午前九時、養鶏場にT氏の姿はなかった。まだ電車の中であった。
 何度かズボンのポケットの中のケータイが振動する度に、T氏も震えた。電車の中で通話をしてはいけないという正義感を盾に、電話には出なかった。養鶏場の最寄り駅に着くまでの間、ひたすら言い訳を考えた。
 最寄り駅で降りるや否や、T氏は駆け足で改札へ向かい切符を通すと、そのまま駆け足で養鶏場へと向かった。

 T氏は、当初の予定よりも三〇分遅れで、養鶏場に到着した。入口を潜ると、こないだの面接官がいた。表情を見るなり、怒ってる……と思ったT氏は、せめて少しでも目の前の男の怒りを和らげるべく、電車の中で必死に考えた言い訳を披露することにした。
「す、すみません、で、電車が思っていたよりも、遅くて……」
「言い訳はいいよ、初日だから大目に見るよ、来ただけでも良しとしよう」
 あれ、案外優しい……顔が怖いのは元からなのかもしれないな、とT氏は思った。
 T氏はプレハブ小屋に案内された。
「君の初仕事だ、ここにある卵を全て割ってほしい」
 T氏が卵を割り始める。茶色の鶏が次々に誕生した。
「素晴らしい! 全て雌だ!」
 面接官から上司へと変わった男が歓喜の声を上げる。
 T氏は全て割り終えた。
「君、素晴らしいよ! 即正採用だ! 今から事務所に行くよ!」
 プレハブを出ると、T氏は事務所へと案内された。
 事務所に着くなり、T氏は十枚ほど書類を渡された。
「労働契約を結ぶための書類だ。これらの書類全てにサインしてほしい。印鑑は明日以降でいいよ」
 T氏は書類にざっと目を通した。年収三〇〇万円、週休一日制、一日八時間労働、残業有り……冗談じゃないとT氏は思った。
 プレハブ小屋での上司の反応を見て、自らの労働力の価値を悟ったT氏は、思い切って言った。
「た、卵を割る以外の仕事は、し、したくないです、だ、だから……サ、サ、サ、サインはし、しません」
 上司は一瞬眉を潜めた後、フーっと息を吐きながら頷くような仕草を見せた。そして、言った。
「わかった、卵を割る以外の仕事はしなくていい、書類作り直すから少し待っててくれるか、待ってる間、そこの冷蔵庫にある飲み物自由に飲んでいいから」
 T氏は冷蔵庫を開け、未開封のコーラのペットボトルを見つけると、それを掴み取り、パイプ椅子に腰掛けた。
 上司が叩くキーボードのカタカタという音に、炭酸のシューッという音が混じる。たちまちT氏がゴクゴクと喉を鳴らし、さらにゲプッという音が加わる。これぞ不協和音。
 キーボードの音が止むと、プリンターが一枚の紙を吐き出した。すぐさま上司がそれを手に取り、T氏に手渡した。
「年収四〇〇万円、週休卵割らない日制、一日卵割る時間労働、残業卵……」
 T氏が書類を見ながらブツブツ呟く。
「な、わかりやすくていいだろ」
「卵を割る以外の仕事は、しないでいいということでしょうか?」
「ああ、そういうことだ。給与もさっきよりうんと弾んである。な、悪くないだろ?」
「悪くないです」
「ならサインしてくれるか、この書類一枚だけでいいんだ」
「わかりました」
 T氏は書類にサインした。
「あとは印鑑だな、印鑑明日忘れずに持ってくるように」
「印鑑を持ってくることは、業務の範囲外な気がしますが……」
「現時点で君はまだ印鑑を押していない、ということはまだ労働契約は成立していない。したがって君に印鑑を持ってこさせることは、契約違反には当たらないはずだ」
 バックレてやろうかな、とT氏は思った。

 翌日、仕方なく印鑑を持ってきたT氏は、前日サインした書類に押印した。これを以て、晴れて正式に、T氏は「卵割師」となった。
 この日、T氏は五十個の卵を割った。その間上司が「これが今日の出荷分で……」などとブツブツ言っていたが、T氏は全て聞き流した。どれもこれも、T氏の仕事とは関係ないのだ。T氏の仕事は「卵を割る」、ただそれだけなのだ。
 全て割り終えたT氏は「お疲れさまです、お先に失礼します」と一応挨拶をし、そそくさと職場を後にした。