運命とはまさにこのことである。T氏が降りる位置を予見していたのか、それともたまたまなのか、いずれにしても、T氏の目の前に、その女性はいた。髪は短く、目はクリっとしている。全体的に小柄で、転がしたらコロンと転がっていきそうな感じである。一言で言えば、可愛らしいと形容されるような女性である。
 T氏がホームへ降りると、その女性はT氏に近づいてきた。シャイな性格なのか、なかなかT氏と目を合わせようとはしない。T氏が勇気を出して目線を送ろうとするも、どこか虚ろな感じである。
 女性の白のワンピースから漂う甘い香りにT氏はクラっとした。正気に戻ると、T氏の目の前にその女性の姿はなかった。電車は定刻通り、無事発車した。
 気を取り直して、T氏はとりあえず改札口へと向かった。切符を通すよりも前に、花柄のワンピースを着た、艷やかな長い髪を纏った女性をT氏は視界に捉えた。二度も肩透かしを喰らわすのは、さすがにT氏がかわいそうである。そう、この女性が、今日T氏が会う約束をしていた女性である。
 T氏が改札口を抜けると、その女性がT氏のもとに近づき、喋りかけてきた。
「あなたがTさんね」
 T氏なりに親しみやすさをアピールしようとした結果、T氏の第一声はこうであった。
「うん、僕、Tくんだよ〜〜ん」
 彼女はクスリとも笑わなかった。
「はい、やり直し。初めて会う、ましてや今後恋人になるかもしれない女に対して、それはない」
 当然である。
 だがもう後には引けない。こうなりゃやけくそだ。今度は審司・マギーの「耳が大きくなっちゃった」のポーズも交えて、T氏は応戦した。
「聞こえなかったのかい、僕、Tくんだよ〜〜〜ん」
 彼女は少しだけ笑みをこぼした。
「よく聞こえなかったわ、だからもう一度、大きな声で」
 さすがに三度目は勘弁だと思ったT氏は
「あ、あの、僕、Tくんと申します、ど、どうぞよろしく」
 と縮こまりながら言った。
「さっきまでの勢いはどうしたのよ」
「も、もうすっかり果ててしまいました」
「情けないわね、全く」
「すみません」
「まぁいいわ、ひとまず栄養補給でもしましょう、さっさとお店決めちゃって」
「そんなこと言われてもなぁ……」
「プロフィールに食べ歩きが趣味って書いてあったじゃないの、お店とか結構詳しいんでしょ?」
「…………」
「これといった趣味がないからそう書いたの?」
「……食べ歩きってのは、その……スーパーの試食コーナーとかを歩き回って……」
「フフ、目をつけられるわけね」
「はい」
「しょうがないわね、じゃあ今回は私の行きつけのお店でいいかしら」
「はい、お伴します」
「座って食べるお店だけど、文句ないかしら」
「はい、文句ないです」
「じゃあ行きましょう、ついてきて」
 食べ歩きの件については、どうにかはぐらかすことに成功したようだ。T氏は次のミッション「こぼさないように行儀良く食べながら笑顔で彼女の話に耳を傾ける」をスマートに敢行すべく、頭の中でイメージを膨らまながら、彼女の後をついていった。

 白壁の小ぢんまりとした建物の前で、彼女は足を止めた。建物の正面から見て、中央に窓がある。左端の鉄扉の脇に置かれた、茶色を背景に白い文字で「喫茶マテリアルワールド」と描かれた看板が、その建物が喫茶店であることを示す唯一のものであり、仮にその看板を盗もうものなら、窃盗と営業妨害の二重の罪に問われることは明白であった。
「ここ、私がよく行くとこ」
 そう言うと彼女は、入口である鉄扉に向かっていった。T氏も後をつけた。
 中に入ると、全体が木で覆われた客室が、外観とは打って変わって、涼しげな雰囲気を醸し出していた。入口から見て右側の壁に沿うように四つのテーブル席がある。部屋の奥がカウンター席で、その向かいがキッチンであった。T氏と彼女以外の客は、手前から二つ目のテーブル席に座っている、一組の若い男女のみであった。彼女が一番奥のテーブル席の手前側に座ったので、T氏は壁側に座った。ひんやりとした丸太型の椅子が、さらなる冷涼感をもたらした。
「いらっしゃいませ、ご注文が決まりましたらお声掛けください」
 店主と思われる、ワックスでしっかりと髪を固めた男が、おしぼりと、水の入ったグラスを二人のテーブルに配膳した。T氏は二度見されたような気がした。
 T氏が水を一気に飲み干す。それを見た彼女が
「飲みっぷりが良いわね」
 と言った。
「しまった!」とT氏は思った。喉が渇いていたせいで、ついあんな飲み方をしてしまった。下品だと思われただろうかと心配したT氏の体感温度は一気に下がった。
「こ、ここの水は美味しいね……」
 T氏はかろうじてそう答えた。
「何か食べる?」
 彼女がテーブル脇にあるメニュー表をT氏に差し出した。
 T氏はじーっとメニューを見た。西インドカレーというのが気になったが、上品に食べられる自信がT氏にはなかった。「カレーは飲み物」といわんばかりの男らしい食べっぷりを披露する場でもあるまいと判断したT氏は
「君のオススメは?」
 と素直に彼女に尋ねた。
「ケーキが美味しいわよ」
 彼女は答えた。
「ケーキかぁ……うん?ケーキって卵入っているよね、確か卵嫌いなはずじゃ……」
「ここ読んだらわかるわよ」
 彼女はメニュー表のケーキ一覧の下の部分に書かれた文言を指した。そこにはこうあった。
「ケーキに卵は一切使用しておりません。レモンや豆乳といった素材の風味を存分に堪能していただくため、というのは嘘で、単に店主が卵アレルギーだからです。卵アレルギーの方も安心してお召し上がりいただけます」
 彼女が言った。
「私がここによく来る理由がわかったでしょ、私卵アレルギーなの」
「なるほど、そういうことか」
「よく覚えててくれたわね」
 彼女は嬉しそうに笑った。
「イクラやたらこみたいな卵は?」
「駄目なのは鶏卵だけね」
 彼女は笑顔のまま答えた。
 彼女の笑顔を引き出すことに成功し、調子に乗ったT氏はさらに続ける。
「鶏肉はいけるのかい?あと、ついでに言うと、僕そんなに裕福じゃないから、ウニやキャビアなんかに関してもアレルギーだったらなお良いんだけど……」
「鶏卵だけって言ってるでしょ! キャビアなんて食べる習慣ないし、それに余計な心配しなくても、あなたと付き合うとまだ決めた訳じゃないわよ」
「そんな……」
 せっかく上手くいきかけてたのに……。
「で、何食べるの」
 彼女が仕切り直す。
「このレモンケーキってやつ」
 T氏もすぐに答えた。これ以上優柔不断なところは見せられない。
「じゃあ私は豆乳ケーキ、美味しいのよねーこれ」
 少し機嫌が持ち直したようだ。
「飲み物は何にする?」
 おしゃれな感じの自分を演出しようと試みたT氏は
「アールグレイ!」
 と飲んだことも聞いたこともない飲み物の名称を唱えた。
「じゃ私は冷たいアイスカフェオレ」
「アイスカフェオレってそもそも冷たいものなんじゃないの?」
「うるさいわね!」
「お決まりでしょうか?」
 ちょうど良いタイミングで店主が注文を取りに来た。
「私が豆乳ケーキとアイスカフェオレ、あっちの人がレモンケーキとアールグレイ」
「かしこまりました」
 店主がさらに続けて彼女に言った。
「今日はお連れ様と一緒なんですね」
「ええ、でも今日できっと最後です」
 彼女はツンとした表情で答えた。
「そ、そんな……」
 T氏の心の声が漏れた。
「まぁ上手いことやってくださいよ」
 店主が今度はT氏に向かって言った。
「はぁ、何とか……」
 T氏は気の抜けたように答えた。
「では少々お待ちください」
 店主はキッチンへと向かった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 沈黙に耐えられなくなったT氏が、辺りをキョロキョロ見回した。その様子を見た彼女が口を開いた。
「このお店、森の中の小屋って感じがして良いでしょ」
「う、うん、そうだね。ぼ、僕も良いなぁと思いながら見ていたんだよ」
 彼女が後ろを振り返る。きれいな黒髪が揺れる。
「あの辺りに飾ってある雑貨なんかも、センスが良いというか、何だかおしゃれよね」
 T氏が彼女の見ている辺りを凝視する。目線の先には、木製の棚や台の上に、専らインテリアとしての役割に徹した洋書やら、四人の髭だらけの男の顔が均等に写ったレコードのジャケットの他、興味のある人でないとその本当の良さに気づかないような幾多の雑貨が飾ってあり、よくわからないなりにT氏は「何だかおしゃれ」な雰囲気を感じ取った。
「お待たせしました」
 店主とケーキと飲み物が来た。
「ではごゆっくり」
 店主だけが帰っていった。
 白いカップにT氏が口をつける。唇がズルーと音を奏でた瞬間、T氏は心の中でアチー! と叫んだ。
 失敗だったとT氏は思った。たかが飲み物のチョイス程度のことでかっこつけようとした、つい五分前までの自分を激しく責めた。
 ほんのりと漂う湯気の向こうで、カランカランと乾いた音が虚しく響く。ひんやりとしたグラスに触れた彼女の唇が一層瑞々しさを増す。グラスから流れる汗のような水滴がテーブルの上に落ちるのを見たT氏の喉はますます渇く。僕も甘くて冷たい、カフェオーレが飲みたいの、とT氏は思った。
 グラスをテーブルに置いて彼女が言った。
「こんな暑い日にわざわざ熱い紅茶を飲むなんて、あなたよっぽど紅茶が好きなのね」
「う、うん、まぁ」
 紅茶だったのかと、もう一度T氏はゆっくりと口に含んだ。なるほど、確かに紅茶であった。午後に飲む紅茶のくせに、何でこんなに苦いんだ、とT氏は思った。
 苦さを紛らわそうと、T氏はレモンケーキを口に運んだ。
「ね、美味しいでしょ、ここのケーキ」
「うん」
 確かに美味いとT氏は思った。だが問題は水分だ。まさかグラスに残った氷を、初対面の彼女の前でバリバリ噛み砕く訳にもいくまい。T氏は仕方なくまだ十分に冷めていないアールグレイを再び口に含んだ。
 あれ? さっきと味が違うぞ? 口の中に残ったケーキの糖分が苦みを和らげたのか、いや、それだけじゃない、何かよくわからないけれど、口の中で華やかに……もしかしてこれ、美味いのか? とT氏は思った。
「あら、本当に好きなのね」
 好物の豆乳ケーキをフォークで突きながら彼女が言った。
 T氏がキョトンとする。彼女が続ける。
「好きなものを食べてるときの表情って良いわよね、最初あなたがアールグレイって言ったとき、何通ぶってんのよって思ったけど、そうじゃなかったみたいね」
「そ、そうだよ、レモンケーキには、アールグレイが、きっと合うと思ったんだ、やはり正解だったね!」
 出だしは言い淀んだが、きっぱりとT氏は言い切った。されど飲み物のチョイス程度のことでかっこつけたつい十分前の自分を、T氏は激しく称賛した。
 また店主が来た。
「お客さん、すみません、砂糖とミルク付け忘れてました」
 アールでグレイな雰囲気を邪魔され憤ったT氏は
「あ、いえ、な、なくて大丈夫です」
 と弱々しく突っぱねた。
「あっそうですか、なら良かった」
 と言うと、再び店主は引っ込んだ。何が良かっただよ、とT氏は思った。
「それでさぁ、本題なんだけど」
 彼女が再び口を開いた。
「うん」
 T氏がうんと答えた。
「あなた、これからも私と遊んでくれるつもり?」
 耳を疑ったT氏はただ目をパチパチさせた。
「あら、嫌かしら?」
 い、嫌なもんか、この一世一代のチャンスを逃してなるものかと身を奮い立たせたT氏は
「君さえ良ければ!」
 と勇ましく答えた。
「あなたはどうなのよ?」
 彼女は少し膨れた。
 T氏は慌てて
「は、はい、うん、僕も、もちろん!」
 と言った。
「なら良かったわ」
 彼女は機嫌を取り戻した。
「一応確認なんだけど」
 また彼女が言った。
「うん」
「あなた、身体を動かすのは好きかしら?」
 好きであろうと嫌いであろうと、ここで許される答えは一つしかない。
「好きです!」
 T氏は答えた。後のことなど知ったこっちゃない。
「なら交渉成立ね、今回は私が払ってあげる」
 そう言うと彼女は立ち上がり、一人レジへと向かった。こういうときどうすればいいかわからないT氏は、大いにまごついた。
 さっさと会計を済ませた彼女は「行くわよ」と一言、まだテーブルの前に突っ立っているT氏に向かって言った。店主がT氏のほうを見ながらグッと親指を立てているのを横目に、T氏は彼女の後をつけた。
 店を出て、互いに連絡先を交換した後、彼女は「また連絡するわね」と言い残し、駅とは反対の方向へと歩き去っていった。彼女の姿が見えなくなるまで、T氏は彼女の真っすぐで艶のある黒い後ろ髪をぼんやりと眺めていた。それは、T氏が長い間目にしてなかった、色のある美しい黒であった。
 かくしてこの日は、T氏にとって人生初の恋人ができた、記念すべき一日となったのであった。めでたしめでたし。