2017 au Japon  
 

  変わり映えのしない日常は、いつもそこにあると思っていた。
 何か変わったことでも起きないだろうかと期待することが、
 どんなに恵まれているのかも気づかずに…。



 
 窓から見える木々はすっかり葉を落とし、凍てつく空に突き刺さるように形骸をさらしている。枯れてしまったように見える枝には、膨らみがそこここに見られ、やがて芽吹く時を、息を殺して待っているみたいだと霧島まどかは思った。

ー息を殺して待っている?生命の復活を?- 

 何かが頭の隅に引っ掛かり、まどかの胸にチリりと焦りとも不安ともつかないものが走る。不安に蝕まれそうになって、まどかは慌てて手に持った海外旅行のパンフレットに視線を落とし、意識を集中させようとした。

 暖房の効いた大学のカフェテリアでは、並んだクリーム色のテーブルを囲った学生たちが、食事をしたり、レポートを書いたりしていて、時々あがる歓声や笑い声に満ちている。
 その一角に陣取ったまどかと双子の親友、水野愛莉と愛羅は、隣接する生協カウンターから海外旅行のパンフレットをもらい、卒業旅行のプランを練っていた。
  双子の妹の愛羅が、めくっていたパンフレットをテーブルに置き、おっとりとした口調でまどかに話しかけた。
「ねぇ、まどかったら、明後日からもう2月なんだよ。いい加減に卒業旅行どこにいくか決めようよ」

 妹と同意見のしっかり者の姉の愛莉が、ちらりとまどかを窺うが、心ここにあらずの様子に溜息をつく。
「ああ、無理、無理。パンフレットを見て、またいつものトリップ状態になってるわ」

 自分のことを言われているとも気が付かず、真っ黒でサラサラのロングヘア―、黒目がちの大きな瞳をパンフレットに彷徨わせていたまどかは、中世の街並みをそっくり残したような写真を見た途端、心にざわめきを感じて戸惑っていた。

 何だろうこの感じ?ざわざわ不安が掻き立てられるような、それでいて惹きつけられるような‥‥‥。
「う~ん、似た場所を知っているような気がするんだけど、ここじゃないのよね」

「何か言った?まどか、それどこのパンフレット?」
 愛羅が尋ねても、写真に見入っていて返事もしないまどかに代わり、愛莉がハキハキとした口調でパンフレットを読み上げる。
「フランス南西部のペリゴール。人口1万人の街に、年間二百三十万人 年間二百三十万人の観光客が訪れ、街全体が映画の撮影に使われることもある。だって」
「わぁ~いいじゃない!インスタ映えしそう。そういえば去年の夏休みもまどかはフラ……」
 突然、愛莉にポカッと丸めたパンフレットで頭を叩かれた愛羅は、びくっと肩を竦ませ、しまったというように口を覆った。

 目の前で何の脈略もなく愛莉が妹の愛羅を叩いたので、さすがのまどかも不思議に思い、訝しむように二人を見つめたが、まどかが口を挟むより先に、愛莉が他のパンフレットを押しつけてくる。
「ねぇ、イタリアとかスペインはどう?こっちも見るものが沢山ありそう。あっ、でも、まどかは漫画の原稿できたの?就職前に一作品仕上げて投稿するって言ってたじゃない」

 わざとらしく話題を変えられたような気がしたが、二人が身を乗り出して答えを迫るので、押し切られてしまった。
「うん。もう仕上げて投稿はしたけれど、想像上のきれいごとばかりで、納得いかないし、多分だめ。もっと色々経験して、読者の心に届くような作品を描きたい」
 決意を語るうちに目に力を宿したまどかを、笑顔で見つめていた愛羅がふと思いついたように質問する。
「うん、まどかなら実現できそう。でも、どうしてまどかは旅行会社に就職を決めたの?漫画のための社会経験なら、バイトをしながら目指しても良さそうなのに」

「えっと、その、バイトと正社員ではこなす仕事も責任感も違うでしょ?旅行会社は、社会経験も海外旅行も両方できて、漫画に活かせる仕事だと思ったから決めたの」
 自分のコンプレクスを誤魔化すべく、口調が知らず知らず早くなるまどかをじっと観察していた愛梨が、ずばりと痛いところをついてきた。

「ふ~ん。権威ある脳科学外科医の娘として、医療関係じゃなくても、一度は就職して周りを納得させたかったとかじゃないんだ?」
「う~っ…鋭すぎるわ。愛莉こそ推理小説か何か書けそう」
「愛莉だけじゃなくて私も分かってるってば!だっていつもまどかは、お父さんが医者なら理数系得意でしょ?とか、どうして医学の道へ進まなかったの?って聞かれるもんね。その度に困った顔してたもの」

 まどかは参ったというように両手を顔の横に上げてから下ろすと、自分の卑小さや、鬱屈した悩みを、二人にぼそぼそと打ち明けた。
「ほんと言うと、才能がないくせにまだ夢を追っていたいの。社会経験を積むことは漫画のためなんて言いながら、物にならなかった時の受け皿にしようと考えたからなの。絵を描くことは好きだし、空想することも好きだけど、未来が確約されてるわけじゃないから、一本に絞るのは不安なのよ」

 まどかの口から、まさかネガティブな言葉を聞くとは思わず、愛莉と愛羅が顔を見合わせて、あたふたと慌ててフォローをし始める。
「仕事をしながら、夢を目指す人は大勢いるから、それは逃げでも悪あがきでもないと思う。地に足をつけながら、目標に向かって努力するってことだもの」
「愛莉の言う通りだよ。難しいことを考えるのは苦手だけど、まどかの絵がうまいことは私にも分かるもん。仕事しながらでも、まどかは漫画家になれるよ」

「ありがとう二人とも。でもね、本当に漫画家になりたい人は、夢に打ち込んで他人なんて気にしないはず。なのに私は、愛莉の言う通り、有名な脳科学外科医の娘として、向けられる好奇心混じりの視線が気になるの。そんなことに気を取られて普通に就職を選んだ時点で、漫画家を目指す資格なんてないわ」

 まどかが真剣に語るのを、目を見張って聞いていた愛羅が、思わず感想をもらす。
「なんかまどか、いつもと違う。愛莉が理屈っぽいのは普段からだけど、その愛莉と渡り合えそう。私よりしっかりしてるみたいでびっくり!」
「愛羅、それは無いわー。何か一気に脱力しちゃった。私ってどんな風にみられてたの?」
    
 テーブルに突っ伏したまどかの頭を、愛莉がよしよしと撫でながら、友人として分析したまどかの性格を、微笑みながら口にした。
「まどかは両極端なんだよね。本当は自分の意見を持ってるくせに自己主張しないし、周囲に合わせるふりをするから、みんなまどかの夢見がちな外見に騙されるの。でも、譲れないと思う事柄に関しては、突然豹変したみたいにとうとうと自分の意見を述べるから、みんな驚くの」

「うん、確かにびっくりした。ふ~ん、そっか~。私はまどかに今まで騙されてたんだね。他になにか隠していることはないの?」
 愛羅の冗談めかした問いに、まどかの胸がざわつき、不安が射しこんだ。

ー隠していること?-
 胸に引っかかった言葉を繰り返した時、まどかの視野がぶれて、辺りがカフェなのかどこにいるのか分からなくなった。会話は大きくなったり、小さくなったり、あちこちから聞こえたりして、これは数日前の出来事を夢に見ているんだとまどかに認知させた。

 眠りながら夢だと分かっていても、まだ完全に目覚めるには至らない。意識がはっきりとし出して目覚めが近いと思えば、知らずにまた深い眠りに引き込まれる。 何度もそれを繰り返すうち、どこかの景色が目の前に広がって、まどかはその中に足を踏み出した。
 散策途中で霧が辺りを覆い、まどかの意識もまたおぼろげになる。

『帰りたい』

 その時、突然聞き覚えのある男性の声が響き、ぼんやりと意識が浮上した。
誰だろうと漂う声にすがろうとしたが、視界を遮る霧に儚く吸い込まれていく。

「…どこへ?」
『……』

 ふと、霧島まどかは、自分の声で目が覚めた。
 三列にならぶ細長い窓からは、レースのカーテンを通して、月明りが差し込み、室内を幻想的に照らしている。

 布団から出した手を月明りに翳してみると、青白く輪郭が浮かび上がり、まるで自分の一部が透けていくようだ。
 まだ夢を見ているのかと、起きがけで力の入らない掌をぐっと握り込んで、爪の食い込む感覚で現実を認識する。

 はっきりと覚醒したことで、さっきの声が妙にリアルに甦った。
「帰りたい」ってどういうことだろう?

 まどかは生まれも育ったところも今の場所で変わってはいない。
 そして、あと2か月ほどで、旅行会社への就職が決まっていて、過去も未来も明確な一本の道で繋がっている。

 なのに、数日前、あのフランスのパンフレットを見て以来、ふとした瞬間に噴き出すような郷愁にかられるようになった。
 寂しくて、恋しくて、胸が絞られるような思いに切なくなって、どこかに帰りたくなるのだ。
     
 さっき夢の中で、石畳の階段を上り、まるで本当にそこにいるように、はっきりと先の風景を見た。 
 両側にひしめくように並んだ石造りの古い家々は、今まで行った場所の記憶にはない景色だった。

 日本から出たことのないまどかには、どうしてそんなリアルな景色を見たのか、そして、そこがどこなのかも検討がつかない。
 もしかして、この間見たパンフレットの中にその風景があって、知らない間に目に焼き付いていたのかもしれない。

 考えているうちに、月明りはいつの間にか夜明けの光に溶け込んで、まどかの真剣な顔に陰影を深く刻んでいった。