一人になった碧理は家に帰る気にもなれず、近くの公園へとやって来た。学校が終わったからか子供が遊んでいる。大人達が見守る中、元気に走り回っていた。
 
 碧理はそこから遠ざかるように、空いている隅のベンチへと腰かけた。
 そして、慎吾から奪った赤いノートを見る。
 勢いで持ってきたノートは、間違いなく碧理のもの。
 
「……今になって何で出てくるの? 私しか覚えていないのに」
 
 紺碧の洞窟へと行ったメンバーは、碧理を入れて五人。この二カ月間、誰からも接触はなかった。なのに、昨日から何かが変だ。
 
 ページを開き、他に何か書き込まれていないか隅々まで確かめる。だが、ノートには『花木碧理に聞け』その文章しか書かれていなかった。
 その文字を指でなぞる。
 
「皆が忘れたままって……悲しいね。誰にも相談出来ないや」
 
 涙で視界が歪む。
 
 ぽたりぽたりと頬に伝わり、そのままノートへと滴が落ちていく。
 泣き止まなきゃいけないのに、昨日から続く異変に、碧理の心はついていかない。
 すると、ノートに影がかかる。
 
「……大丈夫?」
 
 そう言って差し出されたのは、黒いハンカチ。
 弾かれたように顔を上げた碧理の目に映ったのは、なぜここにいるのか不明な森里蒼太の姿。
 その表情は固く強張っている。
 
「……どう、して?」
 
「偶然。家がこの近くなんだ。あそこで遊んでいる男の子、僕の弟。公園に連れて行けって言うから仕方なく付き添い。で、花木さんが公園に入って来て泣き出したから気になった」
 
 子供達の方を見ると、ブランコと砂場で分かれて遊んでいた。
 あの日、確かに蒼太本人から弟が二人いると聞いていた。でも、どれが弟かわからない。
 
 遠くを見つめたままハンカチを受け取らないでいると、蒼太が碧理の手にそっと置く。
 使って良いものか逡巡した後、碧理は首を振った。
 
「あり……がとう。でも、自分のハンカチあるから大丈夫」
 
「使ってよ。さすがに返されたら僕も困る。ほら、泣いている女の子にハンカチ渡すことって、あんまりないから」
 
 返そうとする碧理に蒼太が苦笑する。
 
 そして何を思ったのか、少し距離を取り碧理の隣へと腰を下ろした。
 どうやら、泣き止むまで傍にいてくれるらしい。そうなると、碧理も帰ることが出来なくて動けなくなる。
 泣いている理由を聞かれるかと身構えたが、蒼太は碧理に何も聞かない。
 
「……森里君もイケメンだね。ハンカチ持ってるなんて。しかも、女の子の扱いに慣れてそう」
 
「なにそれ。慣れてないよ。ハンカチを誰かに貸したのも花木が初めて」
 
 途端に碧理の顔が切なそうに歪む。
 蒼太からハンカチを貸して貰ったのはこれで二回目。記憶がないとわかっていても辛かった。
 
 ハンカチを見ると、角に小さく白い糸で描かれた猫の刺繍が見える。二カ月前に貸して貰った、今は翠子が持っている物とは色違いのようだ。
 それを指でなぞる。
 
「可愛い」
 
「……少しは落ちついた?」
 
「うん、大丈夫。ありがとう。森里君、バスケ部だったよね? 部活は行かなくて良いの?」
 
「花木、もう十月だよ。三年生は引退しているよ」
 
 苦笑いを浮かべた蒼太に言われ、碧理も自分の記憶力のなさに恥ずかしくなる。
 前に聞いたのに忘れていた。
 
「そうだったね。確か七月末の試合で終わったって聞いた。筧君が足を攣って大変だったって言ってたね」
 
 碧理は蒼太との会話を思い出し何気なく口にした。
 二カ月前、電車の中で蒼太本人から聞いた話を。
 
「……誰から聞いたの、それ。まだ一回戦で、場所も遠かったから応援に来てくれた人もいなかった気がするけど」
 
「えっ……」
 
 碧理は焦った。
 翠子達に続いて、また失言をしてしまったと。
 
「あ、えっと。瑠衣に聞いたの。瑠衣は筧君の彼女だから」
 
 目を泳がせて思いついたのは、幼馴染の瑠衣。これなら不自然ではないだろうと蒼太を見ると納得した様子で頷いた。
 
「そっか。……それで、花木が一人で泣いていた理由を聞いても良いの?」
 
 このタイミングで聞いてくるのかと焦り、目を逸らす。
 
「それは無理。だって、森里君には関係ないから」
 
 碧理はまた嘘をつく。
 たくさん積み重なって、何個目かわからなくなった嘘を。
 
「じゃあ、これに見覚えはある?」
 
 碧理が見せられたのはスマホ。そこに保存されていた一枚の画像だった。
 それを見て、碧理は動揺を隠しながら首を傾げた。そしてさり気なく左手を隠す。
 
「小さな貝だね。それと砂……」
 
 それは右の掌に砂や小さな貝殻をのせ、左手にスマホを持っている画像。
 日付は八月十日。
 その手の主は碧理だった。
 この時は、自分のスマホで写真を撮ることに夢中で、蒼太に撮られていたことに気づかなかった。
 
「話してくれない? この手は花木さんだよね? 手の甲の傷、同じだよ。それとスマホケースも」
 
 不自然に隠した碧理の手を、蒼太が掴む。
 碧理の左手の甲、親指の付け根には火傷の痕が残っている。
 小さい頃に油を使っている母にじゃれて飛びつき火傷を負ったもの。成長するにつれて薄くはなったが、完全には消えなかった。
 
 しかも、いつの間に確認したのかスマホケースまで指摘される。
 どうしてすぐに変えなかったのかと、碧理は過去の自分の不手際を呪った。
 
「花木さんは、俺とどう関わりがあるの? 夏休みに入る前、図書室で何度か会って、話しをしたこともあったけど、そこまで親しくなかったよね。教えて、あの三日間に何があったのかを」
 
 碧理は放課後の他に、昼休みも時間があれば図書室に入り浸っていた。それに対して蒼太はバスケ部。放課後はそっちに行くため昼休みに利用することが多い。
 
 そんな二人は同じクラスの縁か、図書室で会うと少し話す関係になった。
 同じミステリーやファンタジーが好きで好みが似ていた。恋が本格的に始まる前のお互いが気になる存在。そんな位置づけ。
 
 碧理は掴まれている手を振り払おうとするが、中々離してくれない。
 顔を伏せる碧理の手は震えていた。
 その震えは、蒼太にも伝わっている。
 
「……この画像、海だよね? 僕達は二人で海に行くくらい仲が良かった? 僕の記憶がなくなった三日間に何があったの? 二学期になってから、花木さんを図書室で見ないけど、それと関係ある?」
 
 あの日の光景が碧理の頭を過る。
 蒼太といて夢みたいに幸せを感じたあの時間。でも、それは幻想となった。
 
「――い、たの」
「なに? もう一度言って」
 
 碧理の囁きに、蒼太は怪訝な顔で問いかける。
 覚悟を決めた碧理は顔を上げた。
 泣き腫らした目は赤くなり、また涙が零れ落ちる。
 
 
「付き合っていたの。なのに……忘れたから。私のことだけ忘れてしまったから。だから、ずっと森里君を見てた」
 
「……えっ?」
 
 これが限界だった。
 願いと引き換えだったとは言え碧理は辛かった。でも後悔はしない。これが最善の道だとわかっているから。
 
 予想出来なかった答えだったらしく、蒼太が驚いたまま動かない。
 その隙に、碧理は思いっきり手を振りほどいて立ち上がった。手には蒼太から渡されたハンカチを持って。
 だから、忘れていた。
 
 
 ……あの赤いノートの存在を。