いつか願いが叶うなら

 世の中には信じられないことが起きるもんだ。
 兎耳山(とみやま)尚季は作ってきたチラシを、姉の経営する動物病院の受付カウンターの端に置いてから、もう一度文章に目をやった。

 ペットサロン【王様の耳】はお客様の大切なペットの声に耳を傾けて、心も身体も癒すサロンです
 場所:兎耳山動物病院東隣りのログハウス
 ペットの躾、困った癖、ペットの訴えが分からない等々、どうぞお気軽にご相談ください。

 普通の人が見れば何てことのない宣伝文句だが、秘密をかかえる尚季にとってはバレないだろうかと冷や冷やものの文面だ。その秘密ゆえ、今の尚季には人間相手の仕事ができず、摩訶不思議な体験で授かったこの特殊能力を、温めていたアイディアのペットサロンで活かそうと考えた。
 訳あって、尚季の開業を心から喜んでくれた姉の瑞希にも真実を明かせない。何も知らない姉は、アイディアを聞いて応援すると言った通り、動物病院の受付にチラシを設置させてくれたうえ、術後のケアとして飼い主にペットサロンを勧めてくれるという。ごめんと思いつつも、今はありがたく好意を受けることにする。
 受付の人に、チラシに反応があった場合知らせてくれるように頼んだ時、背後から女性に声をかけられた。
「あら?ペットサロンって、私の外出中にこの子を預かって、お散歩させてくれるのかしら?」
 おお、さっそくお客様候補か?とはやる気持ちを抑えて、尚季が営業スマイルを浮かべながら振り向けば、丸々した体型をブランド服で包んだいかにもマダムという感じの女性が、飼い主とペットは似るという通説通り、丸っこ過ぎるフレンチブルドッグを腕に抱えて尚季を見上げている。
 飼い主の散歩という言葉に嫌そうにワフッと呟いたフレンチブルの腹を見て、地面に擦るのを想像した尚季が、飼い主に提案した。
「ええ、もちろん散歩もお受けします。ただ九月の日中は、まだ日差しが強くてアスファルトが熱いので、地面に身体が近い小型犬と中型犬には散歩は厳しいと思います。散歩の代わりに、ジャグジーでスイミングをして頂くことも可能です」
「まぁ、素敵!後で伺うわ。ところであなた、院内なのにどうして帽子をかぶってらっしゃるの?」
「あっ、えっと、その……」
 まずい!やっぱり室内で帽子は非常識だよな。尚季が焦って理由を考えようとしたとき、その狼狽ぶりを変に勘違いしたご婦人が、声のトーンを落として訊いた。
「ごめんなさいね、人前では言いにくいことを聞いてしまったのかしら?ひょっとして円形脱毛症か何かなの?」
 え、円形脱毛症?思いもよらなかった理由に、尚季はぱちくりと目を瞬かせたが、本当の理由が言えないために渋々と頷いた。
「やっぱり!あなた学生さんかしら?お若いわりに言葉遣いはしっかりなさってるから、部屋で帽子を脱がないのはおかしいと思ったのよね。【王様の耳】でバイトでもされているの?」
 よくしゃべるご婦人に苦笑いしそうになるのを堪え、残念ながらと答える。どちらかというと直情型でお上手を言えない自分には、秘密を抱えていなくても人間相手の商売は向いていないかもしれないと考えつつ、ポケットから名刺を取り出してご婦人に渡す。
「この春、獣医大学を卒業して、ペットサロンを開くことになりました兎耳山尚季と申します。兎耳山動物病院の医院長の弟です。どうぞよろしくお願い致します」
「まぁ、獣医免許を持った先生だったの?学生さんと間違えてごめんなさい。お詫びにペットを持つお友達に宣伝するわね」
 尚季は助かりますと答えながら、心の中で呟いた。こういう社交的なご婦人を味方につければ、経営をする上では心強いけれど、ご機嫌を損なえば、紹介してもらった客もすべて失うだろう。心してフレンチブルの面倒にとりかからなければ。
 ご婦人と受付係、待合室にいる飼い主たちに会釈をして、尚季は動物病院を後にした。
 南の出口から出て左に進めば、すぐにログハウスが見える。この建物は、祖父母が動物病院を父母に引き継いでから建てた別荘だ。本宅の隣に建てたのだから普通の別宅だろうと思っていた尚季は、遊びに行った時に中を見て、良い意味で予想を裏切られたことを知った。
 ジャグジーに鏡張りのダンスフロア、沢山置いてある運動器具が、いかに祖父母が人生をエンジョイしているかを物語っていたからだ。
 本当なら、今でもこの別荘で、祖母がウォーキングマシーンを使っている姿が見られるはずだった。だが、三か月前、両親と祖父母は仲良く旅行に出かけ、旅先で起きた事故に巻き込まれて、四人共あっけなく命を落としてしまった。
 両親の手伝いをしていた瑞希は、葬儀と法事を済ませた後、病気を抱えたペットたちのためと、自分自身の辛さを紛らわせるために動物病院を再開させた。
 しかし、獣医系大学を卒業して二カ月経ったばかりの尚季は、父母から現場の手ほどきを受けながら、もっと最新技術を導入した病院にしたいと夢見ていた矢先の事故だったので、急に足元が崩れたように感じてミスを繰り返し、とうとう姉に休業を言い渡されてしまった。
 このままではいけない!何とか立ち直って使いものになることを姉に証明したい。気持ちばかり焦っていたある日、信じられないことが尚季に起こった。本当に今でも信じられないのだが、ガッツだけは他人よりある尚季は転んでもただでは起きなかった。
 悩んだ末にペットサロン開業に至ったわけだが、そんな前書きより、どんな秘密を抱えているか早く話せと読者は思っていることだろう。それはこれから話すことにしよう。どうか俺が元に戻れることを、みんなで祈ってくれ。
 一時的ではあるが、姉から休めと言われて動物病院から締め出された尚季は、姉と顔を合わせずらくなり、隣のログハウスに移り住むことにした。
 動物病院の二階にある自分の部屋から荷物を運び出しているときに、姉の部屋を通りかかった途端、厳しすぎる措置に猛烈に腹が立ってきた。
 本当は、祖父母と父母の死にショックを受けて上の空になり、預かった動物に薬を与えるのを忘れそうになったり、診察後戻すケージを間違えて、大きな動物を小さなケージに押し込もうとした自分が悪いのだが、同じ痛手を負っても表面上びくともしない瑞希を冷たく感じて、遣り込めてやりたい気持ちになる。そっと部屋を覗いてみると、枕元に投げ出されたままの本の表紙が目についた。
「動物の耳と尻尾のある人間?獣人ファンタジーか?へぇ、姉貴、こんなの読むんだ」
 現実的主義の姉にこんな意外な面があるのかとがぜん興味が湧き、いけないと思いながらも本を手に取ってパラパラとページをめくる。
「んっ?狼男と雄タヌキ獣人の恋???これってBLってやつか?」
 しめしめ。これをネタに迫れば、病院に復帰できるかも……。にやりと笑いながら捲ったページに、ワイルドな狼男がかわいらしいタヌキ少年に覆いかぶさるイラストを見つけ、ドキリとする。が、『食ってやる』というセリフを読んだ途端、尚季はガハガハと笑い出した。
「狼がタヌキを食う?そのまんまじゃん!ひゃは、ははは」
 腹が捩れるほど笑った尚季は、コメディーじゃあ、ゆすることができないと諦めた。久しぶりに笑ってすっきりしたせいか、八つ当たりしたかった気持ちが跡形もなく消えている。爽快な気分のままログハウスへの引っ越し作業を進めた。
 祖父母の遺品はあらかた整理してあったので、空いている二階の一室に自分の荷物を運びこむだけの簡単な作業はすぐに終わり、一息入れるために、一階のウッドデッキにあるガーデンチェアーに腰かける。と、その時、ピキーッという甲高い鳴き声が聞こえ、黒い物体が矢のようなスピードで尚季に向かって飛んでくる。あわや衝突を覚悟して、片手で顔を覆った尚季の前をかすめるように過ぎていった。
「うわっ、びっくりした!何だ、ツバメか!脅かさないでくれよ」
 ひょっとしてどこかに巣があり、警戒しているのかもしれない。尚季がウッドデッキの上に張り出した屋根に視線を這わせると、扇状に広がった土の塊のような巣と、その下にある糞除けの板に気が付いた。。
「ああ、やっぱり巣がある」
じっと動かずに見ている尚季を気にしながら、親鳥が飛んできて巣に足をかける。すると、六つの小さな黒い塊がにょきっと巣から突き出てヒューヒュー鳴いた。
「ヒナがいる!へぇ~っ、ちっこくてかわいいな。あっ、でも大きさがかなり違うな」
 その理由は、観察しているうちにすぐに分かった。親が餌を持って現れると、一番真っ先に大口を開けて餌をねだるヒナに餌が行く確率が多い。主張するヒナは栄養がいきわたり身体も大きくなるので、余計に餌を欲する。小さなヒナは大きなヒナの身体の影に隠れてしまい、餌ももらえず成長不良になるのだ。
「自然界は厳しいな。兄弟の間でも生き延びるための競争があるんだ。ちびすけ頑張れよ!」
 応援したくなるのは、尚季自身が百七十cmあるかないかの痩身で、男らしさにコンプレックスを抱いているせいだ。顔も小さく目も大きめとくれば、女性は尚季を男友達としては歓迎するが、恋人となると少し物足りないらしい。同類と思っていた友人たちは、尚季と並ぶと男として昇格するらしく、いつの間にかガールフレンドができている。
「世の中は弱肉強食って分かってるけどさ、そこのアホ親鳥、公平に餌やれよー」
 尚季の声が聞こえたのかどうかは分からないが、必死に鳴いているちびすけに無事餌が運ばれたのを見て、尚季は安心したのだった。
 最初は尚季を警戒していた親ツバメたちは、尚季がヒナを襲う様子がないことから、ウッドデッキに姿を見せても警戒音を発しなくなった。そして、十日ほど経った朝、親ツバメの慌ただしい鳴き声に起こされた尚季が、二階の寝室のカーテンを開けると、表の道に立つ電柱からログハウスまでを繋ぐ引き込み電線に、七羽のツバメが止まっている。
「あれっ?あいつらだよな?もう巣立ったのか。早いな」
 尚季はすぐに着替えて一階に降り、リビングの掃き出し窓からウッドデッキに出ると、巣の縁に捕まって下を覗き込んでいるちびすけがいる。親や兄弟たちが羽を広げて、ここまでおいでと騒ぐ中、ちびすけが羽ばたきの練習を繰り返すが、尚季はあることに気が付いた。
「片方の羽が少し縮れてるんじゃないか?」
 でも、ツバメにはそんな違いは分からない。親鳥が電線からちびすけの近くまで飛び、掠りそうなところで旋回すると、ちびすけが置いて行かないでと鳴き声を上げる。電線を見上げたちびすけが、意を決したように、よっこらしょと巣から飛び降りた。
 懸命に羽ばたくちびすけに、尚季が飛べ!飛んでくれ!と必死で声をかける。だがその願いは届かず、ちびすけはウッドデッキに着地した。地面は危険だと本能で分かっているちびすけは身を竦めて動かない。親鳥が元気づけるために、せっせと餌を運んで空へと誘うが、獣医の資格を持つ尚季は、このヒナが永久に空を飛ぶことがないことを知った。
「今頃食べさせてんじゃねぇよ!栄養不足で羽が育ってないじゃないか」
 獣医の免許があってもこの羽は治せない。無力さを感じ、親鳥が一生懸命餌をやる姿を正視できなくなった尚季は、逃げるようにリビングへと入っていった。
 しばらくすると、親鳥がピキーッピキーッと警戒音をあげ、窓の付近を何度も往復するのが見えた。まるで尚季に助けを求めるように、窓の中を覗きながら飛んでいる。
「ちびすけに何かあったのか?」
 窓に突進してサッシに手をつき、スピードを落とす。スライドさせた窓の向こうに、フリーズしたちびすけを囲って、今にも飛びかからんとする猫たちが見えた。
「やめろ!食うんじゃない!」
 大声で叫んでも、猫たちは素知らぬ顔で間合いを詰めていく。尚季は叫び声をあげながら片手をブンブン振り回し、猫たちの輪に突っ込んでいった。
 尚季の勢いに押されて逃げて行った猫たちの跡には、ぶるぶる震えるちびすけがいる。このまま放置すれば、近くで隠れて様子を見ている猫の餌食になるのは目に見えていた。
 尚季はウッドデッキの横に設えたシェルフから、ガーデン用の軍手を取り出して手にはめ、ちびすけの前にかがむと、そっと手を差し出した。
「ほら、おいで。ごわごわするけれど、人間の匂いがつくと、親鳥が餌をやらなくなるからな」
 優しい語り掛けに応えるように、ちびすけがつぶらな瞳を尚季に向ける。あまりにも無垢でかわいい仕草に、ズキューンと胸を撃ち抜かれ、尚季はぶるっと身震いをした。
 猫からヒナを救った尚季を信頼しているのか、親鳥はちびすけに向かって手を差し伸べる尚季に、警戒音を発することもなく電線から見守っている。ちびすけは猫に襲われたショック状態から抜け出せず、尚季が軍手をはめた手で足に触れても、逃げることもできなかった。
「ちびすけ、掴むけれど、怖がらないでくれよ。身体を温めてやるからな」
 そっとちびすけの背中に手を回し、小さな身体をもう片方の軍手の上に載せる。一瞬軍手の中に隠れて見えなくなったヒナを心配して、親鳥が傍に飛んでくる。尚季はちびすけが落ちないように気を配りながら、上空で両手を開いて見せると、親鳥は電線に戻っていった。
 尚季の両手に包まれたちびすけは、身体が温まると動きが活発になり、手の隙間からぴょっこり顔を出して辺りを窺った。充分に温まったちびすけを片手に載せ、縮れた羽を伸ばして診るが、どうやらカルシウムが足りず、骨自体に異常があるらしい。
「ごめんな。治してやれたらいいのに」
 ちびすけは、くちばしを大きく開けて喉を鳴らすと、まるで甘えるように軍手の指に身体をこすりつけてくる。
「お~い、親ツバメ。ちびすけを一旦巣に戻すからな。ちゃんと面倒みろよ」
 名残惜しい気持ちを振り払って、尚季はガーデンチェアに上がり、ちびすけを巣の中に入れてやった。

 朝になるとちびすけは巣から羽ばたき、待ち構えていた猫に囲まれ、親鳥の呼び声で尚季が追い払うというのが日課になった。
そんなことが何日続いただろう。ある日を境に、二階の窓を覗いて尚季にちびすけの危険を知らせる親鳥たちの警戒音が聞こえなくなった。電線に止まって両親と一緒にちびすけを応援していた兄弟の姿も消えていた。
 飛べないはずと分かっていても、姿が見えなくなったのは、無事に巣立って兄弟たちと飛ぶ練習をしているのだと思うことにした。そう思いたかった。
 動物病院に戻りたいと催促しなくなった弟を心配して、瑞希が動物病院を閉めてからログハウスにやってきた。ちびすけのことがあってから、薬では治療できない動物たちのための施設ができないかと考えていた尚季は、ペットサロンの話を瑞希に相談してみる。と瑞希は、尚季が祖父母と父母のことから立ち直ったばかりでなく、前向きに新しいことにチャレンジしようとしていることに感動して、資金面でも何でも全力で応援すると答えた。
 姉を見送りがてら外に出た尚季は、耳に届いた懐かしい声に顔をあげる。目に入ったのは、引き込み電線の上にずらりと並ぶツバメファミリー!喜びがこみ上げ、急いで数を確認するが、思っているのとは違い、気を取り直してもう一度数え直す。何度数えても七羽だ。ヒナは六羽いた。親鳥の二羽を足せば八羽いなければいけない。
項垂れた尚季の傍に七羽のツバメが飛んできて、四脚あるガーデンチェアーの背もたれに散らばって止まり、一回り大きな親ツバメが、口に咥えていた青黒い石をテーブルの上にそっと置いた。
「何これ?中が光っているみたいで不思議な石だな。俺にくれるの?」
 まるで尚季の言葉が分かったように、七羽が一斉に頷き、石の傍に飛び移った親ツバメが説明をするかのように囀り出す。
「俺にツバメ語が分かったらなぁ‥‥‥」
 途方に暮れる尚季に向かい、親ツバメが羽で石を撫でてから、身体の前で翼の先を合わせて頭を下げた。
「ありがとうって言ってるの?」
 頷くかと思いきや、ツバメが首を振る。否定されても会話が通じたことが嬉しくて、何とか分かりたいと思った途端、何とかというフレーズからお願いポーズだと閃く。ツバメに聞くと、ちょっと首を傾げてから頷いた。正解ではないけれど、近い意味に違いない。尚季はツバメが石に触れてから願うポーズをしたことを関連づけ、「願いが叶う石って感じ?」と尋ねると、今度は七羽のツバメがパタパタと羽を振った。
 心の中では、そんな石あるわけないだろうと呟いたが、渡り鳥たちが、日本を発つ前にお別れを言いに来てくれたのだろうと考え、笑いながらありがとうと礼を言う。
 その途端、一斉に七羽が舞い上がり、尚季の頭上で円を描くように飛んだ。そして急上昇した一羽を追って、全羽が青い空へと吸い込まれていく。
 尚季はツバメからもらった不思議な石を片手に握り、元気でなと手を振りながら、小さくなっていく夏の終わりの風物詩を見続ける。柄にもなく感傷的な気持ちになり、姿が見えなくなっても、しばらくそこに立ち尽くしていた。
 その夜、ベッドに寝転びながら、尚季はツバメからもらった石をシーリングライトに翳してしげしげと見つめていた。黒く青光りをする石は、まるでちびすけの身体のようで、尚季は掌で鳴いていたヒナを思い出して切なくなった。そっと石を撫でると中が光るように感じてベッドから身を起こす。
「不思議な石だな。もし願いが叶うというのが本当なら、ちびすけの言葉を理解したかったなぁ。お前の親の説明も分からなかったし、獣医として動物の話が分かれば最高だよな」
 そう考えた時、なぜか尚季の頭に、瑞希の部屋にあったコメディーの表紙が浮かんだ。頭の上に動物の耳がついた獣人を思い返し、自分に耳があったら、苗字の兎耳山からしてうさ耳になりそうだと想像した途端、可笑しくて堪らなくなった。
「気持ち悪すぎて笑える。ヒャハッ、ハハハハ」
 ひとしきり笑って脱力した尚季は、知らないうちに眠りに引き込まれ、朦朧とした意識の中で、自分が草原にいるのに気がついた。
「どこだ、ここは?」
 キョロキョロ辺りを見回すと、動きに反動するものを頭上に感じて、慌てて傍にあった池を覗き込んだ。にょきりと生えたうさ耳を見て、尚季のくりっとした目がさらに大きく見開かれる。ふと、寝る前にイメージしたことが夢に現れたことを理解して、楽しむ余裕が生まれた。
「なかなか似合ってるじゃん。これで動物の声を聞くのか?」
 すると、暗かった草原に、光が射しこんで辺りがぱぁっと輝き、どこからか声が響いた。
『なおたん、それ気に入ったキュル?僕の命が宿った石に、かけた願いを叶えるね』
 何だそれ?かなりまずい気がする。ダメだと言いたいのに意識が眠りの底に引き込まれていく。焦ってもがく手がモフモフの耳に触れた時、尚季の眠気は一気に吹き飛び、ベッドから飛び起きた。見回すと、まだ早朝なのか窓の外は薄っすらと色づいてきたところだ。
 爆動する心臓を手で押さえて床に足を下す。寝汗をかいたのか背中に寝巻が張いて気持ちが悪い。不安を払拭するために、部屋の片隅に置いた木枠の姿見に目を走らせた。
「みみ~っ!本当にうさぎの耳がある‼」
 夢だ、まだ夢の続きを見ているんだ。寝ているはずの瞼を無理やり閉じれば、茶色の髪から突き出た同じ色の耳が浮かんでくる。きっと寝ぼけていたんだと自分に言い聞かせ、半分開いた目を姿見へ持っていく。あるはずが無いものが、神経質そうにピクピク動いているのを確認して動悸が激しくなった。
「そうだ!ツバメにもらった石に願い直せばいいんだ。どこだ?どこに行った?」
 あった!布団を払ってシーツの波間に見つけた石に飛びつき拾い上げる。ところが、石は大きくひび割れて、輝きを失っているではないか!
「まじか!どうすんだこれ?」
 姿見に映った尚季の頭のうさ耳は、気持ちを表すようにくたりと垂れ下がった。
 
 朝食を簡単に済ませ、尚季は帽子好きだった祖父のコレクションから、真新しく自分に似合いそうな中折れ帽を拝借して、中にうさ耳を突っ込んでかぶってみる。元の耳も残っているので外見上おかしくないのを確認してから、自転車に乗って街中を走り抜け、小高い丘に登ってツバメを探した。
「お~い、ツバメたちいたら返事しろ~」
 まだ夏の暑さを残す八月下旬の空には、燕尾服を着た鳥たちの姿は一羽も見当たらず、尚季の叫びが虚しく響いた。
「早朝から叫んでいるのは誰?」
 怪訝そうな女性の声に振り向くと、そこには高校時代のクラスメイトの神谷玲香が立っていた。
「あれ?兎耳山尚季くんだよね?久しぶり!っていうか、こんな朝からどうしたの?」
 玲香は色白できめ細かい肌を持ち、小さな顔に見合う小さな目・鼻・口がきれいに収まった、日本人形のような地味系美人だ。お祓いを生業にする神社の娘らしく、霊感があると聞いたことがあるが、暗さはなく、むしろ明るすぎるくらいの性格で、よく相談ごとを持ちかけられていたように記憶している。
「よお。久しぶりだな。神谷の家って、そこの神社だったのか。今何してるんだ?」
 叫んだ理由を話したくない尚季は、とっさに玲香に話題を向けた。
「私は巫女になって、今はお祓い師の修行中。兎耳山くんは?動物病院をついだの?」
「ん~っ。ちょっと訳アリで休職中。病院は姉に任せて、新しいことをやるつもりだ」
「へぇ、そうなの。あれっ?兎耳山くん、肩に‥‥‥」
 玲香が眉をひそめたので、ごみでもついているのだろうかと尚季も肩をみるが、シャツには汚れも見当たらない。
「気のせいかしら?私はまだ修行中だから気配を感じるだけだけど、黒い小さなものがぼんやりと見えた気がするの。最近身の回りで何か変わったことはなかった?」
 小さな黒いもの?聞いた途端にちびすけの名前が浮かんだ。ちびすけそこにいるのか?心の中で呟きながら尚季はもう一度肩の上に目をこらすが、気配さえも感じることができない。
「ひょっとして、ツバメのヒナか?」
「そう!そんな感じ。あれ?急にはっきりしてきたわ。悪い霊ではなさそうだけど、かなり強力にくっついてるみたい」
「そいつと話せないか?俺の願いを取り下げるように頼んで欲しい」
「どういうこと?霊と取引をしたの?場合によってはややこしいことになるわよ。話を聞くから社務所にきて」
 ややこしいことになると聞いて不安を覚え、自分に当てはまるのか知るために、尚季は玲香の後から鳥居をくぐり、境内にある社務所の一室に入っていった。
 勧められるままに、畳の上の座布団に座った尚季は、瑞希の本を盗み読みしたことを話すのに後ろめたさを感じ、少しでもかっこよくみせようとして、今回のことは取引ではなく、あくまでも恩返しだと強調する。だが、口で批判はしなくても、胡乱気に尚季を見る玲香の目が、あきれたと物語っていた。
「盗み見たBLの印象的な表紙絵が頭に残っていて、自分に当てはめて想像したわけね?それで動物と話したいという願望と一緒に叶えられちゃったわけ」
「……はい。おっしゃる通りです」
 言い返すこともできず、項垂れた尚季の目の前に白い手が伸びてきたと思ったら、帽子を頭から引きはがされた。
「うわっ、ちょっと」と驚いて叫んだのは二人同時だった。目を見開いたまま、玲香が再度手を伸ばして、うさ耳に触れる。うさ耳がぴくりと跳ねた。
「びっくり!本物だわ」
「俺だけに見えてるんじゃないんだな。ショックだよ。俺どうしたらいい?苗字から想像したのがいけなかったんだ」
「いっそのこと、トミヤマじゃなくて兎(うさ)耳山(みみさん)に読み方を変えれば、みんなも納得するんじゃない?」
「するか!俺が真剣に悩んでいるのに茶化すなよ!」
 思わず尚季が大声で叫んだ時、戻らぬ娘を探しにきた神社の宮司で玲香の父が、社務所の障子を乱暴に開いた。男に無体なことをされているのではと心配したのか、怒りの視線をむけてくる。と、その顔が一瞬で驚愕の表情に変わった。あとからついてきた母親が、入り口に立ちふさがったまま動かなくなった父親の脇をかいくぐり、どうかしたのと尋ねてくる。
 あ~あ、こんな身体を晒して噂になれば、お婿にいけなくなるかもしれない。そう観念して、尚季が二人に頭を下げた。遅れてぴょこっとうさ耳が前に垂れ下がる。
「初めまして。兎耳山尚季と申します。玲香さんとは高校の時に同じクラスでお世話になりました」
 うむ、と難しい顔で頷いた宮司は、尚季の耳ではなく、肩辺りをしげしげと見つめている。それに対し、母親の方は玲香が男友達を招くなんて珍しいとはしゃいでいる。二人の態度の違いを怪訝に思い、尚季が玲香を窺えば、母には霊感が無いから見えていないと小声で返された。
 それは朗報だ!尚季が目を輝かせ、普通の人には見えないんだと喜んだ時、宮司が尚季の表情を読み、霊媒やお祓いなどの修行をしていなくても、霊感の強い人の中には見えるから気を付けるようにと注意する。
「今、注視したが、その肩に載っているちびっこは、兎耳山くんに懐いていて、悪さをする気はないらしい。玲香と話し合って、解決できないようなら力になろう」
 そう言って、宮司は務めを果たすために、妻を伴い本殿へと戻っていった。
「ねぇ、兎耳山くん。ああ、ダメだわ。苗字を呼ぶとウサミミさんにしか思えなくなってくる。尚季くんって呼ばせてもらうわね。私も玲香でいいから」
 笑いをかみ殺している玲香を睨みつけ、で、何?と続きを促す。
「尚季くんの耳が霊の声を聞けるかどうかは分からないけれど、ちびちゃんにどうやったら兎の耳が無くなるか聞いて見たら?私も念を送るから、試してみましょうよ」
 玲香は尚季を社務所の洗面所の鏡の前に連れていき、聴覚と視覚のどちらかでも感じたら教えて欲しいと言った。
「やってみる。でも、見えないものに呼びかけるのって難しいな。よし、気合を入れて呼ぶぞ!お~い。ちびすけ。姿を見せてくれ。お前と話しがしたいんだ」
 鏡の中のうさ耳は、少しの音でも拾おうとして、真っすぐに立っている。瞬きもせず、自分の周りに目を凝らしたが、尚季には何も感じられなかった。
 そもそも、ツバメが感謝から、あの石を自分にくれたと思ったのが間違いだったのかもしれない。自然淘汰されたはずの命に情けをかけたばっかりに、ちびすけは天国へも上れず、まだ生きたいばかりに尚季に縋りついているのではないだろうか?
 でも、もし今同じことが起きても、尚季はあのかわいいヒナを見殺しにはできず、ヒナに飛び掛かろうとする猫の輪に、迷わず飛び込んで行くだろう。
 つぶらな瞳で尚季を見上げ、甘えるように軍手の指に頭をこすりつけてきたちびすけの姿が蘇り、切なくなった。
「ちびすけ、もう一度お前に会いたいよ。お前と話ができたら、天国に行くように言ってやるんだけどな」
 目の前が熱くなり、鏡が滲んで見える。他人んちで泣くなんて情けない。俯いてぎゅっと瞼をつぶり、涙を押し込めてから目を開くと、視界の端に何か黒いものが横切るのが見えた。
 急いで上腕を見ると、羽を広げたたちびすけが、ちょんと肩に飛び乗るところだった。
「見える!ちびすけだ!」
 つぶらな瞳が笑ったように半円になり、ちびすけがちょこんと頭を下げる。トトっと近くに来たと思ったら、羽で尚季の頬を撫でる仕草をした。実態はないはずなのに、産毛を風になぶられるほどのサワサワとした感覚が頬に走った。
「なおたん。僕に会いたい、本気で思ってくれて、うれしいキュルル」
「ち、ちびすけが喋った‼」
 驚いて玲香を見ると、玲香にもちびすけの声が聞こえているようで、尚季と視線を合わせて何度も頷く。
「なおたん、僕と話したい、本気で思ったキュル。僕もなおたんともう一度会えてうれしいキュルル。なおたん前に、僕の羽治したい言ったから、今、僕の羽きれいになたキュルル。ありがとう、なおたん」
 はしゃぐように羽をばたつかせてお喋りするちびすけはかわいくて、尚季は思わず微笑んだ。弧を描く唇を見つめるちびすけが首を傾げた後、スイっとその首を伸ばし、くちばしで尚季の唇をチュンとつつく。
「うわっ!びっくりした。お前は何てかわいいんだ。もういい。何でも許す。うさ耳もオッケー!」
 頬をちびすけの身体ですりすりされて、尚季がうひょうひょと喜ぶ姿に、玲香が冷たい視線を送りながら聞いた。
「本当にそのままでいいの?王様の耳はロバの耳じゃないけれど、兎耳山くんの耳はうさぎの耳って噂になるわよ。今は穴の代わりに、人は秘密をSNSで呟くから、あっという間に広まって、そのうち取材がくるかもね」
「ううっ。それは困る。ちびすけ、この耳何とかならないか?」
 眉尻を下げた情けない顔の尚季を見て、ちびすけがキョトンとして首を傾げる。
「うさ耳あきたキュル?いぬ耳の方がいいでキュル?」
「違~う!人間に動物の耳が生えていることがヤバいんだ」
「どうしてキュル?なおたん、うさ耳似合うでキュルル」
「そっか?……いや、そうじゃなくて、噂に尾ひれがつくのが怖いんだ。動物病院で変死した動物の祟りだとか言われたら、両親の後を継いで立派に家業を切り盛りしている瑞希に、迷惑がかかってしまう」
 他人の口に扉は立てられないし、噂は面白おかしく脚色される。ましてや動物病院の息子にうさ耳が生えたとなれば、根も葉もない噂を流す輩が出てくるだろう。だからうさ耳を取って欲しいと尚季はちびすけに頼んだ。玲香もその状況が起こりうるのを想像して真剣な表情になり、尚季と一緒にちびすけの答えを待つ。
「なおたん言ったキュル。僕の声聞きたい。僕のパパとママの話分かりたいって。パパとママはもう旅立ったので声聞けないキュル。代わりに、なおたんが動物の声いっぱい聞いて満足したら、うさ耳なくなるかも……」
「ほんとか?よしっ!動物の声を聞きまくるぞ」
「うさ耳は、なおたんの願いを叶えたくて、僕の魂のかけらで作ったキュル。なおたんが喜ぶと僕も嬉しいキュルル。なのに僕間違って、なおたんがっかりさせたキュル」
 しゅんとしてしまったちびすけに、尚季が自分から頬を寄せて擦り付けた。
「間違ってなんかいないさ。こうしてお前と話ができたんだ。俺は今すごく幸せだよ」
「ほんと?僕嬉しいキュル。僕、なおたん幸せにできたキュルル」
 パタパタと羽を振る様子があまりにも愛らしくて、見ているだけでは我慢できなくなった玲香がちびすけの頭にツイっと指を伸ばす。すると、ちびすけは飛び上がり、尚季のうさ耳の間に着地して身体の毛を逆立てた。
「ちびちゃん、怖がらないで。私は玲香。尚季くんとは高校時代に知り合ったの。私とも仲良くしてね」
「れいたん、力持ってるキュル。僕をなおたんから離さないで」
「ああ、お祓いのことを言ってるのね。大丈夫よ。ちびちゃんはなおたん、じゃなかった尚季くんに悪いことしないでしょ?うさ耳は一緒に解決しましょうね」
 そう言いながら差し出された玲香の手に、乗るかどうかちびすけは迷っているようだ。テケテケと耳の間を行ったり来たりした後、前のめりになり、ぴょんと玲香の掌に飛び移った。
「キャ~ッ!かわいい~。うちの子にしたい!」
 玲香がキャッキャとはしゃぎながら、社務所の中を歩きだす。つられるようにうさ耳が引っ張られ、バランスを崩した尚季は、まるで歌舞伎の六法のように、片足ケンケンをしながら玲香の後を追った。
「尚季くん、なにやってるの?」
「こっちが聞きたいよ。身体が引っ張られるんだ」
 胡散臭げに立ちどまった玲香の手から、途方に暮れる尚季の頭にちびすけが飛び移った。どうやらちびすけはうさ耳の間が気に入ったらしい。
「このうさ耳は僕の魂のかけらなの。僕動く、うさ耳ついてキュル」
「なるほどね~って感心している場合じゃないな。霊感が強い人にはちびすけも、うさ耳も見えてしまう可能性があるんだろ?」
 ちびすけがうんと頷く。だとしたら、常に帽子で隠すことになる。尚季が好きな映画やライブに行こうものなら、邪魔だから脱げと注意されるのが目に見えるようだ。
「なぁ、ちびすけ。さっき、俺が沢山動物の声を聞いて、満足したら耳が消えるかもしれないって言ったよな?」
「言ったキュル」
「だったらさ、俺が考えているペットサロンは動物のためのサロンだからうってつけなわけだ。上手く調子に乗れば生活費も稼げるし、一石二鳥だな」
「僕もなおたん手伝うキュル」
「私も宣伝させてもらうわ。困ったことがあったら、何でも言って。できる限り手を貸すから」
「ありがとう。ちびすけ、玲香。心強いよ。めっちゃやる気出てきた。おっし、頑張るぞ~」
 そうとなったら膳は急げとばかりに、尚季は玲香に別れを告げて神社を後にする。うさ耳を何とかしてもらうために、ツバメの親を探した時の不安は消えていた。
 尚季はうさ耳とちびすけをそっと帽子に隠して、意気揚々と自転車をこぎながらログハウスへと向かったのだった。

 不思議な経緯を経て、開業にこぎつけたペットサロンに初めての客がやってきた。
 先ほど姉の経営する動物病院で話しかけてきたマダムで、名を豊島といい、その腕に抱かれ、脂肪を垂らしているフレンチブルドッグはマルゲリータというらしい。
「あら、きれいなログハウスね。さきほどお聞きしたジャグジーでのエクササイズを頼みたいの。何しろマルゲリータちゃんはよく食べるから、お腹が地面にするほどになっちゃって歩くのも大変なのよ。二時間ほど預かって頂けるかしら?」
 一方的にしゃべり続けるマダムに愛想笑いを返しながら、尚季は内心苛立っていた。
 犬の体重過多は飼い主の責任で、よく食べるからと言って与え過ぎてはいけいのは常識だ。喉まで出かかった言葉を、グッと飲み込んだ。
 動物病院に通っているマダムに、会ったばかりの尚季が不愉快な思いをさせれば、その矛先が姉である瑞希に向くとも限らない。今は生活費を姉に頼っている分際で、出過ぎた真似をしてはいけないのは重々承知なので、苦言をアドバイスに変えて優しく言う。
「マルゲリータちゃんをお迎えにいらした時に、簡単な食事療法を書いた紙をお渡ししますので、お家でやってみてくださいね」
「まぁ、嬉しいわ。早めに終わったら、ここで寛がせてもらってもいいかしら? ねぇ、ペットサロンだけじゃもったいないわ。こんなに広くて綺麗なんだから、ペットカフェもできるじゃない。お友達を連れてきてあげるから、そうしなさいよ」
 とんでもないと尚季は焦った。カフェなんかにしたら、始終人に囲まれることになる。うさ耳とちびすけがバレやしないか、神経を張り詰めていれば疲れてしまうだろう。
 そのうち帽子を取らない尚季の噂を聞いた人が、円形脱毛症に効く薬を持ってきたから患部を見せろだの、良い医者を紹介してあげるだのと言って、好奇心とお節介を顕わに尚季に迫るに違いない。
「お申し出は有難いのですが、私は新人の獣医ですので、動物を診るだけで精一杯になってしまうと思います。お預かりするペットの種類によっては空間を区切らなければならないので、このくらいの余裕が必要なんです」
「そうなの。それじゃあ仕方ないわね。じゃあ出かけてくるので、あの子をお願いね」
 文字通り重い腰を椅子から上げた豊島夫人がログハウスから出て行く。マダムが門を閉める音を聞いて、尚季は安堵の吐息を漏らしながら帽子を脱いだ。窓はミラーガラスを入れてあるため、中から外は見えても、外から中の様子が見えないようになっているから安心だ。
 帽子を取った瞬間に、ピヨ~ンと飛び出した茶色い耳に、驚いたフレンチブルがペット用の受付台の上でバウバウと吠えたが、尚季の耳には言葉になって届いた。
「何その耳?びっくりしたわ。あなた人間じゃないの?」
「人間だよ。ほら肩に降りてきたのが、ツバメのヒナのちびすけだ。よろしくな」
 尚季が言葉を理解したのにショックを受けたマルゲリータは、あんぐりと開けた口からだらりと舌を伸ばし、台の上に敷いてある防水加工のクッションマットに涎を垂らした。
「この耳のおかげで、マルと話しができるんだから、怖がらずに慣れてくれ」
「私の名前はマルゲリータよ。マルじゃないわ」
「だって長くて呼びにくいんだよ。あっ、そうだ、ダイエットに成功したら、ちゃんとマルゲリータって呼んでやるよ。それまでお前はマルだ」
「何て横暴な獣医なの!まだ、ママが通っている新興宗教の教祖の方がましね。餌も好きなものを沢山たべさせなさいって神託をくれるんだもん」
「何だって?マルのママは、新興宗教の教祖の言いなりになっているのか?言っておくが、今までの食生活を続けていたら、マルは早死にするぞ」
 尚季の真剣さが伝わって、マル(ゲリータ)は自分の大きなお腹を見降ろした。垂れ下がった脂肪は、今は受付台に支えられて重さを軽減しているけれど、最近は動くのもつらいのだ。
「マルでいいわ。どうやったら痩せられるか教えてちょうだい」
「ん、いい子だ。マル。じゃあ、ジャグジーでぷかぷかしような」
 尚季はずっしりと重いマルを抱き上げて、用意しておいたジャグジーに、足から順に身体をそっと浸からせていく。マルが怖がって暴れないように、すぐに手を離さず胴を支えたまま様子を見る。
「身体が嘘みたいに軽いわ!泡が身体をモミモミしてくれるから気持ちいい! 」
「ん、良かったな。じゃあ、手を放すから自分で泳いでみな」
 手を離した途端、水流に揉まれてマルの身体が回転する。まるで洗濯機の中の毛布みたいだ。マルはキャーキャー悲鳴を上げながら、それでも必死に短い手足をピコピコ動かし、何とか止まることができた。
「うさ耳せんせ~。グルグルしなくなったけど、前に進まないよ~」
「前足で水を掻いて、後ろ脚で蹴る。そう、その調子。向こうの壁に足がついたら一回休憩しよう。それと、俺の名前は兎耳山だ」
「長くて呼びにくいから、うさ耳でいいでしょ。私も省略されてマルなんだから」
「むぅ……」
 遣り込められて口をへの字に曲げた尚季の様子がおかしいと言って、肩に載ったちびすけがキュルキュル笑い出した。
「ちびちゃんかわいいね。でも、本物のツバメじゃないのね」
「マルたん、僕のこと嫌でキュル?」
「ううん。うさ耳もちびちゃんも、マルがこんな身体でも変な目でみないもの。うさ耳は厳しいけど、マルを思って指導してくれるのを感じるから、いつもママと行く光導よりずっといい」
「うん、なおたんは優しいキュル。僕もなおたん大好き!」
 マルとちびすけが自分を褒めるのに照れながら、尚季が光導はマルの言う新興宗教かと尋ねると、マルが頷いた。
「いつもこの時間は、ママと一緒にお寺に行って、教祖の小難しい話を聞くの。さっきは食べ物につられて光導の方がいいって言ってごめんね。本当はなんかヤバい雰囲気があるところなの。マル【王様の耳】に来れて良かったわ」
「おう、そっか。気に入ってくれて嬉しいよ」
 マルの頭を撫でながら、尚季は豊島夫人を気にかけた。ペットの健康状態にまで影響を及ぼす宗教に傾倒するなんて大丈夫だろうか?
 心配しながらも、マルの運動を済ませ、マル用の食事や運動メニューを書き終えた時、ちょうど豊島夫人がマルを迎えに戻って来た。代金を支払うマダムに、尚季がマル用のメニューを渡そうとすると、信じられないことに断られてしまった。
「今日光導の教祖様にここのお話をしたら、ペットの意に沿わない運動やダイエットは、動物虐待だって言われたの。やっぱりここはペットカフェにするのがいいんじゃないかしら?」
「あの、獣医として申し上げますが、このまま運動もさせず、必要以上の食事を与えれば、マル…ゲリータちゃんは、間違いなく身体を壊しますよ。その教祖が獣医の免許を持っていれば話は別ですが、あまりにも言っていることがでたらめです」
「まぁ、教祖様を批判するなんて! やっぱりあなたみたいな世間知らずのお若い方はだめだわ。さぁ、マルゲリータちゃん行きましょう。変なところに預けてごめんなさいね。また明日から一緒に、教祖様のところに行きましょう」
 マルが抗議するために大きく吠えたが、動物の話が分からないマダムは、一緒に行けるのがそんなに嬉しいのねと自分に都合よく解釈して、よしよしとマルの頭を撫でる。
 呆気にとられている尚季を後目に、ツンと顎を上げたマダムがドアから出て行き、その後にマルの声が物悲しく響いた。
「うさみみ~っ。助けてよ。ママは教祖の言いなりなんだってば。若死にしたくないよ~」
「なおたん、マルたんがかわいそう。なんとかしてキュル」
 ちびすけが、片羽で尚季の頬を突っついてかわいい顔でお願いをする。尚季にしても、獣医として見過ごせない発言をした光導の教祖が気にかかるので、一度光導を探りに行ってみようかと思った。
 そのこと含め、事前に情報を手に入れられないか、玲香に会いに行くことをちびすけに告げると、ちびすけが心配そうに言った。
「れいたんに会えるの嬉しいキュル。でも、光導で危ない感じたら、すぐ逃げてキュルル」
「わかった。俺もうさん臭いものには関わりたくないから、無茶はしないつもりだ。よし。さっそく玲香に電話するか」
 尚季は先日教えてもらった玲香のスマホの番号にかけ、光導について語った。ペットサロンに来た豊島とマルの話、豊島が通っている光導の教祖が言った無茶苦茶なご神託を話すと、おおよその話は、神社に参拝にやってくる人からも聞いていると言う。
「かなり怪しいところだから、一人で行くと危ないわ。私も一緒について行ってあげる」
 尚季は宗教については無知なので、玲香の申し出をありがたく受けることにして、探りに行く日取りを決めた。
 二日後の金曜日の昼過ぎ、玲香が【王様の耳】に息せき切ってやってきた。
「収穫あったわよ。神社の氏子さんの中に、女性介護士で伊藤さんって方がいるんだけど、脚の悪い七十歳のおばあさんを担当していて、光導にも付き添うらしいの。信者たちはペット同伴でくるみたいで、伊藤さんは脚の悪いおばあさんに代わって落ち着かない老猫を面倒みるうちに、一緒に集会に参加するようになったんですって」
 それがね、と玲香が眉をひそめたので、何かあることを感じて尚季が身を乗り出す。
 一人身のおばあさんが集会で話すことは、殆ど老猫の体調に関してなのだが、信者を導くはずの教祖の答えは、猫の身体に悪いことばかりを指示するらしい。変に思った伊藤さんは、親切心から、教祖のアドバイスは適切ではないことをおばあさんに伝えたところ、普段は温厚なおばあさんが激怒したというのだ。
 自分が間違っているとは思えず、教祖に操られているのではないかと心配になった伊藤さんは、神社の宮司である玲香の父に相談しにやってきた。
 宮司は玲香から【王様の耳】に来た光導の信者が、同じように教祖の間違いを指摘されて激怒した話を聞いていたので、玲香をその場に呼んで伊藤さんの話を聞かせてくれた。
 玲香は光導を探るために、伊藤さんを紹介者に仕立てあげ、中を見学させてもらう提案をしてみた。当然宮司は反対したが、何か怪しい気配があるか探るだけで、深追いはしないという玲香に折れて、尚季と一緒に行く条件で光導に行くことを許可したという。
「お父さんの信頼を裏切らないよう、何か会った時には、俺がしっかり玲香を護らなくっちゃな」
「うさ耳頭で言われてもねー。まだ、ちびちゃんの方が頼りになりそう」
「僕、なおたんと一緒に、れいたん護るキュル」
「ちびすけはほんと可愛いな。誰かと違って、ちゃんと俺を立ててくれるもんな~」
言い返そうとする玲香を遮って、尚季が紹介者の伊藤と玲香の関係を、教団にどう説明するのか訊いた。
「さすがに、お祓いで名の通った神社の娘と、氏子だとは言えないだろう」
「そんなこと言ったら、警戒されてしまうわ。伊藤さんは私の祖母のケアをしていて、祖母と一緒に伊藤さんの話しを聞くうちに、私が光導に興味を持ったという設定にしてあるの。電話さえ入れれば、いつでも見学に来ていいんですって」
「オッケー!抜かりないな。ちょうど今日の午後はペットの予約が入っていないんだ。飛び込み客が来ないうちに、さっそく探りに行こうぜ」
 
 そうして、二人と一羽は【王様の耳】からバスで二十分ほど行ったところにある光導にやってきた。
 小高い山の上にある光導の本堂は、回りをぐるりと雑木林に囲まれて建物自体は見えないが、木々の間を上っていく石段の入り口には、立派な石門が設けられている。その上に建っている不可思議な像を見て、尚季と玲香は眉をしかめた。
「なんだこれ?顔が狐で、耳がたぬき、身体がとかげで、尻尾が猫?ミックスされた想像上のキモキモ生物って感じだな」
 尚季の声につられ、ちびすけが中折れ帽を少し持ち上げて顔を出す。キモキモ生物を見た途端、ギャッと鳴いて帽子の中に引っ込んでしまった。
「なおたん、怖いキュル。おうちに帰るキュルル」
「いや、いや、ここまで来て逃げ帰ったら、二度と出直す気なんて起きないと思う。玲香行けるか?」
「もちろんよ!でも、危ないと思ったら、ダッシュするからね」
 二人と一羽は意を決して石門をくぐり、鬱蒼と生い茂る木を縫うように、上へと続く石の階段を一歩一歩上って行く。頂上付近で突然目の前の緑が開け、デデ~~ンと現れたのは、朱塗りの円柱と白い壁、緑色の瓦を載せた平安神宮にある應天門(おうてんもん)のような建物で、一行の度肝を抜いた。
「うわっ、すげ~派手!」
「威圧感半端ないわ!」
 尚季と玲香が建物を見上げて唖然としていると、建物の扉が音も無くスライドして、中から白装束を着た四十代くらいの女性が現れた。
「どちら様ですか? ここは光導の本殿ですが、先ほどお電話を下さった方でしょうか? 」
「そ、そうです。えっと、ここに通っている介護士の伊藤さんから、教祖さまのお話しを聞いて興味を持ったのですが、見学させていただくことは可能でしょうか?」
「確認してまいりますので少々お待ちください」
 白装束の女性は、現れた時と同じように、扉をそっと閉めて姿を消したが、すぐに戻ってきて、尚季と玲香を扉の中に招き入れた。
 辺りを見回すと、広い玄関土間の正面には大きく光導と墨で書かれた掛け軸がかかっていて、その両側には何焼きかは分からないが、高そうな大壺に枝や花が生けられている。大方信者から搾り取った大金をつぎ込んで造ったのだろうと尚季は鼻を鳴らした。
 玲香に肘でつつかれて、尚季は本来の偵察を思い出し、慌てて咳で嫌悪の気持ちを誤魔化したが、バレなかっただろうかと冷や汗をかいた。
 上がりかまちに並べられたスリッパに足を入れ、掛け軸の前を右に折れて、磨き上げられた木の廊下を女性の後ろからついて行く。廊下を中ほどまで進み、左側にある襖の前で立ち止まった白装束の女性が声をかけると、中から低く地を這う様な声が入れと命じた。
 尚季と玲香は不安気に顔を見合わせたが、二人の前で襖がスッと引かれて、目の前に畳の大広間が現れる。目を引いたのは、奥の一段高くなった板間に鎮座する高御座(たかみくら)だ。
 天皇の即位式に使われる天蓋の付いた椅子を、更に仰々しくしたものにでっぷりとした巨体が陣取っている。尚季たちが教祖と思われる人物の顔を見た途端、大きな顔にある切れ長の目から、鋭い眼光が放たれた。
 一瞬、尚季たちの身体が金縛りにあったように動かなくなり、背筋がぞっと粟立って、息をするのもままならなくなる。尚季が身体にまとわりつく悪気を跳ね返すように力を込めると、何とか束縛が解けて動けるようになった。横を見れば、青ざめた顔で教祖を見つめる玲香が小刻みに震えている。
「玲香、大丈夫か?」
「何あれ?人間じゃないものが沢山取り憑いているわ」
「何だって?」
 玲香の震えに同調するように中折れ帽がカタカタと揺れ始める。中でちびすけが震えているのが分かり、安心させるために尚季が帽子に手をやった時、それまで無言で二人を睨みつけていた教祖が口を開いた。
「お前、帽子に何を隠している?それにその女は何者だ? 私の姿が見えるようだな?」 
 これはやばいと横眼で合図を送り合い、尚季と玲香が身を翻して入ってきた襖へと駆けだす。が、襖の前には、先ほどの女性と白装束姿の二人の男性が、両手を開いて出口を塞いでいる。周囲を見渡しても、左右は壁で他に出口はない。尚季が諦めかけた時、高御座を囲う布の後ろに隠された引き戸に気が付いた。
 後ろは男二人に、女が一人。前は一人でも、教祖は相撲取りか、レスラー並みの身体のでかさだ。尚季一人なら突破できても、玲香を連れて逃げるのは不可能に思われた。
 どうすればいい?尚季が必死で考えているのを、地の底から湧くような教祖の低い声が邪魔をした。
「そこの草食男。大人しく従えば乱暴はしない。帽子を取って中身を見せよ」
「はぁ~?草食男って何だよ!それを言うなら草食系男子だろ。でも、俺の中身は肉食だぞ。柔道に合気道、剣道にもろもろの武道を身に付けているから、お前なんて一たまりもなくやっつけられるぞ。怪我しないうちに、信者だか何だかしらないが、あの三人をどかせろよ」
 尚季が必死で威嚇しているときに、後ろ!と叫ぶ玲香の声が聞こえ、防ぐ間もなく、近付いた男性信者に中折れ帽を取られてしまった。途端に、ぴよ~~んと飛び出したうさ耳を慌てて抑えたが、意外にも反応したのはふてぶてしく高御座にふんぞり返る教祖だけだった。
「うさぎの耳か。やっぱり草食男じゃないか。どうせ、武術が得意だというのもはったりだろう。それにうさ耳の間に隠れているのは何だ?鳥のヒナか?」
 教祖の問いかけに信者たちがざわつくが、どうやら彼らには、うさぎの耳もちびすけも見えないらしい。お互いに見えるかどうか確かめ合って首を振る様子に、尚季がにんまりと笑った。
「あんた頭がおかしいんじゃないか?人間にうさぎの耳なんてあるわけないだろ。それにヒナの声なんて聞こえないぞ。自分だけ特別な力があると思わせて、信者を操ろうとしているんじゃないのか?」
 教祖を侮辱されると怒るはずの信者は、尚季の言葉を聞いて戸惑っているようだ。次にどうするか考える尚季の肩にちびすけが降りてきて、耳元でそっと呟く。
「れいたんの心伝わってきたキュル。もっと言えゆってる。怒らせると本性出ルル」
 分かったと頷いた尚季が、教祖を挑発し始める。
「なぁ、俺さ、こう見えても獣医の免許を持ってるんだよ。あんたがここで、でたらめな神託を授けたことを知ってるぞ。豊島夫人が体重過多なペットのことで相談したとき、あんた好きなだけ食べさせるように言ったんだって?病気にならないように俺が運動を勧めたら、ペットの意に沿わない運動は、動物虐待だって止めたらしいじゃん。それって、ペットが早死にするって分かってて言ったんだよな?」
 尚季の言葉に追い上げられ、教祖の顔がどす黒く変色し、怒りに震える巨体が椅子をギシギシと鳴らしながら立ち上がった。尚季に鋭い視線を向け、板の間の段を降りて来る。口からはこの世のものとは思えない地を揺るがすような低い唸り声が漏れている。
 いきなり教祖が着物の袖を顔の前でクロスさせた。次の瞬間両腕が開き、袖がバサッと空気を切りながら舞い上がる。
「見ちゃダメ!目を塞いで!」
 玲香の叫びに、ちびすが尚季の鼻に飛び移り、羽を広げて尚季の目を覆った。ちびすけの羽の隙間から、横に立つ信者を見ると、教祖の眼光の術を受けているのか、目を見開いたまま動かない。
 低い教祖の声が分裂して幾重にも重なった声になり、言うことを聞くのだと命令をする。疑いを持ち始めていた信者が、教祖の言葉にガクリと頷くのが見えた。
「信者たちよ、その男と女を捉えよ」
 いきなり信者たちが尚季と玲香に襲い掛かってきた。
 操られているせいか、今一つ動きが鈍い。尚季は、両手を上げて掴みかかろうとした男性信者の下をかいくぐり、後ろに回って思いっきり背中を押すと、押された男性信者が他の信者に倒れ掛かって共倒しになった。
 じたばたもがいている男性信者を後目に、玲香を案じて振り向けば、玲香は何やら呪文を唱えながら、女性信者の前で縦横無人に手刀を切っている。
 肘から上が緩やかなウェーブを描き、手の平がひらひらと翻る。そうかと思えば、空気を震わせるほどの速度で手刀が動き、斜めに切り下としたり、切り上げたりする。一連の舞いはだんだん早くなり、「はっ!」という玲香の掛け声とともに、ピンと揃えた人差し指と中指が女性信者の額を指した。
 すると、女性信者は口から泡を吹き、へなへなと崩れ落ちた。玲香がその身体を支て畳に寝かせると、頭の上から分裂した教祖の声が降ってきた。
「お前は何者だ?なぜそんな術を使える」
「私は除霊をするお祓い師なの。今からあなたに憑いているものを祓ってあげるわ」
 玲香が祓いの舞いを始めると、教祖の背中の影が蠢いて沢山の動物の影へと分裂していく。門の上にあった石像を彷彿とさせる奇怪な姿を見て、尚季が驚きの声をあげた。
 苦し気な声で呻き、大きな身体でもがいていた教祖が、力を振り絞って畳を蹴り、玲香の元へと突進する。夢中で舞っていた玲香は逃げ遅れ、教祖の伸ばした手に捕らえられた。
「玲香を放せ!」
 尚季が教祖の腕を掴み、玲香から引き剥がそうとするが、その巨体はびくともしない。玲香を腕に抱えたまま、反対の腕でなぎ払われ、尚季は畳に尻もちをついた。それを狙って教祖の脚が勢いよく降り下ろされる。その瞬間、ちびすけが教祖の脚へ向かって弾丸のように飛び、くちばしで鋭い一撃を与えた。
 片足で立っていた挙措はバランスを崩し、玲香共々もんどりうった。幸いにも玲香は教祖をクッションにして無事だったが、自重で床に叩きつけられた教祖は起き上がれない。玲香は巨体の後ろに回り込み、続きの呪文と祓いの舞いを始めた。
『呪文をとめろ~。われわれを引き剥がすな』
 数え切れないほどの重なった声が、重く低くこだまして部屋中に跳ね返り、障子や木戸、高御座をガタガタ揺らす。
 繰り返される咆哮は、ウサギの耳を押さえても、頭の中に直接響くようで鳴りやまない。尚季を心配したちびすけが、動物霊たちにむかってピキーッと警戒音を発した。
 重低音がぴたりと止み、尚季が周囲を見回すと、女性信者は気絶したままだが、男性信者二人が、尚季と同じように音から逃れようとして耳を塞いでいた。術をかけられた信者たちには、あの教祖に取り憑いた物の怪の声が聞こえるらしい。
 玲香に視線を戻すと、沢山の霊を相手に苦戦しているらしく、額に汗がにじんでいる。教祖はもがきながら起き上がり、玲香の舞いを止めようと、足元に這いつくばっていく。
 ちびすけが、うさ耳を押さえたままだった尚季の手に載って首を伸ばし、うさ耳と手の隙間にくちばしを突っ込んで、キュルキュルと鳴いた。
「なおたん。どうぶつの声きいてあげてキュル。みんな苦しい言うキュルル」
「苦しんでるって言っても、教祖を操っている霊を引き剥がして成仏させなければ、また他のペットを死に追いやるんじゃないか? 」
「きょうそから離れても、誰かにつくキュル。ばらばらにするの危ないキュルル」
「分かった。玲香だけに大変な思いをさせたくないから、俺も手伝うよ」
 尚季がうさ耳から手を離したのを機に、ちびすけが霊たちに呼びかけると、それまでとは異なる声音が流れ込んでくる。聞き取ろうとして尚季が神経を集中させた。
『捨てられた~。ずっと待ってるのに、ご主人さまが迎えに来ない』
『新しい子猫に夢中のご主人さまは、私を忘れてしまった。構ってもくれない』
『ご主人は年よりで、もう僕のことを面倒見れないと言って、保健所に連れてったんだ』
『寂しい。寂しい。ご主人さまに構ってほしい。寂しいよ~』
 何と言う寂寥感だろう。尚季は動物霊たちの声に胸をつかれ、涙を流した。
「おい、動物霊たち」尚季が話しかけると、這いつくばっていた教祖がぴくりとして尚季を振り返った。同様に畳に移った沢山の動物の影も尚季を見ている。
「寂しいから、生きているペットを仲間に引き込もうとしているのか? 」
『違う。ペットを亡くせば、飼い主は悲しくて寂しがる』
『教祖が慰めれば、飼い主は教祖を信頼して離れなくなるでしょ』
『もう、僕たちは捨てられなくて済むんだ』
 飼い主を恋しがるあまり、生きている仲間を犠牲にしても、飼い主の愛情を手に入れようとする動物霊たちは哀れだが、このまま犠牲動物を出すのはまずいと尚季は思った。
 教祖に傾倒している飼い主たちは、操られているのだから、いつかは正気に戻る。いくら教えとはいえ、ペットに誤った対処をして苦しめたことに気づき、教祖ばかりか自分自身を責めて、怒りや恨みの負の連鎖が広がるだろう。その時に、また引き寄せられた物の怪が、悪さをしないとは限らない。
 どうすればペットたちの心をなだめられるのだろう。尚季はそれを直接動物霊たちに聞くことにした。
「お前たちが、仲間のペットを死に追いやって手に入れた飼い主は、お前たちが会いたがっている本当の飼い主じゃないんだぞ。もし、一時的にペットロスで操られていた飼い主たちが、お前たちの本当の正体と企みを知ったら、お前たちを思うどころか、憎しみの目を向けるかもしれない。そうなったらお前たちはどうなる?」
『いやだ~。憎まれるのはいやだ~』
『もう一度かわいがって欲しいだけなの』
 尚季は動物霊たちの本音を、お祓いを中断していた玲香に伝えた。どうやら動物霊たちは、理解しようとしてくれる尚季には語りかけるが、消し去ろうとする玲香には頑なに身を守って、何も伝えようとしないらしい。
 尚季が一通り話終わると、玲香は悲しそうな表情で教祖の肩辺りを見て、そっと動物霊たちに語りかけた。
「そうだったの。それは辛い思いをしたのね。でも、だからと言って、他の動物を苦しめたり、人間を悲しませたりしちゃいけないわ」
「動物霊たちは、寂しいって鳴いてるんだ。飼い主に愛されたいって。あっ、そうだ、玲香はあいつらの飼い主を呼び出せないのか?」
 玲香は信じられないという顔を尚季に向けたが、尚季が真剣に言っているのを知り、がくっと項垂れて溜息をついた。
「あのね、私はイタコじゃないんだから、召喚はできないの」
「じゃあ、どうしたらあいつらの気持ちを和らげてやれるんだ?このままじゃ、祓っても成仏しないんだろ?」
 尚季が悩んでいる間も、飼い主に会いたいよ~と鳴いている声が聞こえて、考えがまとまらない。もともと深く考えむのが苦手で、先に行動が出る尚季は、この時も考え無しに言葉が口をついた。
「そうだ! あいつらを連れて、飼い主に会いに行こうぜ! 」
「なおたん、死んじゃった飼い主もいるキュル。どうやって会うキュルル? 」
「う~ん、とりあえず行ってみて、近所に飼い主のことを聞くのがいいのかなって。あいつらの思い込みと飼い主の気持ちが違っている場合があるだろ?それが分かるだけでも、あいつらは救われるんじゃないかなって思うんだ」
 玲香もちびすけも、尚季の案がいいのか計りかねていた。もし動物霊たちの言う通り、不当な扱いを受けていたことが分かっても、過去は変えられない。それなら、一匹でも思い違いだと分かって、幸せな気持ちで成仏させた方がいいという結論に達した。
「賛成してくれたのは嬉しいけど、この大きな教祖を引き連れて行くのか?飼い主も気圧されて、ペットとの過去を話すどころか、胡散臭がられて家の中に引っ込んじまいそうだ 」
「う~ん、確かに。隠れてついてきなさいと言ったって、この巨漢じゃ目立ち過ぎるわね」
「なおたん、いい考えがあるキュルル。なおたんに動物霊たんたちが乗り移ればいいキュル」
「だめ!却下!教祖から離れるには祓わなくちゃいけないんだろ?あいつらバラバラに飛んでいくかもしれないんだぞ。もう一度奴らを一か所に集められるのか? 」
 尚季は自分の肩に動物霊が憑りつくことを考えた途端、まだ憑いてもいないのに、背中がぞっとして鳥肌が立つのを感じ、即座にちびすけのアイディアを却下した。
「なおたん、お祓いしなくていいキュルル。僕も霊だから、呼べばみんなこっちへ来るキュル」
「うっ‥‥‥」
 今まで霊に無関心で感じもしなかったのに、あれらがぞろぞろと自分に憑くのはさぞ恐怖だろうと、二の句も告げずに固まった尚季を見て、玲香が必死で笑いをかみ殺している。
 だが、見た目は草食系の尚季は、中身は結構勝気で、高校時代に外見をからかう相手に容赦がなかったことを知っている玲香は、尚季がちびすけと玲香の前で、本音を言えずにいることを察して、余計におかしくなった。
「尚季君、ちびちゃんの言う通りにしたら?飼い主と会っても満たさされずに残った霊は、私が祓ってあげるから。少しでもこの世で悪さをする数を減らしましょう」
「ぐっ‥‥‥」
「ちびちゃん、尚季君がグッドだって。やっちゃって! 」
 違う。いや、そうじゃないと慌てる尚季を玲香が必死で宥めるので、ちびすけがうさ耳から身を乗り出して、心配そうに尚季の顔を覗き込んだ。
「なおたん、ひょっとして霊怖いキュル? 僕のことも怖かったキュル? 」
「霊なんて、全然怖くないぞ!ちびすけのことはかわいいと思ってるから、そんな悲しそうな顔するなよ」
「よかったキュルル。僕もなおたんにもう一度会いたい思ったキュル。動物霊たんたちの気持ち分かるキュル」
 尚季はちびすけの言葉に胸を打たれた。何度も何度も猫に食べられかけたのを救った尚季は、ちびすけにとって、命を奪われた最期の瞬間に、魂を願いが叶う石に変えてでも、会いたかった相手なのだろう。
 そう考えたら、切なくて泣けてきた。男なんだから、人前で泣いちゃみっともないと思うのだが、目じりから溢れた涙は頬を伝う。そしてそれは、流れ落ちることなく、うさ耳から肩に飛び降りて、首を伸ばしたちびすけの小さなくちばしの中に消えていった。
「なおたんが、僕のことを思ってくれる味キュル。僕しあわせキュルル」
 羽と尾を震わせて喜ぶちびすけを見ていたら、尚季は同じ霊である動物霊たちも怖くなくなった。ちびすけに、霊達を尚季の肩に呼ぶように伝えると、ちびすけは頷いて尚季のうさ耳に戻っていった。
「みんなおいでキュル。なおたん、みんなの飼い主のお話聞いてくれるキュル」
 教祖に憑いた動物霊たちは、お互いに顔を見合わせどうするかあれこれ話し合ったが、一匹が行くと言い出すと、他の仲間たちも僕も、私もと色めき立った。
 その動物霊たちに、身体が小さいちびすけが、凛とした声で言い放つ。
「なおたん、僕の大切な人キュル。もし悪さをしたら僕が許さないキュル。わかったらこっちおいでキュルル」
 動物霊たちは一斉に頷くと、教祖の身体から離れ、尚季に向かって飛んで行く。
「うへ~っ。何か肩が急に重くなった感じ」
 尚季がごきごきと肩を回しながら不満を言うと、ちびすけも、玲香も、動物霊たちも思わず吹き出して、部屋の中に笑い声が響いた。
 気を失っていた信者や、動物霊に操られていた教祖が笑い声に目を覚まし、何が起きたのかと辺りを見回したので、尚季と怜良は素早く入ってきた襖から出て、磨かれた板の間を出口へと走っていった。
「あの教祖、信者たちにペットのことで、もう無茶を言わないといいわね」
「ああ、今度、瑞希のところに通っているフレンチブルのマルに、探りを入れてみるよ」
「マルがもう一度【王様の耳】に来るといいキュル」
 光導の建物を見つめた二人と一羽は、願わくば信者にとっても、ペットにとってもいい環境を得られることを願いながら、光導を後にしたのだった。
 尚季と玲香はそれぞれの休みが合う日に落ち合い、近場から動物霊の元飼い主の状況を探ることにした。
 一番最初は、カメ吉の元飼い主で、相模幼稚園の三園先生を探すことになった。三園は毎朝、園の浅い池にいるカメ吉の甲羅や水搔き、尾などに異常がないかを調べて、世話をしてくれたらしい。その優しい先生に、ある日公園の池に置き去りにされて、死ぬまで待ち続けたという。
 尚季と玲香が相模幼稚園を検索してみると、賃貸マンションに変わっていた。仕方が無いので、現地に赴き、聞き込みをするうちに、偶然通りかかった小学生の男の子が、そこから近いコーポへと案内してくれた。
 お礼を言って男の子と別れ、尚季と玲香はどきどきしながら、インターフォンを押すと、ドアから恰幅のいい中年女性が顔を覗かせた。
 途端に、カメ吉の霊が、ご主人様だと大騒ぎをする。三園にどう話をつけようか考えていたのを邪魔されて、尚季は思わずカメ吉静かにしろと言ってしまった。
 三園が一瞬目を見開き、辺りに目を走らせる。当然何も見つけられず、不審感を顕わにしながら、どうしてカメ吉の名前を出したのかを尚季に聞いた。
 最初に疑いを抱かれては、人は心を開きにくくなる。ましてや動物の霊がいるなんてことを、信じる人がどれほどいるだろうか?気持ち悪がられて、ドアを閉められるか、帰れと怒鳴られるかもしれない。尚季はそれを覚悟で、一生懸命これまでのことを三園に語った。最初は信じなかった先生も、カメ吉と先生しか知らない、朝の身体のチェックのことや、先生がカメ吉に話しかけた内容を聞くうちに、尚季の言葉を信じるようになった。
「カメ吉があなたの肩にいるのですか? 」
「はい。本当です。先生が来てくれないとずっと泣いていました。成仏させるために、先生がカメ吉を嫌いで捨てたんじゃないということを確認したかったのです」
 悪い思い出を話されれば、霊達を余計傷つけ、悪霊になる可能性がある。嫌いで捨てたんじゃないことを確認しに来たと言えば、元飼い主が良い思い出話をするのではないかと尚季は踏んだ。だが、そんな根回しもこの先生には必要なかったようだ。
 三園は、見えないはずのカメ吉を何とか見ようと、尚季の肩に目を凝らすうちに、目に一杯の涙をたたえ、静かに語りかけた。
「カメ吉、ごめんね。待っていてくれたのね。あそこの幼稚園がボヤを出してね、古い建物だったから、今の防火基準に適さないことが分かって、建て直しを迫られたの。でも資金繰りが厳しくて、園を閉めることが決まって、動物は貰い手がないものは殺処分されることに決まったの」
 思い出すだけで辛かったのか、三園は眉根を寄せて身を震わせた。
「飼育しているカメを自然の池に放しちゃいけないことは知っていたけれど、殺すなんてできなかった。カメ吉を引き取りたかったけれど、こんな狭いコーポでは、あなたを入れるための水槽を置けなくて、公園の池に放したの。それなのに、ずっと待っていたなんて」
 三園の目にも、カメ吉の目にも涙が溢れた。声は聞こえても、霊が見えない尚季に、玲香が状況を伝える。尚季は肩に手をやり、カメ吉に乗るように言った。わずかに重みを感じる手を三園の方へ差し出すと、カメ吉はぐんと首を上に伸ばして、涙声でご主人様と呼びかけた。
『捨てられたんじゃなかった。ご主人さまは、僕を救うために逃がしてくれたんだ。ご主人様ありがとう』
 カメ吉の言葉を、尚季が三園に伝えると、先生は見えないカメ吉の背をまるでそこにいるようにそっと撫でた。ポタッと涙が落ちて甲羅にかかったのを、カメ吉は幸せの潤いだと、心地よさげに目を閉じて打たれている。
 その様子を話していた玲香があっと叫び、ちびすけがブルっと羽を震わせる。急に手の平が軽くなり、ありがとうという声が上空から降ってきた。カメ吉は天に召されたのだった。

 カメ吉から始まった、動物霊たちの飼い主巡りは、うまく行けば週に二人、うまく行かない時はまるで手掛かりがつかめず、そうこうするうちに四か月が経ち、クリスマスがやってきた。
 ペットサロンにはマルが戻ってきた。豊島婦人の話では、威圧的だった教祖の人柄がころりと変わり、慈愛に満ちた説法をするようになったとか。
 以前マルに言ったこととは反対の勧めをする教祖に、物怖じしない豊島夫人がどうして考えを変えたかを尋ねたら、悪い物に操られていた気がすると正直に話され、謝られたそうだ。 
 例え一時期おかしかったとはいえ、自分の非を認め、以前より真剣になって信者のことを考える教祖を、信者たちは見放さなかったらしい。
 宗教に傾倒する信者たちの多くが、高齢だったことから、心の寄ろどこを失うのを恐れたのもある。悟りを開いた教祖でさえ、悪気に取り憑かれるというなら、もっと信仰に励み、より良い最期を迎えられるようにしようと結束を固めたそうだ。
 とりあえず良い結果になったことを、玲香と一緒に宮司にも話すことができ、尚季は肩の荷を下ろしたような気持ちになった。
 ペットサロンの方も、社交的な豊島の口利きや、動物霊たちの為に、一生懸命奔走する尚季に感謝の気持ちを抱く霊たちの加護もあり、【王様の耳】は、あっという間にペットで一杯になった。
 尚季の元でエクササイズに励んだマルは、ダイエットに成功して、今では散歩の時にお腹が地面につくこともない。来なくなるかと思いきや、マルが【王様の耳】を気に入っていることを知っている豊島夫人は、どこかに出かける時には、必ずマルを尚季に預けてくれる。
「じゃあ、兎耳山先生、マルゲリータをお願いします。二時間くらいで帰ってくるつもりなので、いつものコースでお願いね」
「はい、了解しました。行ってらっしゃい。お気をつけて」
 豊島婦人が庭を横切り、門を閉める音が聞こえた途端、マルがジャグジー入るとはしゃぎだした。
「うさ耳~。帽子とってちびちゃん見せて~」
「はいよ。マルゲリータ。ピョ~ンだぞ」
 帽子を取った拍子に飛び出すうさ耳はいつも通りだが、マルが異様に驚いて振っていた尻尾をピンと垂直に立てた。
「何だ?今更何を驚いてるんだ?」
「だって、うさ耳がマルゲリータって呼ぶんだもん」
「そんなに、驚くなよ。ダイエット成功したらフルネームで呼んでやるっていったろ? 俺のことも兎耳山先生と呼ぶんだぞ」
「いやだ。うさ耳がいい。私も慣れたしマルでいいよ。ねぇ、それより、ちびちゃん元気がないんじゃない?」
「えっ? そうか? いつも通り耳に包まってるけど、普通だと思うけどな」
 毎日ちびすけを見ているので、ひょっとしたら少しずつの変化を見落としているのかもしれないと心配になった尚季が、どこか悪いのかとちびすけに訊ねる。だが、ちびすけはブンブン首を振った。
「なおたん、心配しなくて大丈夫キュル。僕、今とっても幸せキュルル。なおたんの希望叶えるお手伝いしてるから」
「ほんとか? 無理するなよ。あっ、寒いと思ったら雪だ」
 庭にちらほら白いものがたゆたっている。ジャグジーに入る気満々だったマルは、窓のに走って行き、右に左に方向を変える雪につられて動きながら、飛び掛かるチャンスを狙っている。
「マル、窓の傍は冷えるから、こっちにおいで。早くジャグジーに入れよ」
 雪に心残りがあるのか、何度も後ろを振り返りながらやってきて、マルが尚季の手に前足を乗せる。尚季はよしよしと頭を撫でて、マルをジャグジーに入れてやった。
「はぁ、気持ちいい~。ねぇうさ耳、【幸福な王子】って童話知ってる? 」
「ああ、金銀宝石で綺麗に装飾された銅像の王子が、ツバメに頼んで貧しい人達に、自分の宝飾を剥がして持っていくように頼む話だろ?ラストは何だったか忘れちゃったけどさ、すごい自己犠牲愛だよな」
「ラストが泣けるんだよ~。この間ママが読んでくれたんだ。そういえば、このサロンは名前に王様がつくし、つばめのちびちゃんもいるから、うさ耳は【幸福な王様】だね」
「ハハハ違いない。読み聞かせをしてくれるなんて、豊島夫人はいいご主人さまなんだな」幸せそうにうんと頷くマルを見て、ちびすけも負けじと自慢する。
「なおたんの方がいいご主人さまキュル」
 湯気のせいか、テレなのか、頬を熱く感じた尚季は、自分は本当に幸せの王様だと思った。

 そして季節が巡って桜の花が薄桃色の花びらを広げ、見るものを柔らかく包む春がやってきた。
 尚季に憑いた動物霊たちは、尚季と玲香とちびすけの努力のかいがあって、あと一匹を残すのみとなった。
 すべてが幸せになったわけではないけれど、飼い主がペットを愛していたことを知り、最期の冷たい仕打ちを帳消しにして成仏していった霊もいた。
 今日訪ねる先の奥さんは新しいもの好きらしく、最初こそ、手に入れたものを目に入れても痛くないほどかわいがるが、次に目が行くと、完全に前のものから興味を失くしてしまう人らしい。
 新しい子猫が仲間入りしたためにお役目御免になり、構って欲しいと泣きながら病死した猫は、飼い主の愛情を奪ったあの時の子猫が、霊となって飼い主の肩にいるのに気が付いた。
 玲香も肩にいる霊に気が付き、尚季にそっと告げる。尚季は猫のことには触れず、訪れた理由をペットサロン【王様の耳】の宣伝だと偽った。
 元飼い主は、暇を持て余していたのか、尚季を相手に自分は動物好きで、沢山のペットを飼ったことがあると自慢を始めた。自慢ばかりで、さすがに切り上げたくなり、尚季がとっさに浮かんだ猫限定スペシャルプログラムの説明をすると、奥さんは今は猫を一匹も買っていないと言う。
「今は飼ってらっしゃらないということは、昔は猫を飼ってらっしゃったんですか? 」
「ええ、二匹飼っていたわ。最初の子は焼きもち焼きで、他の子をかわいがろうとすると邪魔をするような、とても根性の悪い子だったの。もう一匹は十分手をかけてあげたのに、欲深いのか、私が忙しい時に限って何度も仮病を使って、もっと構ってもらおうとするようなわがままな子だったの。だから本当の病気の時に、また嘘だと思って医者に連れていかなかったら、死んじゃったの。猫は面倒くさいから、もうたくさんよ」
 突然、シャーッと唸り声をあげ、二匹の猫の霊が毛を逆立てた。
周りの空気が途端に冷えて行く。尚季には猫の姿は見えないが、ビリビリと張り詰めた空気を感じて、これはやばいんじゃないかと玲香に視線で問う。何か策を講じるのではと思った尚季の当ては外れ、うんざりした様子の玲香が、もう帰ろうと言った。
 仕方なく、キャンペーンの対象は猫だけなので残念ですと断りを入れて、尚季たちはその家を後にした。
「何だか肩が軽っ軽になったんだけど、猫霊どうしてる?」
 帽子の隙間から覗いていたちびすけが、尚季の肩に降りてきた。
「なおたんから、おばたんに飛び移ったキュル」
「ええっ?それ、まずいんじゃないか?悪霊になったってことだろう?あのおばさんはどうなるんだ? 」
「体調悪くなったり、悪いことが起きたりするんじゃない? 」
 突き放したような玲香に腹が立ち、尚季がどうして祓わなかったんだと気色ばむ。それを上回る勢いで、玲香は文句を言いながら尚季に詰め寄った。
「あのね、私はあんな身勝手なおばさんのために、無料でお祓いをする気なんかないわよ。おかしなことが起きたら、自分のしたことを反省して、うちの神社にこればいいのよ。特別高い料金を設定して懲らしめてやるんだから」
 首を竦めた尚季が、女って怖いなと呟いた。
「なぁ、ちびすけ、今回は殆どが成仏したから、残った奴らがまとまって、前みたいに悪さをすることはないんだよな?」
 うんと頷くちびすけが心もとなく感じて、尚季が不思議に思いながらちびすけを見ると、泣いているように黒く潤んだ真っ黒な瞳が、尚季を真っすぐに見つめ返す。
「あれっ?ちびすけ、俺の目がおかしいのかな? 身体の色が薄くないか?」
「違うわ、尚季くん。私にもちびちゃんが透けてみえる」
ちびすけは、首をきゅっと伸ばして、尚季のくちびるにくちばしを当てた。
「なおたん、お別れの時が来たキュル」
「な、何を言ってるんだ? ちびすけ。お別れなんて冗談言うなよ! 」
「冗談無いキュル。なおたん、石に願いかけたキュルル。僕と僕のパパ、ママの気持ち知りたいって。パパ、ママ無いし、なおたんうさ耳要らない言うから、僕、動物の声沢山聞けばいい言ったキュル。なおたん、沢山聞いたから、うさ耳やっと取れるキュル」
「黙れ! お前がいなくなるなんて聞いてない! 」
「うさ耳、僕の魂のかけらでできてるキュル」
「要らないなんて思わない。ずっとついてたっていい。頼むよ。傍にいてくれ」
 尚季が必死でちびすけを引き留めようとするが、ちびすけの身体がどんどん透けていく。耐えられなくなった玲香が、声をあげて泣き始めた。
「かけた願いは変えられないキュル。僕なおたんの願い叶えるお手伝いできたキュル。うさ耳無くなるけど、これからも動物の心聞いてあげてキュルル」
「ちびすけがいてくれたら、ずっとペットサロンで動物の声をきく。だから行かないでくれ! 」
 ちびすけは、もう一度尚季の頬に身体をすりつけると、すっと上を向いた。
「なおたん、僕忘れない。なおたんのこと大好きキュル。さよ…な…」
ちびすけは消えた。
 右も左も、前も後ろも、空も見たけれど、どこにもいない。
上を向いた拍子に、中折れ帽が外れた。慌てて頭を押さえたが、そこにはもう、うさ耳は無かった。
「ちびすけ~~~~っ」

 尚季の声に反応して、返事をするかわいい声を必死で聞き取ろうとしたけれど、尚季の耳にも、玲香の耳にも、探し求める声は届かなかった。


 なあ、みんな。最初に俺が頼んだことを覚えているか?
 俺のうさ耳が取れるように祈ってくれと頼んだことを、別の願いに変えてくれ。男に二言は無いと言うが、どうか撤回させてくれ。
「いつか、ちびすけが俺の元に帰ってくるように、どうか、どうかお願いだ。みんなで祈ってくれ」

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