――明日は絶対に見に来てね。来なかったらぶっ飛ばすからな。
起床した瞬間、幼馴染にかけられた言葉が頭の中を駆け巡った。二度寝しようと思っていた僕は、重い身体をベッドから起こす。窓から差し込む木漏れ日が、モノトーンだった部屋をカラフルに染め上げていく。温かな雰囲気に浸りながら、僕は大きく両手を広げて伸びた。
「そっか……大会だったっけ」
昨日の学校帰り、隣に住む幼馴染の試合を見に行く約束をした。はじめは大会なんて見に行くつもりはなかった。僕には応援に行く権利などないし、幼馴染にかける言葉もない。そう思っていたから。
そんな僕とは裏腹に、幼馴染は昔から変わらない男勝りな態度で僕を快活にどやしてきた。寝起きに思い出すくらい強烈な印象を植え付けた幼馴染の発言に、昨日の僕は迷わず首を縦に振っていた。
ベッドから抜け出し、身支度を整え、家を出る。うだるような暑さに、クーラーのきいている家内に戻りたくなった。それでも幼馴染の怒る姿が想像できた僕は、戻りたい気持ちを抑え、駅へと向かう。
電車を乗り継ぎ、大会会場の最寄り駅である大宮公園駅に到着すると、携帯で時間を確認した。既に大会が始まっている時間だったけど、幼馴染の出番まで少し時間があった。携帯をポケットにしまい、ゆっくりと会場に向けて歩を進める。
大会会場に着くと、懐かしい光景が目の前に広がっていた。仲間を応援する各校の生徒。袴姿がより一層、真剣さを伝えてくる。競技直前の人もいるのか、中には弓や矢を持って見守る人もいた。
「弓道か……」
僕も弓道をやっていた時期があった。初めて弓道を見たのは小学校五年生の頃。最初は弓道をやりたいとは思わなかった。そんな僕に弓道というスポーツを輝かせてくれた人がいた。その人に影響された僕は、その瞬間に弓道をやると心に決めた。そして弓道部のある中学校に進学した。
僕には弓道の才能があったのかもしれない。はじめてから数ヶ月で、上級生と同等の結果を出すことができた。顧問の先生にも褒められ、数少ない大会で優勝を勝ち取るまで成長できた。
全ては順風満帆だった。そんな僕を中学二年生、十二月の練習試合中に悲劇が襲った。今まで中っていた矢が、ことごとく的に中らなくなった。それでも、中らないだけなら改善の余地がある。射形が崩れているのが、大半の理由だと僕は知っていたから。だからこそ必死に立て直そうとした。中学生最後の大会で優勝を勝ち取るために。
努力の結果、少しずつ中りを取り戻すことができた。でも、僕は中りよりも大切なものを失うことになった。僕が一番大切にしていたもの。弓道人として、陥ったら致命的な病気にかかった。それ以降、僕は弓に触らなくなった。
1
「よっしゃー!」
静謐な道場に向け、声援を送る大勢の袴姿の集団。的に矢が中るたびに、各校の弓道部員が声を大にして叫んでいる。初めて弓道の試合を見に来た人は、この光景を見ると驚きを隠せない表情を晒す。僕自身初めて弓道の試合を見た時、開いた口が塞がらなかった。
弓道は地味で堅苦しいスポーツといった印象が強い。僕が弓道をしていた時、同級生のほとんどは声を揃えて同じことを言ってきた。僕からすると、そう言ってくる人は弓道を知らない人達だと思っている。弓道は他のスポーツと同等、それ以上に熱いスポーツなのだから。
袴姿の学生の脇をすり抜け、鉄柵越しに見える道場内を見渡す。先程まで歓声があがっていた立は終わりを迎える頃となり、それに合わせて次の立の生徒が入場してくる。
先頭で入場してきた立には幼馴染がいた。
楠見凛。ショートカットが似合っている、元気で明るい女の子。髪型や性格、男勝りな口調も重なり、クラスの男子から「男女」と呼ばれている。昨日の発言も踏まえると、そう言われても仕方がないと僕も思ってしまう。
でも、今日の凛は明らかに雰囲気が違った。袴姿と道場の組み合わせが、相乗効果を生み出しているのかもしれない。それでもその効果を除いたとしても、今日の凛は格好良く見えた。決して男としての格好良さではなく、女の子としての格好良さを見せていた。
各校、最初に矢を放つ大前の人が矢番え動作に入る。凛も矢を番えると、的の方に顔を向けていた。しっかりとした物見。そしてここから「打起し」に入る……と思ったけど、凛は打起しをしなかった。凛の双眸は一度捉えていた的ではなく、観客席に向いている。その視線はまるで誰かを探しているようだ。そう考えていた僕の予想は見事に当たった。僕と凛の視線が重なる。
瞬間の沈黙。静謐な空間から眺めてくる一人の女の子に、僕は虜になっていた。身体が思うように動かない。まるで金縛りにでもあったかのようだ。一方の凛は、凛々しい表情を緩めたかと思うと、ニッコリと笑顔を見せてきた。
瞬間、他校の大前が一射目を放った。
静謐な空間に響いた弦音を皮切りに、凛の表情が一瞬で変わる。僕を見つける前の凛々しい表情に戻った凛は、再度物見を入れると打起しの動作へと進んだ。
打起しには「正面打起し」と「斜面打起し」の二通りある。草越高校では正面打起しを採用している。このように各学校で打起しをはじめ、矢を放つまでの動作に違いがある。大会では中りが求められるけど、各々が身につけた射形を見せる場にもなっているため、人によっては二通りの楽しみ方ができる。このように試合の観戦は、弓道の知識を深めるためにも最高の場となっている。
打起した凛は、弓道の基本動作である「射法八節」通りの流れにそって動作を進めていく。大三の姿勢をとった凛は「引分け」の動作に移る。そして僕が弓道の一番の見どころだと思う瞬間が訪れる。引き切ったままの姿勢を数秒間保つ。この「会」こそ、僕が弓道にのめり込むきっかけだった。
会には今までの動作の全てが含まれている。そしてその後訪れる「離れ」へと続く大切な時間。この時間をしっかりと保つことこそが、弓道の美へとつながると僕は思っていた。
そして、凛にも離れの瞬間が訪れた。
パンッ。
放たれた矢が、的の真ん中を射ぬいた。
「「よっしゃー!」」
突然、周囲が賑わい出す。隣にいた草越高校の刺繍が入った袴を身に纏う、女子弓道部の人達が一斉に声を上げた。つられて僕も一緒に叫ぶ。
弓道は立の間、しゃべることが一切ない。聞こえるのは離れの瞬間に鳴る弦音と、的に中った時の爽快な音だけ。観客は話してもいいけど、基本的にはしゃべらない。
しかし唯一大きな声を出す場面がある。矢が的に中った時だ。このとき、観客やチームメイトは喜びを爆発させる。たいていの学校は「よっしゃー」と言う。これは「良い射」だったことを表しており、そこから「よっしゃー」へと転じていると言われている。学校によっては、ただ叫んでいるようにしか聞こえないところもあり、僕は意味を知るまで喜びを表現しているだけだと思っていた。
歓声の残響が残る中、凛は離れの姿勢のまま佇んでいた。この姿勢は「残心」または「残身」とも言う。正面から見ると、大の字を彷彿とさせる姿勢。その姿には今まで行ってきた動作を一気に爆発させた直後の美しさ、儚さを感じることができる。
初めての大会で一射目を的中させた凛は、嬉しさを爆発させるかのように大きな残心をとっていた。しばらく余韻に浸っているのか、通常よりも長い残心だった。
残心から解放されると、凛は再度観客席へと視線を移した。そして僕を見つけると、先程と同じく満面の笑みを見せつけてきた。
「何やってるんだよ。試合中だろ」
思わず呟いていた。ここまで感情豊かでわかりやすい人間は、今まで出会った中で凛しか見たことがない。僕の目には、輝いている凛の姿しか映らなかった。
凛の立が終わった。結果は四射一中で予選落ち。的に中ったのは、結局最初の一本目だけだった。それでも高校から弓道を始めてこの結果なら、誰も文句は言わない。むしろ上出来だと褒めてもらえると思う。
立の入れ替わりを区切りに、僕は鉄柵から離れた。凛の立も終わったし、とりあえず一言くらい声をかけなくては。会いに行く約束をしていた僕は道場に向け歩を進めた。
「あれ、もしかして一か?」
前方からとある男性に声をかけられた。袴姿ということは、今日の大会に出場している生徒だろう。男性の顔に視線を向けると、懐かしい顔が僕の双眸に飛び込んできた。
「……橘?」
「久しぶりだな」
清々しい笑みを見せる好青年。橘琢磨。同じ中学校出身で、弓道部では一緒に自主練習をしたり互いの射形を見合ったりと、弓道の技術を一緒に磨いた良き友でありライバルだった。
「試合、見に来たのか?」
「うん。凛が大会出てるから」
「楠見か。お前、中学の時からいつも楠見と一緒だったもんな」
「家が隣だから、必然的にそうなっただけだよ」
そうか。と橘はケラケラ笑う。久しぶりの会話だったけど、昔と変わらない橘に上手く乗せられたおかげで、意外にも平常心を保つことができていた。
「なあ」
「ん?」
「一は試合に出ないのか?」
先程とは打って変わり、頑なな表情で語り始める橘に僕はありのまま答えた。
「うん。部活にも入ってないし」
「入ってないって……本当に弓道辞めちまったのか」
鬼気迫る勢いで詰め寄って来た橘に、思わず委縮してしまった。
橘とは互いに切磋琢磨できる仲だった。もし弓道を続けていたなら、僕は橘に臆することなく対等の関係を築けていたのかもしれない。
「辞めたよ」
橘から目をそらし、小さく呟く。そんな僕の反応を見透かしているかのように、橘は理由を聞いてきた。
「早気が理由か?」
「……うん」
早気。僕が陥った、弓道をする人にとって致命的な病気。射法八節の一つである、会の時間が短い人や無い人のことを指す。早気にかかる人は、的に中てることに対する欲が強いだとか、会を意識していないだとか色々と言われており、原因のほとんどが精神的な面によるものだと言われている。
「で、でも、一は必死に形を直そうと努力してたじゃないか。俺は、早気の克服に全力で取り組んでいるお前を見てきた。実際に中りだって、徐々にだけど取り戻せてたじゃないか」
橘の言いたいことは僕にも理解できた。当時の僕も、少しずつ克服できていると思っていたのだから。
「なあ、橘も知ってるだろ? 早気は簡単に治せるものじゃないってこと」
発言に納得したのか、橘は何も言い返してこなかった。それを見て僕は続ける。
「そもそも、僕は早気だって自覚はなかったんだ。射形が悪くて中らないとずっと思っていたから。意識すべき根本が間違ってたんだよ」
冷めた声が周囲に響き渡る。そんな重い空気を切り裂くように、後方から歓声が聞こえてきた。どうやら次の立が始まったみたいだ。
「それじゃ、僕はもう帰るよ。試合、頑張って」
最低限のエールを送った僕は、橘の横を通りすぎようとした。
「なあ、待てよ」
歩みを止め、橘の方に視線を向ける。怒っているのか、先程よりも橘の発する声音の節々に棘があるような気がした。
「何?」
「早気だってわかったなら、今からでも克服すればいいだろ? 一なら、克服できないことじゃないと俺は思うし、高校一年生の今なら時間だってある」
「……無理だよ」
「無理って、どうして?」
橘が僕の顔を覗き込んでくる。橘の瞳は僕みたいに腐っていなかった。弓道を心から好きだって物語るような綺麗な目をしている。
「僕には治す根気がないんだよ」
「嘘だ!」
僕の発言は橘に真っ向から否定された。橘にはすべてを見抜かれている。
「中学三年生の最後の大会に僕は出れなかった。今まで自信があった中りにも見放されたんだ。結局、本来の中りを取り戻せなかったし、早気だって自覚するのだって遅かった」
「でも、最後まで諦めずに克服するのが一のすごい所だろ?」
「……僕のことを買いかぶりすぎだよ」
先程から視線を逸らさない橘に代わり、僕から視線を逸らした。橘と目を合わすことが苦痛で仕方がなかった。
「気づくのが遅かったんだ」
「一……」
「それに、これ以上弓道を嫌いになりたくないんだ」
偽りの笑顔を橘に向けた。こうして無理にでも笑ってないと、心が潰されそうな気がしてならなかった。
「俺は……確かに買いかぶっていたみたいだな」
「……そうだよ」
「一は、俺の憧れでライバルだった。だけど、今日でそんな気持ち何処かに飛んでいった。俺はお前を超える。俺の中から、お前の存在を消してやる。二度と思い出さないくらいに強くなってやる」
「……ああ」
橘の叫びに頷くことしかできなかった。今の僕には橘と対等の立場にいる資格がない。
「それじゃ、今度こそ帰るよ」
さよならのあいさつ代わりに橘の肩をポンッと叩いた僕は、駅に向かって歩き出す。
もうこの場所に来ることは二度とない。来る権利すら僕にはない。僕は大好きな弓道を捨てた。そしてたった今、大切なライバルすら失ったのだから。
家に帰った僕は眼鏡を外し、そのままベッドに飛び込んで枕に顔を埋めた。橘との会話が嫌でも思い出される。そのたびに、胸が締めつけられる思いに駆られる。
僕は弓道を捨てた。でも、弓道は大好き。これ以上、嫌いになりたくないからこそ決めたこと。それなのに改めて考えると、自分の気持ちに矛盾点があることに気づかされる。こんな考えのままじゃ橘だって納得してくれるはずがない。
「僕は……どっちなんだろう」
ふつふつと煮え切った脳内に聞いてみようとするも、当然のように答えは返ってこない。それでも、僕は答えを求めようとしている。高校生になって弓道を辞めた選択は間違っていたのだろうか。好きなものを続けることこそが、好きの証明になるのだろうか。
ブーブー。
携帯電話が震えている。着信音の長さからしてメールではなく電話みたいだ。枕元に置いてある携帯の画面を見る。瞬間、自ら犯した過ちに気づいた。立の後に凛と会う約束をしていたのに、そのまま帰ってきてしまった。鳴りやまない携帯の通話ボタンを押して、恐る恐る電話に出た。
「もしもし」
『バカ!』
「うぐっ」
キーンと耳鳴りがするくらい大きな声で怒鳴られた。無理もない。
「ごめん……声かけようと思ってたんだけど」
『言い訳はいらない。帰った事実は変わらないでしょ』
「そうだね……」
勝ち誇った態度で僕を罵ってくる。凛は相変わらずだ。
『でも、今日はありがとう。本当に来てくれるとは思わなかったから』
「一応幼馴染だし、僕だって行ってあげるくらいの分別はついてるから」
『何それ? 社交辞令みたいな言い方して。私にいつも怒られてばっかりのくせに』
「凛が勝手に怒ってるだけだろ」
凛はいつも上から目線で話しかけてくる。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
『あーもう。後で一に奢ってもらおう』
「えっ、ちょっと待てよ。どうして僕が――」
『文句あるの?』
「……ありません」
『それでよーし』
電話越しからでも伝わってくる殺気めいたものに、僕は竦んでしまった。昔から凛には頭が上がらない。
「それで、いつこっちに戻ってこれるのさ?」
『十七時くらいかな。先輩の応援もあるし』
「わかった。それじゃ、また後で」
『うん』
通話が切れる。先程までうるさかった耳元が、一瞬にして静寂に包まれる。しばらくの間、静けさに浸っていると、悩みがどうでもよくなってきた。
僕は弓道を辞めた。ただ、それだけのことなんだから。
ピンポーン。
インターホンが鳴り響く。外した眼鏡をかけなおし、僕は玄関のドアを開けた。
「よっ、元気にしてたか」
「翔……兄ちゃん」
目の前に忽然と現れた年上の男性。神道翔。弓道を好きになるきっかけをくれた人。僕の憧れで、弓道を輝かせてくれた憧れの存在。凛の従兄で、昔から僕と凛は翔兄ちゃんを見て育ってきた。
「どうしてここに?」
「久しぶりに帰って来たんだよ。俺も大学入って一年半経つしな。少しは地元に帰って親孝行しないと」
微笑みながら語る翔兄ちゃんは、以前と変わらず輝いていた。
「とりあえず、あがってよ」
「おう。一の家、久しぶりだな」
昔から翔兄ちゃんは友達のように僕と接してくれた。四つ歳が離れているにも関わらず、僕と同じ目線で話をしてくれる。まるで同級生のような存在だった。
「そっか。一も、もう高校一年生だもんな」
「そうだね」
家に上がるなり、翔兄ちゃんは二階にある僕の部屋に向かった。後を追うようにして僕も向かう。部屋に着くと、翔兄ちゃんは壁に飾ってある表彰状を眺めていた。
「そういえば、一は部活入ってないんだって?」
「うん。でも、どうして知ってるの?」
「凛が言ってたからな」
翔兄ちゃんは、僕が中学生の頃に貰ったトロフィーを見ながら話を続ける。
「凛の奴、弓道部入ったらしいじゃん」
「そうだね」
「お前は入らないのか?」
低く重みのある声だった。翔兄ちゃんは僕に視線を向け続けている。
「男子弓道部は、対外試合禁止中なんだ」
「知ってるよ。凛から聞いた」
草越高校男子弓道部は、昨年の四月に行われた関東大会の予選で生徒が喫煙をしたことが発覚して、半年の対外試合禁止。その後、処分に不服を申し立てる生徒が相次いで暴力沙汰の問題を起こした結果、一年半の対外試合の禁止という非常に重い処分が下されることとなった。不祥事が発覚するまで草越高校男子弓道部は、八月に行われるインターハイで三連覇を成し遂げていた。前人未到の四連覇がかかっていたこともあり、他校の弓道部員からも「どうして」「なぜ」といった落胆の声が多く上がった。
「正直、俺のせいだと思ってる。今の男子弓道部が廃れたのも。本当にごめんな」
「どうして翔兄ちゃんが謝るのさ。全国三連覇の立役者なのに」