「――えっ」
 
「だめ……かな?」
 
 いきなりの蒼太の告白に、碧理は驚きすぎて言葉を紡げない。
 その沈黙の時間が蒼太を不安にさせた。
 
 肩を落として項垂れる蒼太に、碧理は勘違いしていることに気づく。
 
「ち、違うから! だ、だめじゃない! 私も……森里君のこと、気づいたら好きになっていたから」
 
 顔を真っ赤にさせた碧理は、恥ずかし気に海へと視線を戻した。
 まさかの展開に頭がついていけないからだ。
 海は大荒れだが、二人の空気は甘いまま。
 しかも、お互いに照れてしまってどうしようもない。
 
「花木さん。……僕も出来る限り協力するから願い事は止めてくれないかな? だって、この記憶が無くなったら……悲しい。それに、また……僕の片思いになってしまうから」
 
 神妙な面持ちで、蒼太が碧理の手をとる。その手は震えていた。
 
『願いが叶うと、記憶を一つ失う』
 
 管理人である榊は、どの記憶を失うかまでは言っていなかった。
 皆で過ごした、この三日間の記憶ではないのかも知れない。でも、この記憶なのかも知れない。
 
 碧理は、この三日間の記憶を失ってまで自由になりたいとは思わない。なぜなら、かけがえのない仲間が出来たから。
 碧理は、蒼太の願いに頷いた。
 
「――わかった。願いは止める。皆で帰ろう」
 
 あんなに悩んでいたのに、ずっと我慢していた思いは、蒼太に癒され仲間に救われた。
 
「良かった」
 
 晴れやかに蒼太が笑った。
 屈託のないその笑みは、碧理に向けられた後、その後方へと注がれた。
 
「……なんで」
 
 途端に蒼太が顔を手で覆った。
 
 不審に思った碧理が後ろを見ると、なぜか美咲、翠子、慎吾がいる。
 三人共、にまにまと生温かい視線を碧理と蒼太に向けながら。
 いつの間にか三人が来ていて、一部始終を見ていたようだ。
 
「良かったね! 上手くいって。起きて碧理がいないから焦ったよ。……洞窟へ行ったんじゃないかって。慌てて翠子と赤谷を起こして窓の外を見たら、森里といるから急いで来たんだ」
 
 美咲が二人の元へと走って来ると、思いっきり碧理へと抱き付いた。
 嬉しそうな笑みを浮かべる美咲は、自分のことのように喜んでいる。
 
「おめでとうございます。二人は付き合うと思っていました」
「まあ、最初からお互いの気持ちは駄々漏れだったけどな」
 
 翠子と赤谷も嬉しそうだ。
 そんな三人とは反対に、碧理と蒼太は居心地が悪そうにしている。いきなりの祝福に頭がついていかないらしい。
 
「これで皆、帰れるね。残りの夏休みも楽しみ。皆で勉強しよう」
 
 美咲がこれからの予定をたて始める。
 
「それは帰ってからだな。一番早い電車で帰ろう。朝から親の電話で俺はもう面倒だ」
 
 慎吾の手にあるスマホを見ると、着信履歴が凄まじいことになっていた。
 このままでは警察沙汰だ。
 
「皆、荷物を纏めよう」
 
 蒼太がそう言うと、各自が頷いた。
 告白され両想いになった余韻も一気に消え去る。
 そんな時、碧理は気づいた。翠子の膝に血が滲んでいることに。
 
「翠子さん。足どうしたの? 血が少し出てるよ」
 
 爽やかな青のチュニックに白の膝丈のスカート。ファストファッションに身を包んだ翠子は、自分の膝を見て苦笑した。
 
「さっき、そこで転んだんです。でも、少し血が出ただけなので大丈夫ですよ」
 
「……痛そう」
 
 碧理は自分の服のポケットを探る。
 そこには、一枚のハンカチがあった。
 廃校でサラダを作っていた時、包丁で怪我をした。その時、蒼太が貸してくれたハンカチだ。角に猫の刺繍が入っている。
 
「あ、森里君。このハンカチ貸してあげて大丈夫?」
「大丈夫だよ。痛そうだね、翠子さん」
 
 昨日、寝る前に管理人の榊から、乾燥機つきの洗濯機を借りていた。
 綺麗に洗ったハンカチは、朝、起きると碧理の枕元に置いてあった。榊がアイロンをかけてくれたらしい。
 
 それを翠子へと渡す。
 
 だがその時、なぜか突風が吹きつけ、碧理の手から離れるとハンカチが舞い上がる。それは意志を持っているように、ふわふわと弧を描き海へと飛んで行った。
 
 荒波が押し寄せる波打ち際へと。
 
「――あ」
 
 失くしては大変だと碧理はすぐに走り出す。
 蒼太のハンカチを捕まえようと、荒れ狂う荒波の方へと。
 上ばかり見ている碧理は気が付かない。
 
 足首まで海水に浸かっていることも、その行為がどれほど危険だと言うことかも。
 
「花木さん! 危ないから戻って――碧理!」
 
 美咲と翠子の悲鳴に混じって、蒼太の切羽詰まった声が碧理の耳に届いた。
 
 だが、その瞬間、黒い高波が碧理をのみ込んだ。
 そのまま海の中へと引きずり込む。
 さっきまでは、陽の光がわずかにあった。だが、今は雨がぽつりぽつりと降ってきて、辺りはまるで夜のようだ。
 
「花木! 二人は誰か呼んで来い。蒼太戻れ!」
 
 慎吾が翠子と美咲に声をかけた。
 
 碧理を助けに海の中に入ろうとしている蒼太を、慎吾が必死で止める。
 そんなことは何もわからずに、碧理は冷たい海水に飲み込まれたまま意識を失った。