灰色の空に遠雷が鳴る。もうそろそろ洗濯物を取り込まないと。
夕食の買い出しを終えて家路を歩きながら、緋色の近況を思い返していた。二日前、遊園地に行ったらしい。瑠璃くんとも、仲直りできたとか。愛の杭を探す手がかりも見つかったそうだ。
わたしにはできなかったが、娘には愛されて欲しい。愛して欲しい。そういう誰かがいるのは、母親として嬉しいことだ。
歩きながら物思いに耽っていたからだろうか。歩道橋で足を踏み外していた。両手はスーパーの買い物袋で塞がっていて、咄嗟に放せない。前に、落ちる。
「っと。大丈夫ですか?」
スラッとした中年男性が、体を支えてくれていた。いや、確かにスラッとしていて顔も美形なのだが、どこか仄暗い雰囲気を纏っている。来ているスーツの黒が、更に濃く見えた。「大丈夫です」

「こんな、悪いですよ」
「いえいえ。あのまま倒れていたら、打ち所が悪ければ死んでますから」
何もお礼をしないのも悪いので、ファミレスで奢ることにした。平日の夕方とあって、店内は人が多い。
「家出を、していたんです。そしたら偶然、あなたが倒れそうになっていたので」
「家出?」
彼はずっと下を向いている。相当、憔悴しきっているのだろうか。
「一人息子に、友達が出来たんです。彼女かもしれない」
「それは良かったじゃないですか」
「その少女は、吸血鬼なんです」
背筋に嫌なものが走った。
「勘違いかもしれませんよ?」
「いや、この目で見たんです。文化祭でも血を吸っていたし、家でも」
文化祭?まさか......
「20年前、妻を殺したのも、吸血鬼だった」
震える声で聞く。「どこで、殺されたんですか?」
「ここから一番近い駅前の、路地裏で」
「私の夫かもしれません」
彼の目の色が変わった。どす黒い中でも何か強い力を帯びて、私を殺してしまいそうな色だった。
「どういう、ことですか?」
生者の血を吸って理性を失ったこと、昔は理性を失った鬼がそう多くなく、この一帯では夫だけだったことを話した。
「一つだけ、教えて下さい」彼は縋るように見上げて言った。座高は彼の方が高いのに、そう錯覚するような目だった。「生き血を啜ったのは、どうしてですか?」
「普通、私たち吸血鬼は人が死んでいるのを確認してから、血を吸うんです。でもあの日、死んだと思っていた人が実は、生きていた。気付いた時には、夫は吸っていました」
彼は落胆したらしく、目を落とした。「そうですか。いっそ、妻を殺した吸血鬼が、極悪非道な悪者なら、憎悪を向けられるのに。誰も悪くないと、辛いですね」
かける言葉が無かった。無い言葉を捻り出す。「私たちの、確認不足です。ちゃんと死亡確認しておけば、奥さんは死なずに済んだかもしれない」
「瑠璃は、あなたと同じように一人取り残されるのでしょうか」
「分かりません。緋色が彼を愛し、心から信頼できれば、歴史を繰り返すことは無いかもしれませんが」
ザーザーと雨が降り始めた。傘は持っていない。雷の音が、近付いている。