T氏が養鶏場で働き始めて、一年が過ぎた。金もだいぶたまったT氏は、いい年だしそろそろ彼女がほしいと思い始めた。ニートだったころのT氏には考えられなかったことである。
 ただ、プライベートでの人付き合いというものが皆無であるT氏には、どうやったら理想の女性と出会うことができるのか、全く以て見当がつかなかった。それどころか、自らの理想とする女性像とはいかなるものかということ自体に、T氏はこれまで考えを巡らすことは、ほとんどなかった。
 恋人がほしい。でも、普段の生活の中での出会いは、全くといっていいほど期待できない。ならば、街コンや婚活パーティーといった、出会いが期待できる場に自ら赴く必要があるが、社交性というものが皆無なT氏にとって、それは至難の業である。家族や親戚以外の女性とは、ここ何年もまともに会話してこなかったT氏が、突然大勢の女性のいる場で、まともに振る舞えるはずがない。第一、何を話したらいいのか、さっぱりわからない。話題がないからといって、自らの特技である、卵の殻を割って鶏を生み落とすという芸当について語ったところで、虚言癖だと見なされるに決まっているし、虚言癖でないことを証明するために実際に殻を割ったら、ドン引きされるに違いない。中には面白がる輩もいるかもしれないが、そのことが直ちに恋愛感情に結びつくとも到底思えない。
 そこでT氏は、婚活サイトなるものを利用することにした。これを利用することで、自ら社交の場に出ていかなくとも、プロフィールを見て気の合いそうな女性と、サイトを通じて連絡を取り合うことができる。
 このサイトを利用するにあたり、自分のことに関していくつかの項目に答えなければならない。T氏は思案した挙げ句、次のように入力した。

  年齢 二五歳
  学歴 某国立大学中退
  年収 四百万円
  趣味 食べ歩き
  その他希望入力欄 卵嫌いな女性希望

 年齢、年収、学歴は、自らのありのままを入力するだけなので簡単である。困ったのは、趣味の欄である。
 これといった趣味のないT氏は、大いに悩んだ。昼寝や散歩と書いたところで、つまらない男だと思われるに決まっているし、かといってファッションなんて書いたら、出会った瞬間大笑いされるだろう。
 考えに考えた結果、T氏が導き出した答えが、食べ歩きであった。ラーメン屋以外にはまるで知識はないが、何とかなるだろうとT氏は判断した。知識がなくとも、相手が薦める店を一緒に食べ歩けばいいのだから。
 その他希望入力欄には「卵嫌いの女性希望」と書いた。養鶏場で卵を割るのが仕事のT氏が、わざわざそう書いたのには理由がある。それは、仕事以外の場で、とりわけ自らの恋人となる女性の前で卵を割ることは、極力避けたかったからである。その点、卵嫌いの女性だと、もし一緒に料理することになっても、卵を材料として使用することはないであろうから安心である。
 全ての項目への入力が完了した。あとは連絡がくるのを待つか、プロフィールを見て気に入った女性に自らアプローチすればよい。
 すぐに一人の女性からメッセージが届いた。それには、T氏のプロフィールに卵嫌いの女性希望と書かれていたのを見て連絡した、近いうちに会いたい、との旨か記されていた。
 その後、何度かメッセージを送り合った結果、週末に、彼女の自宅の最寄り駅で落ち合うことが決まった。T氏の自宅の最寄り駅から三つ先の駅である。

 前日の夜はなかなか寝付けなかった。自らの意思で女性と個人的に会う約束を取り付けるなど、T氏の人生では初の試みである。しかも相手は、会ったことのない女性である。
 眠れないのは、不安のせいだと自覚している。考えれば考えるほど、目が冴えてくる。こういうときに脳裏に浮かんでくるのは、決まって良くないことばかりである。相手の女性が、自分を見た途端に立ち去ってしまうのではないか。立ち去らないにしても、あからさまに嫌な顔をされるのではないか。
 そして何よりも問題なのは、何を話したらいいのか、さっぱり見当がつかないことである。相手の身なりを見て、気の効いたことを言える自信もない。褒めたつもりが、逆に相手の気持ちを逆撫でしてしまうようなことも、これまで生きてきた中で多々あった。そのようなネガティブな経験が、この重要な局面で、T氏を不安の渦へと陥れているのである。どうにかしてそこから抜け出そうとあれこれ思案するも、結局、自らが陥っている状況を再認識させられるばかりである。
 寝つけずに悶々としているうちに、二時間が経った。尿意を催したT氏は、用を足すべく立ち上がった。廊下の電気を点けようとスイッチを押したが、点かない。電球が切れているようだ。
 暗い廊下を、暗い心持ちで歩きながら感じるこの尿意という感覚が、ああ、こんな状態でも自分は生きているんだと、否が応でもT氏に気づかせてくれる。
 どうにか転んだり足の小指を打ったりせずにトイレに辿り着いたT氏は、気の抜けたように用を足し始めた。尿から立ち昇ってくる臭いを嗅いだT氏は、そういえば夕食後にコーヒーを二杯飲んだなと思い出し、その途端強烈な眠気に襲われた。用を足し終えると、本能の赴くまま暗い廊下を通って部屋まで戻り、やはり拭いきれない不安の渦に溺れるかのごとく眠りについた。

 当日の朝、T氏は目覚まし時計の音で目を覚ました。時刻は午前九時。約束の正午までにはまだ時間がある。
 昨日なかなか寝つけなかったせいで、身体がダルい。もう一眠りしたかったが、寝過ごしてしまってはいけないと思いとどまったT氏は、とりあえず布団から出て立ち上がり、一階へと降りていった。
 食欲は全くといっていいほどなかったが、何でもいいから腹に何か入れないと頭が回らないと思い、とりあえずトーストにバターを塗り、それを牛乳で流し込んだ。本当はコーヒーで頭をシャキっとさせたかったが、カフェインの利尿作用を恐れた。コーヒーはやばいと、昨夜学んだばかりなのだ。
 朝食を済ませたT氏は、身なりを整えた。鏡の前で髪を()き、(ひげ)を剃った。鼻毛もはみ出ている所はしっかりとカットし、眉毛(まゆげ)は、失敗したときのリスクを考え、そのままにしておいた。服は購入したての新品である。数日前に母親と一緒に選んだ水色の開襟シャツと薄茶色のチノパンを身に着けたT氏は、再度鏡の前に立ち、ボタンをかけ違えていないか、誤って腰から下の部分を開いてしまっていないかなどを入念にチェックした。
 時刻は午前十時半。時間に余裕を持って家を出ることにした。
 T氏の憂鬱な気分とは対照的に、天気は快晴であった。時折吹く緩やかな風が、エアコンのない部屋で虚しく回る扇風機のように、生暖かい空気を掻き回す。
 T氏は不安を拭い去るように早足で歩いた。身体の至る所から汗が流れた。道中出くわした雀の群れが一斉に電線へ避難すると、T氏は少し元気を取り戻した。
 だが、駅が視界に入り、その姿がだんだん大きくなるにつれ、T氏はまた元気がなくなっていった。駅を見たことで、本当に今日女性に会いに行くのだということをまざまざと実感した途端、強烈な不安がT氏を襲った。さらに悪いことに、その強烈な不安が自律神経に悪影響を及ぼし、T氏は腹痛にまで見舞われた。
 駅までなんとか辿り着いたT氏は、腹を抱えたまま駅のトイレに直行した。幸いにもすぐにトイレを見つけることができた上に、誰も入っていなかったので、新品のチノパンを汚さずには済んだ。
 便器に座って必死に用を足す。しばらくすると、腹痛も治まった。足し終えると、今自らが抱えている不安を全て洗い流すかのように、トイレの水を流した。
 不幸中の幸いであったと言えよう。道中腹痛に見舞われたことは、T氏にとって確かに不幸であったが、早めに家を出ていたことが功を奏し、電車の出発時刻までにはまだ余裕がある。ある予定に備えて事前に準備を済ませた上で、余裕を持って行動するなどということは、元来のT氏には一切備わっていなかった性質である。この出来事のおかげで、自分は今日にかけているのだと、T氏自ら再確認することができた。その上、一つ難局を乗り越えたことで、T氏は落ち着きを取り戻したようである。
 券売機で切符を購入すると、ただ坦々とホームへと向かう階段を登り始めた。不安を乗り越えたとはいえ、決して自信があるわけではない。ただ、もう後戻りはできないのだ。物理的な問題ではなく気持ちの問題なのだ。思えば、あれだけ重力に逆らうことを極端に嫌っていたT氏が、自らの意思で、それも女に会うために階段を登るという光景は、なかなか感慨深いものである。重力といえば物理的な問題ではないかと言う人もいるかもしれないが、いや、やはりそういう問題ではないのだ。そんなことをいちいち気にするような理屈っぽい男は、大抵女に嫌われる。異論は認める。
 T氏はホームへと辿り着いた。それほど待たないうちに電車が到着した。坦々とした足取りで電車に乗り込んだ。さほど人が乗っていなかったので座ることもできたが、T氏は扉付近に立ったままつり革に手を掛けた。座ってしまったが最後、立ち上がれなくなるような気がしたのである。目的地に着くまでの間、ある程度の緊張感は保っておきたかったのである。
 電車に揺られながらT氏は、今日会う女性はどんな人だろうかと想像した。手掛かりは「卵嫌い」ただそれだけである。
「卵」といえば、一般的に多くの人がまず思い浮かべるのは、ゆで卵、生卵、目玉焼きなどといったいわゆる「鶏卵」に関する事柄であろう。今日会う女性がこれらのものが嫌いであるということは、おそらく間違いないだろう。鱈子、いくら、ウニ、キャビアといった何かしらの動物の卵も、確かに「卵」というカテゴリーには分類されるだろうが、「卵」という単語でまず想起されるのは、やはり「鶏卵」であろう。金持ちにとっての卵かけご飯の「卵」とはキャビアに決まっているじゃないか、などと言われても、そんなこと我々多くの一般人にしてみればどうでもいい。したがって、「卵嫌い」ということが必ずしも、いくらや鱈子のような「鶏卵以外の卵」も嫌いであることを意味するわけではないのだ。もし今日会う女性が、それらも引っ括めて、ありとあらゆる「卵」が嫌いなのであれば、その女性は全体的にタンパク質が不足していると考えられ、ゆえに、締りのない体つきの女性であると推測できる。いや、待てよ、鶏肉や鮭の切身のような「元卵(もとたまご)」は積極的に摂取するような女性の場合は、その限りではない。脂身を好むか否かによっても、だいぶ体型は変わってくるだろう……。
 T氏がこのように無駄なことを考えている間にも、電車は規則正しくカタンコトンと音を立てながら、着実にT氏の目的の駅へと近づいていた。出発してからもう既に二駅目を通過した後であることに気づいたT氏は、もっとマシなことを考えていればよかったと後悔した。女性の容姿など会えばすぐに判明するではないか。そんなことよりも、どう挨拶すべきか、どう振る舞うべきかをイメージするほうが先であったと気づくも、後の祭りであった。電車は刻一刻と目的の駅に近づいていく……。
 電車は、T氏の不規則に浮き沈みする気分とは違い、常に規則正しい。時に駆け込み乗車、酔っ払い、痴漢といったろくでなしのせいでペースを乱されることはあるものの、置かれた状況下で最大限規則正しくあろうとする。この規則正しい乗り物は、T氏のような不規則な人間も、時間通り目的地まで運んでくれる。もしT氏がタクシーなんかに乗ろうものなら、気分次第でどこに行くかわかったもんじゃない。
 目的の駅に着いた。扉が開いた。もう降りるしかないのだ。諦めるようにT氏はつり革から手を離し、ホームへと降りた。目線を上げるとT氏の目の前には、一人の女性が立っていた。