「ねぇ。どうして君は、いつも僕を見てるの?」
花木碧理は、いきなり声をかけられ倒れそうになるほど驚いた。食べていたチョコレートパンを吐き出しそうになるほどに。
それを何とか堪え、その人物を視界に入れると、胸がズキリと痛み出す。
――大好きな彼が目の前にいるだけで、碧理の感情は揺らいだ。
碧理が今いる場所は学校の屋上。アルファベットのH形の校舎の真ん中の部分。そこの屋上は日頃から生徒に解放されていた。
今は昼休み。
夏が終わり、季節が移り変わった十月八日。
過ごしやすい気候のおかげか、屋上にいる生徒の数は多い。皆、思い思いに食事やおしゃべりに興じている。
そんな中、いつものように所定の場所、フェンスの近くに碧理は座り込んでいた。目的は、その場所から見える中庭だ。
友達と一緒にお昼を食べている彼……。今、目の前に立っている森里蒼太を見るために。
「……いつも視線を感じていたけど、理由を聞かせて」
どこか警戒している蒼太と、面と向かって話すのは実に二カ月ぶり。同じクラスなのに、二人が言葉を交わすことは滅多になかった。
バスケ部に所属する蒼太は背が高く、気さくで誰にでも優しく話しやすい。クラスの上位カーストに位置している。
そんな蒼太とは反対に、目立ちもせず地味でもない。至って普通で平凡な碧理では接点はまるでなかった。
あの八月の三日間を除いて。
高校三年で二人は初めて同じクラスになった。
夏休みに入る前は、図書室で会うと少し話す程度の関係。だが、二学期に入るとそれさえも無くなった。
今はただのクラスメイト。その言葉が良く似合う。
なのに、見ていたことに気づかれた。碧理は、目に見えて狼狽えた。
そんな不自然な碧理の態度に、蒼太は眉間に皺を寄せて、座ったままの碧理を見下ろす。
「ずっと見られているとストーカーみたいで困るから止めて欲しいんだけど。何か用事があるなら今、言ってくれない? もしかして……僕の事故と何か関係あったりする?」
いきなりのストーカー発言に、碧理は反論しようと口を開きかける。だが、蒼太から聞こえた『事故』の二文字に黙り込んだ。
夏休みの八月初旬に、森里蒼太は事故に合った。その事故が原因で一部の記憶を失ったのは有名な話。
しかも、記憶を失くしたのは蒼太が行方不明だった三日間。その時の記憶だけ。誰と何をしていたのかも未だにわかっていなかった。
「花木さん。事故について知っているなら教えて欲しい。僕は、あの夏の記憶が何もないから……」
蒼太の言葉に、碧理は俯いたまま顔を上げられなかった。
――知っているから。
碧理は蒼太の欲しい答えを全部持っている。
でも、それは口にすることが出来ない。
蒼太の記憶が戻らないことは、碧理が一番良くわかっているから。
「……ごめん。私は何も知らない。私が森里君を見ていたのは気になったから。事故で記憶を失くすって、どんな感じなのか興味があったの。不快な思いをさせてごめんね。もう、見ないようにするから」
視線を落としたまま碧理はそう言うと、落としたチョコレートパンを拾って立ち上がった。
他に持って来た飲み物やスマホを持つと、蒼太の後ろにある屋上の出入り口を目指す。
「浜辺さんに聞いたけど……。花木さん、八月の初めに家出したって。花木さんが警察に保護された場所が、僕の近くだって聞いたけど……。もしかして、僕と一緒にいたりした?」
すれ違い様の蒼太の言葉に、碧理の手が震えた。
真っ直ぐに見つめてくる蒼太に、碧理は目を合わせられない。
本当は真実を伝えたかった。でも、それは出来ない。本来なら、碧理もまた記憶がなくなっているはずだった。
こうして、蒼太と話すこともなかった。なのに、碧理だけ記憶が残っている。あの暑い夏の記憶が。
でも、真実を伝えることは出来ない。
――蒼太がまた、死んでしまうかも知れないから。
「……ううん。私は家出じゃなくて親戚の家に行っていただけだよ。……ごめんね」
そう言うと、まだ何か言いたそうな蒼太から背を向けて碧理は逃げ出した。
「あれ? 碧理、早いね。森里はいなかったの?」
教室へ戻ると、一番仲の良い浜辺瑠衣が不思議そうに声をかけてくる。
クラスでは至って地味で普通の碧理とは違い、友達も多く、目立つ存在の瑠衣は、クラスの上位カーストに位置している。
そんな瑠衣がなぜ碧理と一緒にいるかと言うと、二人は家が隣同士の幼馴染だからだ。
「……瑠衣、森里君に何言ったの? 私が家出していた時のこと聞かれたんだけど」
お弁当を頬張っている瑠衣の前の席に陣取った碧理は、口を尖らせた。
「ああ、言っちゃったんだ……ごめん。実は、森里に言ったのは刹那なの」
手を合わせて申し訳なさそうに謝ってくる瑠衣の口から出たのは、瑠衣の彼氏の筧刹那の名前。
「筧君か……」
「うん。刹那、森里と仲良いから、つい言っちゃったんだって。森里、記憶がないこと凄く気にしているみたいで。同じ時期に家出していた碧理のこと言っちゃったんだ」
何度もごめんね。と謝る瑠衣に溜め息が出そうになるのを、碧理はぐっと堪える。
瑠衣は昔から無神経な所があった。
良く言えば大らかで小さいことを気にしない。悪く言えば、悪気のない天然。これが一番面倒だったりする。
「言っちゃったなら仕方ないよね。でも、何度も言うように、私は森里君とは関係ないからね。同じ場所に居たのは偶然だよ。私は親戚の家に居たんだし」
瑠衣との仲がこじれるのは困る。
だけど、これ以上、あの家出事件について触れて欲しくない碧理は、何度も瑠衣に「もう、この話は誰にも言わないで」と念を押す。
「うん。わかった。刹那にも言っとくから。……でも、森里と話せたんでしょ?」
「話せたと言うか……ストーカー扱いされただけ」
「何、それ? 詳しく教えて」
今まで神妙に謝っていた瑠衣が、途端に目を輝かす。
その様子に若干引きながら、誰かに聞いて欲しい思いも募り、ポツポツと話し始めた。
「……確かに、碧理は森里のことガン見しすぎていたと思うよ。私や刹那も気づくほどだったから森里本人も視線感じるでしょ? ところで何でいきなり森里なの? 夏休みが終わった後からだよね。確かに爽やか系イケメンだけど、いつ好きになったの?」
「違うよ。好きとかそんなのじゃない。ただ、記憶がないってどんな感じか興味があっただけ……」
碧理は嘘を付いた。
瑠衣にも本当のことは言えない。このことを話せる仲間は皆、記憶を失っている。碧理だけで考えなくてはならない。
「本当に?」
瑠衣の疑う眼差しに居たたまれなくなっていると、クラスメイトから声をかけられた。
「花木さん。呼んでるよ……赤谷君」
「へっ?」
クラスメイトの困ったような、怯えたような様子と「赤谷」の名前に、碧理だけではなく、瑠衣も一緒になって教室のドアを見る。
そこには、学年一の有名人と言っても過言ではない赤谷慎吾が碧理を見ていた。
校則違反である髪を茶色に染め、着崩した制服に吊り上がった瞳。柔道をやっているからか体格も良く、一言で言い表すなら野生に放たれたライオン。
学校中が腫物のように扱い、極力、誰も近寄らない。そんなライオンが、威嚇しながら碧理を睨みつけている。
「花木碧理、話がある。すぐに来い」
教室中に聞こえるような大声に、賑やかだった室内は水を打ったように静寂が訪れた。クラス中の視線が碧理に集中する。
そんな居心地の悪い視線を受け、碧理は心の中で「終わった」と呟き天を仰いだ。その中には、碧理のすぐ後に教室に入って来た蒼太の姿もあった。
「ちょっと、碧理。あんた赤谷と何かあったの? 怒っているみたいだけど」
慌てる瑠衣は、放心状態の碧理に小声で囁き腕を掴んだ。
「花木碧理。これについて話がある」
動かない碧理に痺れを切らしたのか、クラス中が注目する中、慎吾が取り出したのは赤い表紙のノート。
それを目にした途端、碧理は焦り出す。
だが、ここで取り乱す訳にはいかないと平静を保った。そして、全身に痛いほど突き刺さる視線を浴びながら慎吾の元へと歩いて行った。
「――ありがとう。いつの間にか無くなっていたの。何処でこれを?」
「無くした? それを詳しく説明しろ。こっちだ」
受け取ろうと手を伸ばした碧理の腕を掴み、慎吾が歩き出す。
「えっ? ち、ちょっと! 赤谷君、離して」
思いっきり腕を掴まれた碧理は、引きずられるようにして廊下を歩き出した。鬼気迫る様子の慎吾を誰も止められる訳もなく、無情にも碧理は連れて行かれた。
花木碧理は、いきなり声をかけられ倒れそうになるほど驚いた。食べていたチョコレートパンを吐き出しそうになるほどに。
それを何とか堪え、その人物を視界に入れると、胸がズキリと痛み出す。
――大好きな彼が目の前にいるだけで、碧理の感情は揺らいだ。
碧理が今いる場所は学校の屋上。アルファベットのH形の校舎の真ん中の部分。そこの屋上は日頃から生徒に解放されていた。
今は昼休み。
夏が終わり、季節が移り変わった十月八日。
過ごしやすい気候のおかげか、屋上にいる生徒の数は多い。皆、思い思いに食事やおしゃべりに興じている。
そんな中、いつものように所定の場所、フェンスの近くに碧理は座り込んでいた。目的は、その場所から見える中庭だ。
友達と一緒にお昼を食べている彼……。今、目の前に立っている森里蒼太を見るために。
「……いつも視線を感じていたけど、理由を聞かせて」
どこか警戒している蒼太と、面と向かって話すのは実に二カ月ぶり。同じクラスなのに、二人が言葉を交わすことは滅多になかった。
バスケ部に所属する蒼太は背が高く、気さくで誰にでも優しく話しやすい。クラスの上位カーストに位置している。
そんな蒼太とは反対に、目立ちもせず地味でもない。至って普通で平凡な碧理では接点はまるでなかった。
あの八月の三日間を除いて。
高校三年で二人は初めて同じクラスになった。
夏休みに入る前は、図書室で会うと少し話す程度の関係。だが、二学期に入るとそれさえも無くなった。
今はただのクラスメイト。その言葉が良く似合う。
なのに、見ていたことに気づかれた。碧理は、目に見えて狼狽えた。
そんな不自然な碧理の態度に、蒼太は眉間に皺を寄せて、座ったままの碧理を見下ろす。
「ずっと見られているとストーカーみたいで困るから止めて欲しいんだけど。何か用事があるなら今、言ってくれない? もしかして……僕の事故と何か関係あったりする?」
いきなりのストーカー発言に、碧理は反論しようと口を開きかける。だが、蒼太から聞こえた『事故』の二文字に黙り込んだ。
夏休みの八月初旬に、森里蒼太は事故に合った。その事故が原因で一部の記憶を失ったのは有名な話。
しかも、記憶を失くしたのは蒼太が行方不明だった三日間。その時の記憶だけ。誰と何をしていたのかも未だにわかっていなかった。
「花木さん。事故について知っているなら教えて欲しい。僕は、あの夏の記憶が何もないから……」
蒼太の言葉に、碧理は俯いたまま顔を上げられなかった。
――知っているから。
碧理は蒼太の欲しい答えを全部持っている。
でも、それは口にすることが出来ない。
蒼太の記憶が戻らないことは、碧理が一番良くわかっているから。
「……ごめん。私は何も知らない。私が森里君を見ていたのは気になったから。事故で記憶を失くすって、どんな感じなのか興味があったの。不快な思いをさせてごめんね。もう、見ないようにするから」
視線を落としたまま碧理はそう言うと、落としたチョコレートパンを拾って立ち上がった。
他に持って来た飲み物やスマホを持つと、蒼太の後ろにある屋上の出入り口を目指す。
「浜辺さんに聞いたけど……。花木さん、八月の初めに家出したって。花木さんが警察に保護された場所が、僕の近くだって聞いたけど……。もしかして、僕と一緒にいたりした?」
すれ違い様の蒼太の言葉に、碧理の手が震えた。
真っ直ぐに見つめてくる蒼太に、碧理は目を合わせられない。
本当は真実を伝えたかった。でも、それは出来ない。本来なら、碧理もまた記憶がなくなっているはずだった。
こうして、蒼太と話すこともなかった。なのに、碧理だけ記憶が残っている。あの暑い夏の記憶が。
でも、真実を伝えることは出来ない。
――蒼太がまた、死んでしまうかも知れないから。
「……ううん。私は家出じゃなくて親戚の家に行っていただけだよ。……ごめんね」
そう言うと、まだ何か言いたそうな蒼太から背を向けて碧理は逃げ出した。
「あれ? 碧理、早いね。森里はいなかったの?」
教室へ戻ると、一番仲の良い浜辺瑠衣が不思議そうに声をかけてくる。
クラスでは至って地味で普通の碧理とは違い、友達も多く、目立つ存在の瑠衣は、クラスの上位カーストに位置している。
そんな瑠衣がなぜ碧理と一緒にいるかと言うと、二人は家が隣同士の幼馴染だからだ。
「……瑠衣、森里君に何言ったの? 私が家出していた時のこと聞かれたんだけど」
お弁当を頬張っている瑠衣の前の席に陣取った碧理は、口を尖らせた。
「ああ、言っちゃったんだ……ごめん。実は、森里に言ったのは刹那なの」
手を合わせて申し訳なさそうに謝ってくる瑠衣の口から出たのは、瑠衣の彼氏の筧刹那の名前。
「筧君か……」
「うん。刹那、森里と仲良いから、つい言っちゃったんだって。森里、記憶がないこと凄く気にしているみたいで。同じ時期に家出していた碧理のこと言っちゃったんだ」
何度もごめんね。と謝る瑠衣に溜め息が出そうになるのを、碧理はぐっと堪える。
瑠衣は昔から無神経な所があった。
良く言えば大らかで小さいことを気にしない。悪く言えば、悪気のない天然。これが一番面倒だったりする。
「言っちゃったなら仕方ないよね。でも、何度も言うように、私は森里君とは関係ないからね。同じ場所に居たのは偶然だよ。私は親戚の家に居たんだし」
瑠衣との仲がこじれるのは困る。
だけど、これ以上、あの家出事件について触れて欲しくない碧理は、何度も瑠衣に「もう、この話は誰にも言わないで」と念を押す。
「うん。わかった。刹那にも言っとくから。……でも、森里と話せたんでしょ?」
「話せたと言うか……ストーカー扱いされただけ」
「何、それ? 詳しく教えて」
今まで神妙に謝っていた瑠衣が、途端に目を輝かす。
その様子に若干引きながら、誰かに聞いて欲しい思いも募り、ポツポツと話し始めた。
「……確かに、碧理は森里のことガン見しすぎていたと思うよ。私や刹那も気づくほどだったから森里本人も視線感じるでしょ? ところで何でいきなり森里なの? 夏休みが終わった後からだよね。確かに爽やか系イケメンだけど、いつ好きになったの?」
「違うよ。好きとかそんなのじゃない。ただ、記憶がないってどんな感じか興味があっただけ……」
碧理は嘘を付いた。
瑠衣にも本当のことは言えない。このことを話せる仲間は皆、記憶を失っている。碧理だけで考えなくてはならない。
「本当に?」
瑠衣の疑う眼差しに居たたまれなくなっていると、クラスメイトから声をかけられた。
「花木さん。呼んでるよ……赤谷君」
「へっ?」
クラスメイトの困ったような、怯えたような様子と「赤谷」の名前に、碧理だけではなく、瑠衣も一緒になって教室のドアを見る。
そこには、学年一の有名人と言っても過言ではない赤谷慎吾が碧理を見ていた。
校則違反である髪を茶色に染め、着崩した制服に吊り上がった瞳。柔道をやっているからか体格も良く、一言で言い表すなら野生に放たれたライオン。
学校中が腫物のように扱い、極力、誰も近寄らない。そんなライオンが、威嚇しながら碧理を睨みつけている。
「花木碧理、話がある。すぐに来い」
教室中に聞こえるような大声に、賑やかだった室内は水を打ったように静寂が訪れた。クラス中の視線が碧理に集中する。
そんな居心地の悪い視線を受け、碧理は心の中で「終わった」と呟き天を仰いだ。その中には、碧理のすぐ後に教室に入って来た蒼太の姿もあった。
「ちょっと、碧理。あんた赤谷と何かあったの? 怒っているみたいだけど」
慌てる瑠衣は、放心状態の碧理に小声で囁き腕を掴んだ。
「花木碧理。これについて話がある」
動かない碧理に痺れを切らしたのか、クラス中が注目する中、慎吾が取り出したのは赤い表紙のノート。
それを目にした途端、碧理は焦り出す。
だが、ここで取り乱す訳にはいかないと平静を保った。そして、全身に痛いほど突き刺さる視線を浴びながら慎吾の元へと歩いて行った。
「――ありがとう。いつの間にか無くなっていたの。何処でこれを?」
「無くした? それを詳しく説明しろ。こっちだ」
受け取ろうと手を伸ばした碧理の腕を掴み、慎吾が歩き出す。
「えっ? ち、ちょっと! 赤谷君、離して」
思いっきり腕を掴まれた碧理は、引きずられるようにして廊下を歩き出した。鬼気迫る様子の慎吾を誰も止められる訳もなく、無情にも碧理は連れて行かれた。