「……慎吾君」
 
 碧理と蒼太がいなくなった後、慎吾と翠子の間には居心地の悪い空気が漂っていた。それを最初に打ち破ったのは翠子だ。
 
「翠子。少し待ってくれないか? ちょっと自分の気持ちを整理するから」
「……うん。隣に座っても良い?」
「ああ……」
 
 今までとは違い、素直に答える慎吾を見て、翠子が嬉しそうにベンチに腰かける。
 そして空に視線をやり、ため息を吐く。緊張していた空気が少しだけ和らいだ。
 
「綺麗……」
 
 頭上には、普段、見ることのない満天の星。
 その星空を眺め、隣でノートと睨み合っている慎吾に、翠子は視線を向ける。
 
 この頃、一緒にいることがなくなった慎吾の態度に、翠子は何度も泣きそうになった。
 
 自分が何かしてしまったのか不安に陥り、その度に詰め寄って泣きながら縋りつく。そんなことをしても、慎吾の心が離れていくと頭ではわかっている。
 だけど気持ちを抑えられなかった。
 
 ずっと傍にいて欲しかったから。それが当たり前だと思っていた。
 だから今夜、慎吾の本音を聞きたかった。
 たとえ、それが望む形でなくとも。
 
 そして、翠子もまた、慎吾に伝えたいことがあった。それをどう伝えようか、翠子もまた思案する。
 
 真夏の夜の、生温かい不快な空気が二人を包む。
 何を言われるのかわからず、緊張している翠子の手は固く握られている。
 そんな翠子に対して、慎吾はノートとペンを握り締めて苦悶の表情を浮かべていた。
 
 何度も文字を書いては消し、また書く。それを繰り返していると、白いノートは瞬く間に黒く塗りつぶされる。
 難しい顔をしながらも、慎吾がペンを走らせる音が翠子に届く。
 
 しばらくすると、静けさを打ち破るように慎吾が声を上げた。
 
「……出来た。翠子、これが俺の今の気持ち」
 
 その声は緊張しているようで、ゆっくりと慎吾が翠子に赤いノートを手渡す。伝えたいことが書いてあるページを広げながら。
 
「……うん」
 
 どんな言葉が綴られているのか予想出来ない翠子は、恐る恐るノートを受け取った。
 そして、書いてある文字を目で追うと、大きく目を見開く。
 
「……えっ?」
 
 あんなにも時間をかけて悩んでいたノートには、長文ではなく、短い文字でわかりやすく、はっきりと書かれていた。
 
 
 
『好きだ』
 
 
「……っ、慎吾君。これって!」
 
 勢いよく慎吾を見た翠子の瞳に映ったのは、顔を赤くした姿。
 照れているようで、それを隠そうとするように空を見上げている。その姿に、翠子は思わず抱き付いた。
 
「おい、翠子! 離れろよ」
「嫌。だって嬉しいんだもん。私も慎吾君のことが大好きです! 初めて会った時からずっと」
 
 何度も「離れろ」と叫ぶ慎吾の腕に絡みつく翠子を見て、慎吾は引き剥がすことを諦める。
 
「翠子……。俺、日本以外の国を見てみたいんだ。だから、卒業したら海外に行く」
 
 翠子に想いを伝えたことで吹っ切れたのか、慎吾が語り出す。
 どう言う道に進みたいのかを。
 成り行き上、碧理に語った話を翠子に聞いて貰う。
 
「まだ、具体的には何も決まっていないけど、絶対に翠子の元へ帰って来るから。俺は自分の道を自分で選びたい。十年後、二十年後に後悔しないように。だから、しばらくの間、お別れだ」
 
 前を見て、未来を見据えた慎吾の瞳からは迷いが消えていた。
 
 翠子と別れたいと騒ぎ、美咲や碧理を巻き込んでの修羅場騒動。蒼太までも加わって大騒ぎしたのが嘘のように、慎吾は自分の気持ちを素直に口に出す。
 その姿を見て、翠子もまた、にこやかに笑った。
 
「うん。いつまでも待ってるから。おばあちゃんになるまでには迎えに来て。慎吾君はいつも私を守ってくれていたけど、私も一人で大丈夫だよ。美咲さんみたいにかっこよく出来ないし、碧理さんのように料理も出来ないけど、私も一人で何でも出来るように学ぶから。だから……心配しないで」
 
 翠子もまた考えていたことがあった。
 
 慎吾と同じように、このままではダメだと。だけど行動に移せずにいた。慎吾の隣は居心地が良くて安心出来る場所だから。
 
 だが、電車の中で碧理に言われた言葉が翠子の心に突き刺さった。
 頼ってばかりだと慎吾が疲れてしまうと。束縛しすぎると嫌われてしまうと。
 
 だから、翠子もまた行動に移すことにした。
 今は離れていても、未来を慎吾と共に歩けるように努力しようと。慎吾と共に歩けるように力を付けようと心に決めた。
 
「慎吾君に負けないように、かっこいい自立した女性になるから。だから……待っているね」
 
「ああ……。翠子なら何でも出来るよ。いつも努力している姿を見ていた俺が、一番良く知っている」
 
 跡取り娘として、幼い頃から我慢し、親の期待に応えようとする翠子の姿を、慎吾は身近で見ていた。誰よりも努力していた姿を。
 だからこそ、翠子の人生を慎吾もまた邪魔したくはなかった。
 
「約束ね……」
 
 そう翠子がまた呟くと、慎吾からペンを借り、赤いノートに何かを書き込んだ。
 
「おい、翠子。お前、何を書いているんだよ。これ、花木のノートだぞ」
 
 その文字を見ると、慎吾が慌てたように止めに入る。
 
「この後の人生設計です。慎吾君、私は三十までに結婚して、子供を二人産む予定です。だから、それまでに帰って来て下さい。絶対ですよ! このノートは碧理さんに証拠として預かって貰います! だから、サインして下さい」
 
「はっ? 花木にノート預ける? サイン……って」
 
 顔を引き攣らせた慎吾を横目に、翠子はペンを走らす。それは卒業後の二人の設計図。
 それを見ると、二人は九十まで生きる予定のようで「孫」の文字まで見える。
 
「慎吾君、サインして下さい。私が慎吾君を幸せにしてみせます。安心して名前を書いて下さい」
 
 ドラマか小説の見過ぎのような翠子の台詞に、慎吾は困ったような笑みを浮かべた。そして、決心したようにペンを持つと、そこに自分の名前と日付を書き込んだ。
 
 こう言う未来を迎えるのも、悪くはないと思いながら。
 
「ふふっ。これで慎吾君の人生は私と一心同体ですね」
 
 
 怪しい笑みを浮かべる翠子の姿に、早まったかもと少しだけ後悔しながらも、これからの未来を慎吾は想像した。