「ここが洞窟のある街か。普通の観光地だな」
 
 慎吾の発した言葉は、ここにいる全員の感想だった。
 
 駅を出ると潮の香りがした。
 肉眼で確認出来るほど海が近い。歩いて五分もかからないだろう。
 陽が落ちるのが遅い今の季節は、夕方になってもまだ明るく、沈みゆく夕日にあてられ、水面がキラキラと光っていた。
 
 そして、今日は有名な花火大会のせいか人が多い。家族ずれも多く、若い女の子達は浴衣を着ていて楽しそうだ。
 案内板を見ると、海辺で花火を打ち上げるようで、開始時刻は、今から一時間後の二十時になっている。
 
 はしゃぐ花火目当ての人々とは違い、ずっと電車に乗っていた慎吾は疲れたらしく、駅から出ると身体を大きく動かす。
 
 慎吾と翠子は、徹夜だったこともあり、電車の中では二人共ほぼ寝ていたらしい。蒼太が起こさなかったら、乗り継ぎも危なかった。
 疲れているのは慎吾だけではなく、残りの四人も同じで、つられるように腕を曲げたり身体を捻っている。
 
「それで白川、今日はどこに泊まるんだ?」
 
 時刻は十九時。
 
 美咲と無言の時間を朝から過ごした碧理は、神経をすり減らしていた。洞窟へ着く前に、もう疲労困憊だ。
 早く宿で休みたいと思ったのは、五人全員が同じ気持ちだろう。
 
 翠子は電車に長時間乗るのが初めてだったらしく、近くにあるベンチに座り込むと、慎吾も隣に腰を下ろした。
 蒼太もいつものような元気がなく疲れ切っている。
 
「えっとね。……あのね、皆。怒らないで聞いてくれるかな?」
 
 思ったことを口に出すサバサバしている美咲が言いよどむ。しかも、不自然なほど四人と目を合わせない。
 それだけで碧理は嫌な予感がした。
 
「なんだよ、早く言えよ」
 
 慎吾が早くしろと美咲をせかす。
 すると、美咲が思いっきり頭を下げて謝罪した。
 
「ごめん! 二日目の宿のことなんだけど、満喫にでも泊まろうと思っていたから取ってないの! だって、本来なら、私、一人だけの旅だったから……さ」
 
「まじかよ……。どうするんだ、今日」
 
 唖然とする慎吾の隣で、翠子は目を潤ませる。
 
「本当にごめん! 電車の中で探してみたんだけど、今日は花火大会でどこも予約で一杯なの。最悪、野宿かも」
 
 項垂れる美咲に誰も口を開かない。
 だが、落ち込む美咲を責めることが出来なかった。
 なぜから、美咲一人に全部任せすぎていることに今更ながらに気づいたからだ。切符の手配からどの電車やバスに乗るのか。どの道を行くのか。
 頼りすぎていた。
 
「仕方無いよ。一応、満喫探して、ダメだったらどこかで野宿しよう」
 
 重い空気を振り払うように碧理が提案する。
 
「でもさ、この人数で外にいたら補導される確率高いよ。そうなったら困るでしょ?」
 
 蒼太が苦笑しながら碧理を見た。
 確かに、親に嘘を付いての未成年だけの旅。
 警察に見つかると問答無用で家に連絡が行くだろう。そうなると学校にも知られる確率が高い。
 
 それは、なるべく避けたかった。
 途端に全員が黙り込んだ。
 五人いても、これからどうすれば良いのか全く良い知恵が浮かばない。
 
「とりあえず皆さん。花火見に行きませんか? それに、お腹が空きました」
 
 か弱い声は翠子で、赤い顔をしながらお腹を抑えた。
 確かに今日は、焦げたパンケーキとコンビニ食しか口にしていない。
 辺りを見渡すと、屋台も出ているらしく食べ物の匂いが食欲を刺激する。
 
「……行くか。泊まる所はまた考えることにして腹ごしらえしようぜ」
 
 人混みのせいで翠子がはぐれると思ったのか、過保護な慎吾が手を繋ぐ。その何気ない仕草が嬉しかったのか、二人は歩き出した。
 
「あーあ。甘いな、あの二人。羨ましい。私も去年はあんな感じだったんだけどな」
 
 羨ましそうな美咲の声に、碧理は名刺を取り出した。
 電車で貰った、あの男性から渡された物を。
 それを見ると、空気をよんだ蒼太は歩き出す。先に行った二人を追い駆けるように。
 
「……美咲、これ預かった」
 
「こんなの渡して来たんだ。あーあ。わからなくなってきたな。ちょっと……聞いて貰っても良いかな? 少し落ちついたし碧理になら話せる」
 
「うん。私で良かったら聞くよ。欲しい答えはあげられないかも知れないけど」
 
「……ありがとう」
 
 美咲が名刺を受け取ると二人は歩き出した。
 
 大勢の人で賑わう屋台の方角ではなく海の方へと。花火が上がる場所は、すでに人で溢れていたため、二人は喧騒から離れた海に近い岩場へと歩いて行く。
 そして、まばらに人がいるのを確認すると、会話が聞こえない程度に距離をあけて腰を下ろした。
 
「……ごめんね。今日、一日中、私の不機嫌さに付き合わせて。あとから赤谷達にも謝ってくる。あの電車の人ね……私が高校受験する時の家庭教師だったんだ。兄貴の友達なの」
 
 美咲が過去を思い出すように、陽が沈んでいく海を眺めた。
 地平線に隠れそうな夕日は、血のように赤く、暗い海へと消えていく。
 
「黒川健人さんだっけ。美咲の好きな人」
「ああ、名刺に名前あったね。そう、七歳上なの。その時、健人君は大学四年生だった。就職も決まって時間があるからって引き受けてくれた。十五歳の私からしたら、凄く大人でさ……すぐに好きになった」
 
 黒川健人は今、二十五歳になるのかと、碧理は頭の中で計算した。
 さっきの電車では童顔だったせいか、学生でも通用する容姿だった。
 美咲と話し合いたいのに強く出れない様子は、頼りなく見えて、それも幼く見えた原因かも知れない。
 
「確かに大人だよ。七歳差だもん。学生の過ごす時間と、社会人の過ごす時間は早さが違うって母さんが言ってた」
 
「碧理を……産んでくれたママの方?」
 
「うん。聞いた時は意味が分からなかったけど、今なら少しだけど理解出来る……かな。離婚する時、母さんが言ったんだ。『学生の時は、離れていてもあんなにも時間を作ったのに、一緒に住んだら、一緒にいる時間が減った』って。うちの両親、大学の時から付き合っていたから。離婚は親も大変だけど子供も大変」
 
 子供の頃には理解出来なかった大人の事情が見えてくると、嫌でも過去の記憶が蘇る。冷え切った両親の関係は、同世代の子供よりも早く碧理を大人にした。
 空気をよみ、火の粉がかからない場所へ逃げる。その最善の道を探し出すために。
 
 それは学校でも同じだった。平凡で目立たず当たり障りのない毎日。
 そうやって自分の感情を抑えて、生きる術が身に付くのに時間はかからない。感情を抑えることに慣れた子供になった。
 
「我が家も似たようなもんよ。親がダブル不倫だもん。しかも、ママの相手誰だと思う?」
 
 クイズのような美咲の質問に、碧理は嫌な予感が心に渦巻く。
 どう考えても、この話の流れは……美咲の好きな人へと繋がるのだろう。
 
「……まさかの黒川さん」
 
「当たりです!」
 
 笑っているが、美咲の瞳は潤んでいた。
 
「うちのママは今時珍しい専業主婦なの。あれは高校二年の時かな。学校が終わって帰ったら、リビングで健人君とママが抱き合ってた。目の前が暗くなったよ」
 
「ヘビーだ」
 
 碧理は何て言って慰めれば良いのかわからない。何を言っても気休めにしかならないと悟ったから。
 
 美咲が言うには、高校に入ってからも勉強を教えてくれていたという。
 その日は短縮事業で、いつもよりも少しだけ帰りが早くなった。
 健人が夜に来ることを知っていた美咲は、学校が終わると家路へと急ぐ。部屋を少しでも綺麗に片づけて着替えるために。
 
 いつもは「ただいま」と大声で帰宅を告げるが、この日は違った。
 なぜなら、玄関を開けると健人の靴が目に飛び込んで来たから。健人がいつも訪れる時間より三時間も早く来ている。
 なのに、玄関から続く廊下の向こう側、リビングからは音が何も聞こえない。
 
 不思議に思い、美咲は音を立てないように廊下を歩くと、リビングのドアの前へ立った。
 
 リビングのドアは所々、ガラスがはめ込まれていて中の様子が伺える作りになっている。そこから美咲は覗き込む。
 すると、大好きな健人が、美咲の母を抱き締めている場面に遭遇した。しかも母親は泣いているようで縋りついているように見える。
 
 健人も嫌がっているそぶりは見えない。
 美咲はその様子を見て、ガラガラと何かが崩れ去るような感覚に陥った。しかも、逃げるように一歩後ろに下がると棚に置いてあった花瓶が倒れて大きな音を立てた。
 
 その音に驚いたのは美咲だけではなく、中の二人も同じだったようで、母親は目に見えて動揺した。
 健人もまた、茫然と美咲を見ている。
 
「それでどうしたの?」
 
 小説のような展開に碧理は美咲を見た。
 
「すぐに家を飛び出して兄貴に電話したんだ。健人君とママが浮気してるって。そしたら、兄貴、黙り込んで。……知っていたんだろうね。それからよ。私が学校に行かなくなったのは。見張ることにしたんだ、二人を」
 
 あんな場面を見ても、美咲は健人のことが大好きだった。
 だから学校を行くのを止めた。二人を会わせないために。
 
「それ以来、黒川さんと話してないの?」
 
「うん。健人君の電話も全部無視しているし、ママとも三年間まともに話してないの。兄貴と弟がいるから二人が間に入ってくれているんだ。兄貴も弟も賢いから、雰囲気察して何も言わない。パパも愛人がいるから家に帰って来ないの……。こんなの家族って言えないかもね」
 
 寂しそうな美咲は海を真っ直ぐに見つめる。
 そんな美咲を見ていると、碧理も何も言えなくなった。
 そのまま二人で、無言で暗い海を見ていると、美咲がポケットからスマホを取り出す。どうやら電話がかかってきたようだ。
 
 
「……嫌な予感がする。家からだ」
 
 碧理を見つめる美咲の顔が緊張で強張った。そして、恐る恐る電話に出る。