体育祭を直前に控えた八月末の月曜日、英美里は部員全員を放課後の部室に集めた。
「私ね、部長を辞めることにした」
その代わり、と英美里は、
「この場で新しい部長を決めて、そのまま次の代へ引き継ごうと思う訳ね」
要は代替わりの前倒しである。
「私には背負わなきゃならないものがある。それを新しい部長に背負わさないためにも、今決める」
英美里なりに考え抜いて、決断したことらしい。
早速一年生三人と二年生五人分、計八本のくじを作って、部長を選ぶくじ引きが始まった。
まず二年生は、ジャンケンで決まった薫から引き始めた。
「ハズレ」
その後は翔子、だりあ、さくら、ひかるとハズレを引いた。
「次は一年生ね」
菜穂子、由梨香とハズレを引いた。
「…里菜、一応引いて」
残り一本で当たりしかないはずだが、念のために里菜が当たりを引いて、里菜が鮎貝みな穂以来の一年生部長となった。
副部長は、由梨香が引いた。
部長が決まって引き継ぎが済んだあと、英美里は正式に退部届を出した。
英美里なりの、ケジメのつけ方であったらしい。
「年末の国立、出ないの?」
翔子が問い詰めてきた。
「私はひまりを怒りたくないし、なじりたくも罵りたくもない。でも翔子みたいに情熱的になることも出来ない」
翔子に一年生コンビを支えて欲しい、と言う。
「英美里…それって」
「ひまりをいちばん認めていたのは、翔子だったよね?」
「でも英美里は逃げるん?」
「逃げる…?」
瞬間、英美里は翔子を平手打ちした。
「…翔子は何も分かってない!」
翔子は頬に手を当てた。
ヒリヒリと、心にまで傷を負うたように痛みがある。
英美里は堰を切ったように、ひまりと理一郎の件の経緯を語り始めた。
「あの子が辞めるときに、ひまりから手紙が来たの」
そこには馴れ初めから付き合うまでのいきさつ、更には退部の際の覚悟が綴られてあって、
「翔子はさ、このあと誰ともひまりと同じように恋に落ちたりしないって言い切れる? 私は…悪いけど言い切れない」
ひまりの覚悟を知ったとき、英美里はすでに国立を諦めるつもりでいたようで、
「ひまりだって、本心は辞めたくなかったはず。けどあの子は、自分で自分を裏切り者だって責めてた。…それでも翔子は、ひまりを悪く言える?」
翔子は、目に涙を浮かべていた。
泣くまいと、歯を食いしばっているようにも思われた。
「…そうやったんや」
翔子はその場に、ぺたんと座り込んだ。
「あれは誰が悪い訳でもない。ひまりが自分の人生を決めたの。それを、誰も責めたり悪く言ったりなんかは出来ない」
もしかしたら、ひまりは強がっていたのかも知れないと翔子は感じたらしかった。
体育祭の日、翔子は記録係のテントで陸上のタイムを書いていた。
「ショコタン!」
声がしたので向くと、ひまりがいる。
「今日はね、ショコタンにサヨナラを言いに来た」
「えっ?」
「…あのね、実は」
今月いっぱいで退学し、理一郎と挙式するのだと言う。
「英美里からいろいろ聞いた。ショコタンがいちばん怒ってたって…ごめんなさい」
入籍は八月に済ませたこと、来月には理一郎の転勤で福岡に引っ越すこと、さらに、
「今ちょっと生理止まってて…多分妊娠してるかも」
翔子は苦笑いした。
「展開めっちゃ早過ぎるわ」
「だから国立には見に行けないかも」
ひまりは翔子に握手を求めた。
翔子は戸惑いながらも、それを受け入れた。
「翔子ありがと。でもね、ショコタンやみんなと過ごせて私はしあわせだったよ」
翔子は無言で、ひまりの手をたまらず引っ張ると、ひまりの肩を借りて人目も憚らず号泣した。
「ちょっと…まるで私が戦争に出征でもするみたいじゃない」
翔子ったらよく笑うしよく怒るけど、よく泣くよね…とひまりは翔子の髪を撫でてから、
「もう、泣かないでね」
それから少し話して、二人は別れた。
十月を迎え新体制となり、里菜と由梨香の一年生コンビの部長と副部長、それを翔子が支える体制となって、この時期にめずらしく新入部員が入った。
「よろしくお願いします」
大人しそうな雰囲気の小清水萌々香である。
「お姉さんとはちょっと違うね」
しっかり者な姉の綾香は、前に生徒会長をしていた。
綾香は濡羽色をした恵まれた髪質の持ち主であったが、萌々香はどちらかといえば癖っ毛で、それをツインテールにまとめている。
「何かまどマギのまどかちゃんとか白井黒子みたいな髪型じゃね」
アニメ好きな優子が言った。
「なかなか入部する勇気がなくて…」
一年生の萌々香は六月はじめのリラ祭のあとから、毎日のように部室に来てはいたのだが、なかなか入るまでの決心がつかず、四ヶ月近く過ぎてしまったのである。
そこへ優子が声をかけ、二学期の体験レッスンを経て十月からメンバーとなった。
「萌々香ちゃんロリータ服似合いそうじゃけ、うちの貸しちゃる」
そういうと数日後、優子は寮からカートに詰めた私服のロリータ服を、何着か携えてきた。
「そこに更衣スペースあるけぇ着てみんさい」
優子はサイズを見立てて服と一緒に、萌々香を着替えスペースへ押し込んだ。
着替え終えて出てくると、
「あら…まるでお人形さんみたい」
果たして優子の見立て通り、海外の人形のような可愛らしい雰囲気である。
「萌々香ちゃん、裁縫とか出来る?」
「ミシンは使えます」
「ほいじゃあ、うちが服の縫い方教えちゃるけぇ」
「ありがとうございます」
礼儀正しさは、姉の綾香と変わらなかった。
萌々香は歌唱力が意外に高かった。
体験レッスンのボイトレで試しに家入レオを歌わせてみたら上手だったので、
「萌々香ちゃん、ボーカルやってみる?」
「はい」
素直な性格の萌々香は、先輩の言うことを真剣に聞く。
「前から萌々香はアイドル部向きだって思ってた」
クラスメイトでもある菜穂子が言った。
「でも物凄く大人しいし、とんでもなく人見知りだし…大丈夫かなって」
入学して半年は過ぎたのに、まだ萌々香と話したことがないクラスメイトすらいるのである。
「うちも北海道来て半年ぐらいクラスじゃ喋らんかった」
「それは単に広島弁だと、話しかけづらかっただけなんじゃない?」
ツッコミの早いだりあが言った。
さらに萌々香には、刺繍という才能があった。
暇さえあればずっとチクチク縫っていて、普通のカーディガンに苺柄の刺繍を入れ、何と背中まで苺柄にしてある。
「だって背中に柄がないと寂しいから」
と萌々香はいう。
部室のミシンで衣装を直すのはお手の物で、過去の衣装でサイズが合わないものをリメイクしたり、ときにはシャツを何枚か片身変わりに縫い合わせ、不思議な衣装にしてみせたりする。
歴代受け継がれているイメージカラーも、
「どの素材の生地も安いから、チョコレート色にします」
と萌々香は、誰も選んでいなかったチョコレート色を選んだ。
確かに。
イメージカラーがチョコレート色のアイドルなんて存在は、見たことも聞いたこともない。
ところがチョコレートカラーのワンピースに白で刺繍を入れたりするだけで、まるでシックなアンティーク調の人形のようになる。
「うちも刺繍習おうかなぁ」
優子が思わず口に出すほどであった。
数日して萌々香が昼休みにチマチマ刺繍を縫っていると、
「萌々香、お願いしていい?」
菜穂子が寄って来た。
「ん?」
「私の衣装に刺繍、入れてもらっていい?」
「いいよ。何がいい?」
「揚羽蝶って頼んで大丈夫?」
「どこに入れるの? 色とサイズは?」
すると菜穂子は手にしていた紙袋から衣装に使うグレーのスカートを取り出し、
「裾に、ちらっと見える感じでお願いしていい?」
「分かった。急ぐ?」
「急がないけど、それ年末のお台場の音楽番組の衣装だから、十一月末までかな」
「分かったよー」
早速小型の枠を仮当てし、
「ここに来るけどいい?」
「了解」
すると萌々香は裁縫箱の下から銀糸を取り出して当てがい、
「この色は?」
「任せる」
決まるや早速、萌々香は下書きなしで縫い始め、帰り際のホームルームの頃には仕上がっていたのである。
「菜穂子ちゃん、出来たよ」
見るとスカートの裾、ちょうど左の腿の辺りに来る近辺に、銀糸で二頭の揚羽蝶が、つがいで飛ぶ姿が縫い取られていたのである。
「わぁ…めっちゃオシャレ!」
下描きなしとは思えない出来栄えである。
この噂が部内で広まると、萌々香の前には衣装に刺繍を依頼するメンバーが集まった。
由梨香のスカートの裾にはぐるりとイチゴの蔓をめぐらせ、里菜の衣装のブレザーにはエンブレムの縁取りで金糸をあしらい、ひかるの袖にはイニシャルを縫った。
圧巻だったのは、だりあのために一日がかりで縫った、イメージカラーの黄色のダリアの花が縫い取られた肩掛け式のポーチバッグで、
「こんなに可愛いと使うのもったいない」
だりあの喜ぶ顔を見て、萌々香も嬉しそうに慈愛の表情を浮かべた。
優子から受け継いだロリータ服も、萌々香はみずから野バラや桜桃の柄を入れたりして、どんどん可愛らしくしている。
それを着た姿を見た優子は、
「なんかローゼンメイデンみたいに変わりよったね」
少し驚いたようではあったが、
「まぁ可愛らしくなっとるけぇ、えぇじゃろ」
最後は喜んでくれた。
萌々香にスカートを可愛くしてもらった由梨香は、制服に着るカーディガンの刺繍も頼んでみた。
「時間かかるけど…」
そう言いつつ、実際は三日で仕上げた。
由梨香の長い髪で隠れないように、野バラと小鳥があしらわれたカーディガンは人目を引いた。
しかも由梨香は小学校六年生のとき、高校生と間違われてスカウトされたことがある…という逸話があるほどのスラリとした美貌の持ち主で、
「アイドル部始まって以来の美少女」
とまで、のちに澪に言わしめたほどである。
ところが由梨香には抜けているポンコツなところがあって、練習用のシャツを裏返しに着たまま、帰りに着替えるまで気が付かず、その後はシャツにステンシルを施して、裏表が分かるようにした…という、少しドジっ娘な面があった。