今日から休みだというのに、朝早くから食事の席についたまどかに、母和美がトーストとおかずの皿を渡しながらたずねた。
「今日は朝からバイトでもあるの?」
「ううん、今日はバイト休み」
 ぼ~っとした様子で新聞に目を落としたまどかを見て、和美と、父の登吾が心配そうに視線を合わせた。

 まどかは去年の夏の一時期、脳に問題があったとかで、脳科学研究の第一人者である父、霧島登吾教授の元で、先端治療のため入院をしていた。
 ところが、不思議なことに、まどかはその期間の記憶を全く覚えていない。
 そのせいか、体調が少し悪いというだけで登吾が過敏に反応するので、心配していると分かっていても、まどかにとってはそれが少々煩わしく感じられた。

 案の定、登吾がまどかの顔を覗き込んで、質問をする。
「気分がすぐれないようだが、大丈夫か?」
「お父さん、私はもう子供じゃないんだから、そんな重病人を見るみたいな顔やめてよね。ただ寝不足だってば」

 登吾はほっとしたように、そうかと頷きお茶を口にする。
 メガネのガラスが曇るのを気にもせず、湯飲みを傾ける登吾に、まどかはどっちがぼ~っとしてるんだかと苦笑した。
    
「あのね、多分日本じゃないと思うんだけど、どこかの街を夢に見たの。なんだかすごく懐かしい気がして…。私って、石畳とか石造りの家並みが続く街って尋ねたことがあるかな?」
 登吾を安心させようとしたまどかは夢のせいで寝不足なのだと話した。

 ところが、安心するはずの登吾は、湯飲みを口に運んだまま固まってしまい、和美までもが、持っていた箸を片方落としてしまった。

「どうしたの?私何か変なこと言った?」
 両親の不可解な行動に、まどかが怪訝な表情を浮かべてたずねると、曇った眼鏡を外して、慌てて袖で拭った登吾が、まどかに真剣な顔で向き直った。
「他に、何か他に思い出したことはあるか?」

 父の勢いに押されて身じろいだまどかは、身体を真っすぐに戻し、考えるほど霧散しそうになる夢の記憶を辿った。
「夢の中の景色は、石のアーチをくぐった先に、古い石を積んだ家やパステルカラーの壁の家が隙間もなく並んでいたと思う。壁を這う木に赤い花が…」

 一瞬何か閃いたように感じ、まどかは息を飲む。
 どうしたんだろうと思いながら、呼吸を整え、じっと待っている登吾に続きを話した。
「赤い…花が咲いていて、太陽の光がサンサンと降り注いでいたような……ヨーロッパの田舎街かな?それと、帰りたいって声が聞こえたような気がするの」

 登吾はその言葉に眉根を寄せ、机に肘をついた状態で両手で頭を覆った。
 まるで、こうなることが分かっていたように顔に苦悩を貼りつかせ、それでも耐えられないというに手で髪をぐしゃりと握りつぶす。

「お父さん?どうかした?私の思い出せない期間に関係すること?」
 行ったことのない風景に郷愁を抱き、頭の中に帰りたいと声が聞こえたら、それはきっと記憶のない時に訪れた場所を思い出したのだろうと、あたりをつけたまどかが、登吾に問いただす。

「少し考えさせてくれ」
 カレンダーと時計を確認した登吾は、スマホを取り出しながら、ダイニングを出て行った。

 父は一体何を隠しているのだろう?
 まるで何かに怯えているようだ。母なら何か知っているかもしれないと思ったまどかは、テーブルの上に転がったままの箸に気が付き、和美の様子をそっと窺った。
(おかしい!絶対に私に何か隠している)

 その時、廊下に出ていった登吾が外国語で何かを話しているのが聞こえてきた。
『ダニエル久しぶりだね。…ああ、みんな元気にしているよ』
 和美がガタンと椅子から立ち上がった音で、まどかは一瞬電話の声から意識がそれたが、和美の動揺以上に、言葉を理解できた自分に驚いていた。

 和美が怯えたように後退りするのにつられて、まどかも立ち上がる。だが、和美はまどかを見ようともせず、ダイニングに続くリビングを横切って、隣りにある和室へ入り、(ふすま)を閉めてしまった。

『ところで、アレックスの様子はどうだい?‥‥そうか、まだ目覚めないか……』
 目覚めないという言葉に、まどかは胸騒ぎを覚え、テーブルの縁を思わずつかんだ。
『アレックスを違う病院に移すって?君もその病院に誘われたのか…?ああ、確か脳神経医学に力を入れているところだな。君の研究はその移転先の病院でできるのか?……何だって?諦める?』

 父のショックがそのまま伝わるように感じ、まどかは聞こえた名前の人物に感情移入していた。
 目覚めないアレックスという名の男性。植物状態か何かだろうか?
 ダニエルが自分の研究を捨ててまで、アレックスに付き添おうとしているのは、かなり症状が悪くて、目覚めさせる為に必死に打つ手を探しているように思える。

 ドクン! 
 その時、まどかの心臓が大きく波打った。

『帰りたい』

 頭の中で、またあの声がする。
 まどかは驚いて、頭を激しく振った。
 起きている時に声がするのは初めてだった。

『マドカ俺を連れていってくれ』
 
 白昼夢ではなく、はっきりと男性の声が聞こえたまどかは、その場にへなへなと座り込んだ。
「あなたは誰?」
 自分の中にいる男性に聞いてみる。

『思い出して俺を…じゃないと戻れない』
 まどかは片手でこめかみをもみほぐしながら、自分の中に隠れている相手を探そうとした。
「ヒントをちょうだい」
 あまりにも真剣に考えすぎて、息をすることさえ忘れていたまどかが、苦し気に呼吸をしながら、問いかける。

『深淵の闇の洞窟で待つ』

 声はふっつりと消え、それ以上、まどかが問いかけても何も返ってこなくなった。
「深淵の闇の洞窟って何だろう?遺跡か何かかしら?」
 そうつぶやいた時、後ろで気配がしたのに気づき振りかえると、登吾がスマホを片手にしたまま、まどかをじっと観察していた。

「まどか。誰と会話していた?ぶつぶつ独り言を言っていたぞ。夢と関係があるのか?」
 登吾は被験者を見るように、自分の感情を全て隠し、まどかのいかなる行動も見逃すまいとしているようだった。

 夢ではなく、頭の中で男性の声が聞こえるなんて言ったら、私はまた病院送りにされて、父の最先端治療という名の実験体されるのかしら?
 父を信頼していないわけではないけれど、自分をめぐって父と母が夜中に喧嘩しているのを聞いてしまってから、どうも警戒心が先に立ってしまうのだ。
    
 まだ、病院から家に戻ったばかりで、頭がはっきりせず、喧嘩の内容も理解していなかったけれど、今ははっきりと思い出すことができる。
 そう、あれは夜中に水を飲みに階下へ降りた時に、キッチンから聞こえた。

「あなたのせいで、まどかは戻らなくなるところだったわ!治療って言ったって、本当はまだ確立されていないんでしょ?」

「何を言うんだ!治療としてもう認可が下りているんだぞ。あの時はまどかの状態が重かったのと、途中で停電が起きたんだ。緊急用の補助発電が作動して、すぐ再開したが、あれは完全なアクシデントだ!」

「父親なら、危険が伴う施術を娘に行ったりしないわ。成功例が欲しくって、まどかを実験に使ったのよ!」

「馬鹿なことを!お前だって、まどかが意識障害を起こした時に、何とか元に戻して欲しいと言ったじゃないか!難しい施術だと言った時に、反対しなかったのを忘れるな」

「あなたが成功例ばかり話すから、てっきり問題ないと思ったのよ。あの子があの人のようになったらと思うと……」

 突然泣き出した和美に、登吾は怒りを削がれたようで、あとは慰めの声が聞こえた。まどかは喉の渇きを覚えつつ、二人の邪魔をすることもできず、部屋に戻ったのだった。

 ふと我に返ったまどかは、じっと様子を窺っている登吾に疑問をぶつけた。
「お父さん、アレックスって誰?」
 ひょっとして、母が言っていた「あの人」のことだろうかと、まどかは父の答えを一言一句聞き漏らすまいと構える。

「ああ、電話で名前を聞き取ったのか。私の友人で共同研究者のダニエル・モローの息子だ。ダニエルは二年前フランスに戻ったが、あちらで同じ研究を続け、アレックスは助手を務めていた」
 視線をまどかから逸らしたまま答える登吾に、まどかはまた一歩踏み込んでみる。
「アレックスは私と何か関係がある人?意識が戻らないから、病院を移るらしいけど、事故かなにかで植物状態なの?」

 登吾が信じられないものを見るように、まどかを見つめた。血の気を失った口びるがわなないていた。
「まどか、お前、フランス語が分かったのか?」
「そうよ。2年生まで第二外国語でフランス語を取ったぐらいだけど、はっきりと理解できるの。どういうことなのか、もう何も隠さないで説明してくれる?お父さん」

 登吾は額に皺を刻んだまま、何かを探るようにまどかを見つめたかと思うと、視線を落とし、その先をゆらゆらと定めることなく左右に(うごめ)かしている。
「…できれば、お前にこの話はしたくなかった」
 登吾はふーっと溜息をついてから、先を続けた。

「アレックスが自然に目を覚ますのを心から願っていたが、もう6か月半も経ってしまった。もしお前が彼を思い出して、施術をやり直したら、彼はひょっとしたら助かるかもしれない」

 明るい展開を予測して目を輝かせたまどかを、登吾は悲し気に首を振って止め目を伏せた。
「彼は助かるかもしれないが、お前を失うかもしれない」
「えっ?」
 まどかは意味が分からず言葉に詰まったが、なぜか夫婦喧嘩を耳にした時の登吾が和美を責めた言葉がよみがえった。
 
 -お前だって、まどかが意識障害を起こした時に、何とか元に戻して欲しいと言ったじゃないかー
  意識障害。確かそういっていた。私は昏睡状態かなにかだったのだろうか?

 まるで穴が開いたように記憶のない一年前の夏休み期間に、一体何が起きたというのだろう?

「お父さん。私は何の病気で、どんな治療をしたの?」
「…お前、今日はバイトないんだろ?病院についてこないか?実際に装置を見せて説明しよう。何か思い出すかもしれない」
「うん、わかった。用意してくるから待ってて」
 治療に使用した装置を見て、果たして思い出せるだろうかと考えながら、まどかは支度を整えた。
 そして階下に降りながら、とんでもない過去だったらどうしようという不安に包まれる。

 私を失うかもしれないと父は言った。
 このまま何もしなければ、私は私でいられるんだろうか?
 その時、頭に響いた男性の声を思い出した。

ー思い出して俺を…。じゃないと戻れないー  

 知っているはずのアレックスとの過去を何としてでも思い出さなければいけない。玄関で待っていた父に、決心した面持ちで病院に行こうと告げる。

 あの声の持ち主とどんなことがあったのか突き止めなければ、私は素知らぬ顔で今後の生活を続けることは無理だろう。
 ドアの取っ手を震える手で押し下げたまどかは、玄関から見える風景を目に焼き付けると、外へと一歩踏み出した。