を取り戻せましたか?」

「分からない。長いこと会ってないから」

「そう、ですか」

「でもまだ絵を描いている気がするな。息をするみたいに絵を描いていたから」

その言葉に私はハッとさせられた。
息をするみたいに絵を描くのは、ミヤちゃんも同じだった。
彼女も毎日毎日、飽きることなく絵を描いていたのだ。
描いていなければ生きていけないとでも言うかのように。
実際に彼女はそうだったのかもしれないけれど。





ミヤちゃんに出会うまで、私は絵を描くことがあまり得意ではなかった。
昔から真っ白な画用紙に好きなものを描いていいと言われても、何も思い浮かばず、どうしようもできなかったのだ。
当然図工や美術の授業だって苦手にしていた。
そんな私が自分から絵を描きたいと思う日が来るなんて、きっと誰にも予想できなかっただろう。

美術部に入部してすぐのころ。
水彩絵の具でドリッピングという技法にチャレンジしている私の横で、ミヤちゃんは今日もひたすらに絵を描いていた。
一昨日から描き始めたそれは、だんだんと色味を増している。
全面に押し出された青。
海に見えなくもないその絵は、なんだか見ているだけで苦しくなるようなものだった。
まだ描き途中だというのに、もうすでに私の心を掴んでいる。

「ねぇ。ミヤちゃんはどうして絵を描くの?」

彼女の真剣な横顔を見つめながら、私は静かに尋ねた。
私はミヤちゃんに憧れて絵を描き始めたのだ。
ミヤちゃんのように、人を魅了するような世界を自分でも生み出してみたいと思って。
それなら彼女が絵を描くのにも、私と同じく何か理由やきっかけがあったりするだろうか。
気になって聞いてみると、ミヤちゃんは筆を置いてから少しだけ仰ぎ、ふいに「毒抜きかな」と呟いた。

「毒抜き?」

「絵を描くっていうのは、私の中の毒が体から出て行って形になるようなものなの。そうして定期的に毒抜きをしないと、私は生きていけない」

私の中の毒?
そうしないと生きていけない?
ミヤちゃんの言っている意味が分からずにいると、彼女は苦々しい笑顔を浮かべた。

「永遠は理解しなくていいよ」

「どうして?」

「こんなこと、知らない方がいいの」

ミヤちゃんの言葉に、私は子供扱いされたような気がして口を尖らせた。
たしかにミヤちゃんから見たら私はまだまだ子供なのだろう。
けれど中学生はそこまで話が分からないほど子供ではないのに。

「あなたみたいな人間がたまにいるのよ。私の毒に興味を示すやつ」

「だけどあんまり深入りしちゃだめよ」と言ったきり、ミヤちゃんは再びキャンバスに向かうと、もう口を開くことはなかった。
彼女のそばの机には、空になったコバルトブルーと白のチューブがひとつずつ転がっている。
その白いチューブの方に触れながら、私はミヤちゃんの言葉について考えていた。

絵を描くことほど、私が今までに熱中できたものはない。
それほどまでに打ち込めるものがあるというのは自分でもいいことだと思っていたのに、ミヤちゃんは無条件に賛成してはいないかったのだ。
いったいどうしてなのだろう。
それに自分の絵を毒なんてマイナスな言い方をしなくてもいいのに。

ミヤちゃんの持つ筆がキャンバスをなぞる。
パレットの上では混じり気のない白がコバルトブルーを加えられ、淡い青へと変わっていた。





柿本さんが帰ったあと、私も少しして帰る支度をした。
もう時刻は十八時になる。
うどんが残っていたはずだから、今日の夕飯はそれにしよう。
一人暮らしを始めてからずいぶんとご飯が適当になってしまったと感じつつ帰り道を歩いていると、ふいに前方から女の人が見えた。

「こんばんは」

挨拶をすると、女性は少し間を置いてから私に気づいてくれた。
彼女は隣の203号室に住んでいる方だ。
表札が無記名だから名前は知らないけれど、たまに会ったときに挨拶をしている。
春だとはいえまだまだ外は寒いというのに、彼女はとても短いスカートを履いていた。
これからお仕事なのだろうか。

「ほんと、今どき近所の人間に挨拶する子供なんて珍しいわよね」

「そうですか?」

「私は嫌いじゃないけど」

くすくすと笑う女性は、少し化粧が濃いけれど妖艶でとても綺麗だ。
私とそれほど歳は変わらないような気もするけれど、彼女から見ても私は子供に見えるのだろうか。
ミヤちゃんに言われたときは中学生で、子供と言われても仕方ない年齢だったけれど、このあいだは原田さんにも子供扱いされたのだ。
もうすぐ十九歳になるというのに。

「あなた、まだあの部屋に住んでるわよね?」

どうすれば年相応に大人っぽく見えるのだろうかと考えていると、女性は何やら神妙な顔つきをした。

「はい、住んでますよ。引っ越してきたばかりですし」

「そう。なら、隣の男には会った?」

女性の問いに、あのだらしない姿が頭に浮かぶ。
隣の男とは原田さんのことだろう。
そう思い「会いました」と答えると、彼女は気の毒そうにため息を吐いた。

「気をつけた方がいいわよ。碌でもない男だから」

――碌でもない男。

あの女性関係を見るに分かっていたことだけれど、いったい私は何に気をつければいいのだろう。
彼は私のような子供っぽい女になんて、まったく興味がなさそうだけれど。

「あの人の女性関係が爛れていることは知ってます」

「それもあるけど、それだけじゃないわ」

「それだけじゃないとは?」

「なんと言うか、目がね。すごく投げやりでしょう? いつ死んでも構わないとでも言いたげな目。ああいう目をした人間には関わらない方がいいのよ」

そう言い残して、ひらりと手を振った彼女が甘い香水の香りを漂わせながら去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、私はなぜだか立ち尽くしてしまっていた。

いつ死んでも構わないとでも言いたげな目。
そんな目を、私は以前にも見たことがあったのだ。
胸騒ぎを感じながら再び家路を辿る。
アパートの前の街灯は電球が切れかけているのか、パチパチと音を立てながら明滅していた。