夏休みが終わり、とうとう始業式になった。

 窓の外で、入道雲がずるずると這うように伸びている。横目にしながら廊下を歩いていると、人の波から聞こえる声がどんどん大きくなってきた。カレンダーを見るよりずっと、夏休みが終わったと、今日から学校が始まったのだと実感する。

 学校が始まる二週間前くらいは特に意識していなかったけど、始業式まで十日を切ってから徐々に気が重くなり昨日は本当に嫌な気持ちだった。でも一昨年と違って死にたいとまでは思わなかった。

 せっかくだからとお母さんが新しく買ってきた真っ白な上履きを見つめながら、足を動かす。

 清水照道の家に行ってから、私は当然それ以降奴とは会っていない。

 そもそも私は奴の連絡先を知らない。夏休みに入る前奴は「今日こそアドレス聞く!」と言って私に近づくことを繰り返していたけれど、聞いては来なかった。

 だから清水照道も私の連絡先を知らない。墓参りで会ってさえいなければ、私は奴と会うことはなかった。でも、今になって何故あの時会ってしまったのかと後悔が襲ってくる。

 教室に入って、嫌なことが始まったらどうしよう。

 ため息を吐きながら階段を上っていると、「あっつー!」と叫ぶような千田莉子の声が頭上から聞こえた。思わず足を止めて様子を伺うと、どうやら声の大きさ的に今私の立つ踊り場のちょうど頭上、上の階にいるらしい。「ナスリコ汗臭いんだけど」と河野由夏のあざ笑う声も聞こえる。

「ひっど、ちゃんとふきとりシートで拭いてるし!」

「まじ? なんかうちの犬みたいな匂いだよ」

「イヌリコじゃん、うける!」

 河野由夏の声の後に、げらげらと同調するような寺田の声が聞こえた。なんだかのどが詰まったような感覚に陥る。

 このまま上に上がっても、ろくなことにならない。来た道を引き返すようにして階段を下りて、私は逆走をしていく。遠回りになってしまうけれど仕方ない。そのまま廊下を歩くと今度は安堂先生の声が聞こえた。

「ねえ萩白さん、ちょっとでいいの、話を聞いてくれない?」

 感情的な声に、心臓がずきりと痛む。心の、怒りとか、要望みたいなものを全部こめるみたい強い声。苦手だ。マスクをつけた萩白先輩は耳を塞ぎながら早歩きで歩いていて、こっちに向かってくる。その後ろを安堂先生が追いかけていた。

「萩白さんは私を誤解していると思うの! ねえ、マスクを取ってきちんとお話しましょうよ! 風邪でもないのにそうやってマスクをつけているから、きっと教室に行くことが――っ」

 先生はそう言って、萩白先輩の耳に、マスクの紐に手をかけた。そのまま流れるようにマスクは外れる。先輩は目を大きく見開くと、自分の口元に手をあてしゃがみ込んだ。

 がちゃんと金属の音がして、萩白先輩から鍵のようなものが落ちる。ここから見ても、先輩の顔は真っ青だ。先生は「大丈夫萩白さん、やっぱりマスクをつけてるからいけないのよ。夏なのにマスクなんてつけるものじゃないわ」と先輩の背中をさすった。けれど先輩はその手を撥ね付けるようにしてマスクを奪い取ると、一気に走り出していく。

「あ」

 私の存在に気付いた萩白先輩が、一瞬こちらを見た。けれどそのまま速度を緩めることなく先輩は走って去っていく。呆然とその背中を見ていると、安堂先生が困ったような顔をして「あら、樋口さん見ていたの?」と声をかけてきた。頷くと先生はため息を吐いて、苦笑するように先輩の去っていった方向を見る。

「あの子はね、萩白さんって言うんだけれど、保健室登校で、一年留年している生徒なの。一年生のころは放送部で快活な子だったんだけど、去年の今ころマスクなんてつけ始めて、そこからずるずる教室に来なくなっちゃって」

 先生は、ぺらぺらと萩白先輩について話をする。そんなことを、どうして人に話してしまうんだろう。もし私が逆の立場だったら、絶対にそんな話をされたくない。こんな、世間話みたいに。先生は心配をしているような、まるで萩白先輩についてたくさん考えて悩んでいるような顔で説明しているけれど、どんなに心配していても、私は絶対、絶対こんな話されたくない。

 目の前の先生が分からなくて、怖くて、得体の知れない存在に感じた。先生は私の表情に対して萩白先輩に対して心を痛めていると認識したようで、勝手に頷き、「そうよね」と勝手に同意を始める。

「やっぱり、マスクを年中つけているなんて、身体に良くないわよね。すぐにやめるべきよ。樋口さんもそう思うでしょ?」

「……い」

「なんて?」

 声を出そうとして、即座に聞き返された。このまま頑張って否定をしても、先生は分からない。分かるはずがない。頭を下げて、先生の横を通り過ぎていく。先生は少し首を傾げるようにして、先輩の去っていった方向へゆっくりと歩いて行った。

 私は、先生がいなくなってから、さきほど先輩が顔を覆っていた場所で光る鍵束を拾い上げた。

 これはきっと 萩白先輩が落としたものだ。

 無記名のタグがつけられているそれは、何本も同じ鍵がついていて、ずしりと重い。

 私はポケットに入れて、そのまま保健室に行くより時間を置いたほうがいいかと、ひとまず教室へと向かうことにしたのだった。




 萩白先輩の鍵を拾って教室に入ると、本当に夏休み前と同じ光景が広がっていた。教卓の前のあたりで、河野由夏と、千田莉子、寺田、そして清水照道がげらげらと笑い、騒いでいる。その周りに、街頭に集まる蛾みたいに取り巻きの奴らが集まって、同調するようにしていた。

 私が教室に入ると清水照道は「夏休みぶりー樋口さん大好き! 会えてうれしい」と叫びだし、結局何も変わらない。けれどクッキーの話はしないし、校外学習の時も、私を探しに行って遭難して後々合流したという話になっていたし、墓参りの時に会ったことや、そのあと私が家に行ったことは一切無かったことになっていた。

 清水照道は夏休み中河野由夏らと海やプールに遊びに行って、そのあとはずっとバイト三昧という話しかしない。

 私について言われたらどうしようと思うけれど、なんとなく、夏休みを挟んで奴はそのことについて触れる気がないようだと、何となく、本当になんとなく安心した。




「こうして夏休みも終わったけれど、来月の頭には文化祭が始まるでしょう? そこで! 今日はみんな夏休み明けでまだぼーっと気が抜けているだろうし、一年生の合唱コンクールの課題曲と並び順についてお話がしたいんだけど、どうかな?」

 始業式を終えて、安堂先生が黒板に大きく合唱コンクールと書いた。

 この学校では、一年生が合唱コンクールを行う……ということを、入学の時に聞いた。なんでも文化祭当日、二年生と三年生は普通に校舎で文化祭をして、一年生は合唱コンクールを学校近くの図書館に併設されたホールで行うらしい。

 その間二年生と三年生は一年生の教室を準備に使用したり、実際に出し物の時に使うという話は、人間同士の会話で聞いた。その人たちは「二年三年ばっかりずるいよね!」と会話をしていて、私は文化祭に興味もなかったし、単独で発表させられるわけじゃないから、合唱で良かったなとは思っていた。それに、歌なら言葉につまることも比較的ない。大勢なら最悪口パクの手段だってある。

 ぼーっと安堂先生が仕切っているのを見ながら、ポケットに入っていた鍵に触れる。

 思えば校外学習の日、萩白先輩は安堂先生の名前を聞いて、酷く傷ついた顔をしていた。先輩は留年していると言っていたから、一年前安堂先生に何かされて、保健室登校になって留年になったのかもしれない。

 安堂先生はマスクのせいだって言っていたけれど、萩白先輩はマスクをつけているとき、堂々と話をしていた。でも先生にマスクを取られた瞬間、崩れ落ちるようになっていた。私は先生よりも、あまり話をしたことがない数回会っただけの先輩のほうが、何となくいい人、のような気がしてしまう。

 それは萩白先輩の嫌なところを知らないだけで、安堂先生の嫌なところばかり見えていることもあるのだろうけど、それでも私は安堂先生が苦手だし、信用ができないと感じる。

 安堂先生について考えていると、教室の中は淡々と合唱コンクールで歌う曲について話し合いが始まった。この教室での決まりごとは、全部河野由夏が中心だ。

 河野由夏が中学の時に歌ったといえば、その曲はなしになっていく。良さそうだと言えば候補に残る。そこにちょこちょこ寺田が馬鹿なことを言って、清水照道が同調する。

 くだらない時間だ。安堂先生は「もう由夏ちゃんったら」と困るように笑うだけで、とがめることは一切しない。そんな先生を、私の隣の席に座る、先生が顧問を務めている吹奏楽部の部員の一人が白けるような目で見ていた。

 安堂先生は、人によって評価が変わる先生だと思う。河野由夏たちからすれば、すごくいい先生だと思う。でも今私の隣の席に座る吹奏楽部の人間や、私、そして多分萩白先輩にとっては、先生はいい先生じゃない。

 視線を下に落としていると、合唱コンクールの曲が決まった。先生は「じゃあ次は廊下に出てくれない? 並び順を決めるから」とみんなに声をかける。各々立ち上がり、教室へ出る。ただ廊下に出るだけなのに千田莉子は素早い動きで河野由夏の後ろについていった。

 その姿にくだらなさを感じていると、背の順で並ぶように指示される。先生は、「じゃああなたはソプラノ、あなたはアルトパートね」と割り振りを始めた。背の順だと、私は一番前だ。先頭なんてすごく嫌だけど、これからもう背は伸びない。

「じゃあ樋口さんはアルトだから、ここに並んで」

 そう言われて指定された場所に、酷く胃が締め付けられるのを感じた。言われた場所は、ソプラノの、河野由夏の隣。何でよりによってここなんだと考えながらそれを悟られないように並ぶと、すぐに私の頭上をまたぐようにして「由夏しいじゃん!」と千田莉子の声がかかった。

 河野由夏と、千田莉子に挟まれている。

 その事実に吐き気がした。これから先、合唱コンクールまで一か月ある。その間、当然練習だってするだろう。約二十日間、ずっとこの二人に挟まれていることに眩暈がした。河野由夏は「イヌリコ臭いからワンクッション置けてラッキーだわ」と馬鹿にするような声色で話をしている。千田莉子は「そういえば樋口さん歓迎会のカラオケ来てなかったよね? 歌えんの?」とこっちを見る。

 その顔が、馬鹿にするようで、それでなにか面白味のようなものを期待する顔で吐き気がした。このまま首を横に振るべきか、答えるべきか、雰囲気的に河野由夏も私の返事に注目しているような感じがする。言葉が、出せない。詰まったらどうしよう。またあの時みたいに、私は……。

「えええええええ由夏しい! 樋口さんの隣なの!? はぁくっそ羨ましいんだけど!」

 はじっこのほうから、奴の、清水照道の声が響く。河野由夏が噴き出すように笑い、「そうだよ照道」とあきれたように返事をした。安堂先生は静かにしてと注意をして、二人はあしらうように頷く。

「由夏しい何で樋口さんの隣なの? パートなに?」

「ソプラノ」

「えっじゃあ俺も余裕でソプラノになるんですけど!?」

「無理でしょ高い声出ないっしょ」

「出る出る。イーイーッ」

 そう言って清水照道は奇声を上げた。安堂先生が「照道くん!」と注意をして、どっとクラスに笑いが起こる。河野由夏は「照道ほんと馬鹿じゃん」と楽しそうに笑っていて、私への関心は消えたようだ。

 もしかして、助けてきたのか、やつは。

 いやそんなわけがない。私に好意を持たせて勘違いをした私を手酷くふり、「優しくしただけで惚れてきたやつ」と馬鹿にする気なのかもしれない。

 今だって私を笑いものにしているじゃないか、あいつは。

 なんかもう、頭の中がぐちゃぐちゃだ。夏休みに入るまでは確かにあいつに復讐をしようと思っていたのに、訳が分からない。

 奴から目をそらすようにしていると、千田莉子が悔しがるように「なんでよ」と呟いた。反応してしまわないように視線を下へと固定する。何が、なんでよなんだ?

 私は千田莉子にひっかかるものを覚えながら、ただじっと目立たないように俯いていた。