「おい!」

「あー、わり、だいじょーぶ。つうかさ、うつるからあんま近付かないほうがいーよ……」

 そう言って、喉を焼くような咳を清水照道は繰り返す。恐る恐る力なく地面に置かれた腕に触れると、人間の体温とは思えないほど熱くなっていた。思えばこいつは今日、変に汗をかいていたり、咳き込んでいた。汗っかきだからと言っていたし、咳き込みも喋りすぎだと思っていたけど、違ったんだ。こいつは風邪をひいているんだ。

「……お、お前、な、なーんで、こんな、こんななのに、わ、私のとこ、……来て」

「好きだからって言ってんじゃん?」

 へらへら笑うわりに声は弱々しい。起き上がろうとするのに、力が入らないのか、肩がずれるように動くばかりでまた伏せた。呻きながら「くっそ」と呟き、顔を歪めるばかりだ。

 確か、隣の部屋に毛布があったはず。立ち上がって隣の部屋に入ると、棚には真空パックに詰められた毛布が並べられていた。いくつか袋を開いて丸め、清水照道の枕代わりにして、のこりはそのまま覆うようにかけた。浅い呼吸は苦しそうで、額には大粒の汗が浮かび、瞬きすらゆっくりだ。

「はは、看病してくれんの? うれし、俺こーいうのされんの初めてだから、萌歌ちゃんに初めて捧げちゃったわ」

 そう言って、清水照道は咳き込む。こういう時は、とりあえず水分を取るのがいいとどこかで見た。奴の鞄からペットボトルの水を取り出し、奴の頭を抱えるようにして、ふたを開く。

「なに、飲ませてくれんの? やっぱ萌歌はやさしーね」

「う、うるさい……いいから飲め」

 黙らせるように水を飲ませていく。髪の毛すら雨に濡れている姿が、ふいに終業式の日、奴がずぶ濡れで帰った日と重なった。

 あの時こいつは私に傘をさして、自分はシャツが身体にはりつくくらいびしょびしょに濡れていた。こいつが今風邪を引いているのは、私のせいかもしれない。

 いや、私のせいだ。

 そう考えると、ずっとこいつのことを苦しめて、復讐してやりたかったはずなのに、取り返しのつかないようなことをした気持ちになって、喉の奥がぐっとつまった。俯くと、奴は私の顔を見上げるようにして、頬にそっと触れてくる。

「気持ち悪い? 頭、痛いの? ……安心しろって、ちゃんと助け来るし……大丈夫だからな」

 浅い呼吸の間に紡がれる言葉。こいつは私をクソつまんないから、面白くしてやると言ってクラスの前で馬鹿にする奴だ。中学校の奴ら、小学校の奴ら、幼稚園の奴らと何も変わらない。

 変わらないはずなのに、奴の手が頬に触れても怖いとも思わないし、気持ち悪くもならない。目の前で力なく私を見るこいつが、本当に私を心配して、ただただ労わろうとしているように見える。

 嘘なのに。絶対嘘なはずなのに。こいつは私を玩具だと思っていて、笑いに執着して、いかにクラスを盛り上げるかしか考えていない。

 それなのに、目頭がじわじわ熱くなって、涙が出てきた。

「萌歌……?」

「な、な、な、何で、……わー、私なんか、助けにっ……」

 こいつは、人の心を弄んで、馬鹿にして遊ぶ奴だ。私を嘲笑って、馬鹿にして、笑いものにして、同じ人間だなんて思っちゃいない。今までの奴らと同じだ。それなのにどうしてこいつは私のためにずぶ濡れになってまで傘を差し出して、私のせいで風邪を引いたのに、苦しいのに、つらいのに、山に登ったのに下ってどこにいるのか全く分からない私を探して、ズボンもスニーカーも泥だらけにして、ずぶ濡れにして、髪の毛ぐちゃぐちゃになって、倒れてまで私の心配をするんだ。

 何なんだこいつは。

 目の前の奴のことが全然わからなくて、頭の中がぐちゃぐちゃで涙が出てくる。一方奴はまるで私をあやすように指で涙をすくって、困ったように笑っている。

「なんかじゃねえし。萌歌は萌歌だろ。っていうか泣くなって、そんな顔させたいわけじゃないんだって」

 私だって、泣きたいわけじゃない。

 清水照道にあやされるみたいにして泣いている今の状況が情けなくて、不愉快極まりないのに、それでも涙は止まってくれない。

「ほら、目こすんなって、腫れて痛くなるだろ。つうかマジで泣きたいのこっちだったからな? 山登ってどこ見ても萌歌いないし」

「ううう、うるさい! ……おー、お前が……! た、助けに来るから!」

「当たり前だろ。俺萌歌のこと大好きだから」

 ばかみたいなほど優しい声に、頭の奥が熱くなった。こいつは、人のことつまんない奴って言った。面白くしてやるって、人のことを玩具みたいに言ったくせに。頭がぐるぐる回るみたいになって、訳が分からなくなる。

「あ、う……った、い、いー言ったくせに! 人のこと、つまんないって、おお面白くしてやるって、か、か、勝手に!」

 怒鳴るように言い放つと、清水照道は私の頭を無遠慮に撫でる手を止めた。まるで、殴られたみたいな、酷く傷ついたような顔をして、流れるみたいにいつも通りのへらへらした顔に戻る。

「……だって、萌歌ちゃんずーっと机に伏せてるから、萌歌ちゃんのかわいーところ皆に見せてやろーかなって、駄目?」

「ふ、ふ、ふざけるな……!」

「本気だって。俺はいつだって萌歌に超本気」

 ぎゅ、と僅かな力で頬を指でつままれた。振り払うと奴は「病人なんですけど?」とおどけたような顔をする。さっきよりだいぶ顔色がよくなってきた。っていうかさっき、なんでこいつはあんな被害者面したんだ。睨んでやろうと思っても、混乱は続いていて、こいつが助けてきたこと、こいつが馬鹿にしてきたことが頭の中で渦を巻いて巡って、どうしていいかわからなくなる。

「お、お、お前は、なー、な、何が…………目的なんだよ……」

「萌歌ちゃんが学校平和に過ごせること」

「……ど、ど、どういう……」

 言いかけた瞬間、扉を叩く音がした。養護教諭の先生の声もする。慌てて扉を開くと、養護教諭の先生と、萩白先輩が合羽を着て並んでいた。

「樋口さん無事だったのね。良かったわ……! あれ、清水くんはどうしたの?」

 状況を、清水照道が倒れて、風邪を引いて、熱が出ていることを説明しないと。

 口を開こうとしても呼吸ばかりで出てこない。「あの」「えっと」と言葉を繋げていると、先生は私を見て「大丈夫よ」と落ち着くように声をかけてくる。違う。違う。こんな場合じゃないのに。振り返って奴について説明しようとすると同時に、ぽんと肩に熱を帯びた手がのせられた。

「いますよせんせー、つうか雨でまじ速攻で風邪ひいたっぽくて……。勝手に小屋ん中のもん使っちゃったんですけど、大丈夫っすか?」

 淡々と、少ない言葉で状況を説明する清水照道。先生は瞬時に察したらしく「ええ。先生が説明しておくわ」と頷く。二人の背後から見える景色は雨足は強いものの外はいつの間にか明るく、雷鳴も落ち着いていた。

「今はみんな、山の上で待機ってことになっているの。でも、この調子だと清水くんは早退したほうがいいわね。家の人と連絡は取れるかしら」

「あーうち無理っすね。母親仕事中電話切ってなきゃいけない仕事なんで」

 先生の問いかけに、奴は淡々と答える。そして私の腕を掴むと「樋口さんも」と話を続けた。

「樋口さんも、さっきまで吐いてたり、頭痛いって言ってたんで、早退させたほうがいいと思います。高山病? かなんか分かんないっすけど、俺のこと、看病してる間も、すげえふらついて、倒れたり、ゲロゲロ吐いてたり酷かったんで」

 そんなこと、一言も言ってない。それにふらついてたり倒れたのは清水照道のほうだ。それなのに奴は平然と嘘をつき続ける。

 なんでこいつは私を早退させようとしているんだ? 私が首を横に振り訂正する前に先生は頷き、「じゃあ二人に会えたことと、早退すること安堂先生に連絡するから」と電話を始めてしまった。その言葉に、萩白先輩の顔が一瞬でゆがむ。清水照道は「萌歌も濡れてるし、いつ熱出るか分かんないじゃん?」と声を潜めるようにして私を見た。先生の隣に立っていた先輩は、こちらを心配そうに振り向く。

「君たち、四月の頃に二人で保健室に来ていたけど、大丈夫? あんまり保健室に来ないようだけど、辛いようならいつでも来ていいんだよ? 私はいつでも歓迎するし」

 先輩はうんうんと頷きながら、私たちの肩に手をのせた。清水照道は「ありがとーございまーす!」とおどけたように返事をした。良かった。元気そうだ。ほっと力が抜けるような感覚がして、その後すぐにはっとした。

 なんで私は今、安堵したんだ。

 まるで、こいつが元気になって良かったみたいじゃないか。私はこいつを苦しめたいのであって、馬鹿にしてくるこいつを復讐したいのであって、別にこいつが元気になって嬉しいはずがない。むしろ逆だ。私はこいつに散々馬鹿にされてきたんだ。それを私は忘れたのか。でもこいつは、助けに来た。

 奥歯をぎりぎり噛みしめる。奴は萩白先輩と会話をするのをやめ、電話を終えた先生に状況を説明し始めた。私はもやもやしていくものがどんどん大きくなるのを感じながら、濡れた背中を睨んでいた。