「……うるさい」
と言うより居た堪れないと言う方が正しいかもしれない。
205号室の男性に出会ってからというもの、これまで姿を現すことのなかった彼は、今度はなぜだか毎日のように部屋へと出入りをしているらしい。
その証拠に、今まで無音を貫いていた隣の部屋からかすかな生活音が聞こえてくるのだ。
別に多少の音ならば気にならない。
しかし平日の昼間だというのに、隣の部屋からひっきりなしに聞こえる物音に私は辟易していた。
女の人の苦しそうな喘ぎ声。
それから木がみしみしと軋むような音。
経験のない私だって、隣の部屋で何が行われているのかくらいは分かる。
それにたまにならばまだ我慢できるものの、ほとんど毎日のようにこんな物音が聞こえてくるのだから困りものだ。
とは言えアパート住まいならこういうことも我慢しなければならないのだろう。
いつもはイヤホンで耳を塞ぐのだけれど、しかし今日の音はとびきりうるさい。
終わるまでどこかへ行って暇つぶしでもしてくるしかなさそうだ。
そう思った私がしょうがなく重い腰を上げたのは、約一時間前のことだった。
「おかえり」
乗り気ではない散歩から帰ると、頭上から気だるげに声をかけられた。
見上げれば205号室の男性が外の柵に肘をつきながら煙草を吸っている。
ボサボサの髪によれたグレーのスウェットという相変わらずのむさ苦しい出で立ちで、彼は真っ直ぐに私を見下ろしていた。
「おかえり」という言葉は、私にかけた言葉だろうか。
今ここにいるのは私と彼だけだから、たぶんそうなのだろう。
「ただいま?」
「なんで疑問形なんだよ」
「そんなに親しい間柄でもないので」
冷たく言い放ったものの、男性には笑顔で流されてしまった。
本当に掴みどころのない人だ。
階段を上がると、そこには甘い香りが漂っていた。
前に会ったときも同じ匂いがしていたが、どうやらこれは男性の吸っている煙草によるものだったらしい。
煙草の煙はあまり好きではないけれど、こんなにいい匂いの煙草もあるのかと、私は初めて知った。
「で、どこ行ってたの?」
「別に。近所を散歩していただけです」
「ふーん。もしかしてうるさかった?」
男性がニヤリと表情を崩す。
きっとこの人は分かって聞いてきているのだろう。
本当に嫌な人だ。
「今日の女は声がでかかったよね。俺も最中に耳がおかしくなるかと思ったもん」
耳を押さえる仕草をしながら、男性が嘲り笑う。
“今日の女は”という言葉どおり、たぶんこの人はいろんな女の人を取っ替え引っ替えしているのだろう。
最中の音はイヤホンでシャットアウトしているけれど、隣から聞こえてくる女性の声が毎回違うことに、私はなんとなく気がついていた。
「だから俺の隣の部屋の人、よく引っ越していくんだ」
「そうですか」
さすがにあんな声を毎日のように聞かされていれば、気も滅入ってくるのかもしれない。
以前の住人さんたちもかわいそうに。
「明日から、授業が始まります」
「へぇ」
「なのでできれば平日の昼間にお願いします。夜だとうるさくて眠れないので」
そうすれば私にはなんの害もない。
我ながらいい提案だと思ったのだが、男性は少し間を置いてから、この前のような大笑いをした。
「やっぱ変なガキだな。論点が違うっつーか。まぁ、あんたがいいならいいけど?」
「ガキって。私、もうすぐ十九歳です」
「まだ十代じゃねぇか。じゅうぶんガキだろ」
世間一般から見れば十八歳はまだ子供なのだろうか。
成人しているとはいえ、たしかにこのあいだ高校を卒業したばかりだけど、あと一年と少ししたらお酒だって飲めるのに。
ふと、私をガキだと言うこの人の年齢が気になった。
ぎりぎり二十代かな。
だらしない格好のせいで老けて見えるけれど。
「なぁ。あんた名前なんだっけ?」
煙草を携帯灰皿に押し込みながら、男性は唐突に私の名前を尋ねた。
この前も名乗ったはずなのに聞いていなかったのだろうか。
そう言えば興味なさげな顔をしていたような気もする。
「柳です」
「下の名前は?」
「……トワ、です」
「トワ?」
「永遠って書いて、トワ」
「ふーん。柳永遠ね」
永遠、永遠と、珍しげに男性が私の名前を繰り返す。
大人の男の人に紡がれる名前は、まるで自分のものではないように感じた。
それ以前に私を永遠と呼ぶのなんて家族くらいなものだから、単純に聞き慣れないだけかもしれないけれど。
「下の名前で呼ばないでくださいね」
「なんで?」
「あんまり好きじゃないので」
永遠なんて名前は地味な私にはとても背負いきれない尊大さがある。
だから私はこの名前があまり好きではなかった。
「呼びやすいだろ。柳より永遠の方が」
「でも嫌です」
「いい名前じゃねーか」
「嫌です」
「あ、俺の名前は原田ね」
私の抗議の声を無視して、彼は表札と同じ名前を名乗った。
ああ、やっぱり原田さんというらしい。
「下の名前は?」
男性、もとい原田さんの表情を窺いながら聞くと、彼は不敵な笑顔をつくってみせた。
「秘密」
「ずるいです、あなたばっかり」
「そう簡単になんでも教えてもらえると思うなよ、ガキ」
そう言いながら、原田さんが私の頭のてっぺんをこつんと小突く。
驚いてさする私を見て、彼はやはり楽しそうに笑った。
意外とよく笑う人だ、この人は。
「じゃあな、永遠チャン」
「はぁ。さよなら」
原田さんは軽薄な響きで私の名前を呼んだかと思うと、そのまま根無し草のようにどこかへと出かけて行ってしまった。
紫煙の甘い匂いが消えるのと同じスピードで、背の高い後ろ姿があっという間に遠くなっていく。
それにしても、どうしてだろう。
あの人はあんなにも陽気に笑うくせに、その背にいつも薄暗い影のようなものを背負っているように見えるのだ。
不思議な哀れみを感じながら、私は彼の姿が見えなくなるまで、なぜか目を離せずにいた。
◇
私もミヤちゃんのように、誰かの心を動かせるような人になりたい。
そんな夢を抱いた私は、神様のようなミヤちゃんに導かれるようにして、それまで所属していたバレー部を退部し、すぐさま美術部に入部した。
美術部はほぼ全員が幽霊部員だったため、私は放課後、必然的にミヤちゃんと二人きりで過ごしていた。
彼女を独り占めにできるその時間は、私にとってどんなものにも代え難い大切なものだった。
「柳永遠さんね。これからよろしく」
初めての活動日も、ミヤちゃんはいつもと変わらず素っ気ない態度だった。
彼女が淡々とした調子で美術部の概要やら年間スケジュールを説明するのを、私はどぎまぎとしながら聞いていた。
「永遠さんは何か興味のあるジャンルとか――」
「あ、あの、中村先生」
話を途中で遮ると、ミヤちゃんの強い眼差しが私へと向いた。
その瞳に圧倒され、思わず息を呑む。
「私のことは苗字で呼んでもらえませんか?」
「なぜ?」
「好きじゃないんです。自分の名前」
永遠という名前はあまりにも壮大で、完全に名前負けしてしまっていると思うのだ。
だからこそ私は、仲のいい友人たちにも名字で呼んでもらっていた。
最近の子供の名前って、字面や響きばかりを意識していて、なんというか日本語的な奥ゆかしさに欠けると思う。
私ももっと普通の名前がよかった。
「中村先生の名前は素敵ですよね。由来とかってあるんですか?」
ミヤちゃんのような古風な名前は私の理想だった。
気になって尋ねれば、彼女は表情を変えないまま答えた。
「由来は知らないけれど、弥にはいつまでもって意味があるの。だからずっと美しい子でいられますようにってことじゃないかしら」
「へえ、すごい。名は体を表すって先生のことですね」
「ええ、そうね」
そのけろりとした肯定に、私は一瞬呆気にとられてから、思いきり笑ってしまった。
ミヤちゃんの辞書に謙遜という文字はない。
けれどその言葉の中に嫌味を感じられないのが、ミヤちゃんのすごいところだった。
たしかに自他ともに認めるくらい、ミヤちゃんはとても綺麗な人だ。
無愛想で表情を変えることは少ないけれど、そこら辺のモデルよりもずっと整った顔立ち。
真っ直ぐで長い黒髪とか二重の切れ長な目元とか、パーツひとつひとつもいいけれど、とにかくその配置のバランスが絶妙なのだ。
これで浮世離れした性格ではなかったら、きっと彼女の周りには人が群がるのだろう。
けれどその性格のおかげで、私はこうして彼女を独り占めできたのだけれど。
「永遠」
「え?」
「いいじゃない、呼びやすくて。私はあなたの名前、好きよ」
ミヤちゃんの言葉にはいつだって嘘がなかった。
彼女はたしかに風変わりな人だったが、誰よりも真っ直ぐで、正直で、信頼できる。
そしてぶっきらぼうな中にも優しさがある。
彼女のそばにいれば、それは自然と分かることだった。
◇
「……とわ」
自分の名前を小さく呟く。
ミヤちゃんや原田さんの言うとおり、呼びやすくはあるかもしれない。
それでもやっぱり、あまり好きではないけれど。
そこまで考えて、私はまた原田さんの絵を返し忘れたことに気がついた。
自分の部屋へと戻り、クリアファイルに入れておいた裸婦画を手に取る。
彼と出会ってから、私は手元にあるこの絵を幾度となく眺めるようになった。
不思議と何度見ても飽きないくらいの熱量を感じさせるその絵に、またしても目を奪われる。
返さなくてはいけないのに、なんだか手放すのが妙に惜しい。
まるで彼の世界に魅了されてしまったみたいだ。
そう言えばミヤちゃんもよく、こうしていらない紙に簡単なスケッチをしていた。
私も同じ方法で描いていたことがあったけど、やはり何かが違う。
私の絵はミヤちゃんのモノマネばかりで、なんと言うか、世界がないのだ。
ミヤちゃんの絵も原田さんの絵も、彼ら独自の世界があるのに。
自分の世界が作れるのは才能なのだろうか。
それとも私の努力が足りないせいか。
そんなことを考えながら、私は紙が折れてしまわないよう、彼の絵を丁寧にクリアファイルへと戻した。
と言うより居た堪れないと言う方が正しいかもしれない。
205号室の男性に出会ってからというもの、これまで姿を現すことのなかった彼は、今度はなぜだか毎日のように部屋へと出入りをしているらしい。
その証拠に、今まで無音を貫いていた隣の部屋からかすかな生活音が聞こえてくるのだ。
別に多少の音ならば気にならない。
しかし平日の昼間だというのに、隣の部屋からひっきりなしに聞こえる物音に私は辟易していた。
女の人の苦しそうな喘ぎ声。
それから木がみしみしと軋むような音。
経験のない私だって、隣の部屋で何が行われているのかくらいは分かる。
それにたまにならばまだ我慢できるものの、ほとんど毎日のようにこんな物音が聞こえてくるのだから困りものだ。
とは言えアパート住まいならこういうことも我慢しなければならないのだろう。
いつもはイヤホンで耳を塞ぐのだけれど、しかし今日の音はとびきりうるさい。
終わるまでどこかへ行って暇つぶしでもしてくるしかなさそうだ。
そう思った私がしょうがなく重い腰を上げたのは、約一時間前のことだった。
「おかえり」
乗り気ではない散歩から帰ると、頭上から気だるげに声をかけられた。
見上げれば205号室の男性が外の柵に肘をつきながら煙草を吸っている。
ボサボサの髪によれたグレーのスウェットという相変わらずのむさ苦しい出で立ちで、彼は真っ直ぐに私を見下ろしていた。
「おかえり」という言葉は、私にかけた言葉だろうか。
今ここにいるのは私と彼だけだから、たぶんそうなのだろう。
「ただいま?」
「なんで疑問形なんだよ」
「そんなに親しい間柄でもないので」
冷たく言い放ったものの、男性には笑顔で流されてしまった。
本当に掴みどころのない人だ。
階段を上がると、そこには甘い香りが漂っていた。
前に会ったときも同じ匂いがしていたが、どうやらこれは男性の吸っている煙草によるものだったらしい。
煙草の煙はあまり好きではないけれど、こんなにいい匂いの煙草もあるのかと、私は初めて知った。
「で、どこ行ってたの?」
「別に。近所を散歩していただけです」
「ふーん。もしかしてうるさかった?」
男性がニヤリと表情を崩す。
きっとこの人は分かって聞いてきているのだろう。
本当に嫌な人だ。
「今日の女は声がでかかったよね。俺も最中に耳がおかしくなるかと思ったもん」
耳を押さえる仕草をしながら、男性が嘲り笑う。
“今日の女は”という言葉どおり、たぶんこの人はいろんな女の人を取っ替え引っ替えしているのだろう。
最中の音はイヤホンでシャットアウトしているけれど、隣から聞こえてくる女性の声が毎回違うことに、私はなんとなく気がついていた。
「だから俺の隣の部屋の人、よく引っ越していくんだ」
「そうですか」
さすがにあんな声を毎日のように聞かされていれば、気も滅入ってくるのかもしれない。
以前の住人さんたちもかわいそうに。
「明日から、授業が始まります」
「へぇ」
「なのでできれば平日の昼間にお願いします。夜だとうるさくて眠れないので」
そうすれば私にはなんの害もない。
我ながらいい提案だと思ったのだが、男性は少し間を置いてから、この前のような大笑いをした。
「やっぱ変なガキだな。論点が違うっつーか。まぁ、あんたがいいならいいけど?」
「ガキって。私、もうすぐ十九歳です」
「まだ十代じゃねぇか。じゅうぶんガキだろ」
世間一般から見れば十八歳はまだ子供なのだろうか。
成人しているとはいえ、たしかにこのあいだ高校を卒業したばかりだけど、あと一年と少ししたらお酒だって飲めるのに。
ふと、私をガキだと言うこの人の年齢が気になった。
ぎりぎり二十代かな。
だらしない格好のせいで老けて見えるけれど。
「なぁ。あんた名前なんだっけ?」
煙草を携帯灰皿に押し込みながら、男性は唐突に私の名前を尋ねた。
この前も名乗ったはずなのに聞いていなかったのだろうか。
そう言えば興味なさげな顔をしていたような気もする。
「柳です」
「下の名前は?」
「……トワ、です」
「トワ?」
「永遠って書いて、トワ」
「ふーん。柳永遠ね」
永遠、永遠と、珍しげに男性が私の名前を繰り返す。
大人の男の人に紡がれる名前は、まるで自分のものではないように感じた。
それ以前に私を永遠と呼ぶのなんて家族くらいなものだから、単純に聞き慣れないだけかもしれないけれど。
「下の名前で呼ばないでくださいね」
「なんで?」
「あんまり好きじゃないので」
永遠なんて名前は地味な私にはとても背負いきれない尊大さがある。
だから私はこの名前があまり好きではなかった。
「呼びやすいだろ。柳より永遠の方が」
「でも嫌です」
「いい名前じゃねーか」
「嫌です」
「あ、俺の名前は原田ね」
私の抗議の声を無視して、彼は表札と同じ名前を名乗った。
ああ、やっぱり原田さんというらしい。
「下の名前は?」
男性、もとい原田さんの表情を窺いながら聞くと、彼は不敵な笑顔をつくってみせた。
「秘密」
「ずるいです、あなたばっかり」
「そう簡単になんでも教えてもらえると思うなよ、ガキ」
そう言いながら、原田さんが私の頭のてっぺんをこつんと小突く。
驚いてさする私を見て、彼はやはり楽しそうに笑った。
意外とよく笑う人だ、この人は。
「じゃあな、永遠チャン」
「はぁ。さよなら」
原田さんは軽薄な響きで私の名前を呼んだかと思うと、そのまま根無し草のようにどこかへと出かけて行ってしまった。
紫煙の甘い匂いが消えるのと同じスピードで、背の高い後ろ姿があっという間に遠くなっていく。
それにしても、どうしてだろう。
あの人はあんなにも陽気に笑うくせに、その背にいつも薄暗い影のようなものを背負っているように見えるのだ。
不思議な哀れみを感じながら、私は彼の姿が見えなくなるまで、なぜか目を離せずにいた。
◇
私もミヤちゃんのように、誰かの心を動かせるような人になりたい。
そんな夢を抱いた私は、神様のようなミヤちゃんに導かれるようにして、それまで所属していたバレー部を退部し、すぐさま美術部に入部した。
美術部はほぼ全員が幽霊部員だったため、私は放課後、必然的にミヤちゃんと二人きりで過ごしていた。
彼女を独り占めにできるその時間は、私にとってどんなものにも代え難い大切なものだった。
「柳永遠さんね。これからよろしく」
初めての活動日も、ミヤちゃんはいつもと変わらず素っ気ない態度だった。
彼女が淡々とした調子で美術部の概要やら年間スケジュールを説明するのを、私はどぎまぎとしながら聞いていた。
「永遠さんは何か興味のあるジャンルとか――」
「あ、あの、中村先生」
話を途中で遮ると、ミヤちゃんの強い眼差しが私へと向いた。
その瞳に圧倒され、思わず息を呑む。
「私のことは苗字で呼んでもらえませんか?」
「なぜ?」
「好きじゃないんです。自分の名前」
永遠という名前はあまりにも壮大で、完全に名前負けしてしまっていると思うのだ。
だからこそ私は、仲のいい友人たちにも名字で呼んでもらっていた。
最近の子供の名前って、字面や響きばかりを意識していて、なんというか日本語的な奥ゆかしさに欠けると思う。
私ももっと普通の名前がよかった。
「中村先生の名前は素敵ですよね。由来とかってあるんですか?」
ミヤちゃんのような古風な名前は私の理想だった。
気になって尋ねれば、彼女は表情を変えないまま答えた。
「由来は知らないけれど、弥にはいつまでもって意味があるの。だからずっと美しい子でいられますようにってことじゃないかしら」
「へえ、すごい。名は体を表すって先生のことですね」
「ええ、そうね」
そのけろりとした肯定に、私は一瞬呆気にとられてから、思いきり笑ってしまった。
ミヤちゃんの辞書に謙遜という文字はない。
けれどその言葉の中に嫌味を感じられないのが、ミヤちゃんのすごいところだった。
たしかに自他ともに認めるくらい、ミヤちゃんはとても綺麗な人だ。
無愛想で表情を変えることは少ないけれど、そこら辺のモデルよりもずっと整った顔立ち。
真っ直ぐで長い黒髪とか二重の切れ長な目元とか、パーツひとつひとつもいいけれど、とにかくその配置のバランスが絶妙なのだ。
これで浮世離れした性格ではなかったら、きっと彼女の周りには人が群がるのだろう。
けれどその性格のおかげで、私はこうして彼女を独り占めできたのだけれど。
「永遠」
「え?」
「いいじゃない、呼びやすくて。私はあなたの名前、好きよ」
ミヤちゃんの言葉にはいつだって嘘がなかった。
彼女はたしかに風変わりな人だったが、誰よりも真っ直ぐで、正直で、信頼できる。
そしてぶっきらぼうな中にも優しさがある。
彼女のそばにいれば、それは自然と分かることだった。
◇
「……とわ」
自分の名前を小さく呟く。
ミヤちゃんや原田さんの言うとおり、呼びやすくはあるかもしれない。
それでもやっぱり、あまり好きではないけれど。
そこまで考えて、私はまた原田さんの絵を返し忘れたことに気がついた。
自分の部屋へと戻り、クリアファイルに入れておいた裸婦画を手に取る。
彼と出会ってから、私は手元にあるこの絵を幾度となく眺めるようになった。
不思議と何度見ても飽きないくらいの熱量を感じさせるその絵に、またしても目を奪われる。
返さなくてはいけないのに、なんだか手放すのが妙に惜しい。
まるで彼の世界に魅了されてしまったみたいだ。
そう言えばミヤちゃんもよく、こうしていらない紙に簡単なスケッチをしていた。
私も同じ方法で描いていたことがあったけど、やはり何かが違う。
私の絵はミヤちゃんのモノマネばかりで、なんと言うか、世界がないのだ。
ミヤちゃんの絵も原田さんの絵も、彼ら独自の世界があるのに。
自分の世界が作れるのは才能なのだろうか。
それとも私の努力が足りないせいか。
そんなことを考えながら、私は紙が折れてしまわないよう、彼の絵を丁寧にクリアファイルへと戻した。